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二章
治癒
雨はすっかり上がり、薄くなった雲は赤く染まり始めていた。
ユーフォリアは曲がった腕を反対の手で掴んで元の位置に戻すと、鈍い痛みに顔を顰めた。酷く腹が空き、濡れた身体が芯まで冷え切ったような感覚がある。もうはっきりと知覚できる、魔力が枯渇しかけた状態だった。
「……腕、それから切傷も、治らないのか?」
不意に声を掛けられて、ユーフォリアは重い首を上げてそれを横に振る。
「魔力、切れた。少し休んだら、治ると思う」
そう答えながら、ユーフォリアは自らの失態を理解していた。力や出自が暴かれるようなことになれば、アルベルトの立場まで危うくなると、屋敷で何度も念を押されたことを思い出す。
「口封じするか?」
真っ直ぐに視線を向けたままレオネルに問われ、ユーフォリアは少し悩んでから持ち上げかけた指先を下ろした。今であれば目の前の男さえいなくなれば、事態を揉み消せるのではないだろうかと思う。しかし、どうにも良い手ではないような気がした。黙って首を横に振るユーフォリアに、レオネルが頷く。
「懸命な判断だな。お前が思ってる以上に、王国騎士団の小隊長という立場は重い。ここで俺が消えたり、不審な死体が見つかってみろ。お前は国から追われる身になるぞ」
冷静な声でそう告げられ、ユーフォリアは困ったように眉を寄せた。何かを考えるような素振りの彼女に、レオネルはため息を吐き、ふと視線を逸らせる。
「ここは上手く言っておいてやる。治療のために屋敷へ帰れ。騎士団長閣下の邸宅で世話になっているんだろう?」
「……レオネル」
「早くしろ。そろそろ、下がらせた隊士が様子を見に来る。その姿は目立つぞ、なるべく人に見られないようにしろ。いいな?」
低い声で早口で続けられた内容に、ユーフォリアは頷き、負傷していない方の手を胸に当てた。
「分かった……承知、致しました。レオネル小隊長」
そう言って一礼し、半分以上泥に沈みかけた剣を拾って、ユーフォリアは風のように姿を消した。
屋敷へ戻り、いつもより重い扉を開けると、玄関ホールを掃除していたシキが悲鳴を上げた。
「お嬢様⁈ そ、そのお姿は……お手を失礼致します、ひとまずこちらへ」
なんとか狼狽を飲み込んで、シキはユーフォリアの手を引き、居室の一つへと身を滑らせる。ここで少しだけ待つようにユーフォリアに告げると、素早く部屋から出ていった。
さほど経たずして帰ってきたシキの手には、湯や清潔な布、薬草といった治療のための道具があった。砕けた鎧や破れた隊服を脱がせて、その下から現れた傷に顔を顰めてから、手早くそれらを清めて薬を塗り始める。酷く疲労した様子のユーフォリアから手短に事情を聞き、最後に包帯を巻き上げてから、シキは深々と頭を下げた。
「申し訳ございません、お嬢様。私の魔力を差し上げられれば良かったのですが、私の力は、普通の人間より大きく劣っております」
「? シキが謝ることじゃない。私が失敗した。剣だけで、上手く殺し切れなかった。ねえ、シキ。アルベルト、困る? 私のせいで、国を追われる?」
気落ちしたようにそう尋ねるユーフォリアに、シキは顔を上げて首を横に振る。
「お話を聞く限り、そのレオネルという男は多少信頼できる者かと存じます。しかし、もし万が一、この屋敷に住まうことが難しくなったとして、シキは今度こそ必ずお嬢様と共に在ります」
そうはっきりと言い切ってから、失礼します、とシキはユーフォリアの両手を取って強く握り締めた。いつもよりも少し鋭さに欠ける金の瞳が、シキの顔をじっと見る。
「ひとまずは屋敷にてお身体をお休めください。騎士団の件は、アルベルト様に判断を仰ぐべきでしょう。グレア殿には話をしてありますので、軽くでもお食事をして頂きたく存じます。消化器官の損傷については、ほとんど治癒されていると拝見しましたが、食べられそうですか?」
