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中学生編
新しい我が家1
目の前の風景がどんどんすぎていく様子はまるで万華鏡みたいだった。
一週間前、透明(すはる)は家族と家を失った。原因は近隣の小火が移ってしまったことらしい。修繕されながら代々引き継がれてきた木造建築の家が古かったせいもあるのだろう。透明が中学校から帰ってくれば、家の周りには人だかりが出来ていて、その光景に嫌な予感がした。人だかりを掻き分けて最前列へと出ると思わず目を見張った。
朝まで威厳を出していた家は、キャンプファイヤーの薪のごとく無残な状態だった。赤々と燃えている炎の海が木造でできた家を飲み込む様子は同時に得体の知れない化け物のようにさえ見えた。
消防車がどんなに火を消そうとしても中々消えず、ようやく消えたころには跡形もなかった。透明は消防士に止められてもその腕を振り払って家だった場所へと駆け出したのを覚えている。
その日の夜は母が弟を呼ぶということで、いつも以上に料理や掃除に力を入れていた。父も義弟が来るからと早めに仕事を引き上げて母を手伝っていた。
母は本来の縁談を断って、父と異国の地へと駆け落ちしたのだ。そして、透明を産んだ。
絶縁状態になっていた母の弟である叔父が母の母。つまり、透明にとっては母方の祖母の代わりに絶縁状態を解消したいと願い出た。母はそれに喜んだ。しかし、その夢が叶うこともなく逝ってしまった。
涙が溢れ出て、その場でしゃがみこんで透明は泣いた。泣かなくては耐えられなかったのだ。泣くことで痛みを少しでも減らさなければ心が壊れてしまいそうだった。
両親と家を同時に失った透明は、遠い山の中の孤児院に引き取られることになった。だが、引き取られるその当日、透明のことを引き取ると連絡した人がいた。
その人物が母の弟である叔父だった。だが、迎えに行けないから代わりのものに行かせるという。
そして、今は空港から出て、母の生まれた地に……透明がまだ小さかったときに何度も聞かせてくれた家に向かっているのだ。
母の叔父はどんな人だろう。怖い人なのかはたまた面白い人なのか。今まで母方の人に一度も会ったことがない透明は戸惑いと期待に胸を膨らませていた。ある家の前に車が音もなく止まると、先に黒いスーツの男が出て車のドアを開けてくれた。
透明は車から出て黒いスーツの男に礼を言う。けれど、黒いスーツの男は何も言わずわずかに透明を見ただけだった。
「こちらへどうぞ」
瓦屋根のついた格子の門扉を抜ければ、地面を覆う芝生は同じ高さに切り揃えられている。芝生の中には玄関に向かって蛇行するように敷石がある。両脇には、重そうに枝垂れた薄紅色のアセビと目も眩むようなバイカウツギが咲いている。ほかにも青々としたアジサイが点々と植えられている。
植物の出迎えが終わり玄関へと目を向ければ紺の着物を纏った男が立っていた。黒い艶やかな髪はゆるく捻ってあり、それを首から胸元の方へと垂らしている。黒いスーツの男が透明を連れてその男の前に来ると、わずかに目配せをした。男はその視線に小さく頷いた。
向かい合ってみると思わず透明は見惚れた。
男はどんなに見積もっても透明より五つほどしか違いがないと思えるほど若かった。着物の上からでも分かるすらりとした体つきに、牛乳を流し込んだような白い肌と知的を感じさせる切れ長の黒い瞳は黒真珠のようで吸い込まれそうになる。
男が透明へと近づき、上から下へと見た後、わずかに目を細めた。
「名前を聞いてもいいかな」
「透明といいます」
「すはる……か。どんな漢字を書くんだい」
「えっと、母さんは透明という字を書くといっていました」
長い間、外国暮らしだったものの母との会話のおかげか相手に通じたようだ。だが、文字はまったく持ってかけない透明は母が口にしていた言葉をそのまま言うしかなかった。けれど、男は理解したらしく透明をもう一度上から下へと見て微笑んだ。
