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第91話:思考する機械への挑戦
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帝国の侵攻が、もはや避けられない現実として刻一刻と迫っていた。
俺たちの時間は限られている。
王国の軍備は急ピッチで近代化が進められている。後装式ライフルと新型カノン砲の量産体制は軌道に乗り、兵士たちはバルガスの下で新しい戦術の習熟に汗を流していた。
だが、俺の頭の中にはまだ一つの大きな懸念が残っていた。
それは、あまりにも複雑化しすぎた戦場の「計算」の問題だった。
例えば、長距離砲撃。
敵の位置、風向き、湿度、そして砲弾自体の重さと初速。それら全ての要素を考慮して正確な弾道を計算しなければ、精密な砲撃など不可能だ。今は、観測班からの報告を元に熟練した砲手が経験と勘でそれを補っている。
だが、帝国との総力戦になれば、何十、何百という砲が同時に、そして絶え間なく火を噴くことになるだろう。
その膨大な数の弾道計算を、人間の頭だけで瞬時に、そして正確に行うことなどできるはずがない。
俺は、人間を超える計算能力を持つ、新しい「道具」の必要性を痛感していた。
俺は、王立魔導科学大学の最も静かな研究室に、工学部と数学科の選りすぐりの天才学生たちを集めた。
「諸君、我々はこれから人間の『思考』そのものを機械に代行させるという、前代未聞の挑戦を始める」
俺の言葉に、学生たちはポカンとした顔で顔を見合わせた。
俺は黒板に、複雑に絡み合った無数の歯車の絵を描き始めた。
「これは機械式の計算機だ。歯車の回転数とその組み合わせによって、足し算、引き算、掛け算、割り算といった基本的な四則演算を自動で行うことができる」
それは前世の歴史において、パスカルやライプニッツが夢見た歯車式の計算機の概念だった。
学生たちは初めは半信半疑だったが、俺が十進数の繰り上がりをいかにして歯車の噛み合わせで実現するかを具体的に説明し始めると、彼らの目の色がみるみるうちに変わっていった。
「……すごい。歯車の動きだけで数字を扱えるなんて……」
「まるで機械に魂が宿るようだ……」
だが、俺の構想はそんな単純な計算機に留まるものではなかった。
俺が本当に作りたいのは、チャールズ・バベッジが夢見たあの幻の超機械。
「我々が目指すのはただの計算機ではない。もっと高度な、複雑な数式をプログラムに従って自動的に、そして連続的に解き続けることができる『解析機関(アナリティカル・エンジン)』だ」
俺は、バベッジの階差機関の概念を彼らに説明した。
対数表や三角関数表といった複雑な計算結果を、多項式近似の原理を使い、単純な足し算と引き算の繰り返しだけで自動的に算出していく驚異的なマシン。
「弾道計算のような複雑な微分方程式も、この階差機関を使えば人間よりも遥かに速く、そして正確に解を導き出すことができるはずだ」
学生たちは、もはや声も出なかった。
彼らは自分たちが今、人類の知性の歴史におけるとんでもない飛躍の瞬間に立ち会っているのだということを肌で感じていた。
それは錬金術でも魔法でもない。
純粋な数学と機械工学の論理の結晶。
「思考する機械」への壮大な挑戦の始まりだった。
プロジェクトは、大学の最も機密性の高い工房で静かに、しかし熱狂的に進められた。
それはこれまでのどんな開発よりも地味で、そして根気のいる作業だった。
何千、何万という大きさの違う歯車を、アシュフォード鋼から一つ一つミクロン単位の精度で削り出していく。
それらの歯車を設計図通りに、巨大な真鍮のフレームへと組み上げていく。
わずか一つの歯車のほんの僅かなズレが、計算結果全体を狂わせてしまう。
学生たちは食事も睡眠も忘れ、まるで何かに取り憑かれたかのようにその精密な機械の組み立てに没頭した。
彼らの頭脳は複雑な数学の論理を追い求め、その指先はそれを物理的な形へと具現化していく。
俺は彼らの指導をしながら、この光景にある種の感動を覚えていた。
戦争という究極の破壊行為に備えるために、俺たちは今、人類の知性が生み出した最も創造的で最も美しい機械を作っているのだ。