「うん、お腹、空いた。でも……今日は、肉じゃないものがいい」
ユーフォリアが頷き、少し気怠そうな声で答えた時、お嬢様、という聞き慣れた声と共に居室の扉が叩かれた。
食事を乗せた盆を手にしたグレアに率いられ、シキに右半身を支えられながら、ユーフォリアは二階の自室へと辿り着く。先程グレアが食事は部屋で取った方が良いだろうと提案したが、ここに来るまでに他の使用人とすれ違わなかったところをみると、それもきっと彼女が気を回してくれたのだろうとユーフォリアは思った。
「旦那様から連絡が、一時間後に帰宅されるそうです」
小さなテーブルへ、消化の良さそうなスープとカトラリーを並べながらグレアがそう告げる。一言礼を言って、スプーンを手にしてから、ユーフォリアはまた少し肩を落とした。
「グレア、ごめん。何回も教えてくれたけど、私上手に騎士できなかった」
まずは食事を摂ってくれとシキに懇願され、ユーフォリアは返答がある前にスープを口へと運んだ。恐らくは例の野菜と、それからいくつかの薬草が含まれた液体は、少し口内の傷に染みるが冷え切った身体を温めてくれるようだった。いつもより血色の悪い頬に残された引っ掻き傷が、じわりと薄くなっていくことを確認してから、グレアは部屋の床へと両膝を付き、寝台に座ったユーフォリアと目線を合わせた。
「大変失礼ながら、先程居室の外よりお話を聞かせて頂きました。ユーフォリア様、何故、件の魔獣を引き付け、駆除しようとなさったのですか?」
「? だって、すごくお腹空かせてた。あの魔獣、魔力が多くてよく食べる。だから、あそこで殺さないと、レオネルたちも、それからグレアやシキたちも、市場の人間も、皆残さず全部食べられる。そしたら、アルベルトも、私も困る」
すぐに食事を終えたユーフォリアがスプーンを置き、酷く眠そうな顔で呟くように答える。シキがその身体を寝台へと横たえて掛け物をかけた。グレアは立ち上がり、ぼんやりとした表情でこちらを見上げるユーフォリアに微笑みかける。
「それが、騎士というものだと思いますよ。それから、今がその機会かは分かりませんが、はっきりとお伝えしておきます。私たちは、旦那様にお仕えすると同時に、ユーフォリア様のことも屋敷の主人と思っております。仮に国から処罰を受ける身になろうとも、ここを出て行かせるような真似は、断じてさせませんので、どうぞ覚えておいてください」
ゆっくりと子供に言い聞かせるような言葉に、シキが微かに肩を震わせた。彼女が先程の会話を受けて、シキに向かっても告げていることは明らかだった。
「どう、して……?」
「私たちも皆、ユーフォリア様のことを大切に思っているからですよ。お嬢様が私たちを、そう思ってくださっているように」
グレアが返答を返した時には既に、ユーフォリアの瞼は重く閉じられていた。
「――、――、ユーフォリア」
「ぅ……アル、ベルト――んんっ」
微睡から意識が浮かびかけた途端に、唇に熱が触れたかと思うと、眼前に差し出された甘美な魔力の気配に、ユーフォリアはすぐさまそれを手繰り寄せるように引いた。感じる熱の向こう側から流れ込む力は、己のものでは無いにも関わらず負傷した身体によく馴染み、枯渇した組織が満たされていくのに合わせて体内から傷が治癒していく感覚がある。
冷たい空腹と虚な寒さがもどかしく、目の前の温かな熱源へと一層深く干渉するためにその身体を引き倒す。あの巨鳥よりも随分と小さな身体は、それでも己のものより一回りは大きく、獲物を逃さないよう両腕を上から押さえつけた。再び深く合わせた唇から唾液と共に力を引き出し、両手足がすっかり治ったことを確認して、太い腕を掴む手の力を増す。持ち上げた頭を首元に埋め、腕よりずっと柔らかな肌が唇に触れたところで、鼻に届いた慣れ親しんだ匂いに、ユーフォリアははっと顔を上げた。
「っ……アルベルト、生きている?」
少し心配そうにこちらを見下ろす彼女に、アルベルトは微かな苦笑いと共に頷く。さすがに牙を立てられる前には止めてやるつもりだったが、自ら身を引いてくれたことは僥倖だと思った。
