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第68話 大神殿にて
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聖女の私室に足を踏み入れた瞬間、俺たちは息を呑んだ。
そこは大神殿で最も神聖な場所であるはずなのに、まるで光の届かない深海のように、冷たく重い空気が満ちていた。壁には豪奢なタペストリーが飾られ、床には上質な絨毯が敷かれている。だが、その全てが色褪せて見え、部屋全体が生命力を失っているかのようだった。
そして、その中心にある天蓋付きのベッド。そこに、聖女セシリアは横たわっていた。
俺は彼女の姿を見て、胸が締め付けられるのを感じた。まだ十歳にも満たない小さな体。かつては薔薇色だったであろう頬は今は青白くこけ、そのか細い腕には、治療のために施されたのであろう痛々しい針の跡が無数に残っている。
閉じられた瞼はぴくりとも動かず、その呼吸は今にも消えてしまいそうにか細い。彼女は生きているというよりは、ただかろうじて死んでいないだけ、という状態だった。
彼女の体からは微かだが絶えず生命力が吸い取られているのが、魔力の流れとして感じ取れた。それはリゼットを蝕んでいた呪いと同質の気配。エリアナが言っていた「黒い蛇」が、この小さな体に確かに巻き付いていた。
「……ひどい」
俺の隣で、ノエルが低い声で呟いた。その顔にはいつもの好奇心はなく、ただ純粋な医療者としての怒りが浮かんでいる。
「これはただの呪いじゃない。魂そのものを少しずつ喰らっていく、最も悪質な『魂喰いの呪詛』だ。こんな幼い子に、なんてことを……」
リゼットも唇を噛み締めていた。彼女はベッドの傍らに膝をつくと、まるで祈るかのように聖女の小さな手をそっと握った。その手は氷のように冷たかった。
「……大丈夫だ。もう、大丈夫」
彼女は意識のない少女に向かって、静かに、しかし力強く語りかけた。
「私たちが来た。必ず、お前をその苦しみから解放してやる」
その姿は、かつて自分も同じ苦しみを味わった者だからこその深い共感と慈愛に満ちていた。
俺がこの部屋に入ってから、大神殿の神官たちは遠巻きに俺たちの様子をうかがうばかりだった。彼らは俺が何か特別な儀式でも始めるのかと、固唾をのんで見守っている。
だが、俺はそんな彼らには目もくれず、いつも通り腰のポーチから使い古した木の杯と、創生水の入った革袋を取り出した。
「……ルーク君。それは?」
老神官長が訝しげに尋ねる。
「俺の治療道具です」
俺は簡潔に答えると、茶色く濁った液体を杯になみなみと注いだ。その光景に、神官たちの中からかすかな失笑が漏れたのが聞こえた。
「おい、まさか……あんな泥水を、聖女様に飲ませる気か?」
「神をも恐れぬ所業だ……!」
彼らはまだ俺の力の正体を何も理解していなかった。俺が一年前に大神殿を追放された、あの役立たずの『泥水神官』のままだと信じて疑っていない。
俺は彼らの囁きを無視した。今は目の前の小さな命に集中するだけだ。
俺はベッドの傍らに座り、リゼットに手伝ってもらって聖女の体を少しだけ起こした。そして、杯を彼女の唇へとゆっくりと近づけていく。
「待て!」
その時、鋭い声が部屋の静寂を破った。
声のした方を見ると、そこに立っていたのは金色の髪を持つ、見覚えのある男だった。ゲオルグ・フォン・クライス。
彼の姿は俺の記憶にあるものとはまるで違っていた。かつての自信に満ちた輝きは失われ、その顔には深い疲労と焦燥の色が刻み込まれている。着ている神官服も、どこかくたびれて見えた。
だが、その瞳だけは変わっていなかった。俺に対する深い憎悪と嫉妬の炎。それが一年という時を経て、さらにどす黒く燃え盛っている。
「……ゲオルグ様」
老神官長が咎めるような声を上げた。
「ルーク君たちには近づくなと、あれほど言ったはずじゃ」
「黙ってください、神官長!」
ゲオルグはもはや神官長に対する敬意すら失っているようだった。彼は俺の手にある杯を、忌々しげに睨みつける。
「その汚らわしい泥水を聖女様のお体に注ぎ込むなど、断じて許さん! 貴様はまたあの儀式の時のように、この神聖な場所を穢すつもりか!」
彼はまだ俺があの儀式を妨害した罪人だと信じ込んでいる。いや、信じ込みたいのだ。そうでなければ、彼のこれまでの行いが全て間違いだったと認めることになってしまうから。
