27 / 33
三章
騎士の理想
煙の流れ込み始めた応接室の壁を、ユーフォリアの四肢が蹴る。宙を舞って頭上から飛び掛かる青黒い塊を、アルベルトの剣が都度弾き返した。腕についた切傷を不快そうに一舐めしてから、低い唸り声と合わせてまたユーフォリアの毛並みが逆立つ。足場にしていた机の残骸から舞うように身を翻すと、壁際に倒れる男へと襲い掛かろうとして、振り下ろした爪を受け止めた剣身を苛立たしそうに蹴り上げた。
男は傷付いた身を床に伏せたまま、まるで獣となった女と剣を交えるアルベルトをじっと見る。暴れ狂う嵐のような女とは対照的に、アルベルトの剣はどこか悠然としており、次の一手がどこから向かってくるのか完璧に把握しているようであった。また剣と爪がぶつかり合い、アルベルトの剣が無造作に振り切られる。女は部屋の反対の壁へと叩きつけられ、机の残骸と共に山になっていたテーブル掛けの下からのそりと現れると、その傍で燻っている燭台の火を強く踏んだ。
アルベルトの頬と腕に残された深い切り傷が、見る間に薄くなっていく。昨夜の満月で彼女から供給を受けたという旨は話したが、その魔力は尚も体内で満ち溢れているようだった。男は思わず乾いた笑い声を漏らす。人の身に余る暴力的な魔力と、それを制御して剣術へと昇華させる技能、目の前にあるこの男こそが、彼が求めた『魔力の正しい活用法』だった。
「くっ、ふふ……アル、ベルト……お前ならば、確かに、王の一族郎党すらも、皆殺しにできる、だろうよ……」
「死にたくなければ黙れ。殺してから余罪をかけることもできる」
たまに咳込みながら尚も笑っている背後の男に、振り返らぬまま冷たい声で答えて、アルベルトは再び眼前のユーフォリアのみへと意識を向ける。天井から吊り下げられた照明の上に四つ足で立つ彼女は、全身の毛を逆立てて、ただ純粋な怒りをこちらへと向けていた。アルベルトの脳裏に、ふと、あの最初の城塞の夜が浮かぶ。薄暗い執務室で、どこか呑気に天蓋を揺らしていた姿とは似ても似つかないものだと、思わず微かな苦笑いが浮かんだ。
「お前は、この世界を憎むか。力の有無に左右され、弱き者がただ虐げられ、お前のようなものを生み出したことが許せないか」
その問いに対する返答はなく、ただ彼の頬を牙が掠めただけだった。アルベルトは彼女を次第に部屋の奥へと追いやりながら、ゆっくりと歩を進める。倒れた男からは少し距離が空いたが、ユーフォリアがもはやそちらへと固執しなくなったことを確認してから、アルベルトは剣を構え直した。
先程よりずっと鋭く速くなった爪が、暴風のようにアルベルトの身を襲う。やがて力任せに剣を弾いた彼女の右手の中指が、彼の腕に半分程度埋まった。それを支点に振り上げられた脚を剣身で受けると、アルベルトはそのまま剣を振り切る。宙を舞ったユーフォリアの身からは点々と血が散ったが、滑るように床に着地した脚には既に傷跡すら消えていた。
逆立った青黒い毛並みの中から、輝く双眸がこちらを射抜く。それを真っ直ぐに見据えながら、アルベルトは再び口を開いた。
「お前の学んだ歴史には、記録されていないことがある。元来魔力をもたぬ人間に、魔獣の血を引き入れ、力と格差を生み出したのは、ヴァルトハイムをはじめとした原初の貴族だ」
的確に急所を狙い続ける爪と牙とを捌きながら、アルベルトは低い声で淡々と告げる。
遥か昔、魔力は持たずとも魔獣に干渉することのできた血族が、その身に力を取り入れた。魔獣の力を引き継いだ者のうち、直接血液を摂取できる形質を持った者たちが国を興し、他の血族は幾つかの家に分かれ、それぞれが人間を従えた。それはやがて、王族や貴族、平民といった身分となり、さらに長い時をかけて原初の家には魔獣の血の濃い者が集まり、市井には力を持たない者が偏るようになった。
王国の歴史書になど載るはずもない伽話を、アルベルトはかつて祖父から聞かされた。力の集権と搾取という歪みを憂いた前当主は、幽閉され、そして死を迎える前に、次代にその呪いを継承させた。
