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無能の人
しおりを挟む『三好吉房』という戦国大名がいる。
数多の男たちが、一国一城の主を夢見、あるいは武勇を以て、あるいは知謀を以て成り上がっていった戦国時代において、この三好吉房という男は、それら成り上がり者の持ついずれの力も持たなかった。
かと言って、この男は名家の生まれというわけではなかった。それどころか、そもそも武士ですらない。
もし、生まれる時代が、ほんのわずかでも違っていれば、彼はただ一介の百姓『弥助』として一生を終えたことであろう。
そんな百姓『弥助』が、本人の望むでなく、一時は所領十万石を超える大名『三好吉房』となった。
まさに夢のような大出世……ではあるのだが、果たして彼はそれを望んでいたのであろうか。
弥助は尾張国海東郡乙之子村(現在の愛知県あま市乙之子)の百姓として生まれた。生年は天文三年(1534年)と伝わる。
同じく百姓の娘で、弥助と同い年であるともという女性を妻とし、ごく平凡な百姓としての暮らしをしていた。
弥助の妻、ともには弟がいた。名を藤吉郎という。
この藤吉郎が、頻繁に弥助・とも夫妻の夕飯どきに顔を出すのである。
「や、これは美味そうな大根が煮えておりますな」
言うや否や、鍋に手を突っ込んで、ひょいと口の中に放り込んでしまう。
「この子の行儀の悪さは子供の頃から変わらねえ」
と、ともが呆れてため息をつく。
弥助は、藤吉郎のことを密かに
「猿」
と呼んでいた。
別に蔑んで呼んでいるわけではない。夕飯どきになると山から現れ、軽快に去っていくその姿に、一種の愛嬌を感じているのである。
そう言えば、藤吉郎の容貌は、どこか猿に似ていないでもない。そういった妙な符合も、なんとなくおかしかった。
「姉上のメシはいつも美味うござる。これを毎夜食べられる弥助義兄上は幸せ者でございますなあ」
いつも決まりの言葉を言うと、藤吉郎は袂からじゃらじゃらと銭を取り出した。
「では馳走になった代金をお支払いいたします」
「要らないよ、そんなもん」
百姓にとって、通貨は銭でなく米である。無論市場まで出向けば使えぬわけではないものの、出回っている銭には悪銭も多いため、まともに取引をしようと思えば、やはり米の方が喜ばれる。つまり、弥助らにとっては銭など無用の長物であった。
しかし、藤吉郎は言うのである。
「いや、これからは銭の時代です。清州の城下町ではこれだけあれば美味いメシがたらふく食える」
つまり、ともの食事にはそれだけの価値がある、と言いたいのだろう。どうもこの猿はなかなか姉離れ出来ないようだ。弥助は苦笑しつつ、その銭を受け取った。
「いったいあいつは毎度毎度、どこであんなに銭を稼いでくるのかな」
藤吉郎が帰った後、弥助はともに尋ねてみた。しかし、ともも藤吉郎が普段どこで何をしているのか知らないらしい。
確実なのは、もはや野良仕事はしていないであろうと言うことだけである。
「あの子はなんでも要領のいい子だから……」
ともはそう言ったが、確かに藤吉郎は要領が良すぎた。なにせすでにこの時藤吉郎は、織田信長の下で、清洲城の台所奉行になっていたのである。取るに足らない小者として織田家に仕え始めて、まだ数年も経っていなかった。
弥助・とも夫妻には、男子ばかり三人の子があった。その名を、治兵衛、小吉、辰千代といい、それぞれ、永禄十一年(1568年)、同十二年(1569年)、天正七年(1579年)に生まれている。
乳幼児の死亡率がかなり高い戦国時代において、ひとまずこの三兄弟は長ずることができた。一組の夫婦にしては、まず子宝に恵まれたと言えるかもしれない。
長男の治兵衛が生まれたとき、弥助はすでにただの百姓ではなくなっていた。
猿の藤吉郎が、織田家の有力武将木下藤吉郎秀吉として頭角を表し始めたため、その馬引きとして取り立てられたのである。身分は低いが、れっきとした武士の扱いであった。
住処も、知多郡大高村(現在の名古屋市緑区)に移った。弥助夫婦の三人の子達のうち、上の二人は、その新居で生まれたのである。
