偽りの聖女と罵られたので、隣国の訳あり公爵様と結託して祖国を滅ぼします~本当の力に目覚めた私を今更返せと言われても、もう遅いのです~

夏見ナイ

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第十九話 侍女頭の変化

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あの夜、書庫でカインとささやかな会話を交わしてから、エリアーナの世界は静かに、しかし確実に色合いを変え始めていた。
カインが自分を「宝石」と呼んでくれたこと。そして、不器用ながらも頭を撫でてくれた、あの大きな手の温もり。それらが、エリアーナの心の奥底に眠っていた自己肯定感という小さな芽に、温かい光を注いでくれた。
もう、自分はみじめな偽物ではない。
そう思うだけで、背筋が伸び、視線が上がる。書庫の難解な文字を追う目にも、以前より強い力が宿っていた。
彼女の変化は、ごく僅かなものだったかもしれない。だが、それを鋭く見抜いている者がいた。
侍女頭のゲルダである。

ゲルダは、このヴァルハイト公爵邸という巨大な機械を動かす、精密な歯車の一つだった。彼女の観察眼は、どんな些細な異常も見逃さない。そして最近、この邸の最も重要な部分―――主であるカイン・ド・ヴァルハイト―――に、明らかな変化が生じていることに気づいていた。
以前のカインは、まさに氷の要塞だった。誰をも寄せ付けず、自らの内に籠り、ただ黙々と責務をこなす。呪いの発作が近づくと、その空気はさらに張り詰め、邸内の誰もが息を潜めた。
だが、あのエルミールの娘が来てから、どうだ。
閣下は、深夜に厨房へ足を運ばれるようになった。ご自分で夜食を用意し、書庫へと運んでいく。その背中は、以前のような近寄りがたいものではなく、どこか人間的な温かみを帯びているようにさえ見える。
何より、決定的なのは呪いの発作だ。先日、発作が起きたことは間違いない。だが、その後の回復は驚くほど早く、邸内を満たしていた不穏な魔力の残滓も、すぐに消え去った。
そして、あの娘。エリアーナ。
最初は、怯えきった、ただ哀れなだけの小鳥だった。それが今では、落ち着いた物腰の中に、凛とした芯の強さを感じさせる。その瞳は澄み渡り、自分のやるべきことを見据えている者の目をしていた。
ゲルダは、エリアーナが書庫でひたむきに過ごす姿を、遠巻きに何度も見ていた。あれは、色仕掛けや策謀で公爵に取り入ろうとする女の目ではない。純粋な探究心と、そして主君を救おうとする真摯な使命感に満ち溢れていた。
ゲルダは、まだエリアーナを完全には認めていなかった。だが、彼女が「害をなす者」ではないということ。そして、もしかしたら本当に「閣下の役に立つ存在」なのかもしれないということ。その可能性を、認めざるを得なくなっていた。

その日の午後、エリアーナは書庫での調査を切り上げ、自室に戻る途中でゲルダに出会った。
「ゲルダ様」
エリアーナが声をかけると、ゲルダは足を止め、無表情に振り返る。
「何か」
「少し、お伺いしたいことがございます」
エリアーナは、一瞬ためらった。だが、意を決して言葉を続ける。
「公爵閣下は、いつも夜遅くまでお仕事をされているご様子。お疲れを癒すような飲み物……何か、お好みのものはございますでしょうか」
それは、純粋な気遣いからくる質問だった。あの夜、自分のために夜食を運んでくれた彼に、今度は自分が何かをしてあげたい。その一心だった。
ゲルダは、エリアーナの言葉を聞いても、表情一つ変えなかった。
「閣下のお好みについて、わたくしがお答えする必要はございません。そのようなことは、ご自身で閣下にお尋ねになるのが筋でしょう」
その返答は、いつものように冷たく、突き放すようなものだった。
やはり、駄目か。エリアーナが落胆に俯こうとした、その時。
ゲルダが、言葉を続けた。
「……ですが」
エリアーナが顔を上げると、ゲルダの灰色の目が、じっとこちらを見据えていた。
「閣下は、薬草の類にはお詳しい。下手に気の利いたものを差し上げても、お気に召さないやもしれません」
「え……」
「ただ……」
ゲルダは、そこでわずかに視線を逸らした。まるで、言うべきか言わざるべきか、迷っているかのようだった。
「……甘いものは、お嫌いではないご様子です。特に、蜂蜜をたっぷり使ったミルクティーなどは、お疲れの時には口にされることもございます」
それは、驚くべき言葉だった。
ゲルダが、エリアーナに、カインの個人的な情報を教えたのだ。事務的な報告ではなく、侍女頭としての経験からくる、確かな情報を。
エリアーナは、信じられない思いでゲルダを見つめた。
「……よろしいのですか。私に、そのようなことを教えてくださって」
「勘違いなさらないでいただきたい」
ゲルダは、いつもの厳しい口調を取り戻した。
「わたくしは、ただ、閣下のお身体を第一に考えているだけです。あなた様が淹れた飲み物で、万が一閣下のご気分を害するようなことがあれば、それは公爵家にとっての損失。それを未然に防いだに過ぎません」
その言い分は、いかにもゲルダらしかった。だが、その言葉の裏に隠された、微かな態度の軟化を、エリアーナは確かに感じ取っていた。
ゲルダは、自分を認めてくれ始めている。
「ありがとうございます、ゲルダ様」
エリアーナは、心からの感謝を込めて、深々と頭を下げた。
ゲルダは、その様子に何も答えなかった。ただ、「北翼の厨房であれば、自由にお使いいただいて結構です。ただし、火の始末はくれぐれも厳重に」とだけ言い残し、背を向けて去っていった。
その後ろ姿は、相変わらず氷のように冷たい。だが、エリアーナにはもう、その冷たさが以前ほどには感じられなかった。
部屋に戻ったエリアーナの心は、温かい光で満たされていた。
蜂蜜とミルクティー。
カインの、意外な好み。それを知ることができただけでも、大きな進歩だ。
この邸に来て、初めて温かい食事に涙した日。そして今日、初めて侍女頭の心に触れた日。
少しずつ、本当に少しずつだが、自分の居場所が、この黒い城の中に築かれていく。その実感が、エリアーナに新たな勇気を与えてくれた。
今夜、カインが書庫を訪れたら。
その時は、自分が彼のために、温かいミルクティーを淹れてあげよう。
エリアーナは、北翼の厨房へと向かいながら、密かにそう決心していた。
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