アルベルトは、まさに今眼前を掠めた細い腕を掴んで上へと引き上げる。ユーフォリアの足先が微かに浮き上がり、掴まれていない方の手の爪が抗議するように腕へと深く突き立てられた。尖った指先が肉を抉ることにも顔色一つ変えず、アルベルトは吊るされたユーフォリアの目を真っ直ぐに見据える。
「ユーフォリア、お前は、我らが生み出した歪みの、最たる被害者だ。故に、世界への恨みや絶望に溢れ、生の終わりを望むというのであれば、私がこの手で責任を果たしてやるつもりだった」
ユーフォリアが酷く不愉快そうに身を捩る。その様子をじっと見据えながら、アルベルトはまたあの夜を思い出していた。
望まずして魔獣の血を受け継がされ、一方的に搾取され続けてきた少女。それでも彼女が罪無き民ごと国を滅ぼそうというのであれば、その前に命を絶ってやるつもりだった。それが、王国騎士団の長としての責務であり、呪われた血を引く者の使命だと思っていた。しかしあの暗い新月の夜、薄闇の中で微かに光を放つ金眼に射抜かれた時、それらを忘れてただ一瞬、見惚れてしまった。
不意に腕を離され、床に四つ足をついたユーフォリアが、天を仰いで鋭い咆哮を上げる。応接室の空気がびりびりと震え、壁際で燻っていた燭台の火が激しく燃え上がり、動けぬままこちらを眺めていた男が胸を押さえて呻き声を漏らした。元来他者への干渉を得意とした彼女は、相手の魔力を暴発させて命を殺めるのに、もはや触れることすら必要としなかった。
「っ……ぐ……」
身体の内側から強制的に力を掻き混ぜられるような感覚に、アルベルトの剣先が初めて揺らぐ。ユーフォリアの爪と牙とを受けながら、アルベルトの足は次第に下がり、先程彼女の血が注がれていたグラスの破片を踏み砕いた。
振り切られた剣を躱したユーフォリアの身体がふわりと浮かび上がり、両手がアルベルトの首と肩へと深く食い込む。鋭い痛みと、腹の辺りに彼女の両足があることを感じながら、アルベルトは先程よりずっと近くなったユーフォリアの顔を見た。変わらず煌々と輝く金の双眸からは、透明な雫が流れ、頬を濡らしていた。
「ユーフォリア、お前を、愛している」
そう囁いて、アルベルトが静かに剣を下ろし、反対の手で彼女の頬を拭うようになぞった。同時にユーフォリアがその身を床へと押し倒して馬乗りになる。深々と腹に突き立てられた爪が臓腑を抉り、首の側面には尖った牙の先端が埋まった。アルベルトは柄を握っていた手を開き、覆い被さる彼女の身体にそっと両腕を回す。肩の辺りで乱雑に切られたらしい血泥に汚れた髪は、それでもあの頃よりずっと指通りがよく艶やかで、薄く骨張っていた身体は細くともしっかりと肉が付き、剣士の身体らしく鍛えられていた。
「ユーフォリア、愛している。必ず止めるという約束を違えることを、許さぬというのであればそれでいい。元来呪われた身で、何より美しいお前に殺されるのであれば、私にとって、この上ない僥倖だ」
アルベルトはそう言って、口端から血を流しながら嬉しそうに目を細めた。
貴族制を瓦解させ、占有していた魔力の血筋を市井に行き渡らせ、王族の悪行を詳らかにし、歪まされた国をあるべき姿に戻す。その改革の後で、アルベルトは幽閉した現当主諸共、自らも家と共に消えるものと断じていた。
その進むべき道の最中で、歪みの象徴たる少女の存在を知った。執務室へとおびき寄せた彼女は、想定していた恨みや絶望などは少しも感じさせず、明日の確証も無い劣悪な環境の中でそれでもただ純粋に生きようとする姿は美しく、そして、これを殺すことは自分には不可能だと一目で理解した。
目指すべき理想のため、行わなければならないことはまだ幾つもあるが、少なくともヴァルトハイムを含めた古い貴族と、それから王族を糾弾するために必要な材料であれば、城砦の執務室に残してきた。恐らくはそれを引き継ぐであろう口煩い男のことを思い出し、アルベルトは微かな笑い声を漏らす。彼とこの娘が、毎晩を休ませようとするために、想定よりも準備に時間がかかってしまった。
