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第28話:アシュレイの牽制
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リナリアに関する悪意ある噂が、王都の社交界という名の淀んだ水溜まりで広まっていく様子を、アシュレイは冷徹な目で見つめていた。
アイゼンベルク公爵家が擁する諜報網は、王国随一と言われている。その気になれば、どの貴族の夫人がどの宝石商と密通しているか、といった下世話な情報まで、彼の耳には筒抜けだった。ましてや、これほど公然と広められている噂の出所など、突き止めるのは赤子の手をひねるより容易いことだった。
報告は、彼の予想通りのものだった。
エルフィールド家のイザベラと、第二王子エドワード。
あの雨の日、リナリアを絶望の淵に突き落とした張本人たちが、再び彼女の心を傷つけようとしている。その事実は、アシュレイの心の奥底にある、冷たい怒りの炎に、静かに油を注いだ。
彼は、リナリアの前では決してその怒りを見せなかった。彼女を不安にさせるようなことは、微塵たりともしたくなかったからだ。彼はただ、彼女には穏やかな笑顔だけを向け、その裏で、迅速かつ冷酷な報復の準備を始めていた。
まず、彼が手を打ったのは、噂を積極的に広めていた貴族たちに対してだった。
ある日、イザベラの取り巻きの中心人物である、某子爵令嬢の父親の元へ、一通の書状が届けられた。差出人は、アイゼンベルク公爵家執事長セバスチャン。
書状には、その子爵家が密かに行っている脱税の詳細な記録と、長年にわたる不正な土地取引の証拠が、淡々とした事実のみで記されていた。そして、文末にはこう締めくくられていた。
『これ以上の調査を望まれぬのであれば、ご令嬢の口は固くお閉ざしになるのが賢明かと存じます。我が主は、大変にお心が広い方ですが、その慈悲にも限度というものがございます故』
書状を読んだ子爵は、顔面蒼白になり、その場に崩れ落ちたという。
またある侯爵家には、アシュレイ本人から、夜会への招待状が届いた。しかし、その招待状の宛名は、侯爵本人ではなく、彼の妻と、その長年の愛人である若き騎士の名前で連名になっていた。
招待状を受け取った侯爵夫人は、悲鳴を上げて卒倒した。
アシュレイのやり方は、決して表沙汰にはならない。だが、確実に、相手の最も痛いところを突いてくる。噂話に興じていた貴族たちは、次々と自分たちの足元に火がついていることに気づき、蜘蛛の子を散らすように沈黙していった。
彼らは恐怖した。アイゼンベルク公爵を敵に回すということが、どれほど恐ろしいことなのかを、骨の髄まで思い知らされたのだ。
あっという間に、リナリアに関する悪意ある噂は、社交界から綺麗さっぱりと消え失せた。
次に、アシュレイは元凶である第二王子エドワードへの牽制を始めた。
彼は、国王陛下との私的な謁見の場で、こう切り出した。
「陛下。近頃、王都では良からぬ噂が流れているようでございますな」
「うむ……。その方の耳にも、入っていたか」
国王は、どこかばつの悪そうな顔で頷いた。
「第二王子殿下が、私の大切な客人であるリナリア嬢を、いたくお気に召さないご様子。彼女に関する根も葉もない噂を広め、私の評判を貶めようとしている、とか」
アシュレイの直接的な物言いに、国王は言葉に詰まった。
アシュレイは、構わずに続ける。
「私は、構いません。私の評判など、地に落ちようとどうということはない。ですが、陛下。エドワード殿下のその行いは、王家そのものの品位を損なうものではないでしょうか」
「……む」
「一人の無力な娘を、権力で以ていたぶる。それは、次代の王たるべき者の振る舞いとして、果たして相応しいものかどうか。民が、諸外国が、それを見てどう思うか。陛下には、ご賢察いただきたい」
その声は静かだったが、鋭い刃のように国王の胸に突き刺さった。アシュレイは、エドワード個人の問題ではなく、王家の威信の問題へと、巧みに話をすり替えたのだ。
「それに、エドワード殿下は、リナリア嬢の力を正しくご理解なさっておられないご様子。聖剣の修復が成った暁には、彼女は我が国の宝となる御方。そのような御方を今のうちから敵に回すのは、あまりにも愚策かと」
その言葉は、もはや牽制というより、脅しに近い響きを持っていた。
国王は、額に汗を浮かべながら、深く頷くしかなかった。
その日のうちに、エドワード王子は国王から厳しい叱責を受け、当分の間の謹慎を言い渡されたという。
そして、最後に残ったのは、全ての元凶であるイザベラ・エルフィールドだった。
アシュレイは、エルフィールド伯爵家へ直接赴いた。
突然の公爵の来訪に、エルフィールド伯爵夫妻は恐縮しきって彼を迎えた。
応接室で、アシュレイはエルフィールド伯爵と向かい合った。イザベラは、父の隣で、緊張と、そして僅かな期待をない交ぜにした表情でアシュレイを見つめている。
(もしかしたら、公爵様はリナリアの嘘に気づいて、私に会いに来てくださったのでは……?)
