怪奇蒐集録

華月雪兎-Yuto Hanatsuki-

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ツギハギだらけの怪物は笑う

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 鏡越しに映る見慣れないナニか。

 触れてみる。凸凹と隆起した無数の縫合跡の上をなぞるように指先を滑らせる。

 そこに映る姿を凝視して、眼球をぐるりと回しながら隅々まで目を配らせた。

 ぎだらけの身体。

 繋ぎ目を境いに色の違う肌。左右で目や耳の形も違う。他にも至る所、形や大きさ、質感までも全くの別物だった。

 ・・・違う、違う、違う違う違う。どれもこれもちぐはぐだ。


 右目はきっと隣の席の石田くん。

 左目は多分、学級委員の簑原みのはらさん。

 唇は・・・毎日見ていた親友の佳那かなだ。

 腕も足も表面を覆う皮膚も、そして身体の中の臓器さえ、別の誰かの何処かを混ぜ込んで、継ぎ足して。

 ここに私の物なんて殆ど残ってはいない。


 ————くように声を絞り出す。


「あ・・・ガ、っ・・・・・・じぃ、グッ———」


 ・・・ああ、そうか。声までも自分じゃなくなったのか。



 何で、何で私がこんな目に———————

        ・・・・・・・

      ・・・・・・・

    ・・・・・・・

 ・・・・・・あれはそう、修学旅行で京都に向かう観光バスでの出来事だった。

 四泊五日、京都の旅。

 学校行事とは言え、日常から離れて友達とワイワイ出来るお泊まりイベントは高校生の私達にとって実に魅力的で、皆いつも以上に浮き足立っているようだった。


 サービスエリアでの事だ。

 三十分の休憩を挟んで、出発の合図と共にバスの扉が閉まる直前、運悪く頭のイカレた男が乗り込んで来た。

 最初は何が何だか分からなかったが、男の怒声を聞いてバスが出発した後にそれがバスジャックであると気が付いた。

 楽しい旅行ムードから一転し、バスの中は恐怖に染まる。

 しばらく走ると、男は何を思ったのか懐から拳銃を取り出し、あろう事か走行中の車内で運転手の側頭部目掛けて発砲した。

 運転手は頭を撃ち抜かれ即死。

 危機迫る状況、阿鼻叫喚あびきょうかんに包まれる車内。

 バスはそのコントロールを失い、運転手不在のまま、アクセルベタ踏みで峠を攻めるように走ると、躊躇ためらう事なくガードレールを突き破って崖下へと消えて行った。

    ・・・・・・・

      ・・・・・・・

        ・・・・・・・

 意識が微睡まどろむ中、夢から覚めるように私はこの世界へと還って来た。

 状況が理解出来ず、両の目を右往左往して室内を見渡す。

 いで、身体中に取り付けられた無数のくだやコードの存在に気付く。

 これは・・・。そこは病室のベッドの上だった。

 身体中に巡らされたそれらを無理やり引き抜くと、虚脱状態の中、何とか力を込めて上体を起こす。

 裸足のまま床に足を着けてみると、タイル貼りの床は想像以上に冷たくて、私は一瞬、身体を強張こわばらせた。

 取り敢えず立たなくては。そう思った私は気力を振り絞り何とか立ち上がると、ゆっくりと震える足を前へ前へと送り出す。

 ・・・大丈夫、何とか歩ける。


 そう思った矢先、頭の中であの事件の記憶がフラッシュバックして一瞬パニックを起こしそうになった。

 ただ、不思議な事にそれも乱れた呼吸と共に直ぐに落ち着いた。


「・・・そうか、私は助かったんだ」


 そう安堵したのも束の間。

 目の前の鏡を見たら————そこには知らない人が立っていた。


「・・・・・・誰?」


         ◆ ◆ ◆


「これはまさに奇跡なんですよ。あの状態で助かる訳がないのですから」


 脂ぎった声でそう告げられた。