少し冷たくなってきた指先で、アルベルトは彼女を抱く力を僅かに強める。しなやかな身体が、巻き付く腕へと抵抗することはなく、ただ彼の首筋には、火の手の上がる室内の空気よりもずっと熱い吐息が触れた。
「ユーフォリア、お前がたとえ人間を手放したとて、お前はもはや、罪無き民を無差別に殺める獣ではない。私と、そこにある男を弑した後は……お前の意思に従え」
首元に埋まる頭へと囁くように最後にそう告げると、アルベルトは目を閉じて全身の力を虚脱させる。牙が一層深く食い込む感触があり、同時に力の奥底へと干渉されようとした時、不意に身体に埋まる異物が引き抜かれた。次いで軽くなった身体に、アルベルトは咳込みながら彼女を見上げる。身を起こして上を向いたユーフォリアの顔は、彼の位置からは見えなかった。
「ぐ……ユーフォリ、ア……」
「……」
まるで永遠のような一瞬の静寂の後で、黙って天井を仰いでいたユーフォリアの腕が微かに動く。指先が硬いものに触れた瞬間、彼女の手は素早くそれを引き寄せた。剣先が強く床を突く鈍い音と同時に、弾みをつけてユーフォリアは立ち上がり、柄を握ったまま扉の方へと二本の足で疾走する。走りながら振り上げられた剣先が美しい弧を描き、そこに横たわる男の身を両断しようとした刹那、再びアルベルトの声が響いた。
「ユーフォリア!」
怒声を掻き消すように、炎で焼き切れた照明が天井から落下して激しい音を立てる。上体を僅かに起こしたアルベルトの視線の先では、剣先を男の喉へと突きつけた状態で、動きを止めたユーフォリアが大きく肩で息をしていた。
「わ、たし……わたし、は……私は、王国、騎士団……副団長の、ユーフォリア。魔獣の持ち込み、及び飼育、殺人、国家転覆の疑いで、貴方を捕縛します」
次第にはっきりとした声で、ユーフォリアはそう言い切り、周囲を見渡して足元にあった大きな布を拾い上げる。強く握った剣を少し乱雑に床へと突き刺し、両手を空けると、既に意識のない男の身体をぼろぼろになったテーブル掛けで手早く縛り上げていった。すっかり簀巻きとなった男の身体を、苛立たしそうな顔で軽く蹴ってから、ユーフォリアはその場に座り込み、ばたりと仰向けに倒れる。逆さまの視界に入った扉の向こうは、炎の激しさを増しており、この部屋にあった火種も既に壁を焼いていた。
「アルベルトー……生きている……?」
熱くなってきた床に背をつけたまま、酷く気怠げな声でユーフォリアがそう言った。アルベルトは首を抑えながら、半分起き上がり掛けていた上体を完全に起こし、大きな腹の傷から零れ落ちた赤黒い液体に苦笑いを浮かべる。
「辛うじて、だな。加減をしてもらえたことに、礼を言おうか」
「んー、頑張って外まで出られる? 私、これ引き摺っていく」
ユーフォリアは弾みをつけて起き上がり、簀巻きの片足を無造作に掴む。そのままずるずると引き摺りながら、火の手の薄い窓の方へと歩き、再び手にした剣でそれを粉々に叩き割った。少し緩慢に立ち上がってそれに続いたアルベルトは、屋外の冷たい空気を頬に感じながら、ユーフォリアの頭へ撫でるようにぽんと手を置いた。
男は傷付いた身を床に伏せたまま、まるで獣となった女と剣を交えるアルベルトをじっと見る。暴れ狂う嵐のような女とは対照的に、アルベルトの剣はどこか悠然としており、次の一手がどこから向かってくるのか完璧に把握しているようであった。また剣と爪がぶつかり合い、アルベルトの剣が無造作に振り切られる。女は部屋の反対の壁へと叩きつけられ、机の残骸と共に山になっていたテーブル掛けの下からのそりと現れると、その傍で燻っている燭台の火を強く踏んだ。
アルベルトの頬と腕に残された深い切り傷が、見る間に薄くなっていく。昨夜の満月で彼女から供給を受けたという旨は話したが、その魔力は尚も体内で満ち溢れているようだった。男は思わず乾いた笑い声を漏らす。人の身に余る暴力的な魔力と、それを制御して剣術へと昇華させる技能、目の前にあるこの男こそが、彼が求めた『魔力の正しい活用法』だった。
「くっ、ふふ……アル、ベルト……お前ならば、確かに、王の一族郎党すらも、皆殺しにできる、だろうよ……」
