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第一話 帝国の毒、ヴァルハイト
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エルドラント帝国の帝都グランフェリア。その壮麗な街並みの一角で、人々は声を潜めてある一家の噂をしていた。
「おい聞いたか。またヴァルハイト公爵家の馬車が平民を轢きかけたそうだ」
「またか。あの家の連中は血の色が違うのさ。我々と同じ赤い血が流れているとは思えん」
「帝国の毒め。いつか天罰が下るだろう」
ヴァルハイト公爵家。帝国建国以来の歴史を持つ武門の名家。代々、帝国の盾として数々の武功を上げてきた誉れ高き家門。だがそれは、遠い昔の話だ。
今のヴァルハイト家を指す言葉は、武門でも名家でもない。ただ一つ「帝国の毒」。権力を笠に着て横暴の限りを尽くし、私腹を肥やすことにしか興味がない悪徳貴族。それが帝国における彼らの評価だった。
その悪名高き公爵家の広大な屋敷。磨き上げられた大理石の床は人の姿を映し、壁には歴代当主の威圧的な肖像画が並んでいる。しかし、その豪奢さとは裏腹に、屋敷に満ちているのは暖かさではなく、氷のような冷気と緊張感だった。
俺、アレン・フォン・ヴァルハイトは、その屋敷の長い廊下を息を殺して歩いていた。悪名高いヴァルハイト公爵家の三男。それが、九歳になる俺の今の全てだ。
もうすぐ十歳になる。この国では、十歳は一つの節目だ。貴族であれば、魔法の適性が本格的に発現し、将来の道筋がある程度定まる年頃。だが俺にとって、それはただの憂鬱の種でしかなかった。
「アレンか。どこへ行く」
背後からかけられた声に、俺の肩がびくりと跳ねる。冷たく、それでいてどこか粘つくような声。振り返るまでもない。
「……ベルトルト兄上」
そこに立っていたのは、次兄のベルトルト・フォン・ヴァルハイト。艶やかな銀髪を後ろに流し、切れ長の紫の瞳で俺を見下している。ヴァルハイト家の特徴を色濃く受け継いだ美しい顔立ちだが、その表情には常に他人を値踏みするような色が浮かんでいた。
「父上がお呼びだ。書斎で待っておられる」
「父上が……?」
俺の心臓がどくんと大きく鳴った。父、ジークフリート・フォン・ヴァルハイト。この家の絶対的な支配者であり、俺が最も恐れる存在だ。
ベルトルトは俺の怯えを見透かしたように、唇の端を歪めて笑う。
「また何か粗相をしたのではないか? 剣の稽古か、それとも魔法の基礎訓練か。お前は一体何をやらせれば、まともにこなせるようになるんだ?」
兄の言葉は、鋭い刃物となって俺の胸に突き刺さる。言い返せる言葉など、俺は持っていなかった。
剣も魔法も、平凡。貴族として必須の教養も、兄たちに比べれば見劣りする。それがヴァルハイト家の三男、アレンだった。
俺が無言で俯くと、ベルトルトはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「まあいい。さっさと行け。父上を待たせるなよ、出来損ない」
吐き捨てるようにそう言うと、ベルトルトは俺の横を通り過ぎていった。すれ違いざまに投げかけられた侮蔑の視線が、肌を焼くように痛い。
重い足取りで父の書斎へ向かう。途中で、中庭から剣戟の音が聞こえてきた。視線を向けると、屈強な騎士団長を相手に、長兄のゲオルグが木剣を振るっているのが見えた。
ゲオルグ・フォン・ヴァルハイト。ヴァルハイト家の長男にして、次期当主。十代半ばにして近衛騎士団に匹敵すると噂される剣の天才。その剣筋は荒々しくも力強く、騎士団長の木剣を弾き飛ばすたびに、周囲の騎士たちから感嘆の声が上がる。
ゲオルグは俺の視線に気づくと、一瞬だけ動きを止めた。そして、まるで道端の石でも見るかのように俺を一瞥し、すぐに興味を失って稽古に戻ってしまった。
あれがヴァルハイト家の跡継ぎ。そして俺は、出来損ないの三男。天と地ほどの差があった。
書斎の重厚な扉を前に、俺は何度か深呼吸を繰り返す。恐怖で震える手を叱咤し、扉を三度ノックした。
「入れ」
中から響いたのは、低く、威厳に満ちた声だった。俺はその声だけで、全身が凍りつくのを感じた。
