59 / 75
第59話「欲」
しおりを挟む
パンパカーナは肩をすくめて、街中の喧騒を赤いフードで隔離し、歪んだテレビの箱みたいに狭まった視界で、乾ききった丁子色の地面を見つめながら歩いていた。
興奮で火照った体と心は徐々に冷ややかになり、やがて冷静の支配に取って代わる。凄然たる彼のもたらした恩寵は手にあまるほどの反省悔悟の情であった。
それが口へと差し出されている。人の顔の形をしていた。よく知った人だった。忌憚なく食べ、咀嚼し、溢れ出す苦汁に喉は痛めつけられた。
どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない。戸賀勇希の自尊心をズタズタに切り裂いてしまったかもしれない。
もう、二度度と会えないかもしれない。喉元に停滞する溜飲は、しばらく経っても下がる気配はなかった。
右肩に衝撃があった。後ろから舌打ちが聞こえた。どうやら誰かにぶつかってしまったようだ。いけない。気をつけて歩いて行かないと。
どこへ——。
いったい、私はどこを目指せばいいのだろう。道がプツリと途切れてしまったようだ。暗澹としている。戸賀勇希といた時はあんなに輝いて見えた道が、今は闇に溶けてなくなっていた。彼は私を救ってくれたのに。身を案じたつもりが、結局、彼を突き放す形になってしまった。
失って初めて気づく。
パンパカーナは身を寄せて震えた。母が死んだ時と似たような感覚だ。勝手に笑みがこぼれた。おそらく私はこれから先、何度も同じことを繰り返すのだろう。
「あ。お金、どうしよう」
パンパカーナは立ち止まり、頭を抱えてしゃがみ込んだ。金銭の管理はパンパカーナが請け負っていた。戸賀勇希に任されていたのだ。
彼には小遣い程度の金額しか預けていない。宿を三回も利用すれば、手元に残るのはほんの雀の涙だろう。持っていかないと——。
立ち上がり、半歩踏み出す。すぐ立ち止まると、またしゃがみ込んだ。
「無理だ......。会わせる顔がない」
かすれた声でいった。通行人が訝しげに視線を飛ばしている。パンパカーナは気にしてなどいなかった。否。気にしている場合ではなかった。
肩をトントンと叩かれた。大きくて固い手だった。誰だろう。おもむろに手の持ち主の方を見やると、そこには長い黒髪を乱雑に纏めて、幾本のキセルをかんざし代わりにした、キセルを口に咥え、着物の胸元が大きくはだけている男がパンパカーナを見下ろしていた。
「嬢ちゃん。一人かい」
そういうと、男は不敵に笑った。
$$$
——バジコーレ・芍薬城(しゃくやくじょう)・天守閣にて——
「申し上げます」
十二単牡丹の親衛を務める紫陽花(あじさい)が両膝をつき、頭を差し出していう。三本の髷が特徴的だ。
「戸賀勇希とパンパカーナ・パスティヤージュ・パンナコッタが割れました」
天蓋付きの豪奢なベッドの上で爪を整えている牡丹は目だけを紫陽花にやると、
「そう。割れてしもうたんか」
といった。
「存外。早かったなあ」
「磯菊から瓦版を購入してすぐのこと。戸賀勇希とパンパカーナは口論になり、互いに反撥するように、それぞれ別の道を行きました。戸賀勇希はこちらへ。パンパカーナは門の方向に」
「ふふ。ホンマかわええなあ、あの子らは」
と口許を袖で隠しながらいった。
「バレてへんと思うとるんやろな。とっくにエレボスから情報は伝わっとるっちゅうねん。そうとも知らず、あのパンパカーナとかいう子はウチに嘘まで吐きよった」
薬指から中指へ。ヤスリで爪を磨く。
「戸賀勇希は上手いこと誤魔化しとったほうや。でも臭った。ルサンチマンの臭いが漂ってきた」
中指から人差し指へ。細く長い足を組み替える。
「顔にも声音にも滲み出とったなあ。ああ、ホンマにかわええ。愛おしくてたまらんわ。全然興味なんてあらへんかったのに、めちゃめちゃええ男になって帰ってきよった。それもわざわざ、ウチに殺されに来よるなんて」
親指の爪にヤスリをかけはじめる。顔をほころばせている。
「哀れ。この一言に尽きるわ。ウチは既に戸賀勇希の首を膝下に置いて、形のいい頭をよしよしと撫でているようなもんやで。しかし、すぐに殺してしまうんは勿体無い。限界の限界までいたぶり尽くして、恥辱と怨嗟で穢れた顔を包み込んでやりながら口付けをしたいんや。ひとひらの短冊となった戸賀勇気はさぞ美しいやろなあ。ああ、はよ来てくれんかなあ」
