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第一章
7.森の娘
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城の門から入ってきたフランは、来たときと同じ姿で律儀に門をくぐって出ていった。行く先は隠者の庵だ。
「そこの通路を使えばいいのに」
シャトンが呆れ顔で言う。
「人間の世界は、いろいろと面倒なんですよ」
アリルは苦笑した。入ってきた人の数と出ていった数が違うと、後で面倒なことになる。
「門衛たちに余計な苦労をかけてはいけません」
「そんなもんかね」
ふわあ、と大きなあくびをすると、猫はそれきり興味をなくしたように赤子の枕元で丸くなった。
ハシバミの実を握ったまま、イオストレはとろとろと眠っている。
三代目森の隠者は、その木の実を通して何かをつかんだらしい。ほどなく赤子の身元が分かるだろう。いろいろ問題のある師匠だが、腕は確かだ。
育児と王子業の兼務もほどなく終わる。頬がこけるほど、大変な生活だったけれど。
(なぜだか寂しいような気もするな)
ほわほわとした柔らかな髪をそっと撫でる。
「さて、と。そろそろ博士たちの講義の時間だ。遅刻は厳禁……」
しんみりとした気持ちを振り払おうとするかのようにアリルは首を振ると、そっと丸い額に口づけた。
*
ハシバミ木の下に娘が立っている。
友好的というにはほど遠い冷ややかさで、フランはその娘と向かい合った。
明るいアーモンド色の肌にアーモンド形の黒い瞳。身にまとうのは裾の割れたスカートと膝まである緑のチュニック。年のころは二十歳に届くかどうか。体つきにまろやかさがないせいで子どもっぽく見えるが、たたずまいは娘というより若い女という方がふさわしい。
首から下げたペンダントの先に三日月の形をした狼の牙。それで女の素性が知れた。
(森の民だな。治癒師か)
フランの目が女の胸元で止まる。乳飲み子の母にしては膨らみが小さくハリがない。
乳の出を抑えているのだろう。傍らに赤子がいないのに母乳が出続けるのは負担にしかならない。治癒師なら薬草の調合はお手の物だ。
フランの遠慮のない視線を全身に受け、小柄な女は昂然と頭を上げた。
「ようやく会えたね。赤の魔法使い」
フランは思い切り眉をしかめた。
「俺を知っているのか。あれは一体どういうつもりだ」
「あの子に父親を持たせてやりたかったの」
黒々とした瞳は夜の湖のごとく。表情が読めない。
「あなた以上の男は、他にちょっと考えられないものね」
野生の獣を思わせるしなやかな身のこなしで、女は一歩だけフランに近づいた。そこで初めて、フランは周囲を森の生き物たちにとり囲まれていることに気づいた。
(この女を守っているのか)
敵意は感じられない。ひたすらに女を案じる気配だけが伝わってくる。
ふうっ、とひとつ息を吐くとフランは肩を落とし、態度を軟化させた。
「そいつは光栄だ。しかし、まずはそっちの事情を聞かせてもらおうか。なにせ一国の王子さままで巻き込んだ大事件になってしまったからな」
それを聞いて女は軽く頭を下げた。
「改めて名乗ろう。俺はフラン。あんたの名は?」
「メリザンド」
メリザンドが初めての出産で得た娘。その肉の器の父は大陸の男だった。
「石造りの建物の中で、大陸の神々に仕えている」
フランはワタリガラスとの会話の中で、コーンノート南の修道院が出たことを思い出した。
森の娘と修道士。
まるで接点のない二人をベルティネ祭の火が引き合わせた。顔を合わせたのは一夜きり。その一夜でメリザンドは女となり母となった。
「その男は、子どもの存在を知っているのか?」
彼らは神々に仕える道に進むとき、独身の誓いを立てる。修道士であり続ける限り、人の子の親にはなれない。
「身ごもったと分かったときに知らせてやったわ。でも、自分の立場では認めることができないって」