「死にたくなければ黙れ。殺してから余罪をかけることもできる」
たまに咳込みながら尚も笑っている背後の男に、振り返らぬまま冷たい声で答えて、アルベルトは再び眼前のユーフォリアのみへと意識を向ける。天井から吊り下げられた照明の上に四つ足で立つ彼女は、全身の毛を逆立てて、ただ純粋な怒りをこちらへと向けていた。アルベルトの脳裏に、ふと、あの最初の城塞の夜が浮かぶ。薄暗い執務室で、どこか呑気に天蓋を揺らしていた姿とは似ても似つかないものだと、思わず微かな苦笑いが浮かんだ。
「お前は、この世界を憎むか。力の有無に左右され、弱き者がただ虐げられ、お前のようなものを生み出したことが許せないか」
その問いに対する返答はなく、ただ彼の頬を牙が掠めただけだった。アルベルトは彼女を次第に部屋の奥へと追いやりながら、ゆっくりと歩を進める。倒れた男からは少し距離が空いたが、ユーフォリアがもはやそちらへと固執しなくなったことを確認してから、アルベルトは剣を構え直した。
先程よりずっと鋭く速くなった爪が、暴風のようにアルベルトの身を襲う。やがて力任せに剣を弾いた彼女の右手の中指が、彼の腕に半分程度埋まった。それを支点に振り上げられた脚を剣身で受けると、アルベルトはそのまま剣を振り切る。宙を舞ったユーフォリアの身からは点々と血が散ったが、滑るように床に着地した脚には既に傷跡すら消えていた。
逆立った青黒い毛並みの中から、輝く双眸がこちらを射抜く。それを真っ直ぐに見据えながら、アルベルトは再び口を開いた。
「お前の学んだ歴史には、記録されていないことがある。元来魔力をもたぬ人間に、魔獣の血を引き入れ、力と格差を生み出したのは、ヴァルトハイムをはじめとした原初の貴族だ」
的確に急所を狙い続ける爪と牙とを捌きながら、アルベルトは低い声で淡々と告げる。
遥か昔、魔力は持たずとも魔獣に干渉することのできた血族が、その身に力を取り入れた。魔獣の力を引き継いだ者のうち、直接血液を摂取できる形質を持った者たちが国を興し、他の血族は幾つかの家に分かれ、それぞれが人間を従えた。それはやがて、王族や貴族、平民といった身分となり、さらに長い時をかけて原初の家には魔獣の血の濃い者が集まり、市井には力を持たない者が偏るようになった。
王国の歴史書になど載るはずもない伽話を、アルベルトはかつて祖父から聞かされた。力の集権と搾取という歪みを憂いた前当主は、幽閉され、そして死を迎える前に、次代にその呪いを継承させた。
アルベルトは、まさに今眼前を掠めた細い腕を掴んで上へと引き上げる。ユーフォリアの足先が微かに浮き上がり、掴まれていない方の手の爪が抗議するように腕へと深く突き立てられた。尖った指先が肉を抉ることにも顔色一つ変えず、アルベルトは吊るされたユーフォリアの目を真っ直ぐに見据える。
「ユーフォリア、お前は、我らが生み出した歪みの、最たる被害者だ。故に、世界への恨みや絶望に溢れ、生の終わりを望むというのであれば、私がこの手で責任を果たしてやるつもりだった」
ユーフォリアが酷く不愉快そうに身を捩る。その様子をじっと見据えながら、アルベルトはまたあの夜を思い出していた。
望まずして魔獣の血を受け継がされ、一方的に搾取され続けてきた少女。それでも彼女が罪無き民ごと国を滅ぼそうというのであれば、その前に命を絶ってやるつもりだった。それが、王国騎士団の長としての責務であり、呪われた血を引く者の使命だと思っていた。しかしあの暗い新月の夜、薄闇の中で微かに光を放つ金眼に射抜かれた時、それらを忘れてただ一瞬、見惚れてしまった。
不意に腕を離され、床に四つ足をついたユーフォリアが、天を仰いで鋭い咆哮を上げる。応接室の空気がびりびりと震え、壁際で燻っていた燭台の火が激しく燃え上がり、動けぬままこちらを眺めていた男が胸を押さえて呻き声を漏らした。元来他者への干渉を得意とした彼女は、相手の魔力を暴発させて命を殺めるのに、もはや触れることすら必要としなかった。
「っ……ぐ……」