「ああ、問題ない。それよりも、傷は」
「魔力貰って、だいたい治った」
「少し診させてもらっても構わないか?」
ユーフォリアが頷くと、アルベルトは腹に跨った彼女の身体ごと身を起こす。軽く纏われた衣服の合わせを開き、全身に巻かれた包帯をそっと解いた。突き出された腕は、骨の具合は問題なく、しかし肌の表面には打撲痕や切り傷が残されている。手足といった身体の先端から順に状態を調べ、目や耳などの感覚の確認と、最後に指先で胸元から脇腹にかけてなぞってから、アルベルトは眉を寄せた。
「細かな傷の他に、潰されたという臓器の一部と、背中の筋に負傷が残されているな。このままもう少し続けても構わないか?」
「うん。アルベルトに、任せる。怪我してると、上手く制御できないみたい。危うくアルベルトのこと、食べるところだった」
「分かった、苦しいところがあれば言え」
そう言って、アルベルトは再びユーフォリアの身を寝台へと横たえた。先程調べた全身の負傷箇所に、なるべく負荷が掛からないように体勢を調整してやりながら、耳の後ろから首筋にかけて唇を滑らせる。二時間程前に詰所で受けた報告によると、左耳は一時はほとんど千切れかけていたという話だが、既に完治したそこに彼女が痛みを感じている様子はない。肌を触れさせ、時折滲む涙を吸い取って、出来る限り魔力を流し込みながら行為を進めていく。最悪、彼の身を裂いて血液経由で与えてやらなければ駄目だろうかと詰所を出ながら考えたが、干渉ができる程度にまで治癒が進んでいて幸いだったとアルベルトは思った。
「っ、あ――」
手早く慣らしたそこへ彼の身を繋げると、ユーフォリアの白い喉から微かな声が漏れた。苦しいか、と彼が問うと、ユーフォリアはほんの少しだけ息を荒げて、首を横に振る。
「大、丈夫、少し、熱かった、だけ」
吐息の合間にそう告げて、ユーフォリアの両腕がアルベルトの首に回される。彼女の目の下に微かに残された切り傷にそっと指先を滑らせてから、アルベルトは先程までよりもずっと体温の上がった柔らかな身体を支えるように抱き締めた。
「アルベルト、急いで帰らせてごめんなさい」
枯渇した魔力が回復し、すっかり傷の治ったユーフォリアは、寝台の上にぺたりと座ってそばに立つ男を見上げる。少し丸くなった背に羽織らせるように衣服を掛けてやりながら、アルベルトが首を横に振った。
「こちらも先に謝罪しておくことがある。勝手だが、お前の素性について、先程レオネルのみには共有させてもらった」
事後報告となってすまない、と続けるアルベルトに、ユーフォリアも頭を横に振る。あのようなところを見られておいて、これ以上隠そうとすることが不可能であることも、そして恐らくは彼がアルベルトをここに寄越してくれたのだということも理解していた。
「私、騎士団辞めないとだめ?」
「いや、それについては問題はない。ただし、城の中でその話はしないよう気をつけろ」
ぽんと頭に置かれた手に、ユーフォリアが少し俯いていた頭を上げる。顔まで滑り降りてきた手のひらへ頬を擦り付けてから、やはりいつもと少し違う感触に、困ったように眉を下げた。
「アルベルト、いつもより熱い。迷惑かけられて、怒っている?」
金色の瞳がじっとアルベルトの目を見据える。否定の言葉を発そうとした口を一度閉じて、彼は彼女の目をまっすぐに見返した。
「そのようなことで腹を立てはしない。私に怒りがあるとすれば、それは、お前が危うく命を落としかけるような危険を冒したことについてだ」
アルベルトは静かに寝台へと腰を下ろし、彼女の身体の両脇に落ちた手を左右の手で取り、包むようにして握った。
「初めに言ったな、なるべく怪我をするなと。確かに、あの平野での魔獣の出没は想定外であり、逃せば市井にとっても驚異となり得た。だが、何故小隊で当たらなかった。あまりにも無謀が過ぎたと、レオネルからも伝え聞いている」