「私は小鳥遊(たかなし) 樒(しきみ)というんだ。今日からキミもこの家のものになるんだから、そんなに気を張る必要なんてないんだよ」
言葉と共にそっと肩に添えられた手は服を通してその温もりを感じる。
黒いスーツを着ていた人はいつの間にかいなくなっていたが、樒は気にしていないのか透明についてくるように言うと、透明は後ろ髪を引かれる思いをしながらも樒の後をついていった。
玄関に入れば、汚れ一つなく磨かれた床がツヤツヤと輝いていた。外国暮らしだったため靴を脱いで上がることは不思議な気分だった。そっと足を床へと上げるとなんだかほっとした気持ちになる。
部屋の説明をされながら今日から透明の部屋へと行く。その間、一度も叔父さんには会っていない。透明が思わずそわそわしていると、樒がちょうど庭園が見える縁側で立ち止まった。透明も思わず足を止めた。
「この庭、すごいだろう 少し見ていかないかい」
「はい」
誘われるがままに縁側に並んで腰を下ろした。
縁側から見える庭園には池があり、底が見えるぐらい水が澄んでいる。その中には黒曜石のような輝きを持つ黒い鯉や赤と白の斑の鯉などさまざまな柄を持つ鯉がいた。ほかにも名前の知らない草木が咲き誇っており、風が吹くたびに爽やかな甘い匂いが風と共に透明の鼻先を撫でていった。
どこか現実と切り離されたような空間に見惚れつつも、戸惑いながら樒のほうを向いた。
「あの、叔父さんにはいつ頃会えますか」
透明がそう聞くと樒は何度か瞬きをしてクスリと小さく笑った。透明が不思議そうにしていると樒が「失礼」とわざと空咳をした後立ち上がり、透明の方を見ると「少し早いけど、そろそろお昼にしようか」と言った。そういわれて、透明は朝から何も食べていないことにようやく気づいた。気づいた途端急に腹が減ってきた。
樒についていき居間へとつくと、長方形の座卓があり、向かい合うように二つずつ紫の座布団があった。四つの中で縁側の方の座布団に樒が座る。どこに座ればいいかわからない透明はひとまず、樒の隣に座った。
「あら、樒さんいらっしゃったの」
凛とした声が聞こえた方へ向くと、藤色の着物をまとった女がいた。ギリギリ肩にかからない長さの黒い髪は陶器を彷彿させる肌をいっそう青白くみせていた。
娘さんなのかと思って様子みていると女は透明に気づいて「まあ」と小さく驚いたような声を漏らした。そして、透明の向かいの座布団へと座ると会釈をしてにこりと微笑んだ。
「はじめまして、私は椿と申します。どうぞ、遠慮なさらず甘えてくださいね」
「えっと、その。ありがとうございます。俺、じゃなくて僕は透明といいます」
「無理に僕って言わなくていいのよ。透明くん。あら、私ったらお茶も出さずごめんなさい」
椿がそういうと急いで立ち上がり台所へと行ってしまった。かすかに影がかかって思わず振り向くと、先ほど車を運転していた黒いスーツの男がいた。黙って入ってくるなり樒の向かいに腰を下ろした。
樒は向かいに座った黒いスーツの男に困ったように笑いかける。だが、黒いスーツの男は眉間にシワをよせた。椿が大きなお盆にミントを浮かべた氷水を持って戻ってくると、黒いスーツの男に気付くなりにこりと微笑んだ。
「黒鴇(くろとき)、帰っていたの」
「たった今帰ってきたところだ。悪いが、俺にもいっぱいくれるか」
「わかったわ。ちょっと待っててね」
その言葉と共に椿は透明と樒の前に氷水が入ったカップを置いて、もう一度台所へと戻っていった。その様子を見ていた樒がふと思い出したかのように口を開いた。
「そういえば、透明くんはさっき叔父さんにいつ会えるかってきいたね」
「あ、はい」
「じゃあ、透明くんの叔父さんのイメージ教えてもらえるかな」
頬杖をついてにこりと笑う樒に思わず頬が赤くなる。おずおずとその笑みにつられて口を開いた。
「やっぱり、少し厳しくて怖い人かなって」
「厳しいか……。姉さんはなんていってた」
「えっと。変わってるといってました」