「だろうな」
フランがしみじみと頷くと、メリザンドは乾いた笑みを浮かべた。
「あの人、ぼろぼろと泣きながら謝るのよ。申し訳ない、ってね」
養育費の足しに、と幾ばくかの金を包んで寄越した。贖罪のつもりか口止め料か。おそらく両方だろう。
「それが、どうして俺の子になったんだ」
「知らない。赤い髪の男だったから、誰かが見間違えたのかもね」
「迷惑なことだ」
憤慨するフランに、メリザンドは自分の責任ではないとでも言いたげに肩をすくめた。
「まあいい。それで今はひとり身なのか」
「ええ」
「なぜだ。あんたは健康そうだし、見栄えも良い。男が放っておかないと思うが」
これは無神経な質問だったか、とフランは口を押さえた。だが、森の女は気にしていないようだった。
「縁組みの話はあったけれど、悪阻がひどかったから。子が生まれるまで棚上げにした」
赤子は月足らずで生まれた。
名も無き日のことで、一族の者は一つ所に集い闇の女王に祈りを捧げていた。
初乳を含ませ、ひと息つくと、メリザンドはひどい空腹を覚えた。
「あたしはずっと床にあって、日にちの感覚をなくしていた」
家族は不在。付き添いに残った産婆は暖炉の傍で居眠りをしていた。ふらふらする足を励ましてひとり台所に向かった。テーブルの上には大皿が置かれ、断食明けのごちそうが山と盛られていた。
「それをつまみ食いしてしまったの」
真っ直ぐな気性の父親は、しきたりを破った娘に言い渡した。
――出ていけ。女神を軽んじるような娘を持った覚えはない。
父親は掟やしきたりに背いたことよりも、みなが空腹を我慢している中、メリザンドが他の者を待たずに、自分のためだけに用意されたものではないものを食べたことに怒り、幻滅していた。
メリザンドは両親の家を出て、赤子と共に一人暮らしの大伯母のもとに身を寄せた。たいそう年老いてはいるが、湖の島で修行をした経歴のある優れた『見者』であった。
「あたしも、少しだけ湖の島にいたことがあるのよ」
「じゃあ、俺たちはどこかで会っていたかもしれないな」
何気ないフランの言葉にメリザンドの唇がわずかに開き、閉じられた。ひと呼吸の後、彼女は先を続けた。
生まれ直しの儀式を勧めてくれたのは、その大伯母だった。
――面白いことになるかもしれないよ。
どう転ぶかは分からない。が、彼女は『見る者』の助言に賭けた。
「悪いようにはならないと、信じたから」
ふさわしい日にちと場所を占い、二人で支度を調えた。朱書きの文様が間違っていたのは、彼女らが本職の呪い師ではなかったからだ。
隠者の庵にほど近いハシバミの木立を選び、道しるべに松ぼっくりを置き、手紙の代わりに赤の魔法使いに向けて木の実にメッセージを込めた。
「代替わりして旅に出たのは知っていた。けれど、あの若い隠者はすぐにあなたに知らせると思っていたわ」
まさか、弟子にも居所を教えていなかったとは想定外だった。
「ひとりで、あれを?」
「森の友が手伝ってくれた」
メリザンドは目を細め、愛おしそうに周囲を見渡した。息を潜めて見守っていた動物たちが一斉に身じろぎをする。さわさわと、森にさざ波が広がった。
みなが競うように集めた松ぼっくり。しるべに使った残りは庵に放り込んだ。
ただそれだけのことが、これほどの騒動を起こすとは思わなかった。
「王子さまには申し訳ないことをしたわ。お城に行って謝ってくる」
「それがいい」
黒い瞳がフランの琥珀色の瞳を捕らえた。フランは何か言おうとしたが、その前に彼女は身を翻し、動物たちを従えて風のように去って行った。
まるい実食べた虹色魚。
知恵と知識の虹色魚。
釣り糸垂れて待ったけれど
森の熊がすくって食べた。
(あたしたち、過去に出会っているのよ。魔法使い)
彼女の呟きはもう誰にも届かない。
メリザンドは赤い魚を釣り損ねてしまった。
* * *
森の民が、自らダナンの王城を訪れた。