武士になったとはいえ、弥助たちの生活がそれほど大きく変わったわけではない。もともと戦があれば地元の百姓たちが雑兵として駆り出されるのが常であったし、戦がない日はやはり農作業を続けねばならない。
精を出して働く弥助を見ながら、藤吉郎秀吉はこんなことを言った。
「そのうち野良仕事などやる必要は無うなるがね」
「そりゃあ楽ができて良いな」
弥助はそう言いつつも、今以上の変化は望んでいない。と言うよりも、想像すらできない。
そもそも、これまで百姓として以外の暮らしを考えたこともなかったのである。織田家中では当たり前のように存在している、農作業などをしない、専業の武士としての暮らしというものは、弥助にとって、完全に未知のものと言ってもよかった。
弥助が望む望まないに関わらず、変化はすぐに訪れた。藤吉郎秀吉が織田家の浅井攻めにおいて大きな功績をあげ、ついに一国一城の主となったのである。
与えられた秀吉の居城は近江の長浜城である。無論、弥助たち一家も、秀吉の家臣として長浜城下へと移った。
あまりの変転に、弥助は戸惑いを隠せなかった。
「俺はこんなに卑屈だったかな……」
と、思わず独りごちてしまうほど、百姓としての立場が体から抜けきれない。
秀吉の配下達に、弥助の出自を蔑むような者はいない。当然であろう、彼らの主君である秀吉その人が、百姓の出なのである。
故に皆、弥助と往来ですれ違うときなど、主君の義兄に失礼のないようにと恭しく挨拶をする。しかし、対する弥助はこうである。
「や、いや、こりゃまたどうも。へい、本日も良いお日柄で……」
この点は、この頃物心つき始めた弥助の長男、治兵衛の方がよほど侍らしく堂々としていた。
「父上、我々にも配下がいるのですから、あまりそうペコペコと頭を下げないでください」
そんなことはわかっているのだが、自分ではどうしようもできない。
「お前は生まれながらの侍なのだから、父の気持ちはわかるまいよ」
「ですが叔父上はいつも堂々としておられます」
それはそうだろう、と弥助は思う。もし自分も藤吉郎のように、自らの働きによって士分に取り立てられていたのであれば、あるいは今のようにオドオドとした態度はとらなかったかもしれない。
とは言え、今の身分が嫌だと言うわけでは決して無い。我ながら浅ましいと思わぬでも無いのだが、藤吉郎ならばこの先さらに大きな贅沢をさせてくれるのでは無いかと期待している自分もいるのであった。
自分だけでは無い。治兵衛ら子ども達の前にも、輝かしい未来が待っている。弥助は、そう信じて疑わなかった。
木下藤吉郎秀吉は、名を変えた。羽柴秀吉、受領名は筑前守である。
この頃になってくると、羽柴秀吉は織田家の中でも一、二を争うほどの有力武将という立場になっていた。諸国の有力者からの贈り物が頻繁に届き、朝廷の使者さえ度々往来する。もはや誰も、秀吉のことを猿などと呼ぶ者はいなかった。
順風満帆に見えた秀吉であったが、彼には一つ大きな悩みがあった。それは、子ができぬと言うことである。
その分秀吉は、自身の甥である弥助の子らを、まるで我が子のように可愛がった。特に長男の治兵衛がお気に入りで、治兵衛もまた、秀吉によく懐いていた。
そんなときである。
「治兵衛を養子に出したく思う」
秀吉が、弥助にそんなことを言いにきた。
今の秀吉に対して嫌だ、とは流石に言えない。言えないが、いったいどう言うわけで、どこへ養子に出すのか、それくらいは弥助も知りたかった。
「相手は三好じゃ。ありゃあ名門じゃぞ」
確かに三好家は、かつては畿内随一の勢力を誇り、天下に一番近いとも言われた大大名家である。
名目上は羽柴、三好二家の連携を強めるためということだが、秀吉の腹はそれだけでは無い。ゆくゆくは治兵衛を通じ、三好の勢力を自らの思うままにしたいのである。
こういった養子縁組は信長も行っている。北畠家には次男の信雄を、神戸家には三男の信孝をそれぞれ養子として送り込んだ。
秀吉も同じことをしたいのだが、あいにくと秀吉自身には実子がない。故に甥である治兵衛に白羽の矢が立ったのである。
弥助は了承した。治兵衛にとってもその方が良かろうとも思った。治兵衛は賢い。こんな百姓上がりの下級武士の家を継ぐよりも、名門三好に行った方がよほど良い。