 鈍る頭、思考が追い付かない。

 目の前で私に死刑宣告以上の真実を突き付けて来るこの男は、白衣を着ているところから見て、きっと医者なんだと思う。
 


 スピード全開のまま崖から三十メートル下に落下した挙句、衝撃でガソリンに引火して大爆発を起こしてからの大炎上。

 担任の先生も、クラスの皆も、運転手も、バスガイドも、そして例のバスジャック犯も漏れなく全員ご臨終。

 何故か私だけが助かったみたいだけど、救急隊員が駆け付けた時には全身ぐちゃぐちゃのバラバラ。

 辺り一帯を巻き込んで炎上した所為せいで全身は真っ黒に焼き上がっていたらしく、溶けた表面がバスの床に貼り付いていたそうだ。

 そんな状態だから、当然、原型なんて留めている訳も無く。

 それなのに、あの時の私にはまだ辛うじて意識があった。


「何故生きているのか分からない」


 救急隊員の言葉だ。

 そんなの私にも分からない。

 バラバラになった断面を炎が焼いて止血された事で失血死を免れたんだと苦笑いを浮かべながら無理な説明をされたが、それがどんなに荒唐無稽こうとうむけいな事だとしても、事実、私は生き長らえてしまった。


「あなたを助ける為にはこの選択肢しかありませんでした。ご理解下さい」


 私を除く男女合わせて四十名強の遺体から拝借した部位を寄り集め繋ぎ合わせ、それでも足りない所は人工的に作って代用して、さながらプラモデルでも作るようにして出来たのが今の私と言う訳だ。



 私には鮎川美織あゆかわみおりと言う名前がある。

 だが、果たして私は本当に〝私〟と言えるのだろうか?

 自分だった物・・・・・・はほとんどあの事故現場に置いて来た。

 病院に持ち込まれた私だった部分の大半は使い物にならないからと取り除かれた。

 私が私であると言える部分は目には見えないこの記憶だけで、それさえも最近はあやふやになって来た気がする。


 海外の物語でこんな怪物が出て来なかったっけ?


 ・・・・・・そうだ。確か〝フランケンシュタイン〟だ。

 無数の死体から作られた人造人間。

 鮎川美織と言う人間をベースにしているだけで、無数の死体から作られたと言う意味ではほとんど変わらない。


 そうか、私は人の手によって作られた化け物なんだ。


 何故?何故こんなむごい仕打ちをするんだろう。

 こんな姿になってまで私は生きたくなかった。

 あの時・・・・・・いっそ皆と死にたかった。



 リハビリには数年を要すだろうと言うのが担当医の見立てだ。

 来る日も来る日も検査、リハビリ、検査、リハビリ—————毎日がその繰り返し。

 何の薬なのかも分からない錠剤を言われるがまま大量に飲み、管を通して何かの液体を身体の中に注入される。

 そしてそれ以外の時間は病室のベッドで何十本もの管に繋がれて過ごす。


 自分の姿も声も失って、身体は思うように動かず、薬が切れると全身を刺して焼かれるような痛みにさいなまれる。

 腕は注射の跡が痛々しく、あちこち痣になっていた。

 これが地獄でないとしたら何だと言うのか?

 苦痛に耐えながら同じ事を繰り返すだけの毎日が何ヶ月も続いて、段々と私は自分が実験動物なんじゃないかと思えて来た。


 ああ・・・頭がおかしくなりそうだ。

 いや、既におかしくなっているのかも知れない。

    ・・・・・・・

      ・・・・・・・

        ・・・・・・・

「鮎川さん、身体の調子は如何ですかな?」

「相変わらずです。数ヶ月前と比べて私は良くなっているんでしょうか?自分では治って来てるとは思えなくて・・・」

「ははは、あれだけの事故に遭われたんだ。身体の九○パーセント以上を移植するような状態でこうして生きておられる。これは世界的に見ても初めての症例なんですよ。焦らないで下さい。時間は掛かりますが必ず以前のような生活に戻れますから」