「ふーん、そうか。やっぱり、常識的な人じゃなきゃ嫌だよね」
「え、いえっ 全然嫌じゃありません」
反射的に叫ぶと「よかった」となぜか樒が嬉しそうに言う。黒鴇が低くため息をついて哀れむような目で透明を見ていたが、透明は樒に釘付けになって気づいていなかった。
「樒さんは叔父さんと会ったことがありますか」
「んー、会うというより見てるよ」
「え」
ぽかんとしていると黒鴇がもう一度ため息をついて口を挟んだ。
「透明。お前の叔父は変なやつだ」
「黒鴇……さんは知ってるの」
「さんはいらない。黒鴇でいい。知ってるも何も、その叔父とやらにお前はさっきから釘付けになっているだろ」
呆れたように黒鴇が言うと、透明は黒鴇を見て目を瞬き、樒を見た。樒はにこりと透明に微笑みかけた。
「今頃かもしれないけど、ようこそ。透明くん。姉さんからはキミのことよく電話で聞いたよ。姉さんの言うとおりだ」
急に砕けた口調で話す樒に驚いて何も言えなくなる。樒は母とは一歳違いだ。それでも、最低は三十後半のはずだが、いくら高く見積もっても透明とは五つほどしか離れていないように思えた。そこへ椿がミントを浮かべた氷水とガラスの器に氷水で冷やしてある薄紅色の白桃を運んできた。
「お昼の支度がもうちょっとかかるから、代わりにこれをどうぞ」
ちゃぶ台に置かれた白桃を見れば、甘い香りが鼻をくすぐった。樒が手を伸ばして氷水の中から白桃を一つ取り出すと、白い指先で丁寧に皮をむいていく。あらわになった白い実はたっぷりの汁気で白く輝いていた。
「ほら、お食べ」
白桃を不意に差し出されて透明は戸惑ったものの素直に受けとった。その実を一口食べればさっぱりとした甘みが口の中に広がる。桃の汁が手首を伝って落ちていくが、それよりも桃は柔らかくおいしかった。
すべての白桃を食べ終わった頃には、手がべとべとして不快だったけれど、椿が気をきかしておしぼりを出してくれた。
「さて、次はキミの部屋と店を案内しよう」
「店……?」
先に立ち上がって縁側廊下に出る樒の後を追うように荷物を持って立ち上がる。
「聖書にだって、働かざるもの食うべからずって書いてあるだろう」
「あの、働くってなにをすればいいんですか」
先立って歩く樒の背中に尋ねる。
樒が小さくと手招きをする。傍に来るとなにやら曇りガラスが使われた障子があり、そこを樒が開けた途端、ふわりと雨がやんだばかりの森の匂いがした。その匂いはいつの間にか渋みのある緑茶のような匂いに変わっていた。足元には下駄があった。
「それ履いてついておいで」
きっちりと玄関は閉められている室内はほのかにオレンジ色の灯りで照らされている。両壁は薬棚になっていて、店の中央には紫色のテーブルカバーをかけた低いテーブルの上に骨董品のような香炉や線香のセットに香道具などがあった。漆喰に塗られた床は塵一つない。新店同然に見えるが、店の雰囲気は明らかに老舗でちぐはぐな感じがした。レジも置いていない店を見たのは初めてだった。
「透明くんにはここを掃除してもらいたい」
「それだけでいいんですか」
てっきり店を任せられるかと思ったが、掃除をするだけでいいといわれて安堵の息を吐く。けれど、樒はくすりと再び笑った。
「うちは香屋でね、香灯(かおりとう)というんだ」
「香灯……」
「そうだよ。変わったお客様……珍客しか来ない香屋だ」
意味ありげな言葉に思わずき聞き返しそうになると唇に指先が触れた。
「それはここで住むようになればわかるよ」
優しくそういわれれば小さく頷くほかない。
「それじゃ、次は透明くんの部屋だ」
樒は店から再び縁側廊下に出た。どうやら家と店は繋がっているらしく表から見れば立派な家で、店側のほうは裏玄関を改造したものらしい。
一階の説明を確認され二階への階段を樒は上っていく。透明も二階へと上るとずらりと障子が並んであった。思わず「うわっ」と声を上げると、樒が小さく首をかしげた。それから、顎に手を当てて少し考え込んだ後、透明のほうへと振り返った。