身体の内側から強制的に力を掻き混ぜられるような感覚に、アルベルトの剣先が初めて揺らぐ。ユーフォリアの爪と牙とを受けながら、アルベルトの足は次第に下がり、先程彼女の血が注がれていたグラスの破片を踏み砕いた。
振り切られた剣を躱したユーフォリアの身体がふわりと浮かび上がり、両手がアルベルトの首と肩へと深く食い込む。鋭い痛みと、腹の辺りに彼女の両足があることを感じながら、アルベルトは先程よりずっと近くなったユーフォリアの顔を見た。変わらず煌々と輝く金の双眸からは、透明な雫が流れ、頬を濡らしていた。
「ユーフォリア、お前を、愛している」
そう囁いて、アルベルトが静かに剣を下ろし、反対の手で彼女の頬を拭うようになぞった。同時にユーフォリアがその身を床へと押し倒して馬乗りになる。深々と腹に突き立てられた爪が臓腑を抉り、首の側面には尖った牙の先端が埋まった。アルベルトは柄を握っていた手を開き、覆い被さる彼女の身体にそっと両腕を回す。肩の辺りで乱雑に切られたらしい血泥に汚れた髪は、それでもあの頃よりずっと指通りがよく艶やかで、薄く骨張っていた身体は細くともしっかりと肉が付き、剣士の身体らしく鍛えられていた。
「ユーフォリア、愛している。必ず止めるという約束を違えることを、許さぬというのであればそれでいい。元来呪われた身で、何より美しいお前に殺されるのであれば、私にとって、この上ない僥倖だ」
アルベルトはそう言って、口端から血を流しながら嬉しそうに目を細めた。
貴族制を瓦解させ、占有していた魔力の血筋を市井に行き渡らせ、王族の悪行を詳らかにし、歪まされた国をあるべき姿に戻す。その改革の後で、アルベルトは幽閉した現当主諸共、自らも家と共に消えるものと断じていた。
その進むべき道の最中で、歪みの象徴たる少女の存在を知った。執務室へとおびき寄せた彼女は、想定していた恨みや絶望などは少しも感じさせず、明日の確証も無い劣悪な環境の中でそれでもただ純粋に生きようとする姿は美しく、そして、これを殺すことは自分には不可能だと一目で理解した。
目指すべき理想のため、行わなければならないことはまだ幾つもあるが、少なくともヴァルトハイムを含めた古い貴族と、それから王族を糾弾するために必要な材料であれば、城砦の執務室に残してきた。恐らくはそれを引き継ぐであろう口煩い男のことを思い出し、アルベルトは微かな笑い声を漏らす。彼とこの娘が、毎晩を休ませようとするために、想定よりも準備に時間がかかってしまった。
少し冷たくなってきた指先で、アルベルトは彼女を抱く力を僅かに強める。しなやかな身体が、巻き付く腕へと抵抗することはなく、ただ彼の首筋には、火の手の上がる室内の空気よりもずっと熱い吐息が触れた。
「ユーフォリア、お前がたとえ人間を手放したとて、お前はもはや、罪無き民を無差別に殺める獣ではない。私と、そこにある男を弑した後は……お前の意思に従え」
首元に埋まる頭へと囁くように最後にそう告げると、アルベルトは目を閉じて全身の力を虚脱させる。牙が一層深く食い込む感触があり、同時に力の奥底へと干渉されようとした時、不意に身体に埋まる異物が引き抜かれた。次いで軽くなった身体に、アルベルトは咳込みながら彼女を見上げる。身を起こして上を向いたユーフォリアの顔は、彼の位置からは見えなかった。
「ぐ……ユーフォリ、ア……」
「……」
まるで永遠のような一瞬の静寂の後で、黙って天井を仰いでいたユーフォリアの腕が微かに動く。指先が硬いものに触れた瞬間、彼女の手は素早くそれを引き寄せた。剣先が強く床を突く鈍い音と同時に、弾みをつけてユーフォリアは立ち上がり、柄を握ったまま扉の方へと二本の足で疾走する。走りながら振り上げられた剣先が美しい弧を描き、そこに横たわる男の身を両断しようとした刹那、再びアルベルトの声が響いた。
「ユーフォリア!」
怒声を掻き消すように、炎で焼き切れた照明が天井から落下して激しい音を立てる。上体を僅かに起こしたアルベルトの視線の先では、剣先を男の喉へと突きつけた状態で、動きを止めたユーフォリアが大きく肩で息をしていた。