「ゲオルグ……」
リゼットが低い声で彼の名を呼んだ。その声には明確な敵意が込められている。
「貴様にはルークを罵る資格などない。下がれ。治療の邪魔だ」
「なんだと、この呪われ騎士崩れが!」
ゲオルグは逆上して言い返した。だが、その言葉はもはや何の力も持たなかった。彼の権威は地に落ちている。彼の周りには、かつてのように彼を支持する取り巻きの姿は一人もなかった。
俺はそんな彼らのやり取りを静かに聞いていた。そして、ゆっくりと立ち上がるとゲオルグの前に静かに歩み寄った。
「……久しぶりですね。ゲオルグ」
俺のあまりにも穏やかな声に、ゲオルグは一瞬怯んだように見えた。
俺は彼の目を見つめた。その瞳の奥にある嫉妬と焦りと、そして自分自身の無力さに対する深い絶望を。
「あなたが何を信じようと構いません。ですが、今俺がしようとしていることは、この少女を救うための唯一の方法です。それを邪魔するというのなら……」
俺の声は静かだったが、その奥にはミストラル村で培われた揺るぎない覚悟が宿っていた。
「たとえ、あなたが誰であろうと容赦はしません」
その言葉は明確な警告だった。もはや俺はかつての無力な泥水神官ではない。俺には守るべきものがあり、共に戦う仲間がいる。
俺から発せられる静かだが圧倒的なプレッシャーに、ゲオルグは後ずさった。彼の顔が憎悪から恐怖へと変わっていく。彼は俺がこの一年で、全く別の人間へと生まれ変わってしまったことを肌で感じ取っていた。
「……っ」
彼は何かを言い返そうとしたが、言葉にならなかった。ただ、わなわなと唇を震わせ俺を睨みつけることしかできない。
俺はそんな彼に背を向け、再びベッドの傍らに戻った。
「続けましょう」
俺の言葉に、リゼットが頷く。
俺はもう一度聖女の体を支え、その唇に泥の味がする希望の一滴を、そっと流し込んだ。
部屋中の神官たちが息を呑む。ゲオルグが絶望と憎悪に歪んだ顔で、その光景を見つめている。
聖女セシリアの小さな体が、俺の創生水に触れた瞬間。
ふわり、と。
彼女の体から、これまで誰も見たことのない、温かくそして力強い黄金の光が溢れ出した。
大神殿に一年ぶりに、本物の奇跡の光が灯った瞬間だった。
そこは大神殿で最も神聖な場所であるはずなのに、まるで光の届かない深海のように、冷たく重い空気が満ちていた。壁には豪奢なタペストリーが飾られ、床には上質な絨毯が敷かれている。だが、その全てが色褪せて見え、部屋全体が生命力を失っているかのようだった。
そして、その中心にある天蓋付きのベッド。そこに、聖女セシリアは横たわっていた。
俺は彼女の姿を見て、胸が締め付けられるのを感じた。まだ十歳にも満たない小さな体。かつては薔薇色だったであろう頬は今は青白くこけ、そのか細い腕には、治療のために施されたのであろう痛々しい針の跡が無数に残っている。
閉じられた瞼はぴくりとも動かず、その呼吸は今にも消えてしまいそうにか細い。彼女は生きているというよりは、ただかろうじて死んでいないだけ、という状態だった。
彼女の体からは微かだが絶えず生命力が吸い取られているのが、魔力の流れとして感じ取れた。それはリゼットを蝕んでいた呪いと同質の気配。エリアナが言っていた「黒い蛇」が、この小さな体に確かに巻き付いていた。
「……ひどい」
俺の隣で、ノエルが低い声で呟いた。その顔にはいつもの好奇心はなく、ただ純粋な医療者としての怒りが浮かんでいる。
「これはただの呪いじゃない。魂そのものを少しずつ喰らっていく、最も悪質な『魂喰いの呪詛』だ。こんな幼い子に、なんてことを……」
リゼットも唇を噛み締めていた。彼女はベッドの傍らに膝をつくと、まるで祈るかのように聖女の小さな手をそっと握った。その手は氷のように冷たかった。
「……大丈夫だ。もう、大丈夫」
彼女は意識のない少女に向かって、静かに、しかし力強く語りかけた。
「私たちが来た。必ず、お前をその苦しみから解放してやる」
その姿は、かつて自分も同じ苦しみを味わった者だからこその深い共感と慈愛に満ちていた。
俺がこの部屋に入ってから、大神殿の神官たちは遠巻きに俺たちの様子をうかがうばかりだった。彼らは俺が何か特別な儀式でも始めるのかと、固唾をのんで見守っている。
