優しい彼女、そして雨

夜雨

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優しい彼女、そして雨

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「傘、使う?」
 ある雨の日の夕方、男の人が少女に傘を手向けた。少女は驚いて顔を上げた。
「え、私?」
「他に誰がいんの?使っていいよ」
「……ありがとう」
 おずおずと少女は傘を受け取った。男は手をひらひらと振って、少し先で待ってくれていた女性の傘に入り去っていった。
 その姿が、声が、少女の目に焼き付いた。忘れられなかった。忘れることなんて出来なかった。
 そしてある日、家の前で再会した。
「……あ、あの時の」
「あれ、やっぱり気付いてなかった?」
 男は笑顔のまま少女に言った。
「俺、君の隣に住んでる浅野だよ。浅野真也。まあ、まだ引っ越してきて半年も経ってないけど」
「隣……?知りませんでした。あ、傘返します」
 少女はばたばたと家に入り、傘を持ってきて渡した。
「傘、ありがとうございます」
「どういたしまして。名前、なんて言うの?」
「あ、えっと汐崎美咲、です」
「じゃあ、美咲ちゃんだね。改めてよろしく。そう言えば、美咲ちゃんって中学生?」
「はい、来年卒業ですが」
「まじか!受験生じゃん。じゃあ、俺が勉強見てあげようか?大学とバイトがない日だったら、見てあげられるよ。いらんお節介だったら、ごめんだけど」
 美咲の目が輝く。
「見て欲しいです!私、頭良い学校行きたいので」
「そっかそっか。じゃあ、頑張ろうな」
 こうして、二人は仲良くなった。週に一回、真也の家で勉強を教えてもらう。真也の教え方は上手く、覚えるのが苦手な美咲にも頭に入りやすかった。そのおかげで、美咲は見事、県内でも偏差値の高い高校に無事入学した。高校生になってからも、その勉強会は変わらなかった。
 それでも、変化はあった。美咲の中で、真也の存在が「隣の勉強を教えてくれるお兄ちゃん」ではなく、「好きな人」に変わった。
 その日も、いつものように美咲は隣に行く準備をする。母親は隣の部屋であることもあり、美咲の学力が上がったこともあり、二人の勉強会には賛成的になっていた。
 今日は、講義で遅くなるって言ってたし、何か作って行こうかな。
 そう思いながら、普段作っている晩御飯を少し多めに作った。遅くまで働いている母親に代わって、中学の頃から美咲が料理をしていた。真也は一人暮らしで、たまに家で夕食を食べることもあった。
 ふんふーんふん。ふふーん。
 鼻歌を歌いながら、肉じゃがを作る。完成してから、タッパーに真也の分をよそった。
 喜ぶかな。喜ぶといいな。
 ついでに白飯もタッパーに入れ、保温バッグと勉強道具を持って、隣のインターホンを鳴らした。
「はーい」
 聞いたことのない、女の人の声がした。
 出てきたのは、あの日、傘を貸してくれた日に隣にいた、女の人だった。
 ああ、彼女いたんだ。あの時の人だったんだ。
 美咲はすぐには何も言えなかった。言うことが出来なかった。
 彼女は少しだけ期待していた。真也との時間を重ねれば、何かが始まるのだと。漫画のように、アニメのように、はたまたドラマのように。二人の恋が、始まると思った。両想いの、失恋なんてしない、運命的な恋愛が。
「あ、あなたがみさきちゃん?いつも真也くんが勉強教えてるっていう」
「……あ、はい」
 やっとのことで声を絞り出す。しかし掠れてて、相手にも動揺は伝わってしまった。
 彼女は、びっくりしたよね、と言って自己紹介をした。はっきりと、真也の彼女と言った。
 それが、その言葉が更に美咲を追い詰めた。心が痛い。痛くて、居たくない。今すぐこの場から逃げ出したい。
 その気持ちは伝わることなく、彼女は笑顔で言った。