「……だって、あの小隊の人間は皆、アルベルトには必要だ。違う? あの魔獣、すごく気が立ってて、しかも雨で視界も悪かった。あのまま戦ってたら、森に逃げ込む前に、二、三人喰われてた」
ユーフォリアは姿勢を正し、両手を包む手からそれらを抜け出させると、反対に彼の手の甲を握る。微かに眉を寄せるアルベルトの顔をじっと見つめたまま、先程までよりもはっきりとした口調で続けた。
「アルベルト、私、騎士団について勉強したよ。市街に魔獣が出たとか、どうしても不測の時には、何人かを犠牲にして他の人間を守ってた。でも、隊長とか、治療が得意な人間は、餌にしちゃいけない。群れの力が弱くなるから。喰われるのは、群れで一番要らない個体だ。弱いやつか、異質なやつ。違う?」
「そうだとして、その決定は隊によって下されるべきだ。隊士個人の判断で為すべきではない。騎士は、常に集団で任務に当たるが、それはまず第一に己の命を落とさぬためだ。命を賭けて民を護るは騎士の使命だが、己を蔑ろにして守れる命などない」
間髪入れずに、少し冷たい声で返された返答に、ユーフォリアは目を瞬かせて、肩を落とす。このような彼の姿は、城の中で何度か目にした。自分なりに学んだつもりではあったが、騎士について間違えてしまったのだろうと理解し、そっと伺うようにアルベルトの顔を見上げる。
「アルベルト……私、また失敗した?」
残念さを滲ませた問いに、アルベルトは無言で首を横に振り、そっと彼女の身体を抱き寄せた。
「お前が人間のことだけでなく、王国騎士団についてすら理解を深めようとしていることは、嬉しく思う。だが、お前自身を故意に危険に晒すような行動は避けて欲しい。不要な存在だなどと、二度と言うな」
「分かった。次は、気をつける。騎士についても、もっと勉強する」
頭上から降ってきた先程までよりもずっと柔らかな声音に、ユーフォリアが小さく頷いてそう答える。彼の指示は理解したが、意図は把握できないような、そんな感覚が酷くもどかしいような気がした。
ユーフォリアは曲がった腕を反対の手で掴んで元の位置に戻すと、鈍い痛みに顔を顰めた。酷く腹が空き、濡れた身体が芯まで冷え切ったような感覚がある。もうはっきりと知覚できる、魔力が枯渇しかけた状態だった。
「……腕、それから切傷も、治らないのか?」
不意に声を掛けられて、ユーフォリアは重い首を上げてそれを横に振る。
「魔力、切れた。少し休んだら、治ると思う」
そう答えながら、ユーフォリアは自らの失態を理解していた。力や出自が暴かれるようなことになれば、アルベルトの立場まで危うくなると、屋敷で何度も念を押されたことを思い出す。
「口封じするか?」
真っ直ぐに視線を向けたままレオネルに問われ、ユーフォリアは少し悩んでから持ち上げかけた指先を下ろした。今であれば目の前の男さえいなくなれば、事態を揉み消せるのではないだろうかと思う。しかし、どうにも良い手ではないような気がした。黙って首を横に振るユーフォリアに、レオネルが頷く。
「懸命な判断だな。お前が思ってる以上に、王国騎士団の小隊長という立場は重い。ここで俺が消えたり、不審な死体が見つかってみろ。お前は国から追われる身になるぞ」
冷静な声でそう告げられ、ユーフォリアは困ったように眉を寄せた。何かを考えるような素振りの彼女に、レオネルはため息を吐き、ふと視線を逸らせる。
「ここは上手く言っておいてやる。治療のために屋敷へ帰れ。騎士団長閣下の邸宅で世話になっているんだろう?」
「……レオネル」
「早くしろ。そろそろ、下がらせた隊士が様子を見に来る。その姿は目立つぞ、なるべく人に見られないようにしろ。いいな?」
低い声で早口で続けられた内容に、ユーフォリアは頷き、負傷していない方の手を胸に当てた。
「分かった……承知、致しました。レオネル小隊長」
そう言って一礼し、半分以上泥に沈みかけた剣を拾って、ユーフォリアは風のように姿を消した。