だが、俺はそんな彼らには目もくれず、いつも通り腰のポーチから使い古した木の杯と、創生水の入った革袋を取り出した。
「……ルーク君。それは?」
老神官長が訝しげに尋ねる。
「俺の治療道具です」
俺は簡潔に答えると、茶色く濁った液体を杯になみなみと注いだ。その光景に、神官たちの中からかすかな失笑が漏れたのが聞こえた。
「おい、まさか……あんな泥水を、聖女様に飲ませる気か?」
「神をも恐れぬ所業だ……!」
彼らはまだ俺の力の正体を何も理解していなかった。俺が一年前に大神殿を追放された、あの役立たずの『泥水神官』のままだと信じて疑っていない。
俺は彼らの囁きを無視した。今は目の前の小さな命に集中するだけだ。
俺はベッドの傍らに座り、リゼットに手伝ってもらって聖女の体を少しだけ起こした。そして、杯を彼女の唇へとゆっくりと近づけていく。
「待て!」
その時、鋭い声が部屋の静寂を破った。
声のした方を見ると、そこに立っていたのは金色の髪を持つ、見覚えのある男だった。ゲオルグ・フォン・クライス。
彼の姿は俺の記憶にあるものとはまるで違っていた。かつての自信に満ちた輝きは失われ、その顔には深い疲労と焦燥の色が刻み込まれている。着ている神官服も、どこかくたびれて見えた。
だが、その瞳だけは変わっていなかった。俺に対する深い憎悪と嫉妬の炎。それが一年という時を経て、さらにどす黒く燃え盛っている。
「……ゲオルグ様」
老神官長が咎めるような声を上げた。
「ルーク君たちには近づくなと、あれほど言ったはずじゃ」
「黙ってください、神官長!」
ゲオルグはもはや神官長に対する敬意すら失っているようだった。彼は俺の手にある杯を、忌々しげに睨みつける。
「その汚らわしい泥水を聖女様のお体に注ぎ込むなど、断じて許さん! 貴様はまたあの儀式の時のように、この神聖な場所を穢すつもりか!」
彼はまだ俺があの儀式を妨害した罪人だと信じ込んでいる。いや、信じ込みたいのだ。そうでなければ、彼のこれまでの行いが全て間違いだったと認めることになってしまうから。
「ゲオルグ……」
リゼットが低い声で彼の名を呼んだ。その声には明確な敵意が込められている。
「貴様にはルークを罵る資格などない。下がれ。治療の邪魔だ」
「なんだと、この呪われ騎士崩れが!」
ゲオルグは逆上して言い返した。だが、その言葉はもはや何の力も持たなかった。彼の権威は地に落ちている。彼の周りには、かつてのように彼を支持する取り巻きの姿は一人もなかった。
俺はそんな彼らのやり取りを静かに聞いていた。そして、ゆっくりと立ち上がるとゲオルグの前に静かに歩み寄った。
「……久しぶりですね。ゲオルグ」
俺のあまりにも穏やかな声に、ゲオルグは一瞬怯んだように見えた。
俺は彼の目を見つめた。その瞳の奥にある嫉妬と焦りと、そして自分自身の無力さに対する深い絶望を。
「あなたが何を信じようと構いません。ですが、今俺がしようとしていることは、この少女を救うための唯一の方法です。それを邪魔するというのなら……」
俺の声は静かだったが、その奥にはミストラル村で培われた揺るぎない覚悟が宿っていた。
「たとえ、あなたが誰であろうと容赦はしません」
その言葉は明確な警告だった。もはや俺はかつての無力な泥水神官ではない。俺には守るべきものがあり、共に戦う仲間がいる。
俺から発せられる静かだが圧倒的なプレッシャーに、ゲオルグは後ずさった。彼の顔が憎悪から恐怖へと変わっていく。彼は俺がこの一年で、全く別の人間へと生まれ変わってしまったことを肌で感じ取っていた。
「……っ」
彼は何かを言い返そうとしたが、言葉にならなかった。ただ、わなわなと唇を震わせ俺を睨みつけることしかできない。
俺はそんな彼に背を向け、再びベッドの傍らに戻った。
「続けましょう」
俺の言葉に、リゼットが頷く。
俺はもう一度聖女の体を支え、その唇に泥の味がする希望の一滴を、そっと流し込んだ。
部屋中の神官たちが息を呑む。ゲオルグが絶望と憎悪に歪んだ顔で、その光景を見つめている。
聖女セシリアの小さな体が、俺の創生水に触れた瞬間。
ふわり、と。
彼女の体から、これまで誰も見たことのない、温かくそして力強い黄金の光が溢れ出した。
大神殿に一年ぶりに、本物の奇跡の光が灯った瞬間だった。
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