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エピソード1:名無しのエラー
「はぁ……」
蛍光灯が白々しく照らすオフィス。ディスプレイの明かりだけが煌々と光る深夜。神代 零(かみしろ れい)は、自席で本日何度目か分からないため息をついた。キーボードを叩く指はとっくに限界を迎えているはずなのに、惰性だけで動き続けている。画面には、明日朝イチの会議で使うという体裁だけ整えたような資料が映し出されていた。中身は無い。いつものことだ。
『変化のない毎日』。大人になって、それがどれほど退屈で、心をすり減らすものか、零は身をもって知っていた。学生の頃は無限に続くかのように思えた未来も、社会の歯車になってしまえば、見えるのはレールの終点まで同じ景色が続く線路だけ。そんな灰色の日々に、一筋の光が差し込んだのは、半年ほど前のことだった。
『Eternal Frontier Online』――通称、EFO。
最新のフルダイブ技術を用いたVRMMO。剣と魔法、広大な未知の世界、自由度の高いゲームシステム。ありきたりと言えばありきたりな宣伝文句だったが、公開された映像のクオリティは既存のVRゲームとは一線を画していた。五感を完全に再現し、現実と見紛うほどの没入感を謳うそれは、零のような『何か』を求める人間にとって、まさに渇望していた非日常そのものだった。
発売日、今日。この日のために、零は有給を申請し、積み重なった仕事を無理やり片付け、なんなら一部は同僚に押し付け、万全の態勢を整えていた。深夜販売の行列に並び、限定版パッケージを手に入れた時の高揚感は、ここ数年で感じたことのない種類のものだった。
「……よし、終わり!」
ようやく忌々しい資料作成から解放され、零は大きく伸びをした。バキバキと音が鳴る体は、疲労よりも期待で満ちている。急いで退勤のタイムカードを切り、小走りで会社を出た。もう午前2時を回っている。普通の感覚なら一刻も早く家に帰って寝たい時間だろうが、零の足取りは軽い。
自宅マンションに駆け込み、リビングのソファに倒れ込むのももどかしく、買ってきたEFOのパッケージを開封する。最新型のVRヘッドセット『ニューロ・ダイバー』とゲームソフト。説明書もそこそこに、慣れた手つきでセッティングを進めていく。ケーブルを接続し、認証を済ませ、ヘッドセットを装着する。
視界が暗転し、やがて柔らかな光が満ちる。
【Eternal Frontier Onlineへようこそ】
凛とした女性の声のアナウンスと共に、目の前に美しいファンタジー世界の風景がパノラマで広がった。聳え立つ巨大な城、緑豊かな森、空を舞うワイバーンのような影。圧倒的な映像美。これだ、これを待っていたんだ。
高鳴る鼓動を感じながら、零はキャラメイク画面へと進むことを期待した。屈強な戦士か、俊敏な盗賊か、あるいは魔法を操る賢者か。どんなキャラクターでこの世界を冒険しようか。事前に考えていたいくつかのプランを反芻する。
だが。
次の瞬間、零の視界は真っ白な光に包まれた。
「……は?」
オープニングムービーが終わり、通常ならキャラクタークリエーション画面に移行するはずだ。しかし、目の前に広がるのは、ただただ無限に続くかのような純白の空間。上下左右の感覚すら曖昧になるような、奇妙な浮遊感。
【@#$!%%&……system error……$%@】
目の前に表示されたウィンドウには、意味不明な文字列と、かろうじて読み取れる『system error』の文字。なんだこれは。バグか? 初日とはいえ、大型タイトルでこんな致命的なエラーは珍しい。
『おいおい、マジかよ……一番楽しみにしてた瞬間だってのに』
舌打ちしたい気分を抑え、零は強制ログアウトや再起動を試みようとした。だが、メニュー画面を開くためのコマンドが反応しない。それどころか、思考すらどこか鈍くなっているような、奇妙な感覚に襲われる。
【Scanning……Identification……Failed】
【Emergency Protocol Activated】
【Assigning Temporary ID……『名無し(No Name)』】
【Forced Transfer……Initiating】
再び文字化け混じりのメッセージが流れる。IDの割り当てに失敗? 緊急プロトコル? 強制転移? 一体何がどうなっているんだ。ユーザーに何の選択肢も与えず、勝手に話が進んでいく。不安と苛立ちが募る。
『ふざけんな! こっちは金払ってんだぞ!』
心の内で叫んでも、状況は変わらない。白い光が急速に収縮し、次の瞬間、零の意識は暗闇へと突き落とされた。
「――っ!」
どれくらいの時間が経ったのか。意識が覚醒すると同時に、零は不快な感覚に襲われた。全身が濡れているような、粘つくような感触。鼻をつくのは、黴と湿った土が混じったような淀んだ臭い。そして、視界はほとんど効かないほどの暗闇。
『どこだ……ここ?』
状況を把握しようと体を動かそうとするが、思うようにいかない。手足がない。いや、それどころか、明確な体の輪郭すら感じられない。まるで、自分が不定形のゼリーかスライムにでもなったような、頼りない感覚。
まさか。
嫌な予感が頭をよぎる。例のエラーメッセージ。『名無し(No Name)』という仮のID。強制転移。それらが意味するものは?