「わ、たし……わたし、は……私は、王国、騎士団……副団長の、ユーフォリア。魔獣の持ち込み、及び飼育、殺人、国家転覆の疑いで、貴方を捕縛します」
次第にはっきりとした声で、ユーフォリアはそう言い切り、周囲を見渡して足元にあった大きな布を拾い上げる。強く握った剣を少し乱雑に床へと突き刺し、両手を空けると、既に意識のない男の身体をぼろぼろになったテーブル掛けで手早く縛り上げていった。すっかり簀巻きとなった男の身体を、苛立たしそうな顔で軽く蹴ってから、ユーフォリアはその場に座り込み、ばたりと仰向けに倒れる。逆さまの視界に入った扉の向こうは、炎の激しさを増しており、この部屋にあった火種も既に壁を焼いていた。
「アルベルトー……生きている……?」
熱くなってきた床に背をつけたまま、酷く気怠げな声でユーフォリアがそう言った。アルベルトは首を抑えながら、半分起き上がり掛けていた上体を完全に起こし、大きな腹の傷から零れ落ちた赤黒い液体に苦笑いを浮かべる。
「辛うじて、だな。加減をしてもらえたことに、礼を言おうか」
「んー、頑張って外まで出られる? 私、これ引き摺っていく」
ユーフォリアは弾みをつけて起き上がり、簀巻きの片足を無造作に掴む。そのままずるずると引き摺りながら、火の手の薄い窓の方へと歩き、再び手にした剣でそれを粉々に叩き割った。少し緩慢に立ち上がってそれに続いたアルベルトは、屋外の冷たい空気を頬に感じながら、ユーフォリアの頭へ撫でるようにぽんと手を置いた。
あなたにおすすめの小説
完結【強引な略奪婚】冷徹な次期帝は、婚姻間近の姫を夜ごと甘く溶かす
小木楓
恋愛
完結しました✨
タグ&あらすじ変更しました。
略奪された大納言家の香子を待っていたのは、冷徹な次期帝による「狂愛」という名の支配でした。
「泣け、香子。お前をこれほど乱せるのは、世界で私だけだ」
「お前はまだ誰のものでもないな? ならば、私のものだ」
大納言家の姫・香子には、心通わせる穏やかな婚約者がいた。
しかし、そのささやかな幸福は、冷徹と噂される次期帝・彰仁(あきひと)に見初められたことで一変する。
強引な勅命により略奪され、後宮という名の檻に閉じ込められた香子。
夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
「一生、私の腕の中で溺れていろ」
守るために壊し、愛するために縛る。
冷酷な仮面の下に隠された、
一途で異常な執着を知った時、香子の心もまた甘い猛毒に溶かされていく――。
★最後は極上のハッピーエンドです。
※AI画像を使用しています。
敵国に嫁いだ姫騎士は王弟の愛に溶かされる
今泉香耶
恋愛
王女エレインは隣国との戦争の最前線にいた。彼女は千人に1人が得られる「天恵」である「ガーディアン」の能力を持っていたが、戦況は劣勢。ところが、突然の休戦条約の条件により、敵国の国王の側室に望まれる。
敵国で彼女を出迎えたのは、マリエン王国王弟のアルフォンス。彼は前線で何度か彼女と戦った勇士。アルフォンスの紳士的な対応にほっとするエレインだったが、彼の兄である国王はそうではなかった。
エレインは王城に到着するとほどなく敵国の臣下たちの前で、国王に「ドレスを脱げ」と下卑たことを強要される。そんなエレインを庇おうとするアルフォンス。互いに気になっていた2人だが、王族をめぐるごたごたの末、結婚をすることになってしまい……。
敵国にたった一人で嫁ぎ、奇異の目で見られるエレインと、そんな彼女を男らしく守ろうとするアルフォンスの恋物語。
【完結】転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して二年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
【完】麗しの桃は攫われる〜狼獣人の番は甘い溺愛に翻弄される〜
こころ ゆい
恋愛
※完結しました!皆様のおかげです!ありがとうございました!