 相変わらず脂ぎった声だ。

 何度も繰り返し言われた言葉に胃もたれしそう。そんな私の心情を知ってか知らずか、男は満足そうに胡散臭い微笑を湛えていた。


「先生、そう言えば・・・」

 病室を出ようとしていたその背中に私は言葉を投げた。

「最近、ずっと変な夢を見るんです」

「ほう。それはどんな夢です?」

「夢の中で私は男になってるんです。金属の台に寝かされて、両手足を縛られてる。上からは強い光を当てられてて凄く眩しくて。逆光で顔は見えないんですけど、何人か人が居た気がします。それで・・・その・・・身体が切り刻まれてる」

「成る程。それは怖い夢でしたね」

 また私の横に座ると、話しに興味を示したのか、男はその顔をグイッと近付けて前のめりの姿勢になった。

 ぎょろりと見開かれたその顔は何処かガマガエルのようで、何とも言えない気持ち悪さにゾワっとした。

 私は平静を装っているつもりだったが、衣服の下では鳥肌が全身に広がっていく。

「そ、そこでいつも目が覚めるんです」

 男は興奮気味に鼻の穴を大きく膨らませ、その鼻息を荒くする。

 その目は話しの続きを暗に促しているようだった。

 近い近い!これ以上近付かないで!

 私は心の中で叫んだ。

 そうだ、視界に入れるから駄目なんだ。

 私は一度目を閉じて深呼吸すると、男の方を見ないよう視線を外した。

 うん、少しは気が楽になった気がする。

 私は咳払いを一つすると、続きを話し始めた。

「えーと、夢だから痛みはないんですけど、凄くリアルな夢で、実際に自分が切られたみたいなんです。だからか、起きてからもその箇所が痛む気がして・・・」

「・・・鮎川さん。夢は夢ですよ。人は思い込みの強い動物です。頭がそうだと思い込む事で脳が本当の出来事だと錯覚してしまう。だから気にしないのが一番です」

「で、でも!最近は毎日その夢を見るんです。頭がどうにかなりそう・・・」

 私は頭を抱え項垂うなだれた。全身の力が抜けていくようだ。

 男は一通り聞き終わると立ち上がり、また扉の方へと歩き出した。

「そんなにお辛いなら普段出しているお薬より強力な物を出しておきましょう。大丈夫、これでぐっすり眠れますよ」

 私に背を向けたままそう言うと、男はそのまま病室を後にした。

 一瞬見えたその口許くちもとは・・・笑っていた気がした。



 そう言えば、夢の問題以外にも気になる事があった。

 普段は気にも留めていなかったけど、ちょっとした時に出る癖や仕種しぐさ

 座っている時、気付くと無意識に脚を広げている事が増えた。

 ちょっとした時に顳顬こめかみを掻いていたり、ふと気付いたら眉間に皺を寄せていた。

 どれも何でもない行動だが、そのどれも以前の私には無かった癖だ。

 味覚も変わったのか、味の好みも変化して、大好きだった甘い物が食べられなくなったし、匂いにもやたら敏感になった。

 性格も、私自身、驚くくらい怒りっぽくなって、ある時なんて擦れ違い様に知らない人に舌打ちをして罵声を浴びせていた。

 一つひとつは小さい事だけど、一つ見付けたらどんどん気になる所が出て来て、その違和感は私の中で次第に大きくなっていった。



 何故こんな事が起こってるんだろう?

