バグズ・グリモワール・オンライン 〜エラー報告が趣味の俺、バグを喰らう魔書(グリモワール)を授かり最強のイレギュラーになる〜

夏見ナイ

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第5話 空白の二ページ目

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リリィの背中が見えなくなるまで、俺は無意識にその場に立ち尽くしていた。
広場の喧騒が、急に遠い世界の出来事のように感じられる。フレンドリストに追加された『リリィ』という文字列が、まるで現実感を伴わないバグデータのようだ。

「……さて」

俺は一つ息を吐いて、思考を切り替えた。
感傷に浸っている暇はない。俺にはやるべきことがある。
手に入れた『バグズ・グリモワール』と【テクスチャ・ウォーク】。この規格外の力を、さらに深く解析しなければならない。

俺は人混みを避け、街の裏通りへと足を踏み入れた。
メインストリートの活気が嘘のように、ここは静かだ。時折、用を足すNPCが通り過ぎるくらいで、プレイヤーの姿はほとんどない。検証作業にはもってこいの場所だ。

まず、確認すべきはグリモワールの状態だ。
アイテム欄から実体化させると、ズシリとした重みが再び手に伝わる。表紙を開くと、最初のページには【テクスチャ・ウォーク】の魔法陣が複雑な紋様を刻み、微かな光を放っている。そして、二ページ目以降は、依然として完全な白紙のままだった。

「この本は、喰らったバグの種類に応じて、異なるスキルを生成する。仮説はそれで間違いないだろう」

壁抜けという物理的なバグは、【テクスチャ・ウォーク】という物理的なスキルになった。
ならば、もっと別の種類のバグを喰らわせればどうなる?
例えば、NPCのAIに関するバグ。
思考ルーチン、行動パターン、クエストのフラグ管理。そういった、より情報的で、より根源的なシステムの綻び。それを喰らった時、この魔書は一体どんな力を俺に与えるのか。

想像しただけで、口の端が吊り上がるのを感じた。
未知のシステムを解明していくこの感覚こそ、俺が何よりも好むものだ。

「よし、次のターゲットはAIバグだ」

目的は定まった。
俺は街の探索を再開した。ただし、その目的はダンジョンやレアアイテムの情報ではない。俺が探しているのは、この世界の「おかしな人」だ。
言動に矛盾があるNPC。ありえない場所にスタックしているNPC。特定の行動を延々と繰り返しているNPC。
それらは全て、AIのバグ、あるいはスクリプトのエラーである可能性が高い。

俺は片っ端から、目についたNPCに話しかけていった。
「こんにちは。いい天気ですね」
「何か困りごとはありませんか?」
「この街の名物はなんですか?」

衛兵、商人、井戸端会議に興じる主婦、走り回る子供。
返ってくる答えは、どれも驚くほど自然で、流暢だった。
『Aethelgard Online』のNPC-AIの完成度は、噂に違わず非常に高い。単純なキーワード応答ではなく、文脈を理解し、自身のバックグラウンド設定に基づいた会話を生成している。生半可なテストでは、到底ボロは出そうになかった。

「……なるほど。これは骨が折れそうだ」

まるで、膨大なソースコードの中からたった一行のバグを探し出す作業に似ている。気が遠くなるような、しかし、だからこそ燃える作業だ。
俺はプログラマーとしての経験を総動員し、アプローチを変えることにした。
通常の会話で矛盾が見つからないなら、意図的にAIの想定外の情報を与え、エラーを誘発させればいい。

俺は的を絞った。生活感のあるNPCではなく、何らかの役割、特に「クエスト」をプレイヤーに与える役割を持つNPCがいい。彼らのAIは、特定のフラグをトリガーに行動や会話が変化するよう設計されているはずだ。そのフラグ管理の隙を突けば、矛盾を引き起こせるかもしれない。

数十分後、俺は街の南西地区、少し寂れた一角で、一人の老婆がベンチに座ってうなだれているのを見つけた。
典型的な、サブクエストの導入NPCだ。いかにも「困っています」というオーラを全身から発している。

俺は老婆に近づき、声をかけた。
「どうかなさいましたか?」
老婆はゆっくりと顔を上げる。その顔には深い皺が刻まれ、悲しそうな目をしていた。
「おお、旅の方……。わしは、大事な思い出のブローチを失くしてしまってのう。どこで落としたのか、さっぱり思い出せんのじゃ……」
ここまでは、よくあるクエストの導入だ。
だが、俺はここからさらに踏み込む。俺が試したいのは、彼女の「記憶」に関するAIルーチンの整合性だ。

「それはお困りですね。いつ失くされたのですか?」
「さあ……。昨日だったかのう……。いや、今朝だったかもしれん……。この頃は、物忘れがひどくてのう……」
曖昧な答え。これはただのロールプレイングか、それとも。
俺はさらに、時間軸を揺さぶるキーワードを投げかけた。

「昨日は一日中、雨が降っていましたが、その中で落としたのですか?」
この街は天候システムが導入されており、ログインしてからずっと晴天が続いている。つまり、「昨日は雨だった」という俺の発言は、この世界の事実とは異なる「偽の情報」だ。
通常のAIなら、「いいえ、昨日は晴れていましたよ」と俺の誤りを訂正するか、あるいは「雨……?そうでしたかのう?」と曖昧にぼかすはずだ。
しかし、老婆の返答は、俺の予想を超えていた。