扉を開けて中へ入る。そこは、壁一面が本棚で埋め尽くされた広大な空間だった。部屋の中央には黒檀の巨大な執務机があり、その向こうに父ジークフリートが座っていた。
鷲のような鋭い眼光。厳しく引き結ばれた口元。歴戦の武人であることを示すように、その顔には幾つかの古い傷跡が刻まれている。父は書類から顔を上げることなく、俺の存在を認めていた。
「アレンか。そこに立て」
命令に従い、机の前で直立不動の姿勢をとる。父の視線が書類の上を滑る音だけが、静寂な部屋に響いていた。どれくらいの時間が経っただろうか。永遠にも感じられる沈黙の後、父はついに顔を上げた。
その紫の瞳が、俺を射抜く。それは、慈愛など微塵も感じさせない、ただ獲物を査定するような冷たい光を宿していた。
「先日行われた魔法の模擬測定。結果の報告書を読んだ」
父の言葉に、俺は息を呑んだ。それは貴族の子弟が定期的に受けるもので、俺の結果はいつも通り、芳しくないものだった。
「魔力量は平均以下。属性の親和性も不明瞭。およそヴァルハイトの血を引く者とは思えんな」
淡々とした口調。だが、その一言一句が俺の存在価値を否定していく。
「剣の腕もそうだ。ゲオルグの足元にも及ばない。ベルトルトのような知略もない。一体、お前のどこにヴァルハイトの血が流れているというのだ」
「……申し訳、ありません」
絞り出した声は、自分でも情けないほどにか細く、震えていた。
父はそんな俺の姿を見て、深く、失望のため息をついた。そのため息が、どんな罵声よりも俺の心を抉った。
「お前ももうすぐ十歳になる。正式な魔法適性の儀を控え、これ以上我が家の恥を晒すような真似は許さんぞ」
「はい……」
「もし次の測定でも見るべきところがなければ……」
父はそこで言葉を切った。だが、その先は言われなくても分かった。もし次も駄目なら、お前に価値はない。そう言っているのだ。
「下がれ。顔も見たくない」
その言葉が、俺への謁見の終わりを告げた。俺は深々と頭を下げ、震える足で部屋を退出した。扉が閉まる最後の瞬間まで、父が俺に再び視線を向けることはなかった。
自室に戻った俺は、扉に背を預けてずるずるとその場に座り込んだ。豪華な調度品で飾られた広い部屋。だが、そこに俺の居場所はなかった。この屋敷のどこにも、俺が心から安らげる場所など存在しない。
立ち上がり、姿見の前に立つ。鏡に映っていたのは、線の細い、覇気のない少年だった。ヴァルハイトの証である銀髪と紫の瞳。だが、その瞳には兄たちのような力強い光はなく、怯えと諦めが淀んでいるだけだった。
「どうして……」
どうして俺は、こんなにも無力なのだろうか。
努力をしなかったわけではない。兄たちに追いつきたくて、夜中に隠れて剣を振ったこともある。誰もいない書庫で、魔法理論の書物を読み漁ったこともある。
だが、結果はいつも同じだった。才能という巨大な壁が、俺の前に立ちはだかる。ゲオルグが一日で覚える剣技に、俺は一月かけても習得できない。ベルトルトが一度読んで理解する古文書を、俺は何度読んでも意味を掴めない。
やがて、努力すること自体が虚しくなった。どうせ無駄だ。俺は、兄たちとは違う。俺は、出来損ないなのだから。
使用人たちの態度も、それを物語っていた。彼らは俺の前では恭しく頭を下げるが、その目に敬意の色はない。憐れみか、あるいは無関心。誰も、ヴァルハイト家の三男に期待などしていなかった。
夜になり、ベッドに横たわる。窓の外には、冷たい光を放つ月が浮かんでいた。
あと数日で、十歳の誕生日が来る。その日、俺の無能は帝国中の貴族たちの前で、改めて証明されることになるだろう。父の失望した顔、兄たちの嘲笑、周囲の憐れみの視線。それを想像するだけで、胃が締め付けられるように痛んだ。
この息苦しい毎日が、これからもずっと続くのだろうか。
出来損ないとして蔑まれ、誰からも期待されず、ただ息を潜めて生きていく。そんな未来しか、俺には見えなかった。
もし、何か一つでも変えられるとしたら。
もし、俺にも何か特別な力が与えられるとしたら。
そんなありもしない夢想をしながら、俺はゆっくりと目を閉じた。意識が闇に沈んでいく。
この時、俺はまだ知らなかった。この夜に見る悪夢が、俺の運命を根底から覆すことになるということを。そして、その悪夢こそが、絶望に満ちた俺の人生における、唯一の希望の始まりになるということも。