零は必死に意識を集中させ、このゲームの基本的な操作である『ステータス確認』を試みた。通常なら、目の前にウィンドウが表示されるはずだ。
【■■■■■ ■■■■■】
【種族: ■■■■■■■■】(名無し)
【■■: ■■■】
【■■: ■■■■】
【■■■】
■■: 2
■■■■: 2
■■■■■: 0
■■■■■: 1
■■■■■: 0
■■■■■: 1
■■: 2
【■■■】
・■■■■ Lv.1 (捕食)
・■■■■ Lv.1 (自己修復)
・■■ Lv.1 (擬態)
・■■ Lv.1 (微光)
表示されたウィンドウは、やはり文字化けだらけだった。だが、辛うじて読み取れる情報と、自身の置かれた状況から、零は最悪の結論に至らざるを得なかった。
『……マジかよ。俺、モンスターになってるのか?』
それも、ステータスの低さから察するに、最弱クラスの。体力『2』、攻撃力『0』。ふざけているのか。ゲーム開始直後のプレイヤーだって、もう少しマシなステータスのはずだ。捕食? 自己修復? 擬態? 微光? スキルも、なんだか地味というか、モンスターっぽいというか……。
『名無し』という種族名。これが、あのエラーの結果だというのか。プレイヤーではなく、MOB(モブ)としてゲーム世界に放り込まれた? しかも、名前すらない、文字通りの『名無し』として。
しばし、零は呆然とした。楽しみにしていたVRMMO。非日常の世界での冒険。それらは全て、開始数分で打ち砕かれた。目の前にあるのは、薄暗く湿った洞窟と、スライムのような頼りない自分の体だけ。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。いや、声帯がないのか、音にはならなかったが。感情だけが空回りする。
絶望。
その一言に尽きた。作り直せばいい? いや、メニューが開けないのだから、それも不可能だろう。運営に問い合わせる? この異常な状況で、果たして外部と連絡が取れるのか。そもそも、この現象は運営が把握しているのだろうか?
『どうすりゃいいんだ、これ……』
ゲル状の体をずるりと動かす。驚くほど遅い。壁にぶつかると、ぷよん、と弾力のある感触。自分の体が発しているらしい微かな光だけが頼りだが、それでも周囲の様子はほとんど分からない。
これが、俺の『Eternal Frontier Online』の始まり?