これはちょっとした事件だった。彼らは女神ダヌに仕える民ではあるが、ダナン王の民ではないのだから。
ダヌの娘たる女王が対応し、いくつかの試問を経て、森の女は赤子を抱いて森へと帰っていった。
『春の女神と拾い親の名を汚さぬよう、心して育て上げます』
その約束に、王子の株がちょっぴり上がった。
ぽっかりと、赤子の形をした空白ができた。
育児のために切り詰めた時間がぽかりと空いた。その時間を王子と猫は森の庵で過ごすようになった。
胸の中にぽかりと穴が空き、その穴を虚しさが埋めた。シャトンはイオストレが残したハシバミの実を抱き、くしゃりと放り出された毛皮の塊のように、日がな一日出窓で丸くなっている。
「取り替え子をする妖精の気持ちが分かったよ」
初めて触れた人間の赤ん坊は、この世で一番幸せな物質でできていた。ふわふわですべすべで、とても良い匂いがした。心をぽかぽかにしてくれた。
イオストレがいなくなってから、毎日がつまらない。張り合いがない。
「あの子が来る前は何をしていたんだか、思い出せないんだよ」
アリルは慰める術を持たなかった。
「なんだね、辛気くさい」
庵を訪ねてきたデニーさんは、どんよりとした空気に眉をひそめた。
「そんなに赤子が恋しいのかい。なら、方法はあるよ」
それを聞いてシャトンがぴょんと跳ね上った。出窓から飛び降り、デニーさんの脛にそわそわと体をこすりつける。
「簡単なことさ、四代目がこさえればいい」
アリルは顎を落とし、シャトンの目からウロコが落ちた。
「あんたは若いんだから、こんな枯れた生活を送っている場合じゃないよ。ぱあっと花を咲かせなくちゃ」
――その手があった!
シャトンの目に光が戻った。
春四月。もう少し季節は進めば、今年もベルティネの祭りがやってくる。
にゃあにゃあとアリルに訴える。
「全然簡単じゃない。無責任なことを言わないでください!」
アリルは悲鳴を上げ、両手で耳を押さえた。デニーさんが笑う。
それからしばらくの間、ダナンの王子は国人だけでなく、相棒からの過剰な期待と圧力に悩まされることになる。
「そこの通路を使えばいいのに」
シャトンが呆れ顔で言う。
「人間の世界は、いろいろと面倒なんですよ」
アリルは苦笑した。入ってきた人の数と出ていった数が違うと、後で面倒なことになる。
「門衛たちに余計な苦労をかけてはいけません」
「そんなもんかね」
ふわあ、と大きなあくびをすると、猫はそれきり興味をなくしたように赤子の枕元で丸くなった。
ハシバミの実を握ったまま、イオストレはとろとろと眠っている。
三代目森の隠者は、その木の実を通して何かをつかんだらしい。ほどなく赤子の身元が分かるだろう。いろいろ問題のある師匠だが、腕は確かだ。
育児と王子業の兼務もほどなく終わる。頬がこけるほど、大変な生活だったけれど。
(なぜだか寂しいような気もするな)
ほわほわとした柔らかな髪をそっと撫でる。
「さて、と。そろそろ博士たちの講義の時間だ。遅刻は厳禁……」
しんみりとした気持ちを振り払おうとするかのようにアリルは首を振ると、そっと丸い額に口づけた。
*
ハシバミ木の下に娘が立っている。
友好的というにはほど遠い冷ややかさで、フランはその娘と向かい合った。
明るいアーモンド色の肌にアーモンド形の黒い瞳。身にまとうのは裾の割れたスカートと膝まである緑のチュニック。年のころは二十歳に届くかどうか。体つきにまろやかさがないせいで子どもっぽく見えるが、たたずまいは娘というより若い女という方がふさわしい。
首から下げたペンダントの先に三日月の形をした狼の牙。それで女の素性が知れた。
(森の民だな。治癒師か)
フランの目が女の胸元で止まる。乳飲み子の母にしては膨らみが小さくハリがない。
乳の出を抑えているのだろう。傍らに赤子がいないのに母乳が出続けるのは負担にしかならない。治癒師なら薬草の調合はお手の物だ。