ただ、今は深い眠りの中で、つかの間の安らぎを求めるだけだった。
「おい聞いたか。またヴァルハイト公爵家の馬車が平民を轢きかけたそうだ」
「またか。あの家の連中は血の色が違うのさ。我々と同じ赤い血が流れているとは思えん」
「帝国の毒め。いつか天罰が下るだろう」
ヴァルハイト公爵家。帝国建国以来の歴史を持つ武門の名家。代々、帝国の盾として数々の武功を上げてきた誉れ高き家門。だがそれは、遠い昔の話だ。
今のヴァルハイト家を指す言葉は、武門でも名家でもない。ただ一つ「帝国の毒」。権力を笠に着て横暴の限りを尽くし、私腹を肥やすことにしか興味がない悪徳貴族。それが帝国における彼らの評価だった。
その悪名高き公爵家の広大な屋敷。磨き上げられた大理石の床は人の姿を映し、壁には歴代当主の威圧的な肖像画が並んでいる。しかし、その豪奢さとは裏腹に、屋敷に満ちているのは暖かさではなく、氷のような冷気と緊張感だった。
俺、アレン・フォン・ヴァルハイトは、その屋敷の長い廊下を息を殺して歩いていた。悪名高いヴァルハイト公爵家の三男。それが、九歳になる俺の今の全てだ。
もうすぐ十歳になる。この国では、十歳は一つの節目だ。貴族であれば、魔法の適性が本格的に発現し、将来の道筋がある程度定まる年頃。だが俺にとって、それはただの憂鬱の種でしかなかった。
「アレンか。どこへ行く」
背後からかけられた声に、俺の肩がびくりと跳ねる。冷たく、それでいてどこか粘つくような声。振り返るまでもない。
「……ベルトルト兄上」
そこに立っていたのは、次兄のベルトルト・フォン・ヴァルハイト。艶やかな銀髪を後ろに流し、切れ長の紫の瞳で俺を見下している。ヴァルハイト家の特徴を色濃く受け継いだ美しい顔立ちだが、その表情には常に他人を値踏みするような色が浮かんでいた。
「父上がお呼びだ。書斎で待っておられる」
「父上が……?」
俺の心臓がどくんと大きく鳴った。父、ジークフリート・フォン・ヴァルハイト。この家の絶対的な支配者であり、俺が最も恐れる存在だ。
ベルトルトは俺の怯えを見透かしたように、唇の端を歪めて笑う。
「また何か粗相をしたのではないか? 剣の稽古か、それとも魔法の基礎訓練か。お前は一体何をやらせれば、まともにこなせるようになるんだ?」
兄の言葉は、鋭い刃物となって俺の胸に突き刺さる。言い返せる言葉など、俺は持っていなかった。
剣も魔法も、平凡。貴族として必須の教養も、兄たちに比べれば見劣りする。それがヴァルハイト家の三男、アレンだった。
俺が無言で俯くと、ベルトルトはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「まあいい。さっさと行け。父上を待たせるなよ、出来損ない」
吐き捨てるようにそう言うと、ベルトルトは俺の横を通り過ぎていった。すれ違いざまに投げかけられた侮蔑の視線が、肌を焼くように痛い。
重い足取りで父の書斎へ向かう。途中で、中庭から剣戟の音が聞こえてきた。視線を向けると、屈強な騎士団長を相手に、長兄のゲオルグが木剣を振るっているのが見えた。
ゲオルグ・フォン・ヴァルハイト。ヴァルハイト家の長男にして、次期当主。十代半ばにして近衛騎士団に匹敵すると噂される剣の天才。その剣筋は荒々しくも力強く、騎士団長の木剣を弾き飛ばすたびに、周囲の騎士たちから感嘆の声が上がる。
ゲオルグは俺の視線に気づくと、一瞬だけ動きを止めた。そして、まるで道端の石でも見るかのように俺を一瞥し、すぐに興味を失って稽古に戻ってしまった。
あれがヴァルハイト家の跡継ぎ。そして俺は、出来損ないの三男。天と地ほどの差があった。
書斎の重厚な扉を前に、俺は何度か深呼吸を繰り返す。恐怖で震える手を叱咤し、扉を三度ノックした。
「入れ」
中から響いたのは、低く、威厳に満ちた声だった。俺はその声だけで、全身が凍りつくのを感じた。
扉を開けて中へ入る。そこは、壁一面が本棚で埋め尽くされた広大な空間だった。部屋の中央には黒檀の巨大な執務机があり、その向こうに父ジークフリートが座っていた。
鷲のような鋭い眼光。厳しく引き結ばれた口元。歴戦の武人であることを示すように、その顔には幾つかの古い傷跡が刻まれている。父は書類から顔を上げることなく、俺の存在を認めていた。