冗談じゃない。
暗闇の中、名もなき最弱モンスターは、ただただ途方に暮れるしかなかった。未来も、目的も、何も見えない。ただ、ひんやりとした洞窟の空気だけが、その存在を肯定するかのようにまとわりついていた。
---
名前: ゼロ
種族: 名無し
称号: なし
所属: 未定義
【能力値】
体力: 2
魔力容量: 2
物理攻撃力: 0
物理防御力: 1
魔法攻撃力: 0
魔法防御力: 1
素早さ: 2
【スキル】
・捕食 Lv.1
・自己修復 Lv.1
・擬態 Lv.1
・微光 Lv.1
蛍光灯が白々しく照らすオフィス。ディスプレイの明かりだけが煌々と光る深夜。神代 零(かみしろ れい)は、自席で本日何度目か分からないため息をついた。キーボードを叩く指はとっくに限界を迎えているはずなのに、惰性だけで動き続けている。画面には、明日朝イチの会議で使うという体裁だけ整えたような資料が映し出されていた。中身は無い。いつものことだ。
『変化のない毎日』。大人になって、それがどれほど退屈で、心をすり減らすものか、零は身をもって知っていた。学生の頃は無限に続くかのように思えた未来も、社会の歯車になってしまえば、見えるのはレールの終点まで同じ景色が続く線路だけ。そんな灰色の日々に、一筋の光が差し込んだのは、半年ほど前のことだった。
『Eternal Frontier Online』――通称、EFO。
最新のフルダイブ技術を用いたVRMMO。剣と魔法、広大な未知の世界、自由度の高いゲームシステム。ありきたりと言えばありきたりな宣伝文句だったが、公開された映像のクオリティは既存のVRゲームとは一線を画していた。五感を完全に再現し、現実と見紛うほどの没入感を謳うそれは、零のような『何か』を求める人間にとって、まさに渇望していた非日常そのものだった。
発売日、今日。この日のために、零は有給を申請し、積み重なった仕事を無理やり片付け、なんなら一部は同僚に押し付け、万全の態勢を整えていた。深夜販売の行列に並び、限定版パッケージを手に入れた時の高揚感は、ここ数年で感じたことのない種類のものだった。
「……よし、終わり!」
ようやく忌々しい資料作成から解放され、零は大きく伸びをした。バキバキと音が鳴る体は、疲労よりも期待で満ちている。急いで退勤のタイムカードを切り、小走りで会社を出た。もう午前2時を回っている。普通の感覚なら一刻も早く家に帰って寝たい時間だろうが、零の足取りは軽い。
自宅マンションに駆け込み、リビングのソファに倒れ込むのももどかしく、買ってきたEFOのパッケージを開封する。最新型のVRヘッドセット『ニューロ・ダイバー』とゲームソフト。説明書もそこそこに、慣れた手つきでセッティングを進めていく。ケーブルを接続し、認証を済ませ、ヘッドセットを装着する。
視界が暗転し、やがて柔らかな光が満ちる。
【Eternal Frontier Onlineへようこそ】
凛とした女性の声のアナウンスと共に、目の前に美しいファンタジー世界の風景がパノラマで広がった。聳え立つ巨大な城、緑豊かな森、空を舞うワイバーンのような影。圧倒的な映像美。これだ、これを待っていたんだ。
高鳴る鼓動を感じながら、零はキャラメイク画面へと進むことを期待した。屈強な戦士か、俊敏な盗賊か、あるいは魔法を操る賢者か。どんなキャラクターでこの世界を冒険しようか。事前に考えていたいくつかのプランを反芻する。
だが。
次の瞬間、零の視界は真っ白な光に包まれた。
「……は?」
オープニングムービーが終わり、通常ならキャラクタークリエーション画面に移行するはずだ。しかし、目の前に広がるのは、ただただ無限に続くかのような純白の空間。上下左右の感覚すら曖昧になるような、奇妙な浮遊感。
【@#$!%%&……system error……$%@】
目の前に表示されたウィンドウには、意味不明な文字列と、かろうじて読み取れる『system error』の文字。なんだこれは。バグか? 初日とはいえ、大型タイトルでこんな致命的なエラーは珍しい。
『おいおい、マジかよ……一番楽しみにしてた瞬間だってのに』
舌打ちしたい気分を抑え、零は強制ログアウトや再起動を試みようとした。だが、メニュー画面を開くためのコマンドが反応しない。それどころか、思考すらどこか鈍くなっているような、奇妙な感覚に襲われる。
【Scanning……Identification……Failed】
【Emergency Protocol Activated】
【Assigning Temporary ID……『名無し(No Name)』】
【Forced Transfer……Initiating】
再び文字化け混じりのメッセージが流れる。IDの割り当てに失敗? 緊急プロトコル? 強制転移? 一体何がどうなっているんだ。ユーザーに何の選択肢も与えず、勝手に話が進んでいく。不安と苛立ちが募る。
『ふざけんな! こっちは金払ってんだぞ!』
心の内で叫んでも、状況は変わらない。白い光が急速に収縮し、次の瞬間、零の意識は暗闇へと突き落とされた。
「――っ!」
どれくらいの時間が経ったのか。意識が覚醒すると同時に、零は不快な感覚に襲われた。全身が濡れているような、粘つくような感触。鼻をつくのは、黴と湿った土が混じったような淀んだ臭い。そして、視界はほとんど効かないほどの暗闇。
『どこだ……ここ?』
状況を把握しようと体を動かそうとするが、思うようにいかない。手足がない。いや、それどころか、明確な体の輪郭すら感じられない。まるで、自分が不定形のゼリーかスライムにでもなったような、頼りない感覚。
まさか。
嫌な予感が頭をよぎる。例のエラーメッセージ。『名無し(No Name)』という仮のID。強制転移。それらが意味するものは?