そういうと、爪を磨き終わった牡丹はステンレス製の爪ヤスリを指でなぞる。すると、鉛色の短冊に変わった。短冊を胸元にしまうと、子供のように足をバタバタと上下させた。
「失礼します」
裃(かみしも)を着た長身の男が立っていた。肩幅は広く、いかにも武士といった風格だ。彼は牡丹の方へ寄ると、紫陽花の隣で両膝をついた。
「どないしたん。蝦夷紫(えぞむらさき)」
今度は爪に紅を塗りながら牡丹は訊ねた。
「戸賀勇気が来られました」
蝦夷紫は他に比類しないほど低い声でいった。
「かまへんよ。はよ通しや」
「御意」
額を木でできた床に擦り付けるように頭を下げると、機敏な動作で立ち上がり、一礼した。
「では、これにて失礼します」
背を向けて歩き始める。と、それを牡丹が呼び止めた。
「待ちや」
蝦夷紫は振り返った。「なんでしょうか」と言おうとしたが、柔らかな唇が言葉を飲み込んでしまった。
凝然としている彼に対し、牡丹は微笑してみせた。
「ほれ。はよ行きや」
「......御意」
言って蝦夷紫が去っていく。その巨大な背中を睨みつけている紫陽花は、顔を真っ赤にしながら、鼻を大きく膨らませていた。
$$$
胸が詰まる。呼吸し辛い。脳内にある会議室では、一つの議題について延々と議論をしている最中だった。それは白熱していた。
「いい加減決めてしまおうではないか」
鼻の下に海苔のようなヒゲを蓄えた、白髪と黒髪の入り混じった初老の男性がいう。
数字のゼロのような机を取り囲んで話している。皆、黒いミーティングチェアーに腰を深く沈めていた。
観葉植物が部屋の隅に一つ。ホワイトボードが二つあった。部屋の灯りは夕日の光で十分だった。
「君が折れてくれさえすれば、この論議もまぁるく治まるのだがね」
と小太りで糸目の男がいった。ブラインドの間から射す陽光に目をさらに細めたので、どうも目を閉じているようにしか見えない。
「なんだと。それはこちらの台詞だ。貴様が下りろ」
初老の男は指をさしていった。小太りの男はフっと人を小馬鹿にするように息を吐いた。
「まあまあ。ここはね、喧嘩せずにね、柔らかくいきましょうね」
瓶底メガネをした気の弱そうな男が額に汗をかきながらいう。ハンカチは多量の汗で湿っており、肌に当てるたびにビチャビチャと音をたてた。
その様子を髪型がオールバックでパリッとしたスーツに身を包んだ若い男が横目で眺めている。時々、愉快そうにほくそ笑んでいた。
「ええい。貴様には聞いておらん。いいから早くパンパカーナ・パスティヤージュ・パンナコッタについての処遇を決めろ」
初老が机を叩いていった。すると、机の一部が升の形に開き、乳房のような卓上ベルがせり上がってきた。
そこには『ラルエシミラにご用のある方はこちら』と書いてあるシールが貼ってあった。
初老は迷うことなくそれを押した。「チーン」という気の抜けた音がした。時間差で会議室の扉が勢い良く開け放たれた。
「......」
赤いふちのメガネをして、婦人用スーツに身を包んだラルエシミラが現れた。
そこにいる人間を値踏みするように、一人一人をじっくりと見ている。
それを終えると、颯爽と若い男性に歩み寄り、シミひとつない額に指を食い込ませると、そのまま皮膚を剥ぎ取った。
「ひっ」
怯えるように身を縮める男の白い顔には『驕り』と墨で書かれてあった。
やめてください! と対角線上に座っている赤茶髪の女性が立ち上がっていった。
睨むように女性を見据えながら近づくと、ラルエシミラは女性の髪をつかんで引っ張った。ゆで卵の殻が剥けるように露わになるのっぺらぼうの顔。
そこには『疑心』とあった。
「わあ」「逃げろ「お助け」
狭い会議室を逃げ回る初老、小太り、瓶底眼鏡。
ラルエシミラは俊敏な動きで次々と捕まえると、顔の皮を剥がしにかかった。
『虚栄』『瞋恚』『忌避』
それぞれが身を寄せ合って震えている。眼鏡を指でちょっと持ち上げると、ホワイトボードに視線をやった。
