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第62話 土下座
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ミストラル村の広場は、水を打ったように静まり返っていた。
風が土埃を舞い上げる音だけが、やけに大きく聞こえる。村人も自警団も、そして遠巻きに見守る神殿騎士たちまでもが、目の前で起きている信じられない光景に言葉を失っていた。
大神殿の頂点に立つ男が、地面に額をこすりつけている。追放された一人の元神官に向かって。
「……顔を上げてください。神官長様」
俺は、ようやくそれだけの言葉を絞り出した。だが、老神官長は首を横に振るだけだった。
「この罪はわしが死ぬまで背負い続けねばならんもの。じゃが、わし個人の罪のために国を、民を見捨てるわけにはいかんのじゃ」
彼はゆっくりと顔を上げた。その老いた顔は土と涙で汚れ、威厳など微塵も残っていなかった。ただ、深い絶望と最後の希望にすがる必死さだけが、その瞳に宿っていた。
「聞いてくれ、ルーク。王都の、今の大神殿の惨状を」
彼の口から語られた王都の現状は、俺の想像を遥かに超えて深刻だった。
次期聖女セシリアが、原因不明の病に倒れたこと。
大神殿の最高位の治癒術も、王宮魔術師団の秘術も、一切の効果がないこと。
日に日に衰弱していく聖女を前に、大神殿の権威は地に落ち、民衆の心は女神から離れつつあること。
そして、国全体が、出口のない暗闇と絶望に覆われていること。
「わしらは、無力じゃった」
神官長は、自嘲するように言った。
「女神の代理人を名乗りながら、我らは一人の少女の命すら救うことができん。この一年、ありとあらゆる手を尽くした。じゃが、全てが無駄に終わった。聖女様の命の灯火は、今にも消えかかっておる」
彼の言葉の一つ一つが、大神殿という巨大な組織が機能不全に陥っている様を物語っていた。
そして、彼は震える声で俺が追放されたあの日のことを語り始めた。
「わしは、知っておった。お前が無実であることくらい、な。ゲオルグの仕組んだ卑劣な罠であることも、見抜いておった。じゃが……」
彼は、悔しげに自分の膝を拳で叩いた。
「わしは、臆病者じゃった。ゲオルグの後ろ盾であるクライス侯爵家の権勢を恐れ、大神殿内の派閥争いでわしの立場が危うくなることを恐れた。そして、真実から目を背け、一人の前途ある若者を見捨てた。わしは神に仕える者として、いや、人として最も恥ずべき罪を犯したのじゃ」
彼の告白は懺悔だった。俺の心の中に澱のように溜まっていた過去の憎しみが、その痛切な言葉に少しずつ溶かされていくのを感じた。俺はこの人を恨んでいた。だが、それ以上にこの人もまた、あの日からずっと苦しみ続けていたのだ。
「今さら、どの面を下げて、とは思うておる。お前を追放した我らが今になって助けを乞うなど、虫が良すぎる話じゃ。お前が我らを憎み、このまま王都が滅ぶのを笑って見物したいと言うのなら、それも当然の報いじゃろう」
彼はそこまで言うと、再び地面に額をつけようとした。
「だが、それでもわしは頼むしかない!罪のない聖女様を、そして女神を信じるこの国の民を、見殺しにはできん!どうか……!」
「――もう、それくらいでよろしいのではなくて?」
その時、冷たく、しかし凛とした声が二人の間に割り込んだ。リゼットだった。彼女は俺を背後にかばうように一歩前に出ると、神官長を冷徹な目で見下ろしていた。
「大神殿の長たる方が見苦しいですな。散々彼を蔑み、無実の罪で追い出しておきながら、困った時だけ神のように助けを乞う。あなた方の言う『正義』とは、それほどまでに都合の良いものなのですか」
彼女の言葉は鋭い刃のように、神官長の心を抉った。彼女もまた組織に裏切られ、捨てられた人間だ。その言葉には俺以上に深い、組織への不信感が込められていた。
神官長は、ぐっと言葉に詰まった。
「虫の良い話じゃわい」
今度はギムリが、腕を組んで吐き捨てるように言った。
「権力者ちゅうのはいつだってそうじゃ。自分たちの都合で人を使い、捨てる。そして、自分たちの手に負えなくなると、また平気で頭を下げてくる。反吐が出るわ」
「そうだねえ」
ノエルも穏やかな口調ながら、その瞳は笑っていなかった。
「話を聞く限り、聖女様の病はただの病じゃなさそうだ。おそらくは強力な呪術。それも国家レベルの陰謀が絡んでるかもしれないね。そんな厄介事に、どうして私たちがあなたたちのために首を突っ込む必要があるのかな?」
