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第1章 YOU
1-4 私はここにいる
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心の中では、悠希に返すべき答えは決まっている。なのに、それを声に出すのが怖かった。声にすることで、これまでの関係が壊れてしまうのが、なによりも怖かった。意を決して口を開いたつもりでいたのに、声にならなくて。勇気を振り絞って息を吸い込んだはずなのに、声が喉で引っ掛かったようになって。
「ごめんな」
いつの間にか俯いていた俺の頭に、悠希の手が置かれた。
悠希が謝る理由がわからなくて、顔を上げる。たぶん、情けない顔をしていただろうけど、悠希は俺をからかうことはしなかった。少し背伸びをして俺の頭をぐしゃぐしゃ乱暴に撫で始めたから、水飛沫が辺りに飛び散った。
中学に入る頃までは、悠希の方が頭一つ分くらい背が高かったのに、今ではもう、立場が逆転している。
「なんか気持ち悪かったな。ごめん、忘れて」
一番、言わせてはいけない言葉だった。
ちがう。
その三文字すら、出てこない。
そんなこと、思ってない。
「中、入ろう? もういい時間だし」
そう言うと、「あはー、びしょびしょ」と楽しそうに声を漏らして、駅の構内に入っていく。
なにも答えられないまま、俺もそれに続く。
定期をかざして、自動改札を通り抜ける。俺たちの乗ろうとしている電車は、まだやって来ていなかった。
「てかさぁ、今んなって雨やんできたんだけど、どゆこと?」
いつもと変わらない、それまでのことがなかったかのような口調。さっき自分が言ったことすら、忘れ去ろうとしているような声色。
悠希が俺を見ている気配を感じるけれど、俺は悠希の顔を見ることができない。
二両編成の進行方向一番前に位置するところまで辿り着くと、二人で乗車位置に立ち止まる。
自然と、距離を空けてしまう。それはきっと、数センチにも満たない差なんだろうけど、それでもいつもより、悠希をとても遠くに感じた。
電車がホームに滑り込んでくるまで、どちらも一言も喋らなかった。
沈黙をなによりも嫌う悠希にとって、その時間は苦痛でしかないはずなのに、独り言すら漏らさなかった。
折り返し運転となるその電車から乗客が全員降りるのを待って、電車に乗り込む。雨が入り込まないよう、押しボタンでドアを閉ざした。
空いている席には座らずに、開閉がしない方のドアのそばに立つ。制服がびしょ濡れなのに、座るわけにはいかない。悠希もそれは心得ているようで、迷わずドアを背にして寄り掛かった。
学生の下校時間と重なることも手伝って、ドアの開閉ボタンが押されるたびに鳴りだす音が、ひっきりなしにあちこちのドア付近から聞こえてくる。高校生を中心に、空いていた席が次々と埋まっていく。
発車直前には、俺たち以外にも立っている乗客の姿がちらほら認められるほどになった。
時折、視線を感じた。たぶん、ありえないくらい制服を濡らしているからだろう。あんなことをするんじゃなかったと、改めて思う。
悠希はそんな視線など意に介さないのか、ドアに背を預けたまま、身体の後ろで手を組んで瞳を閉じている。
また、視線を感じる。
半ば強引に、悠希の手を握ってドアから引き離す。
突然のことに、悠希が驚いた拍子にその場でよろめいた。
「ちょっ、なにして――」
「いいからそっち向いてろ」
「は、はぁっ?」
有無を言わさずその身体の向きを変え、それまで悠希が背中をくっつけていたドアの方を向かせた。
「たぶんさっきから、悠希、ちらちら見られてる」
外の景色を眺める風を装って、悠希の耳元に囁く。
自分の胸元を見下ろして俺の言葉の真意を悟ったのか、左手で右の二の腕を掴むことで、胸元を隠した。
「あ……うん……ありがと」
恥じらいからなのか、頬をわずかに朱色に染めてそう言うと、五分ほどで降車駅に着くまで、悠希はずっと俯いていた。
電車が徐々に速度を落とし、やがて無人駅の小さなホームに車体を停止させる。
俺たちの他に十人ばかりの乗客を吐き出して、電車が走り去る。
けれど、悠希はそこから動こうとしなかった。肩に引っ掛けたバッグを握りしめたまま、俯いている。
「……悠希?」
名前を呼ぶと、弾かれたように顔を上げた。
「あ、悪い。ぼーっとしてた」
「どうした?」
「え? あぁ、うん……」