その影から覗き見るようにして、手入れのされていない伸び放題の黒髪をした戸賀勇気が、眉をひそめながらラルエシミラの様子を伺っていた。
「いひっ......いひっ......いい......いひいっ......」
歯をカチカチと鳴らしている。にんまりと笑みを浮かべている。
ラルエシミラが動く。すると、彼は懇願するような表情になり、何度もかぶりを振って支離滅裂なことを口走っている。
「&%#$¥?←¢☆℃£%!」
ラルエシミラは息を吸い込むと、戸賀勇希との距離を一気に詰めた。
彼は慌ててホワイトボードの後ろに隠れた。ぶつぶつと聞こえるうめき声。
ホワイトボードの下でクリーム色のカーゴパンツが踊っている。
ボードの上縁を掴み、手前に倒す。しかし、そこには戸賀勇希の姿はなかった。ドアの方へ目を向ける。
案の定、そこから走り逃げようとしている戸賀勇希が見えた。
ラルエシミラは追跡を再開した。ヒールがタイルカーペットに突き刺さるが如く勢いで早歩きした。
「イヒヒヒヒイイイ」
廊下の奥から声がした。右の角を前傾姿勢で曲がろうとしている戸賀勇希。
ラルエシミラは胸元からスコップを取り出すと、タイルカーペットに突き立てた。
すると、早回しのように時間が過ぎ去り、スーツを着た人々が行ったり来たりしているなか、書類を抱えた戸賀勇希が白髪の老人に腰を低くしながら愛想笑いをしていたのを見つけると、とっさに彼の腕を掴んだ。書類が床に散逸する。しかし白髪の老人とその横にいる蜂蜜色の髪をした女性は、気に留めることなく歩いていく。
「待って、待ってください! 置いていかないでください! 待って! お願いですから! 一人にしないでください!」
書類をかき集めながら、社員証をぶら下げた戸賀勇気は哀訴するような声音でいった。
書類を見ると『前年度比百億万パーセント減! 万歳三唱パンティストッキング!』やら『歯が乾く! みなさんのボーナスは目くじら?』など、訳のわからないことが一面に書かれていた。
ラルエシミラはため息をひとつ吐くと、戸賀勇希の耳たぶを掴んだ。
チーズを裂くように持ち上げると、甘皮が剥がれるみたく、簡単に皮膚が剥がれた。
頬を手で挟み込むと、顔をラルエシミラの方へ向けた。
『情愛』
顔にそう書いてあった。口を失った戸賀勇希は細かく何度も頭を下げている。
見ていられなかった。憐憫の情を抱くラルエシミラはスコップで顔の中心、情と愛の間に切っ先を突き刺すと、一息に引き抜いた。
興奮で火照った体と心は徐々に冷ややかになり、やがて冷静の支配に取って代わる。凄然たる彼のもたらした恩寵は手にあまるほどの反省悔悟の情であった。
それが口へと差し出されている。人の顔の形をしていた。よく知った人だった。忌憚なく食べ、咀嚼し、溢れ出す苦汁に喉は痛めつけられた。
どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない。戸賀勇希の自尊心をズタズタに切り裂いてしまったかもしれない。
もう、二度度と会えないかもしれない。喉元に停滞する溜飲は、しばらく経っても下がる気配はなかった。
右肩に衝撃があった。後ろから舌打ちが聞こえた。どうやら誰かにぶつかってしまったようだ。いけない。気をつけて歩いて行かないと。
どこへ——。
いったい、私はどこを目指せばいいのだろう。道がプツリと途切れてしまったようだ。暗澹としている。戸賀勇希といた時はあんなに輝いて見えた道が、今は闇に溶けてなくなっていた。彼は私を救ってくれたのに。身を案じたつもりが、結局、彼を突き放す形になってしまった。
失って初めて気づく。
パンパカーナは身を寄せて震えた。母が死んだ時と似たような感覚だ。勝手に笑みがこぼれた。おそらく私はこれから先、何度も同じことを繰り返すのだろう。
「あ。お金、どうしよう」
パンパカーナは立ち止まり、頭を抱えてしゃがみ込んだ。金銭の管理はパンパカーナが請け負っていた。戸賀勇希に任されていたのだ。
彼には小遣い程度の金額しか預けていない。宿を三回も利用すれば、手元に残るのはほんの雀の涙だろう。持っていかないと——。
立ち上がり、半歩踏み出す。すぐ立ち止まると、またしゃがみ込んだ。
「無理だ......。会わせる顔がない」