 そう考えていた時、ふと昔読んだ本の事を思い出した。


『記憶はどこに宿るのか?』

 そんなタイトルの本だったと思う。

 その著者曰く、

「記憶は脳に保存されているだけにあらず。神経を通して細胞に刻み込まれ分子レベルで身体その物に保存されている」

 そんな事が書かれていたと思う。


 それが本当なら、この身に覚えの無い癖や無意識の行動はこの身体の本来の持ち主達が持っていたものではないかと言う結論に至った。

 だとしたら・・・やっぱり私は私ではないのかも知れない。

 私が私である事を示すのは私の中にある記憶だけ。

 でも、その記憶も身体に刻まれた別の人の物だったとなったら、もう自分自身すら信用出来ない。


 不安定になった心のバランスが大きく揺らいでいく。


ああ〟〟・・・嗚呼ああああああああああああああ〟〟〟〟〟〟〟〟〟〟〟〟〟〟〟〟っ‼︎」


 私はパニックを起こすように思わず叫んだ。

 次の瞬間、突然、全身が酷い痒みに襲われる。

 身体の中を虫が這い回っているような感覚に陥って、その不快感にこらえ切れなくて、私は爪を立てガリガリと力の限り掻き毟った。

 それでも痒みは消えるどころかどんどん増していき、自分の爪で皮膚を突き破り、その下の肉がえぐれ、血が滲んで来てもお構い無しに掻き続けた。
 

 ・・・・・・やっと気持ちが落ち着いて、痒みも段々とおさまって来た。

 ふと自分の身体を見ると全身が傷だらけで入院着もベッドのシーツも血塗れだった。

 ジンジンと傷口が痛む。だが、それすらもどうでも良い事のように思えて。

 虚ろな目で視線を落とすとベッドの脇に薬の束が置かれているのが見えた。

 私は何を思ったのか、それらを鷲掴むと、そのままゴミ箱に投げ捨てていた。


         ◆ ◆ ◆


 夜中二時を回った頃。私はまたあの夢にうなされて目を覚ました。

 夢の中の私はやっぱり身体中を切り刻まれていた。

 昼間、自分が掻き毟った所が痛んで、余計に夢の出来事が強調される。

 自分が何かの実験体モルモットになって身体中を切り刻まれる様を想像し、ブルっと身震いした。

 あの夢には何か意味があるのだろうか?

 何かの暗示?それとも、あの夢も誰かの記憶が見せている事なのか。

 だとしたらそれは一体・・・?

 駄目だ。完全に目が覚めてしまって眠れそうも無い。

 薬を飲まなかった事が悔やまれたが、捨ててしまった物を再度拾い上げて飲む気にはなれなかった。


 気分を落ち着かせる為に外の空気を吸えれば・・・そう思ったが、残念ながらこの病室には何故か窓が無い。

 と言うより私が知る限り・・・・・・、この建物には窓が無いのだ。

 お陰でこの数ヶ月、私は太陽の光を見ていない。

 閉鎖された空間で過ごしているから余計に息が詰まる気がして、どうにかならないかと私は溜め息を吐いた。


 その時、「そう言えば」と私は思い直した。

 数週間前にたった一度だけ窓を見た気がする。

 あれは何処だったか?

 ・・・確か、担当医のあの男が不在の時、代わりの人が来て、いつもと違う場所に連れて行かれた時の事だった。

 代理で来たのは気怠そうな雰囲気を隠そうともしない陰気な男で、私の身体を値踏みするように上から下、下から上へとねっとりとした視線を執拗に送って来る気持ちの悪い男だったと記憶している。

 思い出したくもない顔を思い出して寒気を覚えたが、あの男に案内されて入った部屋には確かに小さな窓が一つあった。

「あそこに行けば外が見れるかも。この時間なら・・・流石にあいつも居ない、よね?」

 薬を飲んでいない所為か、全身が痛む。

 それでも、ほんの少しでも外の世界を感じたくて、身体中に繋がれた管やコードをあの時のように引き抜くと、私は初めて自分の意思で病室を抜け出したんだ。



 廊下に出ると、人の気配は無く、しんと静まり返っていた。

 空気が冷んやりとしていて、肌寒い。

 壁に手を添えて何とか寄り掛かりながら私は目的地までの歩みを進めていた。

 暗闇の中、非常口を示す緑色の誘導灯だけがうっすらと廊下を照らしている。

「・・・はあはあ、はあ、」

 数分も経たず息が切れる。

 ゆっくり歩いているだけなのに、全身から汗がじっとりと滲む。

 何て事はない距離にも関わらず、今の私にはフルマラソンを走っているに等しい行為だった。

 滲んだ汗が傷口に沁みて、その痛みから私は奥歯を噛み締めた。

「確か・・・あそこのエレベーターでっ————」

 震える手を何とか伸ばし、上階への呼び出しボタンを押す。

 ・・・しかし、反応は無い。

 二回、三回とボタンを押してみるが、エレベーターがその重い口を開く事は無かった。

「う、嘘・・・そんな」

 やっとの思いで此処まで来たのに・・・私はその場に崩れ落ちた。

 耳を澄ませてみてもエレベーターの作動音は無く、良く見ればエレベーター横に取り付けられたディスプレイも階表示をする事無く真っ暗なまま。

 夜中とは言えエレベーターの電源を落とす事などあるのだろうか?