仲間たちが次々と俺の盾になるように、大神殿への拒絶を表明していく。村長も村人たちも、厳しい顔で神官長を見つめている。この村は完全に俺の味方だった。その事実が、何よりも心強かった。
老神官長は仲間たちの厳しい言葉を一身に浴びていた。彼は何も言い返せなかった。全てが正論だったからだ。
彼はただ、涙を流していた。
「……その通りじゃ。お前さんたちの言う通り、わしらには彼に助けを乞う資格など、ないのかもしれん」
彼はゆっくりと立ち上がった。その足取りはひどくおぼつかない。
「じゃが、わしは帰るわけにはいかんのじゃ。たとえこの場で石を投げられようとも、答えを聞くまでは……」
彼の体は長旅の疲れと極度の心労で、もう限界に近かった。その体がぐらりと傾く。
「神官長様!」
俺は咄嗟に駆け寄り、その体を支えた。腕に伝わってくる体の軽さと荒い呼吸。この老人は、文字通り命を懸けてここまで来たのだ。
俺は複雑な感情に揺れていた。大神殿は憎い。ゲオルグの顔など二度と見たくない。
だが、目の前には助けを求める人がいる。罪のない少女が、死にかけている。そして、かつての恩人が全てを捨てて俺に頭を下げている。
この人を、このまま見殺しにできるのか。
俺の心の天秤が、激しく揺れ動いていた。
「……少し、考えさせてください」
俺は神官長の体を支えながら、静かに告げた。
「今、この場で答えを出すことはできません。俺一人の問題では、ありませんから」
俺の言葉に神官長はかすかに頷いた。その瞳にほんのわずかだが、安堵の色が浮かんだ気がした。
俺は村長に視線を送った。村長は俺の意図を察し、一つ頷くと神殿騎士たちに向かって言った。
「遠路はるばるご苦労であったな。ルーク殿が答えを出すまで、村の外れにある空き家をお使いくだされ。ただし、我らの許可なく村の中を嗅ぎ回るような真似は許さんぞ」
その言葉は客人への配慮と、村を守る者としての厳しい警告の両方を含んでいた。
神殿騎士たちは戸惑いながらも、その指示に従った。俺は神官長を騎士の一人に預けると、彼の背中を見送った。
広場には俺と仲間たち、そして困惑した表情の村人たちだけが残された。
「……どうする、ルーク」
リゼットが静かに尋ねた。その問いは仲間たち全員の問いでもあった。
王都へ、行くのか。
それとも、この村に留まり、彼らを見捨てるのか。
俺は答えられなかった。ただ、西の空に傾き始めた太陽を黙って見つめるだけだった。どちらを選んでも後悔が残るであろう、あまりにも重い決断。その選択が、今、俺の双肩に懸かっていた。
風が土埃を舞い上げる音だけが、やけに大きく聞こえる。村人も自警団も、そして遠巻きに見守る神殿騎士たちまでもが、目の前で起きている信じられない光景に言葉を失っていた。
大神殿の頂点に立つ男が、地面に額をこすりつけている。追放された一人の元神官に向かって。
「……顔を上げてください。神官長様」
俺は、ようやくそれだけの言葉を絞り出した。だが、老神官長は首を横に振るだけだった。
「この罪はわしが死ぬまで背負い続けねばならんもの。じゃが、わし個人の罪のために国を、民を見捨てるわけにはいかんのじゃ」
彼はゆっくりと顔を上げた。その老いた顔は土と涙で汚れ、威厳など微塵も残っていなかった。ただ、深い絶望と最後の希望にすがる必死さだけが、その瞳に宿っていた。
「聞いてくれ、ルーク。王都の、今の大神殿の惨状を」
彼の口から語られた王都の現状は、俺の想像を遥かに超えて深刻だった。
次期聖女セシリアが、原因不明の病に倒れたこと。
大神殿の最高位の治癒術も、王宮魔術師団の秘術も、一切の効果がないこと。
日に日に衰弱していく聖女を前に、大神殿の権威は地に落ち、民衆の心は女神から離れつつあること。
そして、国全体が、出口のない暗闇と絶望に覆われていること。
「わしらは、無力じゃった」
神官長は、自嘲するように言った。
「女神の代理人を名乗りながら、我らは一人の少女の命すら救うことができん。この一年、ありとあらゆる手を尽くした。じゃが、全てが無駄に終わった。聖女様の命の灯火は、今にも消えかかっておる」
彼の言葉の一つ一つが、大神殿という巨大な組織が機能不全に陥っている様を物語っていた。
そして、彼は震える声で俺が追放されたあの日のことを語り始めた。
「わしは、知っておった。お前が無実であることくらい、な。ゲオルグの仕組んだ卑劣な罠であることも、見抜いておった。じゃが……」