かすれた声でいった。通行人が訝しげに視線を飛ばしている。パンパカーナは気にしてなどいなかった。否。気にしている場合ではなかった。
肩をトントンと叩かれた。大きくて固い手だった。誰だろう。おもむろに手の持ち主の方を見やると、そこには長い黒髪を乱雑に纏めて、幾本のキセルをかんざし代わりにした、キセルを口に咥え、着物の胸元が大きくはだけている男がパンパカーナを見下ろしていた。
「嬢ちゃん。一人かい」
そういうと、男は不敵に笑った。
$$$
——バジコーレ・芍薬城(しゃくやくじょう)・天守閣にて——
「申し上げます」
十二単牡丹の親衛を務める紫陽花(あじさい)が両膝をつき、頭を差し出していう。三本の髷が特徴的だ。
「戸賀勇希とパンパカーナ・パスティヤージュ・パンナコッタが割れました」
天蓋付きの豪奢なベッドの上で爪を整えている牡丹は目だけを紫陽花にやると、
「そう。割れてしもうたんか」
といった。
「存外。早かったなあ」
「磯菊から瓦版を購入してすぐのこと。戸賀勇希とパンパカーナは口論になり、互いに反撥するように、それぞれ別の道を行きました。戸賀勇希はこちらへ。パンパカーナは門の方向に」
「ふふ。ホンマかわええなあ、あの子らは」
と口許を袖で隠しながらいった。
「バレてへんと思うとるんやろな。とっくにエレボスから情報は伝わっとるっちゅうねん。そうとも知らず、あのパンパカーナとかいう子はウチに嘘まで吐きよった」
薬指から中指へ。ヤスリで爪を磨く。
「戸賀勇希は上手いこと誤魔化しとったほうや。でも臭った。ルサンチマンの臭いが漂ってきた」
中指から人差し指へ。細く長い足を組み替える。
「顔にも声音にも滲み出とったなあ。ああ、ホンマにかわええ。愛おしくてたまらんわ。全然興味なんてあらへんかったのに、めちゃめちゃええ男になって帰ってきよった。それもわざわざ、ウチに殺されに来よるなんて」
親指の爪にヤスリをかけはじめる。顔をほころばせている。
「哀れ。この一言に尽きるわ。ウチは既に戸賀勇希の首を膝下に置いて、形のいい頭をよしよしと撫でているようなもんやで。しかし、すぐに殺してしまうんは勿体無い。限界の限界までいたぶり尽くして、恥辱と怨嗟で穢れた顔を包み込んでやりながら口付けをしたいんや。ひとひらの短冊となった戸賀勇気はさぞ美しいやろなあ。ああ、はよ来てくれんかなあ」
そういうと、爪を磨き終わった牡丹はステンレス製の爪ヤスリを指でなぞる。すると、鉛色の短冊に変わった。短冊を胸元にしまうと、子供のように足をバタバタと上下させた。
「失礼します」
裃(かみしも)を着た長身の男が立っていた。肩幅は広く、いかにも武士といった風格だ。彼は牡丹の方へ寄ると、紫陽花の隣で両膝をついた。
「どないしたん。蝦夷紫(えぞむらさき)」
今度は爪に紅を塗りながら牡丹は訊ねた。
「戸賀勇気が来られました」
蝦夷紫は他に比類しないほど低い声でいった。
「かまへんよ。はよ通しや」
「御意」
額を木でできた床に擦り付けるように頭を下げると、機敏な動作で立ち上がり、一礼した。
「では、これにて失礼します」
背を向けて歩き始める。と、それを牡丹が呼び止めた。
「待ちや」
蝦夷紫は振り返った。「なんでしょうか」と言おうとしたが、柔らかな唇が言葉を飲み込んでしまった。
凝然としている彼に対し、牡丹は微笑してみせた。
「ほれ。はよ行きや」
「......御意」
言って蝦夷紫が去っていく。その巨大な背中を睨みつけている紫陽花は、顔を真っ赤にしながら、鼻を大きく膨らませていた。
$$$
胸が詰まる。呼吸し辛い。脳内にある会議室では、一つの議題について延々と議論をしている最中だった。それは白熱していた。
「いい加減決めてしまおうではないか」
鼻の下に海苔のようなヒゲを蓄えた、白髪と黒髪の入り混じった初老の男性がいう。
数字のゼロのような机を取り囲んで話している。皆、黒いミーティングチェアーに腰を深く沈めていた。
観葉植物が部屋の隅に一つ。ホワイトボードが二つあった。部屋の灯りは夕日の光で十分だった。
「君が折れてくれさえすれば、この論議もまぁるく治まるのだがね」