フランの遠慮のない視線を全身に受け、小柄な女は昂然と頭を上げた。
「ようやく会えたね。赤の魔法使い」
フランは思い切り眉をしかめた。
「俺を知っているのか。あれは一体どういうつもりだ」
「あの子に父親を持たせてやりたかったの」
黒々とした瞳は夜の湖のごとく。表情が読めない。
「あなた以上の男は、他にちょっと考えられないものね」
野生の獣を思わせるしなやかな身のこなしで、女は一歩だけフランに近づいた。そこで初めて、フランは周囲を森の生き物たちにとり囲まれていることに気づいた。
(この女を守っているのか)
敵意は感じられない。ひたすらに女を案じる気配だけが伝わってくる。
ふうっ、とひとつ息を吐くとフランは肩を落とし、態度を軟化させた。
「そいつは光栄だ。しかし、まずはそっちの事情を聞かせてもらおうか。なにせ一国の王子さままで巻き込んだ大事件になってしまったからな」
それを聞いて女は軽く頭を下げた。
「改めて名乗ろう。俺はフラン。あんたの名は?」
「メリザンド」
メリザンドが初めての出産で得た娘。その肉の器の父は大陸の男だった。
「石造りの建物の中で、大陸の神々に仕えている」
フランはワタリガラスとの会話の中で、コーンノート南の修道院が出たことを思い出した。
森の娘と修道士。
まるで接点のない二人をベルティネ祭の火が引き合わせた。顔を合わせたのは一夜きり。その一夜でメリザンドは女となり母となった。
「その男は、子どもの存在を知っているのか?」
彼らは神々に仕える道に進むとき、独身の誓いを立てる。修道士であり続ける限り、人の子の親にはなれない。
「身ごもったと分かったときに知らせてやったわ。でも、自分の立場では認めることができないって」
「だろうな」
フランがしみじみと頷くと、メリザンドは乾いた笑みを浮かべた。
「あの人、ぼろぼろと泣きながら謝るのよ。申し訳ない、ってね」
養育費の足しに、と幾ばくかの金を包んで寄越した。贖罪のつもりか口止め料か。おそらく両方だろう。
「それが、どうして俺の子になったんだ」
「知らない。赤い髪の男だったから、誰かが見間違えたのかもね」
「迷惑なことだ」
憤慨するフランに、メリザンドは自分の責任ではないとでも言いたげに肩をすくめた。
「まあいい。それで今はひとり身なのか」
「ええ」
「なぜだ。あんたは健康そうだし、見栄えも良い。男が放っておかないと思うが」
これは無神経な質問だったか、とフランは口を押さえた。だが、森の女は気にしていないようだった。
「縁組みの話はあったけれど、悪阻がひどかったから。子が生まれるまで棚上げにした」
赤子は月足らずで生まれた。
名も無き日のことで、一族の者は一つ所に集い闇の女王に祈りを捧げていた。
初乳を含ませ、ひと息つくと、メリザンドはひどい空腹を覚えた。
「あたしはずっと床にあって、日にちの感覚をなくしていた」
家族は不在。付き添いに残った産婆は暖炉の傍で居眠りをしていた。ふらふらする足を励ましてひとり台所に向かった。テーブルの上には大皿が置かれ、断食明けのごちそうが山と盛られていた。
「それをつまみ食いしてしまったの」
真っ直ぐな気性の父親は、しきたりを破った娘に言い渡した。
――出ていけ。女神を軽んじるような娘を持った覚えはない。
父親は掟やしきたりに背いたことよりも、みなが空腹を我慢している中、メリザンドが他の者を待たずに、自分のためだけに用意されたものではないものを食べたことに怒り、幻滅していた。
メリザンドは両親の家を出て、赤子と共に一人暮らしの大伯母のもとに身を寄せた。たいそう年老いてはいるが、湖の島で修行をした経歴のある優れた『見者』であった。
「あたしも、少しだけ湖の島にいたことがあるのよ」
「じゃあ、俺たちはどこかで会っていたかもしれないな」
何気ないフランの言葉にメリザンドの唇がわずかに開き、閉じられた。ひと呼吸の後、彼女は先を続けた。