屋敷へ戻り、いつもより重い扉を開けると、玄関ホールを掃除していたシキが悲鳴を上げた。
「お嬢様⁈ そ、そのお姿は……お手を失礼致します、ひとまずこちらへ」
なんとか狼狽を飲み込んで、シキはユーフォリアの手を引き、居室の一つへと身を滑らせる。ここで少しだけ待つようにユーフォリアに告げると、素早く部屋から出ていった。
さほど経たずして帰ってきたシキの手には、湯や清潔な布、薬草といった治療のための道具があった。砕けた鎧や破れた隊服を脱がせて、その下から現れた傷に顔を顰めてから、手早くそれらを清めて薬を塗り始める。酷く疲労した様子のユーフォリアから手短に事情を聞き、最後に包帯を巻き上げてから、シキは深々と頭を下げた。
「申し訳ございません、お嬢様。私の魔力を差し上げられれば良かったのですが、私の力は、普通の人間より大きく劣っております」
「? シキが謝ることじゃない。私が失敗した。剣だけで、上手く殺し切れなかった。ねえ、シキ。アルベルト、困る? 私のせいで、国を追われる?」
気落ちしたようにそう尋ねるユーフォリアに、シキは顔を上げて首を横に振る。
「お話を聞く限り、そのレオネルという男は多少信頼できる者かと存じます。しかし、もし万が一、この屋敷に住まうことが難しくなったとして、シキは今度こそ必ずお嬢様と共に在ります」
そうはっきりと言い切ってから、失礼します、とシキはユーフォリアの両手を取って強く握り締めた。いつもよりも少し鋭さに欠ける金の瞳が、シキの顔をじっと見る。
「ひとまずは屋敷にてお身体をお休めください。騎士団の件は、アルベルト様に判断を仰ぐべきでしょう。グレア殿には話をしてありますので、軽くでもお食事をして頂きたく存じます。消化器官の損傷については、ほとんど治癒されていると拝見しましたが、食べられそうですか?」
「うん、お腹、空いた。でも……今日は、肉じゃないものがいい」
ユーフォリアが頷き、少し気怠そうな声で答えた時、お嬢様、という聞き慣れた声と共に居室の扉が叩かれた。
食事を乗せた盆を手にしたグレアに率いられ、シキに右半身を支えられながら、ユーフォリアは二階の自室へと辿り着く。先程グレアが食事は部屋で取った方が良いだろうと提案したが、ここに来るまでに他の使用人とすれ違わなかったところをみると、それもきっと彼女が気を回してくれたのだろうとユーフォリアは思った。
「旦那様から連絡が、一時間後に帰宅されるそうです」
小さなテーブルへ、消化の良さそうなスープとカトラリーを並べながらグレアがそう告げる。一言礼を言って、スプーンを手にしてから、ユーフォリアはまた少し肩を落とした。
「グレア、ごめん。何回も教えてくれたけど、私上手に騎士できなかった」
まずは食事を摂ってくれとシキに懇願され、ユーフォリアは返答がある前にスープを口へと運んだ。恐らくは例の野菜と、それからいくつかの薬草が含まれた液体は、少し口内の傷に染みるが冷え切った身体を温めてくれるようだった。いつもより血色の悪い頬に残された引っ掻き傷が、じわりと薄くなっていくことを確認してから、グレアは部屋の床へと両膝を付き、寝台に座ったユーフォリアと目線を合わせた。
「大変失礼ながら、先程居室の外よりお話を聞かせて頂きました。ユーフォリア様、何故、件の魔獣を引き付け、駆除しようとなさったのですか?」
「? だって、すごくお腹空かせてた。あの魔獣、魔力が多くてよく食べる。だから、あそこで殺さないと、レオネルたちも、それからグレアやシキたちも、市場の人間も、皆残さず全部食べられる。そしたら、アルベルトも、私も困る」
すぐに食事を終えたユーフォリアがスプーンを置き、酷く眠そうな顔で呟くように答える。シキがその身体を寝台へと横たえて掛け物をかけた。グレアは立ち上がり、ぼんやりとした表情でこちらを見上げるユーフォリアに微笑みかける。