と小太りで糸目の男がいった。ブラインドの間から射す陽光に目をさらに細めたので、どうも目を閉じているようにしか見えない。
「なんだと。それはこちらの台詞だ。貴様が下りろ」
初老の男は指をさしていった。小太りの男はフっと人を小馬鹿にするように息を吐いた。
「まあまあ。ここはね、喧嘩せずにね、柔らかくいきましょうね」
瓶底メガネをした気の弱そうな男が額に汗をかきながらいう。ハンカチは多量の汗で湿っており、肌に当てるたびにビチャビチャと音をたてた。
その様子を髪型がオールバックでパリッとしたスーツに身を包んだ若い男が横目で眺めている。時々、愉快そうにほくそ笑んでいた。
「ええい。貴様には聞いておらん。いいから早くパンパカーナ・パスティヤージュ・パンナコッタについての処遇を決めろ」
初老が机を叩いていった。すると、机の一部が升の形に開き、乳房のような卓上ベルがせり上がってきた。
そこには『ラルエシミラにご用のある方はこちら』と書いてあるシールが貼ってあった。
初老は迷うことなくそれを押した。「チーン」という気の抜けた音がした。時間差で会議室の扉が勢い良く開け放たれた。
「......」
赤いふちのメガネをして、婦人用スーツに身を包んだラルエシミラが現れた。
そこにいる人間を値踏みするように、一人一人をじっくりと見ている。
それを終えると、颯爽と若い男性に歩み寄り、シミひとつない額に指を食い込ませると、そのまま皮膚を剥ぎ取った。
「ひっ」
怯えるように身を縮める男の白い顔には『驕り』と墨で書かれてあった。
やめてください! と対角線上に座っている赤茶髪の女性が立ち上がっていった。
睨むように女性を見据えながら近づくと、ラルエシミラは女性の髪をつかんで引っ張った。ゆで卵の殻が剥けるように露わになるのっぺらぼうの顔。
そこには『疑心』とあった。
「わあ」「逃げろ「お助け」
狭い会議室を逃げ回る初老、小太り、瓶底眼鏡。
ラルエシミラは俊敏な動きで次々と捕まえると、顔の皮を剥がしにかかった。
『虚栄』『瞋恚』『忌避』
それぞれが身を寄せ合って震えている。眼鏡を指でちょっと持ち上げると、ホワイトボードに視線をやった。
その影から覗き見るようにして、手入れのされていない伸び放題の黒髪をした戸賀勇気が、眉をひそめながらラルエシミラの様子を伺っていた。
「いひっ......いひっ......いい......いひいっ......」
歯をカチカチと鳴らしている。にんまりと笑みを浮かべている。
ラルエシミラが動く。すると、彼は懇願するような表情になり、何度もかぶりを振って支離滅裂なことを口走っている。
「&%#$¥?←¢☆℃£%!」
ラルエシミラは息を吸い込むと、戸賀勇希との距離を一気に詰めた。
彼は慌ててホワイトボードの後ろに隠れた。ぶつぶつと聞こえるうめき声。
ホワイトボードの下でクリーム色のカーゴパンツが踊っている。
ボードの上縁を掴み、手前に倒す。しかし、そこには戸賀勇希の姿はなかった。ドアの方へ目を向ける。
案の定、そこから走り逃げようとしている戸賀勇希が見えた。
ラルエシミラは追跡を再開した。ヒールがタイルカーペットに突き刺さるが如く勢いで早歩きした。
「イヒヒヒヒイイイ」
廊下の奥から声がした。右の角を前傾姿勢で曲がろうとしている戸賀勇希。
ラルエシミラは胸元からスコップを取り出すと、タイルカーペットに突き立てた。
すると、早回しのように時間が過ぎ去り、スーツを着た人々が行ったり来たりしているなか、書類を抱えた戸賀勇希が白髪の老人に腰を低くしながら愛想笑いをしていたのを見つけると、とっさに彼の腕を掴んだ。書類が床に散逸する。しかし白髪の老人とその横にいる蜂蜜色の髪をした女性は、気に留めることなく歩いていく。
「待って、待ってください! 置いていかないでください! 待って! お願いですから! 一人にしないでください!」
書類をかき集めながら、社員証をぶら下げた戸賀勇気は哀訴するような声音でいった。
書類を見ると『前年度比百億万パーセント減! 万歳三唱パンティストッキング!』やら『歯が乾く! みなさんのボーナスは目くじら?』など、訳のわからないことが一面に書かれていた。
ラルエシミラはため息をひとつ吐くと、戸賀勇希の耳たぶを掴んだ。