かくして治兵衛は阿波の三好康長の養子となり、三好孫七郎信吉と名乗ることとなった。
と、同時に、奇妙なことであるが、治兵衛改め孫七郎の実父である弥助もまた、三好の名を名乗ることを許された。
弥助の新たな名は、三好武蔵守吉房である。ただの『弥助』が、名門三好家の一員『三好吉房』になった。
名は変わっても、『吉房』の中身はやはり『弥助』であった。これまでの人生を振り返ってみるに、弥助自身は、その正体が三好吉房と変化するほどの業績を、何事も成し得ていない。
三好吉房は確かに自分であるが、それが本当に自分自身なのか確信が持てない。まるで自分の鏡像が勝手に活動しているような、奇妙な感覚であった。
秀吉の出世は行き着くところまで行ってしまったと言っていい。よって、自身の身にももはやそれほど大きな変化は起こらないだろうと、弥助はそう思い込んでいた。
しかし、秀吉という人間は運も強い。およそ予測もできない事態が、秀吉をさらなる出世の道へと誘っていく。
織田信長が斃れた。
天正十年(1586年)六月二日、本能寺の変である。
この時の秀吉の対応は素早かった。中国の毛利攻めの最中であった秀吉は、信長横死の報を知るや、すぐさま毛利と和睦し、信長殺害の下手人である明智光秀を討つため、一目散に機内へと駆け戻ったのである。
弥助はこの時、秀吉の軍に従軍していた。
この電撃的な進軍の途中、拠点である姫路城に立ち寄った秀吉は、そこに弥助を残し、こう命令した。
「もしわしが明智に負けて討ち死にすれば、我が母も妻も、一族ことごとく処分して城を焼き払え」
身震いするほど恐ろしい命令である。これが武家のならいとでも言うのであろうか。もし仮に秀吉の言うような事態になったとして、弥助には言いつけ通りの行動を実行できる自信は無かった。
もし息子の孫七郎ならばどうであろう。武士として秀吉の薫陶を受け続けてきただけあって、案外平然とやってのけるかもしれない。
しかし、こうも思う。そんなことはやれない人間であって欲しい。
幼い治兵衛であった頃から、孫七郎は自分よりも堂々として武士らしかった。三好という名門に入り、いよいよ元百姓である自分とは異質の生き物になってしまった。
ならばせめて少しでも、自分と孫七郎は親子であると言う共通点を導き出したかったのである。
幸い、秀吉の凄惨な命令を実行する必要は無くなった。秀吉は山崎の戦いにて明智光秀を撃破。一躍、信長の後継者の有力候補となったのである。
そこからの秀吉は、凄まじいスピードで成り上がっていく。
秀吉の有力な対抗馬であった柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、強大な勢力を持っていた徳川家康に対しても、半ば主従関係に近い形で同盟を結ばせた。
信長の死からわずか三年で、秀吉は朝廷より関白の官職を授かるまでになったのである。
そしてその翌年には、新たな姓、『豊臣』を賜り、かつての猿、藤吉郎は、ついに『豊臣秀吉』となった。
この時点では、九州の諸大名や小田原の北条氏など、まだ秀吉に従わぬ大名も多かった。しかし、それらが平定されるのも時間の問題だと言うことは、誰の目にも明らかであった。
関白の名は、形だけでは無い。事実秀吉は、その職を名乗れるだけの実力を持っているのである。
まさしく、天下人と言って良かった。
秀吉が天下人となったことで、弥助の一家にも当然変化が訪れた。
まず三好に養子に行っていた長男の孫七郎であるが、もはやこれ以上三好家にいる必要はなくなった。三好一族の勢力など、今の秀吉にとってはどうでも良いものなのである。
秀吉には依然として子がない。ついに秀吉は、可愛がっていた孫七郎を、自らの後継にすることを決めた。
孫七郎は三好家から戻され、秀吉の養子となった。秀吉の『秀』の字をもらって、名も変わった。
豊臣秀次ーーそれが、孫七郎の新たな名である。
孫七郎の二人の兄弟、小吉、辰千代もまた豊臣の姓を賜り、それぞれ、豊臣秀勝、豊臣秀保となった。
弥助は、孫七郎秀次の家老として、今や次期関白となった長男を支えることになった。
