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第三話 恋愛指南

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「アニー。おすすめの恋愛指南書ってある?」

 システィーナは、部屋の中で朝食を食べながら、近くに控えていた侍女のアニーにそう訊ねた。

 その直後、「何言ってるんだろうこの人」とでも言わんばかりに、アニーはまじまじと皇女を見つめた。

「失礼ながら、帝国の中で皇女殿下に勝る恋愛指南書はないのではないでしょうか。むしろ、皇女殿下がそう言った類の本を書かれれば、帝国の若い女性たちが買い占めてベストセラーになると思います」

 システィーナは侍女の率直な感想を聞いて、頭を抱えた。
 
 長年専属侍女として仕えているアニーでさえ、システィーナのことを百戦錬磨の恋愛マスターだと思っているのだ。

 たしかに、帝国の中で最も有名な遊び人として名を馳せ、愛人が五人もいるからか、誰もがシスティーナを恋愛経験豊富だと思っている。

 そして、システィーナ自身もそうした噂話を否定もしなかった。

 しかし、それはただのシスティーナの見栄でしかない。

「アニー。貴方は長い間私に忠実に仕えてくれたわね」

 システィーナは肘をテーブルの上に立てて両手を組み合わせると、真剣な表情でアニーにそう言った。

 アニーは主人のいつにない真剣な声に、何を言われるのかと緊張が走った。

「貴方を信頼して言うわ。実は私、恋愛経験がまったくないの」

 アニーは一体どんな我儘や無理難題を強要されるのだろうと、いつの間にか入っていた肩の力を抜いた。
 
 そして、皇女に真顔で返事をした。

「皇女殿下。突然ご冗談を言うなんて、どうされたんですか? もしや、体調が優れないのですか?」

 アニーは「失礼致します」と言ってシスティーナの額に触れた。
 
 熱さを感じないことにほっとしながらも、今すぐに医者を呼ぼうと部屋を出て行こうとするアニーの腕を、システィーナは強く握った。

 そして、屈辱に唇を噛み締め、涙で滲んだ瞳でアニーを見上げる。

「本当なのよ!! 私、誰とも恋愛したことないんだから!」

 顔を真っ赤に染めながら叫んだ皇女に、アニーはまたしても可哀想な人を見る目で、慰めるように自分の腕を掴むシスティーナの手を握った。

「ご安心ください皇女殿下。皇女殿下の腹心であるこのアニーが、皇女殿下のご病気を治して差し上げます!!」
「ア、アニーーーー!」

 システィーナは、去っていく唯一信頼できる侍女の背中を見送りながら、床に倒れ込んだ。

「ほ、本当なのに!」

 システィーナの目からは涙が流れた。

 その後、連れてこられた医者により健康であることが証明されたにも関わらず、アニーはシスティーナをベッドに寝かせて甲斐甲斐しく世話を焼く始末だった。

「全く! 皇宮で働く医者は身分がいいだけで腕は中途半端ですからね! きっと皇女殿下のご病気を治してくれる腕のいい医者が帝国にはいるはずです!」

 そう言って憤慨するアニーを、システィーナは何とも言えない目で見つめた。
 
 彼女の忠誠心や献身はありがたいが、些か、いや、過剰な程のシスティーナに関する過保護な性質にはほとほと困っていた。

 完全に、システィーナの気が触れたと思っている。

 このままでは帝国中の腕がいいと評判の医者を見つけるために、皇宮を飛び出して行きかねない。

 システィーナは、アニーに信じてもらうにはどうすればいいか考えた。
 システィーナにとって、アニーの理解は必要不可欠だった。

 何故ならシスティーナには、アニー以外の相談できるような親しい女性がいないからだ。
 
(アニーに、私が恋愛弱者だと分かってもらうにはどうすればいいの!?)