「先客がいたみたいだね」
わずかに眉をハの字にして笑う。どう答えればいいか戸惑っている間に、樒は「下りようか」といって先に下りた。透明も後を追って下りると再び縁側廊下を歩きはじめる。
それから、ようやく着いた場所は一階の玄関から入って右に曲がってすぐにあった部屋だった。障子を開けると畳に寝転がっても十分な広さで、窓際には勉強机や本棚などがおいてある。
「布団は押入れに入っているから寝るときに出してね。あと、学校の手続きはもう済ましておいたから心配しなくていいよ」
純和風の室内はほんのりと青い畳のにおいがして落ち着く。丸い形をした竹窓がありそこから庭が見えた。
そのとき、ふと庭に知らない人が立っていた。思わず窓に近づいてみたがすでに誰もいない。
「どうしたんだい?」
「あ、いえ。なにもありません。それより樒さん、今日は家の中を案内してくださりありがとうございました」
「かしこまらなくていいよ。じゃあ、ご飯ができたら呼ぶから。湯浴みは好きな時に入りなさい」
そういって、樒が部屋から出て行った。
完全に気配が感じなくなると、透明は荷物を置いて畳の上で大の字になって寝転がった。
「ここが、母さんの住んでいた場所……」
そして、母を苦しめた場所。そう思うとなんだか、自分がここにいることがひどく不思議な気がした。
そもそも、どうして透明を急に引き取るなど言い出したのだろう。考えてみれば、不思議なことばかりだった。
ゆっくりと起き上がって体を伸ばすと畳の上に何か光っている。そっと手を伸ばして手にとって見ると、小さな珠だった。透き通った赤い珠をそっと日差しに照らせば石榴の実のように輝く。
「樒さんが落としたのかな」
日差しに当てるのをやめ、立ち上がると勉強机に赤い珠を置いた。
それから、荷物の整理をしてひらがなとカタカナの練習を始めた。英語は得意でも、日本語がかけなければ授業はついていけない。そうとなれば、早く書けるようにならなくては。
一週間前、透明(すはる)は家族と家を失った。原因は近隣の小火が移ってしまったことらしい。修繕されながら代々引き継がれてきた木造建築の家が古かったせいもあるのだろう。透明が中学校から帰ってくれば、家の周りには人だかりが出来ていて、その光景に嫌な予感がした。人だかりを掻き分けて最前列へと出ると思わず目を見張った。
朝まで威厳を出していた家は、キャンプファイヤーの薪のごとく無残な状態だった。赤々と燃えている炎の海が木造でできた家を飲み込む様子は同時に得体の知れない化け物のようにさえ見えた。
消防車がどんなに火を消そうとしても中々消えず、ようやく消えたころには跡形もなかった。透明は消防士に止められてもその腕を振り払って家だった場所へと駆け出したのを覚えている。
その日の夜は母が弟を呼ぶということで、いつも以上に料理や掃除に力を入れていた。父も義弟が来るからと早めに仕事を引き上げて母を手伝っていた。
母は本来の縁談を断って、父と異国の地へと駆け落ちしたのだ。そして、透明を産んだ。
絶縁状態になっていた母の弟である叔父が母の母。つまり、透明にとっては母方の祖母の代わりに絶縁状態を解消したいと願い出た。母はそれに喜んだ。しかし、その夢が叶うこともなく逝ってしまった。
涙が溢れ出て、その場でしゃがみこんで透明は泣いた。泣かなくては耐えられなかったのだ。泣くことで痛みを少しでも減らさなければ心が壊れてしまいそうだった。
両親と家を同時に失った透明は、遠い山の中の孤児院に引き取られることになった。だが、引き取られるその当日、透明のことを引き取ると連絡した人がいた。
その人物が母の弟である叔父だった。だが、迎えに行けないから代わりのものに行かせるという。
そして、今は空港から出て、母の生まれた地に……透明がまだ小さかったときに何度も聞かせてくれた家に向かっているのだ。
母の叔父はどんな人だろう。怖い人なのかはたまた面白い人なのか。今まで母方の人に一度も会ったことがない透明は戸惑いと期待に胸を膨らませていた。ある家の前に車が音もなく止まると、先に黒いスーツの男が出て車のドアを開けてくれた。