さらに、弥助自身にも十万石もの領地を与えられた。その場所は尾張であり、なんと居城は清洲城である。
清洲城といえばかつての信長の居城で、あの秀吉が藤吉郎であった頃、台所奉行をしていた場所である。思えば秀吉の出世街道は、この城から始まったと言ってもいい。
弥助は感無量となった。今まではただ言われるがままに与えられた立場を享受してきた。しかし、その立場に相応しい働きをしたかといえば、それはもちろん否なのである。
秀吉は、この思い出の城を自分に与えてくれた。自分にそれに見合う実力がないのはわかってはいるが、せめて心得だけでも百姓弥助ではなく、次の天下人豊臣秀次の家老、三好吉房として生きていこうと思った。
それから間も無く、秀吉は関白の座を秀次に譲り、自らは太閤となった
関白として多忙な毎日を送ることになった秀次は、京に常駐することが多くなった。そのため、秀次自身の領国経営は、しばしば家老である弥助が代行することになった。
しかし、秀次の個人的な所領は、尾張・伊勢北部の百万石である。とても百姓あがりの弥助が統治できるような規模では無かった。
息子の秀次自身からも書状で難色を示されたこともあり、弥助は政治というものを早々に諦めた。
「秀次の下には、太閤殿下から付けられた優秀な配下がたくさんいる。何も俺が無理矢理にしゃしゃり出る必要もあるまい」
家老・三好吉房として生きていこうと決心したのはなんであったのか、彼の心中は早々にただの弥助に戻ってしまっていた。
だが、この弥助にしか出来ないことが一つだけあった。それは、秀次の実父という役割である。
関白豊臣秀次の父は、もはや豊臣秀吉かもしれないが、かつての治兵衛ーー孫七郎の父親は、この弥助なのである。
弥助は、京聚楽第の秀次を度々訪ねた。政治的な会話はしない。そもそも弥助にそんな会話はできない。ただ、父と子の他愛のない会話を楽しむためだけに、弥助は息子の元を訪れるのである。
「最近、叔父上が恐ろしく感じるのです」
酒を飲みながら、秀次はそう呟いた。
「恐ろしい……?」
弥助は、秀次が今更になってそんなことを言い出す気持ちが分からなかった。
確かに、秀吉には怖い部分もあるだろう。しかしそれは、戦国の世を生き抜き、のし上がってきた人間ならば誰しもが持っているものであり、秀吉ただ一人が例外というわけではない。
そもそも秀吉は、裸一貫の百姓の身から天下人まで成り上がった凄まじい男でもある。人に好かれるだけでなく、畏怖されるような恐ろしさを持ち合わせているのは当然のことであった。
「そうでなくては天下は取れない。お前もそう言っていたことがあっただろう」
「確かにそうです。ですが……」
秀次は一度、秀吉から激しい怒りを被ったことがある。それは天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いの時で、この時秀次は自ら志願して一軍の対象となったにも関わらず、敵の榊原康政らに完膚なきまでに敗れ、多くの配下を戦死さた。その上、自らは這々の体で逃げ出してしまうという醜態を晒した。
秀吉が、この時ほど怒気を晒したことはない。このような心得のままでは我が一族の恥であるから手討ちにするとまで言ったのである。
その時ですら秀次は、秀吉が恐ろしいなどと言ったことはない。なのになぜ今更そんなことを言うのか。なにか、その時よりも激しい叱責を受けたとでも言うのか。
「いえ、叱責などは少しも。近頃は、よくやっていると褒めてくださることも多いです」
「ならば何が恐ろしい」
秀次は少し考えていたが、しばらくして、自信なさげにこう答えた。
「目……でしょうか」
秀次によれば、秀吉の目が、ある時期をきっかけに大きく変化したように見えたと言う。
「父上は、鶴松君の葬儀を覚えておられますか」
長い間子ができなかった秀吉にも、ついに実子ができた。それが鶴松である。
だが、その鶴松はわずか三歳で亡くなってしまった。
我が子を失った秀吉の嘆きようは大変なものであった。人目を憚らず泣き叫び、ついには自らの髻を切り落として喪に服した。
秀吉が、他人の前でこれほどの感情を爆発させたことはない。
「あのとき、私は初めて、叔父上の心というものを見た気がいたします」