零は必死に意識を集中させ、このゲームの基本的な操作である『ステータス確認』を試みた。通常なら、目の前にウィンドウが表示されるはずだ。
【■■■■■ ■■■■■】
【種族: ■■■■■■■■】(名無し)
【■■: ■■■】
【■■: ■■■■】
【■■■】
■■: 2
■■■■: 2
■■■■■: 0
■■■■■: 1
■■■■■: 0
■■■■■: 1
■■: 2
【■■■】
・■■■■ Lv.1 (捕食)
・■■■■ Lv.1 (自己修復)
・■■ Lv.1 (擬態)
・■■ Lv.1 (微光)
表示されたウィンドウは、やはり文字化けだらけだった。だが、辛うじて読み取れる情報と、自身の置かれた状況から、零は最悪の結論に至らざるを得なかった。
『……マジかよ。俺、モンスターになってるのか?』
それも、ステータスの低さから察するに、最弱クラスの。体力『2』、攻撃力『0』。ふざけているのか。ゲーム開始直後のプレイヤーだって、もう少しマシなステータスのはずだ。捕食? 自己修復? 擬態? 微光? スキルも、なんだか地味というか、モンスターっぽいというか……。
『名無し』という種族名。これが、あのエラーの結果だというのか。プレイヤーではなく、MOB(モブ)としてゲーム世界に放り込まれた? しかも、名前すらない、文字通りの『名無し』として。
しばし、零は呆然とした。楽しみにしていたVRMMO。非日常の世界での冒険。それらは全て、開始数分で打ち砕かれた。目の前にあるのは、薄暗く湿った洞窟と、スライムのような頼りない自分の体だけ。
「……はは」
乾いた笑いが漏れた。いや、声帯がないのか、音にはならなかったが。感情だけが空回りする。
絶望。
その一言に尽きた。作り直せばいい? いや、メニューが開けないのだから、それも不可能だろう。運営に問い合わせる? この異常な状況で、果たして外部と連絡が取れるのか。そもそも、この現象は運営が把握しているのだろうか?
『どうすりゃいいんだ、これ……』
ゲル状の体をずるりと動かす。驚くほど遅い。壁にぶつかると、ぷよん、と弾力のある感触。自分の体が発しているらしい微かな光だけが頼りだが、それでも周囲の様子はほとんど分からない。
これが、俺の『Eternal Frontier Online』の始まり?
冗談じゃない。
暗闇の中、名もなき最弱モンスターは、ただただ途方に暮れるしかなかった。未来も、目的も、何も見えない。ただ、ひんやりとした洞窟の空気だけが、その存在を肯定するかのようにまとわりついていた。
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名前: ゼロ
種族: 名無し
称号: なし
所属: 未定義
【能力値】
体力: 2
魔力容量: 2
物理攻撃力: 0
物理防御力: 1
魔法攻撃力: 0
魔法防御力: 1
素早さ: 2
【スキル】
・捕食 Lv.1
・自己修復 Lv.1
・擬態 Lv.1
・微光 Lv.1
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