「アレンか。そこに立て」
命令に従い、机の前で直立不動の姿勢をとる。父の視線が書類の上を滑る音だけが、静寂な部屋に響いていた。どれくらいの時間が経っただろうか。永遠にも感じられる沈黙の後、父はついに顔を上げた。
その紫の瞳が、俺を射抜く。それは、慈愛など微塵も感じさせない、ただ獲物を査定するような冷たい光を宿していた。
「先日行われた魔法の模擬測定。結果の報告書を読んだ」
父の言葉に、俺は息を呑んだ。それは貴族の子弟が定期的に受けるもので、俺の結果はいつも通り、芳しくないものだった。
「魔力量は平均以下。属性の親和性も不明瞭。およそヴァルハイトの血を引く者とは思えんな」
淡々とした口調。だが、その一言一句が俺の存在価値を否定していく。
「剣の腕もそうだ。ゲオルグの足元にも及ばない。ベルトルトのような知略もない。一体、お前のどこにヴァルハイトの血が流れているというのだ」
「……申し訳、ありません」
絞り出した声は、自分でも情けないほどにか細く、震えていた。
父はそんな俺の姿を見て、深く、失望のため息をついた。そのため息が、どんな罵声よりも俺の心を抉った。
「お前ももうすぐ十歳になる。正式な魔法適性の儀を控え、これ以上我が家の恥を晒すような真似は許さんぞ」
「はい……」
「もし次の測定でも見るべきところがなければ……」
父はそこで言葉を切った。だが、その先は言われなくても分かった。もし次も駄目なら、お前に価値はない。そう言っているのだ。
「下がれ。顔も見たくない」
その言葉が、俺への謁見の終わりを告げた。俺は深々と頭を下げ、震える足で部屋を退出した。扉が閉まる最後の瞬間まで、父が俺に再び視線を向けることはなかった。
自室に戻った俺は、扉に背を預けてずるずるとその場に座り込んだ。豪華な調度品で飾られた広い部屋。だが、そこに俺の居場所はなかった。この屋敷のどこにも、俺が心から安らげる場所など存在しない。
立ち上がり、姿見の前に立つ。鏡に映っていたのは、線の細い、覇気のない少年だった。ヴァルハイトの証である銀髪と紫の瞳。だが、その瞳には兄たちのような力強い光はなく、怯えと諦めが淀んでいるだけだった。
「どうして……」
どうして俺は、こんなにも無力なのだろうか。
努力をしなかったわけではない。兄たちに追いつきたくて、夜中に隠れて剣を振ったこともある。誰もいない書庫で、魔法理論の書物を読み漁ったこともある。
だが、結果はいつも同じだった。才能という巨大な壁が、俺の前に立ちはだかる。ゲオルグが一日で覚える剣技に、俺は一月かけても習得できない。ベルトルトが一度読んで理解する古文書を、俺は何度読んでも意味を掴めない。
やがて、努力すること自体が虚しくなった。どうせ無駄だ。俺は、兄たちとは違う。俺は、出来損ないなのだから。
使用人たちの態度も、それを物語っていた。彼らは俺の前では恭しく頭を下げるが、その目に敬意の色はない。憐れみか、あるいは無関心。誰も、ヴァルハイト家の三男に期待などしていなかった。
夜になり、ベッドに横たわる。窓の外には、冷たい光を放つ月が浮かんでいた。
あと数日で、十歳の誕生日が来る。その日、俺の無能は帝国中の貴族たちの前で、改めて証明されることになるだろう。父の失望した顔、兄たちの嘲笑、周囲の憐れみの視線。それを想像するだけで、胃が締め付けられるように痛んだ。
この息苦しい毎日が、これからもずっと続くのだろうか。
出来損ないとして蔑まれ、誰からも期待されず、ただ息を潜めて生きていく。そんな未来しか、俺には見えなかった。
もし、何か一つでも変えられるとしたら。
もし、俺にも何か特別な力が与えられるとしたら。
そんなありもしない夢想をしながら、俺はゆっくりと目を閉じた。意識が闇に沈んでいく。
この時、俺はまだ知らなかった。この夜に見る悪夢が、俺の運命を根底から覆すことになるということを。そして、その悪夢こそが、絶望に満ちた俺の人生における、唯一の希望の始まりになるということも。
ただ、今は深い眠りの中で、つかの間の安らぎを求めるだけだった。
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