確かに、と弥助ははっとした。藤吉郎と言った昔から、秀吉は人たらしと呼ばれていた。いつもひょうきんで、少しの害意も感じない猿の藤吉郎を、みんな好いたものであった。
しかし今になって思えば、秀吉が真に何を考えているのか、どんな感情を抱いているのか、何一つわからなかったのである。
なのにそれを不気味だと感じることはなかった。そもそも、その得体の知れなさを実感することさえなかった。秀吉という人は、自らの心底を押し隠すことに関して、天才的な人間だったと言える。
鶴松の死で、それが崩れた。
秀次はこのとき初めて、本物の秀吉というものに触れた。そしてこれ以降度々、秀吉はその目に感情を宿すようになったのである。
鶴松の死後間も無く、秀吉は大明帝国の征服を試み、その手始めとして朝鮮への出兵を決めた。
この出兵には反対する者が多かった。当然であろう。いくら秀吉の軍事力が優れていたとしても、海を越えて広大な大陸を征服するなど、あまりにも無茶な話である。
だが、表立って秀吉に反対意見を述べられる者はすでに居なかった。唯一居るとすれば、それは現関白たる秀次である。しかし、
「日の本はお前にやる。わしは明国でゆるりと余生を過ごすつもりじゃ」
と秀吉に言われれば、何も言い返すことが出来なかった。
この朝鮮出兵において、弥助の次男、豊臣秀勝が命を落とした。戦死ではなく、病死である。
慣れない異国の地で、体を壊してしまったのかも知れない。
弥助の心は大きな悲しみに包まれたが、秀勝の死は、これから彼に訪れ続ける不幸の始まりに過ぎなかった。
弥助も同じ頃、病に倒れた。
死んだ秀勝以外の二人の子らが、看護のために弥助の病床を訪れている。
特に、長男の秀次が見舞いに来てくれたことは、弥助を感激させた。
「関白殿自ら見舞ってくれるとは、俺も偉くなったものだ」
「ご冗談を。親子ではないですか」
自分は良い息子を持った。弥助は心からそう思う。長男の秀次は関白、三男の秀保は中納言という高い官職になっている。それなのに、この二人は、ただ弥助の息子として、甲斐甲斐しく看病してくれているのだ。
「お前たち二人は、俺より先に死ぬんじゃないぞ」
子を一人失って痛感した。子が親より先に死ぬのは最大の親不孝であるということが実感できた。
同じような思いをするならば、いっそ今、自分がこの病気で死んでしまいたいとさえ思った。
「ご安心を、父上。我らは死んだ秀勝の分まで生きてみせますから」
秀次の言葉を聞いて、弥助は涙が止まらなかった。歳をとって涙もろくなったものだ、としみじみ思う。
ふと、鶴松の葬儀での太閤秀吉の姿が目に浮かんだ。
秀吉には、病気になった時にこうして看病してくれる人物が居るのだろうか。
秀次はその病床に侍すだろう。しかし、今の弥助のような感動を、秀吉が持つだろうか。
その秀吉からも、弥助に対して見舞いの手紙が来た。丁寧な内容で、
『関白殿や中納言も看病しているようで大変結構なことだ。心を静かにして、あまり心配事などなさらぬように、ゆっくり養生されよ。』
とあった。
その文体は柔らかで、気遣いに溢れているように見えた。しかし弥助はふと、以前秀次が言っていたことを思い出した。
「目……」
この手紙を書いている時、秀吉の目にはどのような感情が浮かんでいたのだろう。
過去の秀吉ならば、手紙の内容と同じような、慈悲に溢れた目をしていたに違いない。しかし今の秀吉の目はどうだろうか。
弥助の想像の中の秀吉は、暗い瞳をしていた。窺い知れるのは、妬心、そして怒りの様相であった。
弥助の病は二年ほどで快癒した。だがその頃、秀吉の元に、義兄の快復などどうでも良くなるほどの、この上ない慶事が訪れていた。
二人目の実子、拾(のちの豊臣秀頼)の誕生である。
この拾に対する秀吉の溺愛ぶりは大変なものであった。
「二度とは亡くさぬ。お拾はわしの宝じゃ」
秀吉のそんな心の声が聞こえてくるようである。誰の目から見ても、秀吉は全ての愛情をこの拾に向けているように見えた。
一方秀次は、日に日に陰鬱になっていった。無論原因は、拾の存在にある。
「私は用済みとなった。いずれ叔父上は私をお見捨てになる……」