チーズを裂くように持ち上げると、甘皮が剥がれるみたく、簡単に皮膚が剥がれた。
頬を手で挟み込むと、顔をラルエシミラの方へ向けた。
『情愛』
顔にそう書いてあった。口を失った戸賀勇希は細かく何度も頭を下げている。
見ていられなかった。憐憫の情を抱くラルエシミラはスコップで顔の中心、情と愛の間に切っ先を突き刺すと、一息に引き抜いた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
バーンズ伯爵家の内政改革 ~10歳で目覚めた長男、前世知識で領地を最適化します
namisan
ファンタジー
バーンズ伯爵家の長男マイルズは、完璧な容姿と神童と噂される知性を持っていた。だが彼には、誰にも言えない秘密があった。――前世が日本の「医師」だったという記憶だ。
マイルズが10歳となった「洗礼式」の日。
その儀式の最中、領地で謎の疫病が発生したとの凶報が届く。
「呪いだ」「悪霊の仕業だ」と混乱する大人たち。
しかしマイルズだけは、元医師の知識から即座に「病」の正体と、放置すれば領地を崩壊させる「災害」であることを看破していた。
「父上、お待ちください。それは呪いではありませぬ。……対処法がわかります」
公衆衛生の確立を皮切りに、マイルズは領地に潜む様々な「病巣」――非効率な農業、停滞する経済、旧態依然としたインフラ――に気づいていく。
前世の知識を総動員し、10歳の少年が領地を豊かに変えていく。
これは、一人の転生貴族が挑む、本格・異世界領地改革(内政)ファンタジー。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
異世界あるある 転生物語 たった一つのスキルで無双する!え?【土魔法】じゃなくって【土】スキル?
よっしぃ
ファンタジー
農民が土魔法を使って何が悪い?異世界あるある?前世の謎知識で無双する!
土砂 剛史(どしゃ つよし)24歳、独身。自宅のパソコンでネットをしていた所、突然轟音がしたと思うと窓が破壊され何かがぶつかってきた。
自宅付近で高所作業車が電線付近を作業中、トラックが高所作業車に突っ込み運悪く剛史の部屋に高所作業車のアームの先端がぶつかり、そのまま窓から剛史に一直線。
『あ、やべ!』
そして・・・・
【あれ?ここは何処だ?】
気が付けば真っ白な世界。
気を失ったのか?だがなんか聞こえた気がしたんだが何だったんだ?
・・・・
・・・
・・
・
【ふう・・・・何とか間に合ったか。たった一つのスキルか・・・・しかもあ奴の元の名からすれば土関連になりそうじゃが。済まぬが異世界あるあるのチートはない。】
こうして剛史は新た生を異世界で受けた。
そして何も思い出す事なく10歳に。
そしてこの世界は10歳でスキルを確認する。
スキルによって一生が決まるからだ。
最低1、最高でも10。平均すると概ね5。
そんな中剛史はたった1しかスキルがなかった。
しかも土木魔法と揶揄される【土魔法】のみ、と思い込んでいたが【土魔法】ですらない【土】スキルと言う謎スキルだった。
そんな中頑張って開拓を手伝っていたらどうやら領主の意に添わなかったようで
ゴウツク領主によって領地を追放されてしまう。
追放先でも土魔法は土木魔法とバカにされる。
だがここで剛史は前世の記憶を徐々に取り戻す。
『土魔法を土木魔法ってバカにすんなよ?異世界あるあるな前世の謎知識で無双する!』
不屈の精神で土魔法を極めていく剛史。
そしてそんな剛史に同じような境遇の人々が集い、やがて大きなうねりとなってこの世界を席巻していく。
その中には同じく一つスキルしか得られず、公爵家や侯爵家を追放された令嬢も。
前世の記憶を活用しつつ、やがて土木魔法と揶揄されていた土魔法を世界一のスキルに押し上げていく。
但し剛史のスキルは【土魔法】ですらない【土】スキル。
転生時にチートはなかったと思われたが、努力の末にチートと言われるほどスキルを活用していく事になる。
これは所持スキルの少なさから世間から見放された人々が集い、ギルド『ワンチャンス』を結成、努力の末に世界一と言われる事となる物語・・・・だよな?