※既に完結しておりますが、番外編②加筆しました!(2025/10/17)
狼獣人、リードネストの番(つがい)として隣国から攫われてきたモモネリア。
突然知らない場所に連れてこられた彼女は、ある事情で生きる気力も失っていた。
だが、リードネストの献身的な愛が、傷付いたモモネリアを包み込み、徐々に二人は心を通わせていく。
そんなとき、二人で訪れた旅先で小さなドワーフ、ローネルに出会う。
共に行くことになったローネルだが、何か秘密があるようで?
自分に向けられる、獣人の深い愛情に翻弄される番を描いた、とろ甘溺愛ラブストーリー。
【完結】モブのメイドが腹黒公爵様に捕まりました
ベル
恋愛
皆さまお久しぶりです。メイドAです。
名前をつけられもしなかった私が主人公になるなんて誰が思ったでしょうか。
ええ。私は今非常に困惑しております。
私はザーグ公爵家に仕えるメイド。そして奥様のソフィア様のもと、楽しく時に生温かい微笑みを浮かべながら日々仕事に励んでおり、平和な生活を送らせていただいておりました。
...あの腹黒が現れるまでは。
『無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない』のサイドストーリーです。
個人的に好きだった二人を今回は主役にしてみました。
「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」
透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。
そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。
最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。
仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕!
---
王宮の万能メイド、偏屈魔術師を餌付けする
葉山あおい
恋愛
王宮で働く勤続八年のメイド、エレナ・フォスター。仕事は完璧だが愛想がない彼女は、いつしか「鉄の女」と呼ばれ恐れられていた。
そんな彼女に下された辞令は、王宮の敷地内にありながら「魔窟」と呼ばれる『北の塔』の専属メイドになること。そこの主である宮廷魔術師団長・シルヴィス・クローデルは、稀代の天才ながら極度の人嫌い&生活能力ゼロの偏屈男だった!
ゴミ屋敷と化した塔をピカピカに掃除し、栄養失調寸前の彼に絶品の手料理を振る舞うエレナ。黄金色のオムレツ、とろける煮込みハンバーグ、特製カツサンド……。美味しいご飯で餌付けされた魔術師様は、次第にエレナへの独占欲を露わにし始めて――?
意地悪な聖女や侯爵夫人のいびりも、完璧なスキルで華麗に返り討ち。平民出身のメイドが、身分差を乗り越えて幸せな花嫁になるまでの、美味しくて甘いシンデレラストーリー。
イケメンエリートは愛妻の下僕になりたがる(イケメンエリートシリーズ第四弾)
便葉
恋愛
国内有数の豪華複合オフィスビルの27階にある
IT関連会社“EARTHonCIRCLE”略して“EOC”
謎多き噂の飛び交う外資系一流企業
日本内外のイケメンエリートが
集まる男のみの会社
そのイケメンエリート軍団のキャップ的存在
唯一の既婚者、中山トオルの意外なお話
中山加恋(20歳)
二十歳でトオルの妻になる
何不自由ない新婚生活だが若さゆえ好奇心旺盛
中山トオル(32歳)
17歳の加恋に一目ぼれ
加恋の二十歳の誕生日に強引に結婚する
加恋を愛し過ぎるあまりたまに壊れる
会社では群を抜くほどの超エリートが、
愛してやまない加恋ちゃんに
振り回されたり落ち込まされたり…
そんなイケメンエリートの
ちょっと切なくて笑えるお話