弥助の前で、怯えた声でそうこぼすことも、一度や二度ではない。目に見えて、酒量も増えている。
鶴松の時はさほど気にしている様子は無かった秀次が、この頃はすっかり怯え切っている。
確かに、今の秀吉はその時の秀吉とは違う。一度子を亡くしている分、拾に対する執着が、他の感情を覆い隠してしまっているようにも見えた。
弥助とて子を亡くしている。秀吉の気持ちは痛いほどよくわかるが、秀次の怯えももっともなことであろう。
「あまり気にしすぎるな。太閤殿下も、一度後継と決めた者から、関白の座を取り上げるなどという無体なことはなさるまい」
秀次は黙って酒を飲み続けている。信じたいが、信じられない。そんな感情が、秀次の目から痛いほど感じられた。
程なくして秀吉は、生まれたばかりの拾と、秀次の娘の一人とを婚約させた。秀次の次の関白は拾である、と諸大名に宣言したようなものである。
そのこと自体は問題はない。実子が生まれた以上、その子にいずれ関白の座を譲りたいと考えるのは無理もない話である。
だが、それは本当にいずれ……の話なのであろうか。この早急な婚姻には、秀吉の焦りが見える気がする。秀次、お前はもう後継者ではないのだぞと言いたいのではないか。
弥助が何度慰めても、秀次はそんなことを呟き続けるのであった。
拾はすくすくと成長し、三歳になる正月を無事に迎えた。かつて鶴松はこの年齢で死んでしまったが、拾の方は大きな病もなく、今後も元気に育って行きそうに見えた。
しかし、拾が三つになったこの文禄四年(1595年)と言う年は、弥助にとっても生涯忘れられぬ年となった。
四月、三男の秀保が、十七歳の若さで病死してしまったのである。
弥助は天を呪った。なぜ若い秀保を連れていくのか。それならば自分が病にかかった時、なぜ代わりに連れていってくれなかったのか。
秀保の訃報は、すぐに太閤秀吉の元にも伝えられた。しかし、秀吉の反応は極めて冷淡なものであった。
「左様か。葬儀をせよ」
二年前、義兄とは言え血の繋がりのない弥助が病に倒れたときは、慇懃な見舞いの手紙をよこしたと言うのに、血のつながった甥っ子の死に対して、それを悼む様子は一切見せない。
今の秀吉の目に映るのは、実子の拾だけなのである。もし今度また弥助が病に倒れたとて、秀吉はなんの反応も示さないであろう。
息子がまたしても親よりも先に死んだ。それだけでも十分悲運の年だと言えるのに、この不幸は、まだまだ序の口に過ぎなかった。間も無く、それ以上の最大の不幸が、弥助のもとに襲いかかってきたのである。
何が起こったのか、弥助には皆目見当がつかない。
正月には皆揃っていた。長男の秀次も、三男の秀保も、太閤秀吉の元で新年の宴を開いたのでは無かったか。
その頃のことがまるで夢のようだ。いや、もしかすると、今の方が夢なのかもしれない。
弥助は、絶望に沈みながら、事実のみを淡々と思い返していた。
四月、秀保が急死。
六月末、秀次に謀反の疑惑が持ち上がる。
七月三日、秀次の元に問責の死者が派遣される。
七月八日、秀次、秀吉の元に釈明に出向くが、秀吉は取り合わず。
七月十日、秀次、高野山へ隠棲させられる。
七月十五日、秀次、切腹。
切腹ーー。関白、豊臣秀次は死んだ。切腹の理由はわからない。
初めは謀反を企んだと言うのが理由だったが、それが根も葉もない風聞であることは、父の弥助はよくわかっている。
秀吉とて、秀次謀反の疑惑を、本気で信じていたとは思えない。もし本当にそう思っていたならば、切腹など許さず、斬首や磔になっていたに違いない。
それにしても、秀次死後、その家族たちへの秀吉の対応は、尋常のものとは思えなかった。
八月二日、秀吉は秀次の妻妾や子供たちのことごとくを、京都三条河原にて処刑させた。たとえ幼い子供たちでも、容赦しなかった。
秀次という存在が残した全てを、この世から完全に消してしまおうとしているかのようであった。
中でも悲惨を極めたのは、出羽の最上義光の娘、駒姫である。
この十五歳の少女は、秀次の側室となることが決まっていた。だが、彼女が京へ着いた時、その秀次は切腹してこの世に居なかった。
秀次とまともに言葉を交わしたことすらない彼女は、到着して早々、三条河原の処刑場に送られたのである。