「それが、騎士というものだと思いますよ。それから、今がその機会かは分かりませんが、はっきりとお伝えしておきます。私たちは、旦那様にお仕えすると同時に、ユーフォリア様のことも屋敷の主人と思っております。仮に国から処罰を受ける身になろうとも、ここを出て行かせるような真似は、断じてさせませんので、どうぞ覚えておいてください」
ゆっくりと子供に言い聞かせるような言葉に、シキが微かに肩を震わせた。彼女が先程の会話を受けて、シキに向かっても告げていることは明らかだった。
「どう、して……?」
「私たちも皆、ユーフォリア様のことを大切に思っているからですよ。お嬢様が私たちを、そう思ってくださっているように」
グレアが返答を返した時には既に、ユーフォリアの瞼は重く閉じられていた。
「――、――、ユーフォリア」
「ぅ……アル、ベルト――んんっ」
微睡から意識が浮かびかけた途端に、唇に熱が触れたかと思うと、眼前に差し出された甘美な魔力の気配に、ユーフォリアはすぐさまそれを手繰り寄せるように引いた。感じる熱の向こう側から流れ込む力は、己のものでは無いにも関わらず負傷した身体によく馴染み、枯渇した組織が満たされていくのに合わせて体内から傷が治癒していく感覚がある。
冷たい空腹と虚な寒さがもどかしく、目の前の温かな熱源へと一層深く干渉するためにその身体を引き倒す。あの巨鳥よりも随分と小さな身体は、それでも己のものより一回りは大きく、獲物を逃さないよう両腕を上から押さえつけた。再び深く合わせた唇から唾液と共に力を引き出し、両手足がすっかり治ったことを確認して、太い腕を掴む手の力を増す。持ち上げた頭を首元に埋め、腕よりずっと柔らかな肌が唇に触れたところで、鼻に届いた慣れ親しんだ匂いに、ユーフォリアははっと顔を上げた。
「っ……アルベルト、生きている?」
少し心配そうにこちらを見下ろす彼女に、アルベルトは微かな苦笑いと共に頷く。さすがに牙を立てられる前には止めてやるつもりだったが、自ら身を引いてくれたことは僥倖だと思った。
「ああ、問題ない。それよりも、傷は」
「魔力貰って、だいたい治った」
「少し診させてもらっても構わないか?」
ユーフォリアが頷くと、アルベルトは腹に跨った彼女の身体ごと身を起こす。軽く纏われた衣服の合わせを開き、全身に巻かれた包帯をそっと解いた。突き出された腕は、骨の具合は問題なく、しかし肌の表面には打撲痕や切り傷が残されている。手足といった身体の先端から順に状態を調べ、目や耳などの感覚の確認と、最後に指先で胸元から脇腹にかけてなぞってから、アルベルトは眉を寄せた。
「細かな傷の他に、潰されたという臓器の一部と、背中の筋に負傷が残されているな。このままもう少し続けても構わないか?」
「うん。アルベルトに、任せる。怪我してると、上手く制御できないみたい。危うくアルベルトのこと、食べるところだった」
「分かった、苦しいところがあれば言え」
そう言って、アルベルトは再びユーフォリアの身を寝台へと横たえた。先程調べた全身の負傷箇所に、なるべく負荷が掛からないように体勢を調整してやりながら、耳の後ろから首筋にかけて唇を滑らせる。二時間程前に詰所で受けた報告によると、左耳は一時はほとんど千切れかけていたという話だが、既に完治したそこに彼女が痛みを感じている様子はない。肌を触れさせ、時折滲む涙を吸い取って、出来る限り魔力を流し込みながら行為を進めていく。最悪、彼の身を裂いて血液経由で与えてやらなければ駄目だろうかと詰所を出ながら考えたが、干渉ができる程度にまで治癒が進んでいて幸いだったとアルベルトは思った。
「っ、あ――」
手早く慣らしたそこへ彼の身を繋げると、ユーフォリアの白い喉から微かな声が漏れた。苦しいか、と彼が問うと、ユーフォリアはほんの少しだけ息を荒げて、首を横に振る。
「大、丈夫、少し、熱かった、だけ」
吐息の合間にそう告げて、ユーフォリアの両腕がアルベルトの首に回される。彼女の目の下に微かに残された切り傷にそっと指先を滑らせてから、アルベルトは先程までよりもずっと体温の上がった柔らかな身体を支えるように抱き締めた。