透明は車から出て黒いスーツの男に礼を言う。けれど、黒いスーツの男は何も言わずわずかに透明を見ただけだった。
「こちらへどうぞ」
瓦屋根のついた格子の門扉を抜ければ、地面を覆う芝生は同じ高さに切り揃えられている。芝生の中には玄関に向かって蛇行するように敷石がある。両脇には、重そうに枝垂れた薄紅色のアセビと目も眩むようなバイカウツギが咲いている。ほかにも青々としたアジサイが点々と植えられている。
植物の出迎えが終わり玄関へと目を向ければ紺の着物を纏った男が立っていた。黒い艶やかな髪はゆるく捻ってあり、それを首から胸元の方へと垂らしている。黒いスーツの男が透明を連れてその男の前に来ると、わずかに目配せをした。男はその視線に小さく頷いた。
向かい合ってみると思わず透明は見惚れた。
男はどんなに見積もっても透明より五つほどしか違いがないと思えるほど若かった。着物の上からでも分かるすらりとした体つきに、牛乳を流し込んだような白い肌と知的を感じさせる切れ長の黒い瞳は黒真珠のようで吸い込まれそうになる。
男が透明へと近づき、上から下へと見た後、わずかに目を細めた。
「名前を聞いてもいいかな」
「透明といいます」
「すはる……か。どんな漢字を書くんだい」
「えっと、母さんは透明という字を書くといっていました」
長い間、外国暮らしだったものの母との会話のおかげか相手に通じたようだ。だが、文字はまったく持ってかけない透明は母が口にしていた言葉をそのまま言うしかなかった。けれど、男は理解したらしく透明をもう一度上から下へと見て微笑んだ。
「私は小鳥遊(たかなし) 樒(しきみ)というんだ。今日からキミもこの家のものになるんだから、そんなに気を張る必要なんてないんだよ」
言葉と共にそっと肩に添えられた手は服を通してその温もりを感じる。
黒いスーツを着ていた人はいつの間にかいなくなっていたが、樒は気にしていないのか透明についてくるように言うと、透明は後ろ髪を引かれる思いをしながらも樒の後をついていった。
玄関に入れば、汚れ一つなく磨かれた床がツヤツヤと輝いていた。外国暮らしだったため靴を脱いで上がることは不思議な気分だった。そっと足を床へと上げるとなんだかほっとした気持ちになる。
部屋の説明をされながら今日から透明の部屋へと行く。その間、一度も叔父さんには会っていない。透明が思わずそわそわしていると、樒がちょうど庭園が見える縁側で立ち止まった。透明も思わず足を止めた。
「この庭、すごいだろう 少し見ていかないかい」
「はい」
誘われるがままに縁側に並んで腰を下ろした。
縁側から見える庭園には池があり、底が見えるぐらい水が澄んでいる。その中には黒曜石のような輝きを持つ黒い鯉や赤と白の斑の鯉などさまざまな柄を持つ鯉がいた。ほかにも名前の知らない草木が咲き誇っており、風が吹くたびに爽やかな甘い匂いが風と共に透明の鼻先を撫でていった。
どこか現実と切り離されたような空間に見惚れつつも、戸惑いながら樒のほうを向いた。
「あの、叔父さんにはいつ頃会えますか」
透明がそう聞くと樒は何度か瞬きをしてクスリと小さく笑った。透明が不思議そうにしていると樒が「失礼」とわざと空咳をした後立ち上がり、透明の方を見ると「少し早いけど、そろそろお昼にしようか」と言った。そういわれて、透明は朝から何も食べていないことにようやく気づいた。気づいた途端急に腹が減ってきた。
樒についていき居間へとつくと、長方形の座卓があり、向かい合うように二つずつ紫の座布団があった。四つの中で縁側の方の座布団に樒が座る。どこに座ればいいかわからない透明はひとまず、樒の隣に座った。
「あら、樒さんいらっしゃったの」
凛とした声が聞こえた方へ向くと、藤色の着物をまとった女がいた。ギリギリ肩にかからない長さの黒い髪は陶器を彷彿させる肌をいっそう青白くみせていた。