そんな淡い期待は、アシュレイが放った第一声によって、無残にも打ち砕かれた。
「エルフィールド伯爵。貴殿の娘御の教育は、どうなっているのか」
氷のように冷たい声だった。
「……は?」
伯爵は、間の抜けた声を上げた。
「貴殿の長女、イザベラ嬢が、私の大切な客人であるリナリアの名誉を著しく傷つけているという話だ。聞き捨てならんな」
その言葉に、イザベラの顔からさっと血の気が引いた。
「な、何を仰いますの、公爵様! 私はただ、出来の悪い妹のことを心配して……」
「黙れ」
アシュレイの鋭い一瞥が、イザベラの言葉を遮った。その紫の瞳には、殺気にも似た、絶対零度の光が宿っている。イザベラは、蛇に睨まれた蛙のように、その場に凍りついた。
「次に、リナリアに対して何かを企んでみろ。その時は、エルフィールド家そのものを、この私が潰す」
それは、紛れもない最後通告だった。
「伯爵家のお取り潰しなど、私にとっては造作もないことだ。覚えておくがいい」
彼はそれだけ言うと、用は済んだとばかりに席を立った。
残された伯爵とイザベラは、ただ震えながら、彼の去っていく背中を見送ることしかできなかった。
イザベラの心の中では、恐怖と共に、さらに激しい嫉妬の炎が燃え上がっていた。
(リナリア……! あの女のせいで、私が、こんな目に……!)
その憎悪が、後にさらなる悲劇を呼び起こすことになる。
アシュレイは、全ての牽制を終え、公爵邸へと帰還した。
彼は、これらのことを一切リナリアには話さなかった。彼女が知れば、また心を痛めるだけだと分かっていたからだ。
彼はただ、何も知らないリナリアが、庭で花に微笑みかけている姿を、窓から静かに見つめていた。
「……君のその笑顔は、私が必ず守り抜く」
そう、誰に言うでもなく、静かに呟いた。
愛する者を守るためならば、彼は悪魔にでもなる覚悟があった。
彼の冷徹で迅速な牽制によって、リナリアを巡る状況は、水面下で大きく動いていた。だが、その静けさが、より大きな嵐の前の静けさであることを、まだ誰も知らなかった。
アイゼンベルク公爵家が擁する諜報網は、王国随一と言われている。その気になれば、どの貴族の夫人がどの宝石商と密通しているか、といった下世話な情報まで、彼の耳には筒抜けだった。ましてや、これほど公然と広められている噂の出所など、突き止めるのは赤子の手をひねるより容易いことだった。
報告は、彼の予想通りのものだった。
エルフィールド家のイザベラと、第二王子エドワード。
あの雨の日、リナリアを絶望の淵に突き落とした張本人たちが、再び彼女の心を傷つけようとしている。その事実は、アシュレイの心の奥底にある、冷たい怒りの炎に、静かに油を注いだ。
彼は、リナリアの前では決してその怒りを見せなかった。彼女を不安にさせるようなことは、微塵たりともしたくなかったからだ。彼はただ、彼女には穏やかな笑顔だけを向け、その裏で、迅速かつ冷酷な報復の準備を始めていた。
まず、彼が手を打ったのは、噂を積極的に広めていた貴族たちに対してだった。
ある日、イザベラの取り巻きの中心人物である、某子爵令嬢の父親の元へ、一通の書状が届けられた。差出人は、アイゼンベルク公爵家執事長セバスチャン。
書状には、その子爵家が密かに行っている脱税の詳細な記録と、長年にわたる不正な土地取引の証拠が、淡々とした事実のみで記されていた。そして、文末にはこう締めくくられていた。
『これ以上の調査を望まれぬのであれば、ご令嬢の口は固くお閉ざしになるのが賢明かと存じます。我が主は、大変にお心が広い方ですが、その慈悲にも限度というものがございます故』
書状を読んだ子爵は、顔面蒼白になり、その場に崩れ落ちたという。
またある侯爵家には、アシュレイ本人から、夜会への招待状が届いた。しかし、その招待状の宛名は、侯爵本人ではなく、彼の妻と、その長年の愛人である若き騎士の名前で連名になっていた。
招待状を受け取った侯爵夫人は、悲鳴を上げて卒倒した。
アシュレイのやり方は、決して表沙汰にはならない。だが、確実に、相手の最も痛いところを突いてくる。噂話に興じていた貴族たちは、次々と自分たちの足元に火がついていることに気づき、蜘蛛の子を散らすように沈黙していった。
彼らは恐怖した。アイゼンベルク公爵を敵に回すということが、どれほど恐ろしいことなのかを、骨の髄まで思い知らされたのだ。