その矛盾こそが、科学技術というものが持つ宿命的な業なのかもしれない。
数ヶ月後。
工房の中央に、ついにその異様な機械が姿を現した。
それは、高さ二メートル、幅三メートルにも及ぶ真鍮と鋼鉄でできた歯車の城だった。
無数の歯車が複雑に、そして有機的に絡み合い、まるで時を待つ巨大な生命体のように静まり返っている。
『階差機関(ディファレンス・エンジン)一号機』。
俺は最初の計算プログラムとして、単純な二次関数の数表を作成するよう入力装置に歯車の初期設定を施した。
そしてクランクハンドルに、ゆっくりと力を込める。
ギギギ……。
重い金属音と共に、最初の歯車が回転を始めた。
その動きはドミノ倒しのように、隣の歯車へ、そのまた隣の歯車へと次々と伝わっていく。
工房の中は、何千もの歯車が一斉に回転し、噛み合う、複雑でしかし調和の取れた金属音のシンフォニーに包まれた。
カチャリ、と。
出力装置に繋がれた活字のハンマーが動き出し、羊皮紙の上に最初の計算結果を自動的に刻み込んだ。
『1』
さらにクランクを回す。
歯車が再び複雑な計算を行い、次の結果を導き出す。
『4』
『9』
『16』
それは間違いなく、入力された関数の正しい計算結果だった。
俺たちが作ったこのただの金属の塊は、確かに「思考」していたのだ。
「……動いた」
学生の一人が震える声で呟いた。
次の瞬間、工房はこれまでの苦労が全て報われた歓喜の雄叫びに包まれた。
「やったぞ! こいつ、本当に計算してる!」
「俺たちの子供だ!」
彼らは抱き合い、涙を流し、自分たちが生み出した人類史上初の原始的なコンピュータの誕生を心から祝福した。
俺は、静かに回転を続ける歯車の城を見つめていた。
これはまだ始まりに過ぎない。
この機械がいずれパンチカードによるプログラム入力を可能にし、より複雑な計算をこなす「解析機関」へと進化するだろう。
そしてその先には、真空管やトランジスタを使った電子計算機の時代が待っている。
情報が光の速さで駆け巡り、世界中の知性が一つのネットワークで繋がる未来。
その遥かなる未来への最初で最も重要な一歩を、俺たちは今、確かに踏み出したのだ。
思考する機械の萌芽。
それは帝国との戦争を前に、俺たちが手に入れた究極の知的な兵器だった。
俺たちの時間は限られている。
王国の軍備は急ピッチで近代化が進められている。後装式ライフルと新型カノン砲の量産体制は軌道に乗り、兵士たちはバルガスの下で新しい戦術の習熟に汗を流していた。
だが、俺の頭の中にはまだ一つの大きな懸念が残っていた。
それは、あまりにも複雑化しすぎた戦場の「計算」の問題だった。
例えば、長距離砲撃。
敵の位置、風向き、湿度、そして砲弾自体の重さと初速。それら全ての要素を考慮して正確な弾道を計算しなければ、精密な砲撃など不可能だ。今は、観測班からの報告を元に熟練した砲手が経験と勘でそれを補っている。
だが、帝国との総力戦になれば、何十、何百という砲が同時に、そして絶え間なく火を噴くことになるだろう。
その膨大な数の弾道計算を、人間の頭だけで瞬時に、そして正確に行うことなどできるはずがない。
俺は、人間を超える計算能力を持つ、新しい「道具」の必要性を痛感していた。
俺は、王立魔導科学大学の最も静かな研究室に、工学部と数学科の選りすぐりの天才学生たちを集めた。
「諸君、我々はこれから人間の『思考』そのものを機械に代行させるという、前代未聞の挑戦を始める」
俺の言葉に、学生たちはポカンとした顔で顔を見合わせた。
俺は黒板に、複雑に絡み合った無数の歯車の絵を描き始めた。
「これは機械式の計算機だ。歯車の回転数とその組み合わせによって、足し算、引き算、掛け算、割り算といった基本的な四則演算を自動で行うことができる」
それは前世の歴史において、パスカルやライプニッツが夢見た歯車式の計算機の概念だった。
学生たちは初めは半信半疑だったが、俺が十進数の繰り上がりをいかにして歯車の噛み合わせで実現するかを具体的に説明し始めると、彼らの目の色がみるみるうちに変わっていった。
「……すごい。歯車の動きだけで数字を扱えるなんて……」