「そうじゃ、そうじゃ。ひどい雨じゃった。だから、傘を差すのに気を取られて、落としてしまったのかもしれん……」

――見つけた。
俺は内心で勝利を確信した。
この老婆のAIは、プレイヤーから与えられた情報を、事実確認(ファクトチェック)することなく、自身の記憶として上書きしてしまっている。これは明らかに、AIの記憶管理モジュールにおける脆弱性、バグだ。
念のため、もう一つ試す。

「いいえ、おばあさん。昨日は素晴らしい晴天でしたよ。あなたは市場で買い物を楽しんでいたはずです」
今度は、全く逆の情報を与えてみる。
すると、老婆は一瞬、困惑したように目を瞬かせた後、こくりと頷いた。
「おお、そうじゃった、そうじゃった。市場は人でいっぱいで、きっと、誰かとぶつかった拍子に……」

間違いない。このNPCは、与えられた情報に応じて、過去の記憶をリアルタイムで「生成」している。そして、その生成された記憶同士の整合性をチェックする機能が欠落している。
これこそ、俺が探していた「歪み」。グリモワールの新たな糧だ。

俺は周囲に他のプレイヤーがいないことを念入りに確認した。こんなシステムの根幹に関わる行為、誰にも見られるわけにはいかない。
幸い、この裏通りは人気がなく、静寂が保たれている。
俺は老婆の前に立ち、懐から『バグズ・グリモワール』を取り出した。
そして、意識を集中する。

「――喰らえ(イート)」

心の中で強く念じると、グリモワールから溢れ出した無数の黒い影が、音もなく老婆へと伸びていく。
影は老婆のアバターを優しく包み込み、その情報の奔流へと干渉していくのが、俺にはなぜか感覚的に理解できた。AIの思考ルーチン、そのコードの隙間を埋め、矛盾した記憶の断片を正常なデータへと書き換えていく。

老婆は一瞬、虚空を見つめて動きを止めた。
だが、それも束の間。
彼女はふっと我に返ったように一つ瞬きをすると、しっかりとした口調で俺に話しかけてきた。

「おお、旅の方。ちょうどよかった。わしは大事なブローチを失くしてしまってのう。昨日の昼過ぎ、中央広場のパン屋の近くで落としたような気がするんじゃが……。もし見つけたら、わしの所に持ってきてはくれんだろうか?」
クエストの内容が、具体的かつ矛盾のないものに「修正」されている。
同時に、俺の目の前にシステムウィンドウがポップアップした。

【サブクエスト『思い出のブローチ』を受注しました】

俺はクエストを受注するつもりはなかったが、まあいいだろう。
それよりも重要なのは、手の中のグリモワールだ。
黒い影が本体へと還ると同時に、本が眩い光を放ち始めた。
空白だった二ページ目がひとりでに開かれ、そこに、前回とはまた異なる、より緻密で複雑な魔法陣が高速で描き込まれていく。

やがて光が収まり、俺の脳内に直接、あの無機質な声が響いた。

《新たなスキルを獲得しました》
《スキル名:ゴースト・プロンプト》

急いでスキルウィンドウを開き、その詳細を確認する。
その効果を読んだ瞬間、俺は息を呑んだ。

──────────────
【アクティブスキル】ゴースト・プロンプト
【ランク】E
【消費MP】50
【効果】NPCの思考ルーチンに対し、限定的なキーワード命令(プロンプト)を割り込ませることが可能。命令されたNPCは、そのキーワードを自身の思考と誤認し、行動に移す場合がある。
【制約】
・命令は単純な単語、または短い句に限る。(例:「眠れ」「あっちへ行け」「あれを渡せ」)
・NPCの基本設定や倫理観から大きく外れる命令は成功率が著しく低下、または無効化される。
・プレイヤーを含む、モンスターや動物など、PC(プレイヤーキャラクター)には効果なし。
──────────────

「……とんでもないな、これは」

思わず声が漏れた。
NPCを、限定的にではあるが、意のままに操れるスキル。
例えば、クエストの鍵を握るNPCに「話せ」と命令すれば、隠された情報を引き出せるかもしれない。見張りの兵士に「眠れ」と囁けば、厳重な警備を突破できるかもしれない。商人に「これをくれ」と命じれば、高価なアイテムをタダで手に入れられる……かもしれない。

【テクスチャ・ウォーク】が物理的な世界の法則を捻じ曲げるスキルなら、この【ゴースト・プロンプト】は、情報的な世界の法則をハックするスキルだ。
悪用すれば、ゲーム内の経済や秩序を根底から揺るがしかねない、あまりにも危険な力。

俺はゴクリと喉を鳴らした。
この力とどう向き合うべきか。プログラマーとしての倫理観が、警鐘を鳴らしている。
だが同時に、この未知の力を試したいという、抗いがたい好奇心が全身を駆け巡っていた。

俺は老婆に一礼すると、その場を静かに立ち去った。
手に入れたばかりの危険なスキル。そして、フレンドリストに灯る『リリィ』という一つの繋がり。
この世界は、俺が最初に想定していたよりも、遥かに複雑で、面白くなりそうだ。
俺の目は、まだ誰も知らない更なる「歪み」を求めて、この広大な世界の深淵を、静かに見つめていた。
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