駒姫も含めた秀次の係累たちの遺体は、きちんとした埋葬も許されず、その場に掘られた穴に埋められた。
その首塚を、あろうことか秀吉は『畜生塚』と呼んだ。まるで殺したのは人ではない、と言わんばかりであった。
秀次事件に連座して処罰された者たちは、秀次の妻子以外にも多くいた。中には死を賜ったものも少なくない。
弥助ももちろん、秀次の実父として罪を免れることはできなかった。ただ、その処罰は流刑にとどまり、死を命じられることはなかった。
これは秀吉の情けなのであろうか。いや、そうではあるまい、と弥助は考えた。
弥助は秀次の実父ではあったが、なんの力があるわけではない。立場上は『三好吉房』という大名になってはいるが、中身は百姓であったときと変わらない、ただの弥助に過ぎぬのである。
秀次のように関白として政治を握ったわけでもないし、また年齢ゆえにその後継者となりうるべくもない。
この先生かしておいたところで、拾の邪魔になどなりようも無かった。
畢竟、秀吉にとって弥助とは、全くもって取るに足らない存在なのである。もしかすると、秀次を殺した時、それには実の両親がいるという事実をも忘れてしまっていたかもしれない。
ともあれ弥助は、罪人として讃岐に流され、幽閉されることとなった。
三人の子供達を相次いで失い。自らも流人とされる……。もはや弥助には何も残されていなかった。
ただ一つだけ幸いであったのは、弥助の妻・ともだけは難を逃れることができたということである。さすがの秀吉も、実の姉を罪に問うことはできなかったとみえた。
「百姓のままであった方が、よほど幸せだったかも知れん」
弥助は、護送の船内で、誰にともなくそう呟いた。
秀次事件から三年後の慶長三年(1598年)八月十八日、弥助の人生を翻弄し続けた男、豊臣秀吉が、六十二歳で死んだ。
秀吉は臨終の際、大老の徳川家康や前田利家の手を取り、
「どうかお拾のこと、よろしく頼みますぞ。頼みますぞ!」
と、涙を流して懇願したという。その哀れな様子は、かつての天下人とは思えなかった。
秀吉の死により、弥助の罪は許された。弥助は京へ戻り、妻のともと共に、死んだ息子や孫たちを弔いながら余生を送ることになった。
もはや城には住んでいない。かつての百姓家とさほど変わらない、小さな屋敷である。そこに夫婦二人、穏やかな時間が過ぎていく。
二人の姿からは、数十年の年月が窺い知れる。腰が曲がり、白髪が増えた。顔は、かつてとは比べ物にならぬほど皺くちゃだ。
だが、それ以外はかつての百姓夫婦の姿と、どこも変わるところはなかった。
夕餉の時刻になった。囲炉裏で大根がうまそうに煮えている。
ふと、木戸の隙間から一匹の猿が顔を出した。猿はたちまち屋内へと侵入すると、煮えた大根をひょいと自らの口に放り込んだ。
「まったく、行儀の悪い猿だがね」
叩き出そうとするともを、弥助は手で制した。
「いいじゃねぇか。この猿が持っていくのはメシだけだ」
そう言うと、猿に向かってまた一欠片、大根を投げて渡してやった。
呆れるともの前で、弥助は笑っていた。だが、その心まで笑っていたのかは、本人以外誰も知り得ない。
その証拠に、この日以降、弥助は飯時には木戸を固く閉め、以後はいかなる闖入者をも許さなかった。
弥助が死んだのは慶長十七年(1612年)のことである。享年は七十九。秀吉よりも十七歳も長生きしたことになる。
弥助の死の三年後、秀吉の遺児たる拾、改め豊臣秀頼は、大阪城にて徳川家康に攻められ、その一族と共に生涯を終える。これにより秀吉は結局、一人の子孫も後世に残せなかったことになる。
一方弥助には、次男・秀勝とその妻・江(後の徳川秀忠正室)との間に、完子という孫がいた。その子が公家の九条家に嫁ぎ、現代の皇室にまでその血が繋がっている。
子孫を残すという生物的な戦いにおいてのみ、弥助は秀吉に勝ったと言える。
弥助の妻・ともは長生し、寛永二年(1625年)まで生きた。ともがこの世を去った時、あれだけ栄華を極めた豊臣家の人々は、もはや誰も残ってはいなかった。
(了)
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