あっという間に、リナリアに関する悪意ある噂は、社交界から綺麗さっぱりと消え失せた。
次に、アシュレイは元凶である第二王子エドワードへの牽制を始めた。
彼は、国王陛下との私的な謁見の場で、こう切り出した。
「陛下。近頃、王都では良からぬ噂が流れているようでございますな」
「うむ……。その方の耳にも、入っていたか」
国王は、どこかばつの悪そうな顔で頷いた。
「第二王子殿下が、私の大切な客人であるリナリア嬢を、いたくお気に召さないご様子。彼女に関する根も葉もない噂を広め、私の評判を貶めようとしている、とか」
アシュレイの直接的な物言いに、国王は言葉に詰まった。
アシュレイは、構わずに続ける。
「私は、構いません。私の評判など、地に落ちようとどうということはない。ですが、陛下。エドワード殿下のその行いは、王家そのものの品位を損なうものではないでしょうか」
「……む」
「一人の無力な娘を、権力で以ていたぶる。それは、次代の王たるべき者の振る舞いとして、果たして相応しいものかどうか。民が、諸外国が、それを見てどう思うか。陛下には、ご賢察いただきたい」
その声は静かだったが、鋭い刃のように国王の胸に突き刺さった。アシュレイは、エドワード個人の問題ではなく、王家の威信の問題へと、巧みに話をすり替えたのだ。
「それに、エドワード殿下は、リナリア嬢の力を正しくご理解なさっておられないご様子。聖剣の修復が成った暁には、彼女は我が国の宝となる御方。そのような御方を今のうちから敵に回すのは、あまりにも愚策かと」
その言葉は、もはや牽制というより、脅しに近い響きを持っていた。
国王は、額に汗を浮かべながら、深く頷くしかなかった。
その日のうちに、エドワード王子は国王から厳しい叱責を受け、当分の間の謹慎を言い渡されたという。
そして、最後に残ったのは、全ての元凶であるイザベラ・エルフィールドだった。
アシュレイは、エルフィールド伯爵家へ直接赴いた。
突然の公爵の来訪に、エルフィールド伯爵夫妻は恐縮しきって彼を迎えた。
応接室で、アシュレイはエルフィールド伯爵と向かい合った。イザベラは、父の隣で、緊張と、そして僅かな期待をない交ぜにした表情でアシュレイを見つめている。
(もしかしたら、公爵様はリナリアの嘘に気づいて、私に会いに来てくださったのでは……?)
そんな淡い期待は、アシュレイが放った第一声によって、無残にも打ち砕かれた。
「エルフィールド伯爵。貴殿の娘御の教育は、どうなっているのか」
氷のように冷たい声だった。
「……は?」
伯爵は、間の抜けた声を上げた。
「貴殿の長女、イザベラ嬢が、私の大切な客人であるリナリアの名誉を著しく傷つけているという話だ。聞き捨てならんな」
その言葉に、イザベラの顔からさっと血の気が引いた。
「な、何を仰いますの、公爵様! 私はただ、出来の悪い妹のことを心配して……」
「黙れ」
アシュレイの鋭い一瞥が、イザベラの言葉を遮った。その紫の瞳には、殺気にも似た、絶対零度の光が宿っている。イザベラは、蛇に睨まれた蛙のように、その場に凍りついた。
「次に、リナリアに対して何かを企んでみろ。その時は、エルフィールド家そのものを、この私が潰す」
それは、紛れもない最後通告だった。
「伯爵家のお取り潰しなど、私にとっては造作もないことだ。覚えておくがいい」
彼はそれだけ言うと、用は済んだとばかりに席を立った。
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イザベラの心の中では、恐怖と共に、さらに激しい嫉妬の炎が燃え上がっていた。
(リナリア……! あの女のせいで、私が、こんな目に……!)
その憎悪が、後にさらなる悲劇を呼び起こすことになる。
アシュレイは、全ての牽制を終え、公爵邸へと帰還した。
彼は、これらのことを一切リナリアには話さなかった。彼女が知れば、また心を痛めるだけだと分かっていたからだ。
彼はただ、何も知らないリナリアが、庭で花に微笑みかけている姿を、窓から静かに見つめていた。
「……君のその笑顔は、私が必ず守り抜く」
そう、誰に言うでもなく、静かに呟いた。
愛する者を守るためならば、彼は悪魔にでもなる覚悟があった。
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