彼は、悔しげに自分の膝を拳で叩いた。
「わしは、臆病者じゃった。ゲオルグの後ろ盾であるクライス侯爵家の権勢を恐れ、大神殿内の派閥争いでわしの立場が危うくなることを恐れた。そして、真実から目を背け、一人の前途ある若者を見捨てた。わしは神に仕える者として、いや、人として最も恥ずべき罪を犯したのじゃ」
彼の告白は懺悔だった。俺の心の中に澱のように溜まっていた過去の憎しみが、その痛切な言葉に少しずつ溶かされていくのを感じた。俺はこの人を恨んでいた。だが、それ以上にこの人もまた、あの日からずっと苦しみ続けていたのだ。
「今さら、どの面を下げて、とは思うておる。お前を追放した我らが今になって助けを乞うなど、虫が良すぎる話じゃ。お前が我らを憎み、このまま王都が滅ぶのを笑って見物したいと言うのなら、それも当然の報いじゃろう」
彼はそこまで言うと、再び地面に額をつけようとした。
「だが、それでもわしは頼むしかない!罪のない聖女様を、そして女神を信じるこの国の民を、見殺しにはできん!どうか……!」
「――もう、それくらいでよろしいのではなくて?」
その時、冷たく、しかし凛とした声が二人の間に割り込んだ。リゼットだった。彼女は俺を背後にかばうように一歩前に出ると、神官長を冷徹な目で見下ろしていた。
「大神殿の長たる方が見苦しいですな。散々彼を蔑み、無実の罪で追い出しておきながら、困った時だけ神のように助けを乞う。あなた方の言う『正義』とは、それほどまでに都合の良いものなのですか」
彼女の言葉は鋭い刃のように、神官長の心を抉った。彼女もまた組織に裏切られ、捨てられた人間だ。その言葉には俺以上に深い、組織への不信感が込められていた。
神官長は、ぐっと言葉に詰まった。
「虫の良い話じゃわい」
今度はギムリが、腕を組んで吐き捨てるように言った。
「権力者ちゅうのはいつだってそうじゃ。自分たちの都合で人を使い、捨てる。そして、自分たちの手に負えなくなると、また平気で頭を下げてくる。反吐が出るわ」
「そうだねえ」
ノエルも穏やかな口調ながら、その瞳は笑っていなかった。
「話を聞く限り、聖女様の病はただの病じゃなさそうだ。おそらくは強力な呪術。それも国家レベルの陰謀が絡んでるかもしれないね。そんな厄介事に、どうして私たちがあなたたちのために首を突っ込む必要があるのかな?」
仲間たちが次々と俺の盾になるように、大神殿への拒絶を表明していく。村長も村人たちも、厳しい顔で神官長を見つめている。この村は完全に俺の味方だった。その事実が、何よりも心強かった。
老神官長は仲間たちの厳しい言葉を一身に浴びていた。彼は何も言い返せなかった。全てが正論だったからだ。
彼はただ、涙を流していた。
「……その通りじゃ。お前さんたちの言う通り、わしらには彼に助けを乞う資格など、ないのかもしれん」
彼はゆっくりと立ち上がった。その足取りはひどくおぼつかない。
「じゃが、わしは帰るわけにはいかんのじゃ。たとえこの場で石を投げられようとも、答えを聞くまでは……」
彼の体は長旅の疲れと極度の心労で、もう限界に近かった。その体がぐらりと傾く。
「神官長様!」
俺は咄嗟に駆け寄り、その体を支えた。腕に伝わってくる体の軽さと荒い呼吸。この老人は、文字通り命を懸けてここまで来たのだ。
俺は複雑な感情に揺れていた。大神殿は憎い。ゲオルグの顔など二度と見たくない。
だが、目の前には助けを求める人がいる。罪のない少女が、死にかけている。そして、かつての恩人が全てを捨てて俺に頭を下げている。
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俺の心の天秤が、激しく揺れ動いていた。
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俺の言葉に神官長はかすかに頷いた。その瞳にほんのわずかだが、安堵の色が浮かんだ気がした。
俺は村長に視線を送った。村長は俺の意図を察し、一つ頷くと神殿騎士たちに向かって言った。
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神殿騎士たちは戸惑いながらも、その指示に従った。俺は神官長を騎士の一人に預けると、彼の背中を見送った。
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