「真也くんまだ帰ってないし、私とお話ししない?暇だったし、私みさきちゃんと仲良くなりたいな。まあ、みさきちゃんさえ良ければだけど」
「……いいですよ」
 断る理由もなく、美咲は真也の部屋に入った。
 良い匂いがした。台所にはオムライスが置いてあった。美咲は内心で更に落胆する。
 私だってご飯持ってきたのに。
 彼女がココアを入れてくれ、二人でテーブルを挟んで向かい合う。
 数秒の沈黙。先に口を開いたのは、彼女のほうだった。
「……みさきちゃんは夢とかあるの?前に真也が、頭良い学校行きたいらしいって言ってたけど」
 お兄ちゃん、私のことそんなに話してるんだ。
 嬉しくもあり、少し悔しい感じもする。
「私、お父さんがいなくて、お母さんが私を育てる為に頑張ってて。だから、私もお母さんの為に役立ちたくて、頭良い学校行って、良い仕事に就いたらお母さんに親孝行出来るかなって」
「きっとみさきちゃんなら出来るよ。お母さん嬉しいだろうなあ」
 何も知らないくせに、そんな簡単に言わないでよ。
「私、そんなに考えて進路決めなかったなあ。楽というか、楽しそうなところ選んできたし」
「そういうものですか」
 そんな人が、お兄ちゃんの彼女でいいわけないじゃん。お兄ちゃんは目標があって大学決めたって言ってたのに。
 彼女は、大人しくて清楚な印象がある。そして見た目通りの性格。それが第一印象。
 美咲は彼女をじろじろと見る。
 まあ、女なんて媚びる為になんだってやるし、まだ信用は出来ないけど。
「みさきちゃんが羨ましいなあ。ちゃんと頑張る理由があって。私なんて、目標も夢もないから、就職どうなるんだろうって感じだよ」
「はあ、羨ましい、ですか。私はあなたが羨ましいですよ」
 いらつく。嫌味言われてるみたいじゃん。私だって、お兄ちゃんの彼女になりたかったのに。
「そう?ありがとう」
 彼女はそう言って、トイレ行ってくるね、と席を立った。一人になった美咲は、小さく独り言を漏らす。
「あの女の人、いなくなっちゃえばいいのに……」
 美咲の願望。それに反して、どうにもならない現実。
 泣きそうなくらい、泣き出してもいいくらい辛いのに、涙が出ない。ただ、心が苦しい。しばらくして彼女が戻ってきて、再び話し出す。美咲にとっては楽しくもない会話。彼女は楽しそうに微笑んで話している。
「お兄ちゃんのこと好きですか?」
 聞きたくもない質問が、自分の口から出たことに驚いた。
 彼女も驚いて、その後うんと頷いた。
「好きだよ」
 嬉しそうに目を伏せて、彼女は話し出した。それを美咲は黙って聞く。
「私、腹黒って周りに言われるんだよね。悪口全部心に溜め込んでそうって。でも私あまり他人に興味持てないから、そもそも人の悪い所を全然見つけられないの。だから、悪口ってそんなに言わなくて。そんな私を好きって言ってくれたのが真也くんなんだよ。たとえ腹黒だったとしても、俺は好きだからって。それを含めてゆりが好きだよって、そう言ってくれたのが嬉しくて、この人しかいないなって思ったんだ」
 この人は純粋なんだ。人の闇を知らない。本当に優しい人なんだろうな。
 美咲は彼女との差を感じた。自分は彼女のように真っ直ぐじゃない。そう感じた。
「みさきちゃんは、好きな人いるの?」
 にこにこと、何も知らない彼女が美咲に問う。
 それは、何も知らないからこそ、悪気のない追い討ちだった。
「……いますよ。でも、失恋しました」
 彼女が眉をひそめて美咲の傍に行く。
「そっか」
 そう言って何も言わずに美咲の頭を撫でる。その手が温かくて、優しく感じる。美咲は思わず目が潤む。
「あれ、もしかしてゆりいる?」
 その時ちょうど、真也が帰ってきた。
 美咲は、さっと俯いて涙を見られないようにする。
「おかえり、真也くん」
「ただいま。美咲ちゃんもいたんだ……って大丈夫?体調悪い?」
「ちょっと疲れてるだけみたいだから、この体勢が楽って」
 彼女がフォローしてくれた。
 悔しい。悔しくて、悲しい。