何故か追放された公爵令嬢や他の貴族の令嬢が集まってくるんだが?
俺は農家の4男だぞ?
転生の水神様ーー使える魔法は水属性のみだが最強ですーー
芍薬甘草湯
ファンタジー
水道局職員が異世界に転生、水神様の加護を受けて活躍する異世界転生テンプレ的なストーリーです。
42歳のパッとしない水道局職員が死亡したのち水神様から加護を約束される。
下級貴族の三男ネロ=ヴァッサーに転生し12歳の祝福の儀で水神様に再会する。
約束通り祝福をもらったが使えるのは水属性魔法のみ。
それでもネロは水魔法を工夫しながら活躍していく。
一話当たりは短いです。
通勤通学の合間などにどうぞ。
あまり深く考えずに、気楽に読んでいただければ幸いです。
完結しました。
巻き込まれて異世界召喚? よくわからないけど頑張ります。 〜JKヒロインにおばさん呼ばわりされたけど、28才はお姉さんです〜
トイダノリコ
ファンタジー
会社帰りにJKと一緒に異世界へ――!?
婚活のために「料理の基本」本を買った帰り道、28歳の篠原亜子は、通りすがりの女子高生・星野美咲とともに突然まぶしい光に包まれる。
気がつけばそこは、海と神殿の国〈アズーリア王国〉。
美咲は「聖乙女」として大歓迎される一方、亜子は「予定外に混ざった人」として放置されてしまう。
けれど世界意識(※神?)からのお詫びとして特殊能力を授かった。
食材や魔物の食用可否、毒の有無、調理法までわかるスキル――〈料理眼〉!
「よし、こうなったら食堂でも開いて生きていくしかない!」
港町の小さな店〈潮風亭〉を拠点に、亜子は料理修行と新生活をスタート。
気のいい夫婦、誠実な騎士、皮肉屋の魔法使い、王子様や留学生、眼帯の怪しい男……そして、彼女を慕う男爵令嬢など個性豊かな仲間たちに囲まれて、"聖乙女イベントの裏側”で、静かに、そしてたくましく人生を切り拓く異世界スローライフ開幕。
――はい。静かに、ひっそり生きていこうと思っていたんです。私も.....(アコ談)
*AIと一緒に書いています*
異世界でぺったんこさん!〜無限収納5段階活用で無双する〜
KeyBow
ファンタジー
間もなく50歳になる銀行マンのおっさんは、高校生達の異世界召喚に巻き込まれた。
何故か若返り、他の召喚者と同じ高校生位の年齢になっていた。
召喚したのは、魔王を討ち滅ぼす為だと伝えられる。自分で2つのスキルを選ぶ事が出来ると言われ、おっさんが選んだのは無限収納と飛翔!
しかし召喚した者達はスキルを制御する為の装飾品と偽り、隷属の首輪を装着しようとしていた・・・
いち早くその嘘に気が付いたおっさんが1人の少女を連れて逃亡を図る。
その後おっさんは無限収納の5段階活用で無双する!・・・はずだ。
上空に飛び、そこから大きな岩を落として押しつぶす。やがて救った少女は口癖のように言う。
またぺったんこですか?・・・
エレンディア王国記
火燈スズ
ファンタジー
不慮の事故で命を落とした小学校教師・大河は、
「選ばれた魂」として、奇妙な小部屋で目を覚ます。
導かれるように辿り着いたのは、
魔法と貴族が支配する、どこか現実とは異なる世界。
王家の十八男として生まれ、誰からも期待されず辺境送り――
だが、彼は諦めない。かつての教え子たちに向けて語った言葉を胸に。
「なんとかなるさ。生きてればな」
手にしたのは、心を視る目と、なかなか花開かぬ“器”。
教師として、王子として、そして何者かとして。
これは、“教える者”が世界を変えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる