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第13話:専属の癒やし手
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月明かりの下、繋いだ手から伝わる温もりだけが、この奇跡が現実であることを教えてくれていた。
私のスキルが、アシュレイ公爵の希望になる。
その事実は、私の凍てついていた心を、根底からじんわりと溶かしていくようだった。これまでずっと無価値だと思い込んできた自分の存在が、初めて肯定された瞬間だった。
「……ありがとう、リナリア」
沈黙を破ったのは、アシュレイ公爵だった。その声は、先ほどまでの感動とは少し違う、どこか真剣な響きを帯びていた。
彼は一度、繋いでいた手をゆっくりと離した。失われた温もりに、私の心臓が小さく跳ねる。
そして、彼は私の正面に回り込むと、改めて私と向き合った。その紫水晶の瞳が、今夜の月のように静かな、しかし強い光を宿して私を見つめている。
「君に、正式な依頼がある」
「依頼……ですか?」
私は戸惑いながら聞き返した。
「ああ」と彼は頷く。「これは、アイゼンベルク公爵としてではなく、アシュレイ・フォン・アイゼンベルク個人として、君に請い願うものだ」
彼のあまりの真剣な態度に、私は思わず居住まいを正した。
「リナリア。君に、私の専属の癒やし手になってほしい」
専属の、癒やし手。
その言葉が、私の心の中でゆっくりと反響した。
「もう、単なる『客人』としてではない。私にとって、かけがえのないパートナーとして、このアイゼンベルク公爵邸に、私の傍に、いてはくれないだろうか」
それは、命令ではなかった。彼の立場であれば、私にいくらでも強制することができたはずだ。けれど、彼の言葉はどこまでも丁寧で、私の意思を尊重しようという誠実さに満ちていた。
「もちろん、君の負担になるようなことは決してしない。毎日、君の体調が良い時に、ほんの少しの時間だけでいい。私に触れ、その力で私を癒やしてほしい」
彼は、私の返事を待たずに続けた。
「その対価として、君が望むものは全て与えることを約束しよう。この屋敷での衣食住は言うに及ばず、君が望むならどんなドレスでも、宝石でも、本でも構わない。君が望むなら、君のためだけの庭師を雇い、この庭を君の好きな花で埋め尽くしてもいい」
彼の提案は、あまりにも破格だった。私がこれまで受けてきた仕打ちとは、何もかもが正反対だった。
「そして何より、君の身の安全は、この私が命に代えても守り抜く。エルフィールド家や、第二王子が君に手出しすることは二度とさせない。私が、君の絶対的な盾になる」
その言葉は、何よりも私の心を揺さぶった。
安全な居場所。脅かされることのない日々。それは、私がずっと心のどこかで渇望していたものだった。
でも、それ以上に私の心を捉えたのは、「専属の癒やし手」という、彼が私に与えてくれた役割そのものだった。
これまで私は、ただ「出来損ない」だった。何の役にも立たない、家にいるだけの厄介者。それが、私の全てだった。
けれど、今、この人は私に名前をくれた。
誰かのための、明確な役割。
必要とされているという、確かな実感。
それは、どんな高価なドレスや宝石よりも、私の心を震わせる、最高の贈り物だった。
「……私で、いいのでしょうか」
かろうじて絞り出した声は、喜びと不安で震えていた。
「私のような者に、公爵様のパートナーなどという大役が、本当に務まるのでしょうか」
「君でなければ、駄目なのだ」
アシュレイ公爵は、きっぱりと言い切った。その声には、微塵の迷いもない。
「他の誰でもない、君がいい。リナリア」
彼は私の名前を、まるで宝物のように優しく呼んだ。
その瞬間、私の心の中の最後の迷いが、綺麗に消え去った。
私はゆっくりと立ち上がり、彼の前に立った。そして、貴族の令嬢としての作法に則り、スカートの裾を優雅につまんで、深くお辞儀をした。
「……謹んで、お受けいたします。アシュレイ様」
顔を上げ、私は精一杯の笑顔を作った。涙でぐしゃぐしゃになっていないか、少しだけ心配だった。
「このリナリア・エルフィールド、本日より、アシュレイ様の専属の癒やし手として、誠心誠意お仕えさせていただきます」
私のその返事を聞いて、アシュレイ公爵は心底ほっとしたように、その整った貌を綻ばせた。それは、これまで私が見たどんな笑顔よりも、穏やかで、そしてどこか少年のような無邪気さを感じさせるものだった。
「ありがとう。本当に、ありがとう、リナリア」
彼は私の前に歩み寄ると、私の右手を優しく取った。そして、跪くように片膝をつくと、その手の甲に、そっと唇を寄せた。
ちゅ、という柔らかな感触。
触れた場所から、電流が走ったかのように全身が痺れた。顔が、首筋まで真っ赤になるのが自分でも分かった。
「こ、公爵様!?」
「これは、契約の証だ」
彼は顔を上げ、悪戯っぽく微笑んだ。
「君は、私の希望そのものだ。だから、君を大切にすることは、私自身を大切にすることでもある。報酬の件、遠慮することは許さないからな」
「で、ですが、私は……」
「君の報酬は、私が楽になることだと言いたいのだろう?」
私の心を完全に見透かしたように、彼は言った。
「その気持ちは、何より嬉しい。だが、それとこれとは話が別だ。君が私の癒やし手であるように、私も、君の守り手でありたいのだ。……分かってくれるか?」
その紫の瞳に、甘えるような色が浮かんでいる。そんな顔をされたら、もう何も言えなくなってしまう。
私は小さく、こくりと頷いた。
その様子を見て、彼は満足そうに立ち上がった。
東の空が、いつの間にか白み始めていた。夜の闇が薄れ、世界が新しい一日の始まりを告げている。
「さあ、部屋に戻ろう。夜明けの風は身体に障る」
アシュレイ公爵は、私の手を握ったまま、そう言った。その手はもう、最初に出会った時のような無機質な冷たさではなく、確かな温もりを帯びていた。
二人で並んで、屋敷へと戻る。
私の心は、これ以上ないほどの幸福感と、そしてこれから始まる新しい日々への期待で満ち溢れていた。
これまでは、ただ流されるだけの人生だった。
でも、これからは違う。
私には、アシュレイ様の「専属の癒やし手」という、誇らしい役割があるのだ。
彼の呪いを癒し、いつか彼が心からの笑顔を取り戻すその日まで、私は彼の傍にいよう。
そう、心に固く誓った。
私のスキルが、アシュレイ公爵の希望になる。
その事実は、私の凍てついていた心を、根底からじんわりと溶かしていくようだった。これまでずっと無価値だと思い込んできた自分の存在が、初めて肯定された瞬間だった。
「……ありがとう、リナリア」
沈黙を破ったのは、アシュレイ公爵だった。その声は、先ほどまでの感動とは少し違う、どこか真剣な響きを帯びていた。
彼は一度、繋いでいた手をゆっくりと離した。失われた温もりに、私の心臓が小さく跳ねる。
そして、彼は私の正面に回り込むと、改めて私と向き合った。その紫水晶の瞳が、今夜の月のように静かな、しかし強い光を宿して私を見つめている。
「君に、正式な依頼がある」
「依頼……ですか?」
私は戸惑いながら聞き返した。
「ああ」と彼は頷く。「これは、アイゼンベルク公爵としてではなく、アシュレイ・フォン・アイゼンベルク個人として、君に請い願うものだ」
彼のあまりの真剣な態度に、私は思わず居住まいを正した。
「リナリア。君に、私の専属の癒やし手になってほしい」
専属の、癒やし手。
その言葉が、私の心の中でゆっくりと反響した。
「もう、単なる『客人』としてではない。私にとって、かけがえのないパートナーとして、このアイゼンベルク公爵邸に、私の傍に、いてはくれないだろうか」
それは、命令ではなかった。彼の立場であれば、私にいくらでも強制することができたはずだ。けれど、彼の言葉はどこまでも丁寧で、私の意思を尊重しようという誠実さに満ちていた。
「もちろん、君の負担になるようなことは決してしない。毎日、君の体調が良い時に、ほんの少しの時間だけでいい。私に触れ、その力で私を癒やしてほしい」
彼は、私の返事を待たずに続けた。
「その対価として、君が望むものは全て与えることを約束しよう。この屋敷での衣食住は言うに及ばず、君が望むならどんなドレスでも、宝石でも、本でも構わない。君が望むなら、君のためだけの庭師を雇い、この庭を君の好きな花で埋め尽くしてもいい」
彼の提案は、あまりにも破格だった。私がこれまで受けてきた仕打ちとは、何もかもが正反対だった。
「そして何より、君の身の安全は、この私が命に代えても守り抜く。エルフィールド家や、第二王子が君に手出しすることは二度とさせない。私が、君の絶対的な盾になる」
その言葉は、何よりも私の心を揺さぶった。
安全な居場所。脅かされることのない日々。それは、私がずっと心のどこかで渇望していたものだった。
でも、それ以上に私の心を捉えたのは、「専属の癒やし手」という、彼が私に与えてくれた役割そのものだった。
これまで私は、ただ「出来損ない」だった。何の役にも立たない、家にいるだけの厄介者。それが、私の全てだった。
けれど、今、この人は私に名前をくれた。
誰かのための、明確な役割。
必要とされているという、確かな実感。
それは、どんな高価なドレスや宝石よりも、私の心を震わせる、最高の贈り物だった。
「……私で、いいのでしょうか」
かろうじて絞り出した声は、喜びと不安で震えていた。
「私のような者に、公爵様のパートナーなどという大役が、本当に務まるのでしょうか」
「君でなければ、駄目なのだ」
アシュレイ公爵は、きっぱりと言い切った。その声には、微塵の迷いもない。
「他の誰でもない、君がいい。リナリア」
彼は私の名前を、まるで宝物のように優しく呼んだ。
その瞬間、私の心の中の最後の迷いが、綺麗に消え去った。
私はゆっくりと立ち上がり、彼の前に立った。そして、貴族の令嬢としての作法に則り、スカートの裾を優雅につまんで、深くお辞儀をした。
「……謹んで、お受けいたします。アシュレイ様」
顔を上げ、私は精一杯の笑顔を作った。涙でぐしゃぐしゃになっていないか、少しだけ心配だった。
「このリナリア・エルフィールド、本日より、アシュレイ様の専属の癒やし手として、誠心誠意お仕えさせていただきます」
私のその返事を聞いて、アシュレイ公爵は心底ほっとしたように、その整った貌を綻ばせた。それは、これまで私が見たどんな笑顔よりも、穏やかで、そしてどこか少年のような無邪気さを感じさせるものだった。
「ありがとう。本当に、ありがとう、リナリア」
彼は私の前に歩み寄ると、私の右手を優しく取った。そして、跪くように片膝をつくと、その手の甲に、そっと唇を寄せた。
ちゅ、という柔らかな感触。
触れた場所から、電流が走ったかのように全身が痺れた。顔が、首筋まで真っ赤になるのが自分でも分かった。
「こ、公爵様!?」
「これは、契約の証だ」
彼は顔を上げ、悪戯っぽく微笑んだ。
「君は、私の希望そのものだ。だから、君を大切にすることは、私自身を大切にすることでもある。報酬の件、遠慮することは許さないからな」
「で、ですが、私は……」
「君の報酬は、私が楽になることだと言いたいのだろう?」
私の心を完全に見透かしたように、彼は言った。
「その気持ちは、何より嬉しい。だが、それとこれとは話が別だ。君が私の癒やし手であるように、私も、君の守り手でありたいのだ。……分かってくれるか?」
その紫の瞳に、甘えるような色が浮かんでいる。そんな顔をされたら、もう何も言えなくなってしまう。
私は小さく、こくりと頷いた。
その様子を見て、彼は満足そうに立ち上がった。
東の空が、いつの間にか白み始めていた。夜の闇が薄れ、世界が新しい一日の始まりを告げている。
「さあ、部屋に戻ろう。夜明けの風は身体に障る」
アシュレイ公爵は、私の手を握ったまま、そう言った。その手はもう、最初に出会った時のような無機質な冷たさではなく、確かな温もりを帯びていた。
二人で並んで、屋敷へと戻る。
私の心は、これ以上ないほどの幸福感と、そしてこれから始まる新しい日々への期待で満ち溢れていた。
これまでは、ただ流されるだけの人生だった。
でも、これからは違う。
私には、アシュレイ様の「専属の癒やし手」という、誇らしい役割があるのだ。
彼の呪いを癒し、いつか彼が心からの笑顔を取り戻すその日まで、私は彼の傍にいよう。
そう、心に固く誓った。
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