 美咲は立ち上がって、真也の隣を目も合わせず走っていった。そのまま玄関に行き、外に出る。二人が名前を呼んでも美咲は振り返らなかった。
「俺、ちょっと行ってくる」
 真也がそう言って、ばたばたと出ていった。
 残された部屋で、一人彼女は呟いた。
「ごめんね」
 それは笑いを含んだような、悲しみを込めたような、どちらとも取れるような声色だった。
 
「美咲ちゃん!待って」
 階段の途中で、腕を掴まれた。美咲はそれでも振り返らなかった。
「今、お兄ちゃんに合わせる顔ない」
「なんで、ゆりと何かあったの?」
 なんて言えばいいのか言葉が出てこない。
 もう、いいや。どうなってもいい。
「……私、お兄ちゃんが好きなの」
「え……」
 腕を握る力が弱まる。
 美咲はたまらず涙を流す。
「なのに、なんで彼女なんているの。しかもあの人も優しいし、ムカつく。なんで……私じゃないの」
「ごめん。ごめんね、美咲ちゃん」
 ぼろぼろと溢れ出す本音と涙が止まらない
 それでも、真也は黙って聞いて優しく言葉を返す。それが美咲にとっては嬉しくもあり、悲しくもあった。
「なんで……恋はうまくいかないの。あの時も、今日も」
 あの時、傘を貸してくれた日にも、美咲は失恋していた。同じクラスで仲がよかった友達に告白した。でも、あっさり振られてしまったのだ。
 そして今日も。
「美咲ちゃん、君には……」
 君には良い人が現れるよ、と言おうとしたのだろう。
 それは、美咲にも分かった。分かりたくもなかった。だから、遮った。
「優しくしないでよ!なんで、優しくしたの。何もしなかったら、好きになんてならなかったのに。お兄ちゃんの馬鹿!」
「そっか……。ごめんね」
 悲しそうな声で、お兄ちゃんが言う。
 思わず言い過ぎたと思った。
 焦った美咲は振り返って弁明する。
「ごめん、ごめんお兄ちゃん。私言い過ぎた」
 真也は笑って、そっか、と言った。
「でも、俺もごめんね。そんな風に思われてるなんて知らなかった」
 嬉しいけど、俺はゆりが好きなんだ。
 そのセリフはちゃんと耳に入ってきた。聞きたくない言葉なのに。ちゃんと。
「……分かってるよ。馬鹿」
 涙でお兄ちゃんの顔が見えなくなる。
 美咲はしばらく泣き続け、落ち着くまで真也は美咲の頭を撫でていた。
 落ち着き始めた頃、
「風邪引くし、とりあえず部屋に戻ろうか。これから雨、本降りになるみたいだし」
 真也は階段を上ろうとする。
「いいよ、今日はもう家に帰るね」
 美咲は自分の幼さに、恥ずかしくなってきた。本音、理不尽な言葉、言いたい放題だ。
 美咲はその日家に帰った。二人の時間を邪魔すると悪いし、羨ましくてそれは言わなかった。
 すっきりしたのか、家では泣かなかった。
 また、前を向いて新しい恋をはじめようと思った。
 美咲の忘れた勉強道具は後日届けられた。
 保温バッグは何故かなかったので、美咲は何も言わずにそれだけ受け取った。しかし、何も言ってこなかったことから、真也が食べたのではないのだろう。
 だったら、彼女か……。
 美咲はそこまで考えて、彼女がずっと演技をしていたのだと思い知る。
 きっと、私の食べられたくなくて、捨てたんだろうな。
 勝手な憶測に過ぎないが、多分合ってる。
 女に優しいだけのやつなんて、いないのだから。
 美咲はムカつきもせず、意外に納得した。
 そしてまた後日、案の定洗ったタッパーが入った保温バッグが彼女から返却された。
「これ、真也くん美味しいって言ってたよ。今度、私にも作ってね」
「いいですよ。でも、次は捨てないでちゃんと食べてくださいね」
「わー、嫌なガキ」
 笑顔のまま、二人は見つめ合った。にこにこ、にこにこと。その光景は見ていて少し怖く感じた。
 だけど、二人が意気投合し、仲良くなるのはまた別の機会。
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