 あまり頭の良くないシスティーナには、どうすればアニーを協力者にできるか全く方法が思いつかなかった。

 この調子では、システィーナがありのままの現状を訴えれば訴えるほど、病気が悪化したと取り乱すに違いない。

 ちょうどその時だった。

「皇女殿下。へクターです。入ってもよろしいでしょうか」
「もちろんよ!」

 ノックと共にかけられた声に、システィーナは素早く反応して入室の許可を出した。

 彼がちょうどいいタイミングでやって来たと、システィーナは喜んだ。

 空気を読んで退出しようとするアニーを何とかして引き止める。

 皇女の自室を直接訪ねることのできる人物は、皇族や使用人を除いては、たったの五人しかいなかった。

 その中の1人、ヘクター・オースティン侯爵は、皇女の自室に入るなり、いつもはいないはずの侍女が当たり前のようにベッドに座る皇女の傍に佇んでいるのを見て眉を顰めた。

 その反応を察して、アニーは益々自室から出ようと退出を願い出るが、システィーナは掴んだアニーの手を離さなかった。

「久しぶりねヘクター! 貴方は本当に有能な男だわ。ちょうどいいタイミングで、こうして顔を出してくれたんだもの」

 ヘクターは、いつになく上機嫌な皇女の姿に、怒りの感情のままに尋ねたことも一瞬忘れてしまった。
 
 いつも鬱陶しそうな目で邪険に扱ってくる皇女は、機嫌の良い時にだけ、こうしてヘクターに無邪気な笑みを見せてくれる時がある。

 この時だけは、普段様々な感情に押し潰されては苦しんでいるヘクターの心を喜びで満たしてくれるのだ。

 ヘクターは、思わずにやけそうになる口元を引き締めて、敢えて厳しい表情を見せた。

 そんなヘクターの様子を訝しんだシスティーナは、まずヘクターの来訪理由から尋ねることにした。

「それで、何の要件かしら」
「まずは、そこにいる侍女を下がらせていただけませんか」
「あら、私の侍女にも聞かれてはいけない内容なの?」

 システィーナは、ヘクターのこの言葉で、どうしてアニーにこれまで彼らとの関係が誤解されていたのかやっと理解した。

 いつもは五人のうち誰か一人でも部屋へ訪ねてくるたびに、アニーは勝手に気を利かせて自室から出て行っていたのだ。

 そして、そのことをシスティーナも彼らも全く気にしたことはなかった。
 むしろ当たり前だと見送っていた。

 しかし、システィーナは今日だけはアニーを下がらせるわけにはいかなかった。

 彼らと自分との本当の関係を理解してもらうために。

 ヘクターは一向に侍女を退出させないシスティーナに、眉間の皺を深くして不機嫌になった。

 しかし、皇女であるシスティーナがそうと決めたのならどうすることもできないと、目の前の侍女のことは居ない者として扱うようにするしかなかった。

 ヘクターは一息ついて冷静になると、皇女の自室を訪ねたわけを語り始めた。

「――舞踏会で、あのミハイル宰相補佐官に交際を申し込んだと言うのは本当ですか」
「あら、もう噂になっているのね」
「……! あの噂は事実なのですか。あれだけ忌まわしいと目の敵にしていたミハイル補佐官を、6番目の愛人にするおつもりですか!」

 ミハイルは、胸の中で渦巻く激情のままに、システィーナを問いただした。

 皇女殿下に対して、あまりにも無礼すぎる言動だったが、システィーナ皇女の「2番目の愛人」という異名を持つヘクターには許されていた。

「いいえ、違うわ」

 システィーナは、あっけらかんと答えた。

 ヘクターはその返答に安堵しながらも、どこかいつもと違うシスティーナの様子に違和感を感じた。
 その違和感の正体を、すぐにヘクターは理解する事になる。

 次に皇女から告げられたのは、予想外の言葉だった。

「私、ミハイルと正式にお付き合いしたいの。だから、貴方との関係ももう終わりにするわ。そもそも私たち、本当の愛人関係ではないでしょう?」

 
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