「アルベルト、急いで帰らせてごめんなさい」
枯渇した魔力が回復し、すっかり傷の治ったユーフォリアは、寝台の上にぺたりと座ってそばに立つ男を見上げる。少し丸くなった背に羽織らせるように衣服を掛けてやりながら、アルベルトが首を横に振った。
「こちらも先に謝罪しておくことがある。勝手だが、お前の素性について、先程レオネルのみには共有させてもらった」
事後報告となってすまない、と続けるアルベルトに、ユーフォリアも頭を横に振る。あのようなところを見られておいて、これ以上隠そうとすることが不可能であることも、そして恐らくは彼がアルベルトをここに寄越してくれたのだということも理解していた。
「私、騎士団辞めないとだめ?」
「いや、それについては問題はない。ただし、城の中でその話はしないよう気をつけろ」
ぽんと頭に置かれた手に、ユーフォリアが少し俯いていた頭を上げる。顔まで滑り降りてきた手のひらへ頬を擦り付けてから、やはりいつもと少し違う感触に、困ったように眉を下げた。
「アルベルト、いつもより熱い。迷惑かけられて、怒っている?」
金色の瞳がじっとアルベルトの目を見据える。否定の言葉を発そうとした口を一度閉じて、彼は彼女の目をまっすぐに見返した。
「そのようなことで腹を立てはしない。私に怒りがあるとすれば、それは、お前が危うく命を落としかけるような危険を冒したことについてだ」
アルベルトは静かに寝台へと腰を下ろし、彼女の身体の両脇に落ちた手を左右の手で取り、包むようにして握った。
「初めに言ったな、なるべく怪我をするなと。確かに、あの平野での魔獣の出没は想定外であり、逃せば市井にとっても驚異となり得た。だが、何故小隊で当たらなかった。あまりにも無謀が過ぎたと、レオネルからも伝え聞いている」
「……だって、あの小隊の人間は皆、アルベルトには必要だ。違う? あの魔獣、すごく気が立ってて、しかも雨で視界も悪かった。あのまま戦ってたら、森に逃げ込む前に、二、三人喰われてた」
ユーフォリアは姿勢を正し、両手を包む手からそれらを抜け出させると、反対に彼の手の甲を握る。微かに眉を寄せるアルベルトの顔をじっと見つめたまま、先程までよりもはっきりとした口調で続けた。
「アルベルト、私、騎士団について勉強したよ。市街に魔獣が出たとか、どうしても不測の時には、何人かを犠牲にして他の人間を守ってた。でも、隊長とか、治療が得意な人間は、餌にしちゃいけない。群れの力が弱くなるから。喰われるのは、群れで一番要らない個体だ。弱いやつか、異質なやつ。違う?」
「そうだとして、その決定は隊によって下されるべきだ。隊士個人の判断で為すべきではない。騎士は、常に集団で任務に当たるが、それはまず第一に己の命を落とさぬためだ。命を賭けて民を護るは騎士の使命だが、己を蔑ろにして守れる命などない」
間髪入れずに、少し冷たい声で返された返答に、ユーフォリアは目を瞬かせて、肩を落とす。このような彼の姿は、城の中で何度か目にした。自分なりに学んだつもりではあったが、騎士について間違えてしまったのだろうと理解し、そっと伺うようにアルベルトの顔を見上げる。
「アルベルト……私、また失敗した?」
残念さを滲ませた問いに、アルベルトは無言で首を横に振り、そっと彼女の身体を抱き寄せた。
「お前が人間のことだけでなく、王国騎士団についてすら理解を深めようとしていることは、嬉しく思う。だが、お前自身を故意に危険に晒すような行動は避けて欲しい。不要な存在だなどと、二度と言うな」
「分かった。次は、気をつける。騎士についても、もっと勉強する」
頭上から降ってきた先程までよりもずっと柔らかな声音に、ユーフォリアが小さく頷いてそう答える。彼の指示は理解したが、意図は把握できないような、そんな感覚が酷くもどかしいような気がした。
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