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第85話:戦場へ
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砦の内部は、まるで巨大な蟻の巣のように、複雑に入り組んでいた。
古代文明が作り出した通路は、湿った空気が淀み、壁からは絶えず水滴が滴り落ちている。時折、遠くで響く外の戦闘の喧騒が、この不気味な静寂をさらに際立たせていた。
俺とセレスティアは、息を殺し、闇の中を進んでいた。
俺が前衛を務め、五感で前方の気配を探る。セレスティアは、俺の数歩後ろを、俺の影を踏むかのように正確に追従し、後方と側面の警戒を担当していた。俺たちの間には、言葉は必要なかった。長年の経験と、互いの能力への絶対的な信頼が、完璧な無言の連携を生み出していた。
(…近い)
俺は、角を曲がった先にある、二つの気配を察知し、壁に張り付いて動きを止めた。
セレスティアも、同時に動きを止める。
角の向こうからは、二人の兵士の、ひそひそとした話し声が聞こえてきた。
「おい、外はずいぶん騒がしいじゃねえか。本当に、大丈夫なのか?」
「問題ねえよ。サイラス様が言ってたろ。侵入者は、せいぜい数十人程度の、ただの田舎者の集まりだってな。ボルガ様の部隊が、今頃は蹂躙しているさ」
「だといいが…。なんだか、胸騒ぎがするんだよ」
油断。
そして、不安。
その二つの感情が、彼らの警戒心を鈍らせていた。
俺は、セレスティアに、目線だけで合図を送った。
『二手に分かれる。右はお前、左は俺だ』
セレスティアは、無言で頷き返した。
俺たちは、同時に、壁の両側から飛び出した。
それは、まるで鏡写しのように、完璧にシンクロした動きだった。
兵士たちは、突然、左右の闇から現れた二つの影に、反応することさえできなかった。
俺のナイフの柄が、左の兵士の鳩尾を正確に打ち据え、声もなく意識を奪う。
セレスティアの長剣の鞘が、右の兵士の首筋を打ち、静かにその体を床に崩れ落とさせた。
全ては、一瞬の出来事だった。
物音一つ、立てていない。
俺たちは、気絶した兵士たちを、近くの物陰へと引きずり込んだ。
そして、再び、闇の中へと溶け込んでいく。
これは、戦いではない。
ただの、障害物除去だ。
俺たちの進路上に現れる、巡回の兵士や、見張り。
その全てを、俺たちは、音もなく、血を流すことなく、無力化していった。
俺の、効率性を突き詰めた体術と、セレスティアの、洗練された剣技。
二つの異なる暗殺術が、この砦の内部で、完璧なハーモニーを奏でていた。
一方、その頃。
砦の外では、陽動部隊の戦いが、激しさを増していた。
リリアの攪乱と、ガレスの奇襲によって、黄昏の蛇の警戒網は、完全に崩壊していた。
だが、敵もさるもの。
砦の内部から、次々と増援部隊が現れ、数の上で、再び陽動部隊を圧倒し始めていた。
「くそっ! キリがねえ!」
ガレスが、敵兵の剣を弾きながら、悪態をつく。
彼の周りでは、数人の村人が傷つき、後退を余儀なくされていた。
「ガレスさん! ここは私が!」
リリアが、獅子奮迅の働きで、敵の攻撃を一手に引き受ける。
だが、彼女の体力も、無限ではなかった。その動きに、徐々に疲労の色が見え始めていた。
(…まずい。このままでは、陽動部隊が、先に壊滅する)
丘の上の天幕で、戦況を見守っていたエリアーナの顔に、焦りの色が浮かんだ。
彼女は、水晶玉に映し出される、砦内部の俺たちの視界と、外の陽動部隊の苦戦を、同時に見比べていた。
俺たちが、中央塔にたどり着くまで、あと少し。
だが、陽動部隊が、それまで持ちこたえられるかどうか。
(…わたくしに、何かできることは…)
エリアーナは、必死に思考を巡らせた。
彼女に、直接的な戦闘能力はない。
だが、彼女には、王族として叩き込まれた、膨大な知識と、戦況を大局的に見る、優れた戦術眼があった。
彼女は、水晶玉に映る、俺の視界…砦内部の地形と、ガレスたちの視界…砦外部の地形を、脳内で重ね合わせた。
そして、彼女は、一つの「可能性」に気づいた。
「…リナ!」
エリアーナは、侍女を呼ぶと、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「魔術通信機を、ガレス殿に繋いで! 今すぐに!」
森の中で、苦戦を強いられていたガレスの耳に、エリアーナの、凛とした声が響いた。
『ガレス殿! 聞こえますか!』
「王女殿下!? これは…!」
『説明は後です! 今すぐ、部隊を後退させ、北西の岩場へと移動してください! そこにある、古い見張り台の跡地へ!』
それは、一見すると、不可解な指示だった。
なぜ、今、後退するのか。
だが、ガレスは、迷わなかった。
「…御意!」
彼は、即座に、部下たちに後退を命じた。
「退け! 退くんだ! 北西の岩場へ!」