娘さんなのかと思って様子みていると女は透明に気づいて「まあ」と小さく驚いたような声を漏らした。そして、透明の向かいの座布団へと座ると会釈をしてにこりと微笑んだ。
「はじめまして、私は椿と申します。どうぞ、遠慮なさらず甘えてくださいね」
「えっと、その。ありがとうございます。俺、じゃなくて僕は透明といいます」
「無理に僕って言わなくていいのよ。透明くん。あら、私ったらお茶も出さずごめんなさい」
椿がそういうと急いで立ち上がり台所へと行ってしまった。かすかに影がかかって思わず振り向くと、先ほど車を運転していた黒いスーツの男がいた。黙って入ってくるなり樒の向かいに腰を下ろした。
樒は向かいに座った黒いスーツの男に困ったように笑いかける。だが、黒いスーツの男は眉間にシワをよせた。椿が大きなお盆にミントを浮かべた氷水を持って戻ってくると、黒いスーツの男に気付くなりにこりと微笑んだ。
「黒鴇(くろとき)、帰っていたの」
「たった今帰ってきたところだ。悪いが、俺にもいっぱいくれるか」
「わかったわ。ちょっと待っててね」
その言葉と共に椿は透明と樒の前に氷水が入ったカップを置いて、もう一度台所へと戻っていった。その様子を見ていた樒がふと思い出したかのように口を開いた。
「そういえば、透明くんはさっき叔父さんにいつ会えるかってきいたね」
「あ、はい」
「じゃあ、透明くんの叔父さんのイメージ教えてもらえるかな」
頬杖をついてにこりと笑う樒に思わず頬が赤くなる。おずおずとその笑みにつられて口を開いた。
「やっぱり、少し厳しくて怖い人かなって」
「厳しいか……。姉さんはなんていってた」
「えっと。変わってるといってました」
「ふーん、そうか。やっぱり、常識的な人じゃなきゃ嫌だよね」
「え、いえっ 全然嫌じゃありません」
反射的に叫ぶと「よかった」となぜか樒が嬉しそうに言う。黒鴇が低くため息をついて哀れむような目で透明を見ていたが、透明は樒に釘付けになって気づいていなかった。
「樒さんは叔父さんと会ったことがありますか」
「んー、会うというより見てるよ」
「え」
ぽかんとしていると黒鴇がもう一度ため息をついて口を挟んだ。
「透明。お前の叔父は変なやつだ」
「黒鴇……さんは知ってるの」
「さんはいらない。黒鴇でいい。知ってるも何も、その叔父とやらにお前はさっきから釘付けになっているだろ」
呆れたように黒鴇が言うと、透明は黒鴇を見て目を瞬き、樒を見た。樒はにこりと透明に微笑みかけた。
「今頃かもしれないけど、ようこそ。透明くん。姉さんからはキミのことよく電話で聞いたよ。姉さんの言うとおりだ」
急に砕けた口調で話す樒に驚いて何も言えなくなる。樒は母とは一歳違いだ。それでも、最低は三十後半のはずだが、いくら高く見積もっても透明とは五つほどしか離れていないように思えた。そこへ椿がミントを浮かべた氷水とガラスの器に氷水で冷やしてある薄紅色の白桃を運んできた。
「お昼の支度がもうちょっとかかるから、代わりにこれをどうぞ」
ちゃぶ台に置かれた白桃を見れば、甘い香りが鼻をくすぐった。樒が手を伸ばして氷水の中から白桃を一つ取り出すと、白い指先で丁寧に皮をむいていく。あらわになった白い実はたっぷりの汁気で白く輝いていた。
「ほら、お食べ」
白桃を不意に差し出されて透明は戸惑ったものの素直に受けとった。その実を一口食べればさっぱりとした甘みが口の中に広がる。桃の汁が手首を伝って落ちていくが、それよりも桃は柔らかくおいしかった。
すべての白桃を食べ終わった頃には、手がべとべとして不快だったけれど、椿が気をきかしておしぼりを出してくれた。
「さて、次はキミの部屋と店を案内しよう」
「店……?」
先に立ち上がって縁側廊下に出る樒の後を追うように荷物を持って立ち上がる。
「聖書にだって、働かざるもの食うべからずって書いてあるだろう」
「あの、働くってなにをすればいいんですか」
先立って歩く樒の背中に尋ねる。