生まれ直しの儀式を勧めてくれたのは、その大伯母だった。
――面白いことになるかもしれないよ。
どう転ぶかは分からない。が、彼女は『見る者』の助言に賭けた。
「悪いようにはならないと、信じたから」
ふさわしい日にちと場所を占い、二人で支度を調えた。朱書きの文様が間違っていたのは、彼女らが本職の呪い師ではなかったからだ。
隠者の庵にほど近いハシバミの木立を選び、道しるべに松ぼっくりを置き、手紙の代わりに赤の魔法使いに向けて木の実にメッセージを込めた。
「代替わりして旅に出たのは知っていた。けれど、あの若い隠者はすぐにあなたに知らせると思っていたわ」
まさか、弟子にも居所を教えていなかったとは想定外だった。
「ひとりで、あれを?」
「森の友が手伝ってくれた」
メリザンドは目を細め、愛おしそうに周囲を見渡した。息を潜めて見守っていた動物たちが一斉に身じろぎをする。さわさわと、森にさざ波が広がった。
みなが競うように集めた松ぼっくり。しるべに使った残りは庵に放り込んだ。
ただそれだけのことが、これほどの騒動を起こすとは思わなかった。
「王子さまには申し訳ないことをしたわ。お城に行って謝ってくる」
「それがいい」
黒い瞳がフランの琥珀色の瞳を捕らえた。フランは何か言おうとしたが、その前に彼女は身を翻し、動物たちを従えて風のように去って行った。
まるい実食べた虹色魚。
知恵と知識の虹色魚。
釣り糸垂れて待ったけれど
森の熊がすくって食べた。
(あたしたち、過去に出会っているのよ。魔法使い)
彼女の呟きはもう誰にも届かない。
メリザンドは赤い魚を釣り損ねてしまった。
* * *
森の民が、自らダナンの王城を訪れた。
これはちょっとした事件だった。彼らは女神ダヌに仕える民ではあるが、ダナン王の民ではないのだから。
ダヌの娘たる女王が対応し、いくつかの試問を経て、森の女は赤子を抱いて森へと帰っていった。
『春の女神と拾い親の名を汚さぬよう、心して育て上げます』
その約束に、王子の株がちょっぴり上がった。
ぽっかりと、赤子の形をした空白ができた。
育児のために切り詰めた時間がぽかりと空いた。その時間を王子と猫は森の庵で過ごすようになった。
胸の中にぽかりと穴が空き、その穴を虚しさが埋めた。シャトンはイオストレが残したハシバミの実を抱き、くしゃりと放り出された毛皮の塊のように、日がな一日出窓で丸くなっている。
「取り替え子をする妖精の気持ちが分かったよ」
初めて触れた人間の赤ん坊は、この世で一番幸せな物質でできていた。ふわふわですべすべで、とても良い匂いがした。心をぽかぽかにしてくれた。
イオストレがいなくなってから、毎日がつまらない。張り合いがない。
「あの子が来る前は何をしていたんだか、思い出せないんだよ」
アリルは慰める術を持たなかった。
「なんだね、辛気くさい」
庵を訪ねてきたデニーさんは、どんよりとした空気に眉をひそめた。
「そんなに赤子が恋しいのかい。なら、方法はあるよ」
それを聞いてシャトンがぴょんと跳ね上った。出窓から飛び降り、デニーさんの脛にそわそわと体をこすりつける。
「簡単なことさ、四代目がこさえればいい」
アリルは顎を落とし、シャトンの目からウロコが落ちた。
「あんたは若いんだから、こんな枯れた生活を送っている場合じゃないよ。ぱあっと花を咲かせなくちゃ」
――その手があった!
シャトンの目に光が戻った。
春四月。もう少し季節は進めば、今年もベルティネの祭りがやってくる。
にゃあにゃあとアリルに訴える。
「全然簡単じゃない。無責任なことを言わないでください!」
アリルは悲鳴を上げ、両手で耳を押さえた。デニーさんが笑う。
それからしばらくの間、ダナンの王子は国人だけでなく、相棒からの過剰な期待と圧力に悩まされることになる。
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