 何にしてもエレベーターは使えない。

 まともに動かない身体故にその絶望感は相当なものだった。

 だが、まだ階段がある。

 そう思って階段室へと繋がる鉄扉に手を掛けるが、「ガンッ!」と言う音が響くだけで押しても引いても扉はビクともしなかった。

 長い廊下を西へ東へ。

 立っているのもやっと言う状態だったが、私は這ってでも進んだ。

 しかし、その頑張りも虚しく、非情な事に扉は全て施錠されていた。


 それでも、それでも私は諦め切れなかったんだ。

 私の中の何がそうさせたのか自分でも分からなかったが、この全身を突き刺すような痛みを押してでも、私は進まないといけない気がした。

「まだっ、非常階段、がっ・・・あるっ」


 それは・・・ただ外の景色を見たいと言うだけでは無かった。

 歩きながらもずっと考えていた。

 あの時、代理の男に連れられて入った部屋。

 無造作に物が積まれた部屋だったが、そこで散らばるように置かれていた難しそうな本や書類の山の中で一枚の写真が目に留まったのだ。

 遠目から一瞬見えただけだけど、思い返してみれば、その写真には見覚えのある顔があった。・・・あのバスジャック犯だ。

 表情こそ穏やかな顔をしていて、バスの中で見たそれとはまるで別人のような風体だったが、間違い無い。

 何故、そんな大事な事を今の今まで忘れていたのか。自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。

 だけど、今はそんな事を言っている場合では無い。

 この病院にはきっと何かある。

 そんな気がしてならない。

 あの部屋に行けば、何かしらの手掛かりを掴めるかも知れないんだ。


 非常口の前に立つと、私は恐る恐るドアノブに手を掛けた。

 この扉まで閉まっていたらもうお手上げだ。

 この階から出る事は叶わない。ドアノブを掴んだ手が震える。


「お願い!開いて!」


 私は祈るような気持ちで、意を決しドアノブを回す。

 すると「ガチャッ」と言う音を立て、扉はゆっくり開いていく。

 蝶番が扉の重さで軋み、鉄扉特有の音が鳴る。

 良かった、祈りが通じた!

 喜びを表現したいところだったが、鉄扉は弱った今の私には想像以上に重く、苦虫を噛み潰したような表情になった。

 思うように力が入らない。

 私は扉に寄り掛かるようにして何とか扉を押し開けると、人一人分入れる隙間が出来たところで倒れ込むようにして中に身体を滑り込ませた。

 その直後、私の手を離れた扉は勢い良く閉まり、階段室には大きな音が鳴り響いた。



 ————そうして私はやっとの思いで目的の階へとやって来た。

 以前の私なら物の数分もあれば来れたであろう道程みちのりに、まさか一時間以上費やすとは思ってもみなかった。

 無理をした事で、そろそろ身体も限界に近い。痛みも増して行くばかりで歩きながらひたすらナイフで刺されているような感覚。

 実際、こうして動き回る事で、掻き毟った傷が開いたのか、あちこちから血が滲み出し、入院着に染みを作りながら袖口や裾から赤い雫が滴り落ちて廊下に私が通った痕跡を残していた。