突然の後退命令に、敵兵たちは、勝利を確信して追撃してくる。
ガレスたちは、必死に逃げながら、エリアーナが指示した、古い見張り台の跡地へとたどり着いた。
そこは、岩に囲まれた、小さな窪地になっていた。
防御には適しているが、同時に、逃げ場のない、袋小路でもあった。
『ガレス殿! その見張り台の、床下を見てください! そこに、何かありませんか!』
ガレスが、腐りかけた床板を剥がすと、その下から、古びた、しかし巨大な鉄製のレバーが現れた。
「こ、これは…!?」
『それは、この砦がまだ現役だった頃に使われていた、非常用の落石トラップの起動装置です! アラン殿の視界から、その存在を確認しました!』
エリアーナは、俺が潜入中に、何気なく視界に入れた、古代の遺跡の残骸から、その真の役割を、瞬時に見抜いていたのだ。
『敵が、窪地に完全に入り込んだ瞬間を狙って、そのレバーを!』
ガレスは、はっと顔を上げた。
窪地には、何も知らずに、黄昏の蛇の兵士たちが、次々となだれ込んできていた。
彼らは、獲物を追い詰めたと、信じて疑っていない。
ガレスは、ニヤリと、獰猛な笑みを浮かべた。
そして、全ての敵兵が、射程範囲内に入ったのを確認すると、渾身の力で、その錆びついたレバーを、引き倒した。
ゴゴゴゴゴゴ…
地響き。
窪地の真上、崖の中腹から、轟音と共に、無数の巨大な岩石が、降り注いだ。
それは、まさに、死の豪雨だった。
「な、なんだぁぁぁ!?」
「うわああああああ!」
黄昏の蛇の追撃部隊は、悲鳴を上げる間もなく、その岩石の奔流に、飲み込まれていった。
エリアーナの、鮮やかすぎる、一計。
それは、陽動部隊を壊滅の危機から救い、そして、敵の増援部隊を、一瞬にして、無力化したのだ。
砦の内部を進んでいた俺は、遠くで響いたその轟音に、僅かに足を止めた。
(…今の音。落石か)
そして、俺の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
(…なるほどな。あの王女様も、ただのお飾りじゃない、ということか)
俺たちのチームは、もはや、俺一人で引っ張っているのではない。
それぞれの場所で、それぞれの仲間が、自分の頭で考え、戦っている。
その事実が、俺の心を、さらに軽くした。
俺は、セレスティアと顔を見合わせ、頷いた。
目の前には、中央塔へと続く、最後の通路が見えている。
戦場は、ここからだ。
俺は、ナイフを握る手に、力を込めた。
仲間たちが作ってくれた、この好機。
無駄には、しない。
古代文明が作り出した通路は、湿った空気が淀み、壁からは絶えず水滴が滴り落ちている。時折、遠くで響く外の戦闘の喧騒が、この不気味な静寂をさらに際立たせていた。
俺とセレスティアは、息を殺し、闇の中を進んでいた。
俺が前衛を務め、五感で前方の気配を探る。セレスティアは、俺の数歩後ろを、俺の影を踏むかのように正確に追従し、後方と側面の警戒を担当していた。俺たちの間には、言葉は必要なかった。長年の経験と、互いの能力への絶対的な信頼が、完璧な無言の連携を生み出していた。
(…近い)
俺は、角を曲がった先にある、二つの気配を察知し、壁に張り付いて動きを止めた。
セレスティアも、同時に動きを止める。
角の向こうからは、二人の兵士の、ひそひそとした話し声が聞こえてきた。
「おい、外はずいぶん騒がしいじゃねえか。本当に、大丈夫なのか?」
「問題ねえよ。サイラス様が言ってたろ。侵入者は、せいぜい数十人程度の、ただの田舎者の集まりだってな。ボルガ様の部隊が、今頃は蹂躙しているさ」
「だといいが…。なんだか、胸騒ぎがするんだよ」
油断。
そして、不安。
その二つの感情が、彼らの警戒心を鈍らせていた。
俺は、セレスティアに、目線だけで合図を送った。
『二手に分かれる。右はお前、左は俺だ』
セレスティアは、無言で頷き返した。
俺たちは、同時に、壁の両側から飛び出した。
それは、まるで鏡写しのように、完璧にシンクロした動きだった。
兵士たちは、突然、左右の闇から現れた二つの影に、反応することさえできなかった。
俺のナイフの柄が、左の兵士の鳩尾を正確に打ち据え、声もなく意識を奪う。
セレスティアの長剣の鞘が、右の兵士の首筋を打ち、静かにその体を床に崩れ落とさせた。
全ては、一瞬の出来事だった。
物音一つ、立てていない。
俺たちは、気絶した兵士たちを、近くの物陰へと引きずり込んだ。
そして、再び、闇の中へと溶け込んでいく。
これは、戦いではない。
ただの、障害物除去だ。
俺たちの進路上に現れる、巡回の兵士や、見張り。
その全てを、俺たちは、音もなく、血を流すことなく、無力化していった。
俺の、効率性を突き詰めた体術と、セレスティアの、洗練された剣技。
二つの異なる暗殺術が、この砦の内部で、完璧なハーモニーを奏でていた。
一方、その頃。
砦の外では、陽動部隊の戦いが、激しさを増していた。