樒が小さくと手招きをする。傍に来るとなにやら曇りガラスが使われた障子があり、そこを樒が開けた途端、ふわりと雨がやんだばかりの森の匂いがした。その匂いはいつの間にか渋みのある緑茶のような匂いに変わっていた。足元には下駄があった。
「それ履いてついておいで」
きっちりと玄関は閉められている室内はほのかにオレンジ色の灯りで照らされている。両壁は薬棚になっていて、店の中央には紫色のテーブルカバーをかけた低いテーブルの上に骨董品のような香炉や線香のセットに香道具などがあった。漆喰に塗られた床は塵一つない。新店同然に見えるが、店の雰囲気は明らかに老舗でちぐはぐな感じがした。レジも置いていない店を見たのは初めてだった。
「透明くんにはここを掃除してもらいたい」
「それだけでいいんですか」
てっきり店を任せられるかと思ったが、掃除をするだけでいいといわれて安堵の息を吐く。けれど、樒はくすりと再び笑った。
「うちは香屋でね、香灯(かおりとう)というんだ」
「香灯……」
「そうだよ。変わったお客様……珍客しか来ない香屋だ」
意味ありげな言葉に思わずき聞き返しそうになると唇に指先が触れた。
「それはここで住むようになればわかるよ」
優しくそういわれれば小さく頷くほかない。
「それじゃ、次は透明くんの部屋だ」
樒は店から再び縁側廊下に出た。どうやら家と店は繋がっているらしく表から見れば立派な家で、店側のほうは裏玄関を改造したものらしい。
一階の説明を確認され二階への階段を樒は上っていく。透明も二階へと上るとずらりと障子が並んであった。思わず「うわっ」と声を上げると、樒が小さく首をかしげた。それから、顎に手を当てて少し考え込んだ後、透明のほうへと振り返った。
「先客がいたみたいだね」
わずかに眉をハの字にして笑う。どう答えればいいか戸惑っている間に、樒は「下りようか」といって先に下りた。透明も後を追って下りると再び縁側廊下を歩きはじめる。
それから、ようやく着いた場所は一階の玄関から入って右に曲がってすぐにあった部屋だった。障子を開けると畳に寝転がっても十分な広さで、窓際には勉強机や本棚などがおいてある。
「布団は押入れに入っているから寝るときに出してね。あと、学校の手続きはもう済ましておいたから心配しなくていいよ」
純和風の室内はほんのりと青い畳のにおいがして落ち着く。丸い形をした竹窓がありそこから庭が見えた。
そのとき、ふと庭に知らない人が立っていた。思わず窓に近づいてみたがすでに誰もいない。
「どうしたんだい?」
「あ、いえ。なにもありません。それより樒さん、今日は家の中を案内してくださりありがとうございました」
「かしこまらなくていいよ。じゃあ、ご飯ができたら呼ぶから。湯浴みは好きな時に入りなさい」
そういって、樒が部屋から出て行った。
完全に気配が感じなくなると、透明は荷物を置いて畳の上で大の字になって寝転がった。
「ここが、母さんの住んでいた場所……」
そして、母を苦しめた場所。そう思うとなんだか、自分がここにいることがひどく不思議な気がした。
そもそも、どうして透明を急に引き取るなど言い出したのだろう。考えてみれば、不思議なことばかりだった。
ゆっくりと起き上がって体を伸ばすと畳の上に何か光っている。そっと手を伸ばして手にとって見ると、小さな珠だった。透き通った赤い珠をそっと日差しに照らせば石榴の実のように輝く。
「樒さんが落としたのかな」
日差しに当てるのをやめ、立ち上がると勉強机に赤い珠を置いた。
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俺は夜、社長の猫になる
衣草 薫
BL
冤罪で職を追われた葵は、若き社長・鷹宮に拾われる。
ただし条件は――夜は“猫”として過ごすこと。
言葉を話さず、ただ撫でられるだけの奇妙な同居生活。
タワマン高層階の部屋で、葵は距離を崩さない鷹宮に少しずつ惹かれていく。
けれど葵はまだ知らない。自分が拾われた本当の理由を。