 確かこの角を曲がった廊下の先、突き当たりに例の部屋があったはずだ。

 私は辺りに視線を配りながら、なるべく音を立てないよう慎重に進んだ。

 と言うよりも動かない身体ではこれ以上の歩行速度は望めない訳だが。

「えっ、誰か・・・居る?」

 薄暗い廊下。目を凝らすと十数メートル先にうっすらと明かりが見える。

 それはまさに自分の目的地である例の部屋ではないか。

 扉は僅かに開いていて、そこから漏れた明かりのようだ。

 息を殺しながら一歩、また一歩と扉の前まで近付いて行く。

 大丈夫、音は立ててない。

 誰か居たとして、きっとバレない・・・はず。

 心臓の音が嫌に耳に付いてしまう。

 心拍数の上昇と共に息が漏れそうになるのを必死に堪え、扉の隙間に顔をそっと近付けた。

 耳を澄ますと中から聞き覚えのある声が二つ。


「神田先生。例の患者はどうなったんですか?」

「昼間、話しを聞いてみたんですがね。段々と思い出して来てるようですな」

 例の陰気な男と担当医の男だった。

 一体何の話しをしているんだろうか。

「思い出す?ああ、前山田の一件ですか?」

「ええ。まあ、思い出すと言っても彼女はどうやら夢だと思っているようですがね。脳の欠損を補う為にあの男の脳を一部移植した事で前山田自身が体験した出来事と自身の体験がどうやらごっちゃになっているみたいですな」

「なら良かった。前山田が研究所を脱走するとは想定外でしたからね。それがまさかあんな形で帰って来るとは」

 二人は顔を見合わせると、卑しく品のない笑い声を上げた。

「いっそ全員あの事故で死んでくれれば証拠も残らなかったんですけどね」

「いやいや、杉浦先生。あの鮎川美織は掘り出し物ですよ。あの状態で生きてる人間など普通は居ませんからな。前山田に代わる実験体としてこれ程相応しい人物も居ない」

 自分の名前が出て来た事で思わずびくりとした。そして「実験体」と言う言葉。

 私の鼓動は否が応にも速くなっていた。

 背筋が薄ら寒くなり、背中からは文字通り冷えた汗が伝い落ちる。

「私も一度だけ間近で観察させてもらいましたが、身体中が継ぎ接ぎだらけなのには笑いましたよ。あれじゃあ本人も生き残った事を後悔してるんじゃないですか。女の子なのに可哀想に」

「杉浦先生は心にも無い事を仰る。私達は医者では無いですからな。それにあれは実験体モルモット。そこまでしてやる義理も無い」

「ははは、血も涙も無いですね。まるで時代劇の悪代官みたいだ」

「そうなると杉浦先生が越後屋と言う訳ですな?」

 今度は大きく高笑いしてみせる。

 その不快な声が室内に反響し私の耳に突き刺さった。

「そんな・・・実験体モルモットって」

 目の前が真っ暗になっていく。

「何かの実験動物みたいだ」そんな事を自虐的に考えた事は何度もある。

 だけど、まさか本当に自分が実験体モルモットだったなんて。

 そんな映画や小説みたいな事・・・・・・にわかには信じられない————だが、振り返ってみればおかしな点はたくさんあった。

 よくよく考えてみれば窓一つ無い建物なんて不自然に決まっている。

 此処が病院では無く、何かの研究施設と言うならば、この外界から隔絶するような造りにもまだ幾分か納得出来る気がする。

 何より、この数ヶ月、誰一人として面会に来る人は居なかった。

 身体の状態をおもんぱかって面会は制限していると言われたが、実際はあの事故で死んだ事になっているんじゃないだろうか。

 そもそも、これが治療で無いとしたら私が飲まされていた錠剤や身体に注入されていた液体は?

 あれは一体何の為の物だったと言うのか。

 様々な考えが頭を過ぎり、心の中は不安や絶望感、そして憤り、憎悪と言った黒い感情でどんどん満たされていった。


「それで神田先生。あの薬の効果は期待出来そうなんですか?」

「ええ、それはもう。彼女のお陰でこれ以上ないデータが取れましたからね。この調子なら来年の夏頃には実用化出来るかと」

「それは素晴らしい‼︎あれが実用化されれば軍事利用として各国が飛び付いて来ますよ。我々の地位も安泰ですね」

「幹部への昇進は間違いないでしょうな。私も杉浦先生もこんなチンケな研究所の枠に収まっているなど世界にとっては大損失ですよ。それをやっと知らしめられる」

「はははは!神田先生も言いますねえ!でもその通り。不遇な扱いはもうたくさんだ。私達が如何に有能なのかを見せ付けてやらねば」

「その為にはあの薬の完成が急務だ。自分で開発しておきながら末恐ろしい薬ですよ」

「脳の一部を麻痺させ痛みも恐怖も感じない。ただ怒りの感情だけで動き続ける兵士が生まれればそんな恐ろしい事は無いですよ。思考レベルを制限しつつ、脳のリミッターを外す事で単純な命令に従うよう仕向けられた無敵の兵士がお手軽に量産出来ると言う訳だ」