「まるで機械に魂が宿るようだ……」
だが、俺の構想はそんな単純な計算機に留まるものではなかった。
俺が本当に作りたいのは、チャールズ・バベッジが夢見たあの幻の超機械。
「我々が目指すのはただの計算機ではない。もっと高度な、複雑な数式をプログラムに従って自動的に、そして連続的に解き続けることができる『解析機関(アナリティカル・エンジン)』だ」
俺は、バベッジの階差機関の概念を彼らに説明した。
対数表や三角関数表といった複雑な計算結果を、多項式近似の原理を使い、単純な足し算と引き算の繰り返しだけで自動的に算出していく驚異的なマシン。
「弾道計算のような複雑な微分方程式も、この階差機関を使えば人間よりも遥かに速く、そして正確に解を導き出すことができるはずだ」
学生たちは、もはや声も出なかった。
彼らは自分たちが今、人類の知性の歴史におけるとんでもない飛躍の瞬間に立ち会っているのだということを肌で感じていた。
それは錬金術でも魔法でもない。
純粋な数学と機械工学の論理の結晶。
「思考する機械」への壮大な挑戦の始まりだった。
プロジェクトは、大学の最も機密性の高い工房で静かに、しかし熱狂的に進められた。
それはこれまでのどんな開発よりも地味で、そして根気のいる作業だった。
何千、何万という大きさの違う歯車を、アシュフォード鋼から一つ一つミクロン単位の精度で削り出していく。
それらの歯車を設計図通りに、巨大な真鍮のフレームへと組み上げていく。
わずか一つの歯車のほんの僅かなズレが、計算結果全体を狂わせてしまう。
学生たちは食事も睡眠も忘れ、まるで何かに取り憑かれたかのようにその精密な機械の組み立てに没頭した。
彼らの頭脳は複雑な数学の論理を追い求め、その指先はそれを物理的な形へと具現化していく。
俺は彼らの指導をしながら、この光景にある種の感動を覚えていた。
戦争という究極の破壊行為に備えるために、俺たちは今、人類の知性が生み出した最も創造的で最も美しい機械を作っているのだ。
その矛盾こそが、科学技術というものが持つ宿命的な業なのかもしれない。
数ヶ月後。
工房の中央に、ついにその異様な機械が姿を現した。
それは、高さ二メートル、幅三メートルにも及ぶ真鍮と鋼鉄でできた歯車の城だった。
無数の歯車が複雑に、そして有機的に絡み合い、まるで時を待つ巨大な生命体のように静まり返っている。
『階差機関(ディファレンス・エンジン)一号機』。
俺は最初の計算プログラムとして、単純な二次関数の数表を作成するよう入力装置に歯車の初期設定を施した。
そしてクランクハンドルに、ゆっくりと力を込める。
ギギギ……。
重い金属音と共に、最初の歯車が回転を始めた。
その動きはドミノ倒しのように、隣の歯車へ、そのまた隣の歯車へと次々と伝わっていく。
工房の中は、何千もの歯車が一斉に回転し、噛み合う、複雑でしかし調和の取れた金属音のシンフォニーに包まれた。
カチャリ、と。
出力装置に繋がれた活字のハンマーが動き出し、羊皮紙の上に最初の計算結果を自動的に刻み込んだ。
『1』
さらにクランクを回す。
歯車が再び複雑な計算を行い、次の結果を導き出す。
『4』
『9』
『16』
それは間違いなく、入力された関数の正しい計算結果だった。
俺たちが作ったこのただの金属の塊は、確かに「思考」していたのだ。
「……動いた」
学生の一人が震える声で呟いた。
次の瞬間、工房はこれまでの苦労が全て報われた歓喜の雄叫びに包まれた。
「やったぞ! こいつ、本当に計算してる!」
「俺たちの子供だ!」
彼らは抱き合い、涙を流し、自分たちが生み出した人類史上初の原始的なコンピュータの誕生を心から祝福した。
俺は、静かに回転を続ける歯車の城を見つめていた。
これはまだ始まりに過ぎない。
この機械がいずれパンチカードによるプログラム入力を可能にし、より複雑な計算をこなす「解析機関」へと進化するだろう。
そしてその先には、真空管やトランジスタを使った電子計算機の時代が待っている。
情報が光の速さで駆け巡り、世界中の知性が一つのネットワークで繋がる未来。
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