リリアの攪乱と、ガレスの奇襲によって、黄昏の蛇の警戒網は、完全に崩壊していた。
だが、敵もさるもの。
砦の内部から、次々と増援部隊が現れ、数の上で、再び陽動部隊を圧倒し始めていた。
「くそっ! キリがねえ!」
ガレスが、敵兵の剣を弾きながら、悪態をつく。
彼の周りでは、数人の村人が傷つき、後退を余儀なくされていた。
「ガレスさん! ここは私が!」
リリアが、獅子奮迅の働きで、敵の攻撃を一手に引き受ける。
だが、彼女の体力も、無限ではなかった。その動きに、徐々に疲労の色が見え始めていた。
(…まずい。このままでは、陽動部隊が、先に壊滅する)
丘の上の天幕で、戦況を見守っていたエリアーナの顔に、焦りの色が浮かんだ。
彼女は、水晶玉に映し出される、砦内部の俺たちの視界と、外の陽動部隊の苦戦を、同時に見比べていた。
俺たちが、中央塔にたどり着くまで、あと少し。
だが、陽動部隊が、それまで持ちこたえられるかどうか。
(…わたくしに、何かできることは…)
エリアーナは、必死に思考を巡らせた。
彼女に、直接的な戦闘能力はない。
だが、彼女には、王族として叩き込まれた、膨大な知識と、戦況を大局的に見る、優れた戦術眼があった。
彼女は、水晶玉に映る、俺の視界…砦内部の地形と、ガレスたちの視界…砦外部の地形を、脳内で重ね合わせた。
そして、彼女は、一つの「可能性」に気づいた。
「…リナ!」
エリアーナは、侍女を呼ぶと、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「魔術通信機を、ガレス殿に繋いで! 今すぐに!」
森の中で、苦戦を強いられていたガレスの耳に、エリアーナの、凛とした声が響いた。
『ガレス殿! 聞こえますか!』
「王女殿下!? これは…!」
『説明は後です! 今すぐ、部隊を後退させ、北西の岩場へと移動してください! そこにある、古い見張り台の跡地へ!』
それは、一見すると、不可解な指示だった。
なぜ、今、後退するのか。
だが、ガレスは、迷わなかった。
「…御意!」
彼は、即座に、部下たちに後退を命じた。
「退け! 退くんだ! 北西の岩場へ!」
突然の後退命令に、敵兵たちは、勝利を確信して追撃してくる。
ガレスたちは、必死に逃げながら、エリアーナが指示した、古い見張り台の跡地へとたどり着いた。
そこは、岩に囲まれた、小さな窪地になっていた。
防御には適しているが、同時に、逃げ場のない、袋小路でもあった。
『ガレス殿! その見張り台の、床下を見てください! そこに、何かありませんか!』
ガレスが、腐りかけた床板を剥がすと、その下から、古びた、しかし巨大な鉄製のレバーが現れた。
「こ、これは…!?」
『それは、この砦がまだ現役だった頃に使われていた、非常用の落石トラップの起動装置です! アラン殿の視界から、その存在を確認しました!』
エリアーナは、俺が潜入中に、何気なく視界に入れた、古代の遺跡の残骸から、その真の役割を、瞬時に見抜いていたのだ。
『敵が、窪地に完全に入り込んだ瞬間を狙って、そのレバーを!』
ガレスは、はっと顔を上げた。
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彼らは、獲物を追い詰めたと、信じて疑っていない。
ガレスは、ニヤリと、獰猛な笑みを浮かべた。
そして、全ての敵兵が、射程範囲内に入ったのを確認すると、渾身の力で、その錆びついたレバーを、引き倒した。
ゴゴゴゴゴゴ…
地響き。
窪地の真上、崖の中腹から、轟音と共に、無数の巨大な岩石が、降り注いだ。
それは、まさに、死の豪雨だった。
「な、なんだぁぁぁ!?」
「うわああああああ!」
黄昏の蛇の追撃部隊は、悲鳴を上げる間もなく、その岩石の奔流に、飲み込まれていった。
エリアーナの、鮮やかすぎる、一計。
それは、陽動部隊を壊滅の危機から救い、そして、敵の増援部隊を、一瞬にして、無力化したのだ。
砦の内部を進んでいた俺は、遠くで響いたその轟音に、僅かに足を止めた。
(…今の音。落石か)
そして、俺の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
(…なるほどな。あの王女様も、ただのお飾りじゃない、ということか)
俺たちのチームは、もはや、俺一人で引っ張っているのではない。
それぞれの場所で、それぞれの仲間が、自分の頭で考え、戦っている。
その事実が、俺の心を、さらに軽くした。
俺は、セレスティアと顔を見合わせ、頷いた。
目の前には、中央塔へと続く、最後の通路が見えている。
戦場は、ここからだ。
俺は、ナイフを握る手に、力を込めた。
仲間たちが作ってくれた、この好機。
無駄には、しない。
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