「その通り。致死レベルの傷を負っても動けてしまう。恐怖も生への執着も失くなるからその辺の一般人に爆弾でも持たせて特攻させればそれだけで脅威でしょうからね」

「いやいや、まさに鬼畜の所業。神をも恐れぬ行為とはこの事ですね」

「まあ、羽虫がいくら死んだところで私達は痛くも痒くも無いですからな。それよりも大金が舞い込んで来る。考えただけでよだれが止まりませんわ!」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 私は言葉を失った。信じられない。

 現実とは思えないその会話に夢を見ているのではないかと自身の耳を疑った程だ。でもこれは夢じゃない。

 そんな事の・・・そんな事の為に私はこんな身体に。

 その前山田と言うのがあのバスジャック犯の事に違いない。

 話しを聞いていた限り、あの男も被害者なんだ。

 今の私のように薬漬けにされ、人体実験を何度も繰り返されていた。

 脳の一部を麻痺させるとか何とか言っていた。

 それはつまり私自身に起こっている不自然な記憶の欠損もその薬によるものではないだろうか。

 全てはお金と地位に目の眩んだあの悪魔達の仕業。

 あの事故だって・・・・・・本を正せばこんなふざけた実験が無ければ、起きなかった。

 クラスの皆と、親友の佳那と、修学旅行を満喫していたはずなんだ。

 今頃は受験生らしく受験勉強に追われていたかも知れない。

 勉強なんて面倒臭いとか言いながら、友達と一緒に勉強したりして。

 そんな他愛も無い、けど確かにあった日常の全てを壊された。

 あいつらに全て奪われたんだ。

 もう皆、誰一人として還って来ない・・・。

 私は自分の身体を見詰めた。

 クラスの皆はもうこの世には居ないけど、私の身体の一部として生きている。

 私が生き残った理由は分からない。けど、これにはきっと何かしらの意味があるはずだ。

「皆死んで・・・私はこんな身体になって・・・それであいつらだけがのうのうと生きてるなんてっ—————・・・許される訳ないじゃない」

 私はやっぱりあの事故で死んでいたんだ。

 此処にいるのは鮎川美織だった何か。

 黒い感情に支配され、私の心は不安定になるどころか、酷く冷静だった。


「———そうそう、十分なデータは取れたんでしょう?あの子の始末はどうします?」

「うーん、若い娘とは言えあんなボロ雑巾のような身体ではねえ。慰み者として裏ルートで売り捌く事も出来やしない。いやあ、そう考えたらもっとマシな見た目にしてやれば良かったですな」

死体愛好家ネクロフィリアなら売れない事も無いでしょうが・・・まあ、どうせ死んだ事になってるんですからそのまま殺処分してしまうのが妥当じゃないですかね」


 私の処分をどうするかと言う密談は続く。

 話しの内容は酷く恐ろしいはずなのに、何処か他人事のようで、もう私の心が揺れる事は無かった。

 いつだか私は自分の事をフランケンシュタインになぞらえて「怪物」と揶揄やゆした事があった。

 今まで飲み続けた薬がもたらした効果なのか、それとも私の脳の一部となったあの男の記憶がそうさせているのか。

 見た目だけじゃなく、心の中まで私は怪物に成ったのかも知れない。



 ・・・ああ、あいつらが何処までも外道で良かった。

 これで心置きなく私も————になれる。
 

 私は笑っていた。

 どう言う感情かは自分でも分からない。だが確かに笑っていた。

 不思議だ。もう痛みは全く感じない。

 生まれ変わったような気分だ。

 私は何事も無かったように立ち上がるときびすを返してその場を後にした。


 その瞳とむねに消える事の無い黒い炎を宿して・・・・・・。
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