答えになっていない。いつもとは、まるで別人みたいだった。
「やっぱり葵は、優しいなって思って……。なんか、嬉しかった」
おそらく、さっきの電車でのことを差しているのだろう。
最近になって急に、自分の感情を言葉にすることが増えてきた気がする。
返す言葉がすぐには浮かばなくて間が持たず、誤魔化すように歩き出そうとしたら、腕を掴まれた。悠希の腕が絡み付いていた。
「もう行っちゃうの……?」
さっきみたいに、上目遣いで俺を見てくる。顔が、気付かないはずがないくらい、赤く染まっていた。
「まあ、あと帰るだけだからな」
「……やだ。もうちょっと……一緒にいたい」
歯の浮くような台詞に、こっちまで恥ずかしくなってくる。なんだよそれ。
……なんだよその、女の子みたいな表情は。
「こっち、来て」
腕を引かれるままに連れて行かれたのは、三人座るのがやっとのベンチ二つとゴミ箱しかない、簡素な待合室だった。電車が行ったばかりとあって、他に誰の姿もなかった。
サッシの扉を開けて中に入り、硬いベンチに、二人並んで腰掛ける。……肩と肩が触れ合うくらい、近くに。
扉がある側以外の三方には、腰から上くらいの高さにガラスが張られている。向かい側のホームには小さな駅舎がある。そこにはここより一回りも二回りも大きな待合室があって、今は四人組の中学生がたむろしている。なにがおかしいのか、お互いを指差し合ったりテーブルをばしばし叩くなどして、ゲラゲラ笑っているのが見て取れる。
雨はもうほとんど止んでいて、待合室の屋根から滴り落ちる雨水の音がする他は、隣の悠希の少し荒い呼吸の音が聞こえるだけだった。
左肩に、重みを感じた。すぐそばに、悠希の頭があった。雨と汗と、悠希の家のものと思われる匂いが、鼻腔をくすぐる。
「……葵って、あったかいね」
気の抜けた、それでいて、どこか甘えたような声。
「こう見えて、生きてるからな」
鼻から漏れる息で、隣の女の子が笑っているのが感じ取れる。
「やっぱり、葵の隣が一番落ち着く。なんか、眠くなってきた」
それは本当なんだろう。言い終わった直後に、遠慮のない欠伸《あくび》をした。
「走り疲れただけじゃね?」
「ううん。そんなんじゃない。葵の隣だから。落ち着くと、眠くなるんだよ」
「……言ってて恥ずかしくない?」
「恥ずかしいに決まってんだろ。でも、恥ずかしくても、言いたいって思ってさ」
なんだか、聞いてるこっちまで照れてしまう。
悠希は、俺に心を休める暇を与えずに、また口を開く。
「……どんなに時間が経っても、もう二度と会えないくらい遠く離れても、葵のこと、一生忘れない」
「遺言か? 気が早いな」
ばかか。そんな声とともに、脇腹を肘でつつかれた。
「それくらい、葵が好きってことだよ」
言い終わると、俺の左手を力任せにぎゅっと握った。その手は思ったよりひんやりとしていて、それでいて男にはない柔らかさがあって、気持ちよかった。
「いででで……骨折れる骨折れる、ギブギブギブ……」
「そんなに強く握ってねえわ」
まあ、もちろん嘘だけど。全然痛くなかったけど。俺が照れ隠しにしたリアクションだったけど。
繋がれた手に意識を集めると、手を通っている血管が時折脈打つのがわかって、当たり前だけど、悠希が今確かに生きていることがわかった。
手と手を握り合ったまま、俺たちはしばらく、そこを動かなかった。
「ごめんな」
いつの間にか俯いていた俺の頭に、悠希の手が置かれた。
悠希が謝る理由がわからなくて、顔を上げる。たぶん、情けない顔をしていただろうけど、悠希は俺をからかうことはしなかった。少し背伸びをして俺の頭をぐしゃぐしゃ乱暴に撫で始めたから、水飛沫が辺りに飛び散った。
中学に入る頃までは、悠希の方が頭一つ分くらい背が高かったのに、今ではもう、立場が逆転している。
「なんか気持ち悪かったな。ごめん、忘れて」
一番、言わせてはいけない言葉だった。
ちがう。
その三文字すら、出てこない。
そんなこと、思ってない。
「中、入ろう? もういい時間だし」
そう言うと、「あはー、びしょびしょ」と楽しそうに声を漏らして、駅の構内に入っていく。
なにも答えられないまま、俺もそれに続く。
定期をかざして、自動改札を通り抜ける。俺たちの乗ろうとしている電車は、まだやって来ていなかった。
「てかさぁ、今んなって雨やんできたんだけど、どゆこと?」
いつもと変わらない、それまでのことがなかったかのような口調。さっき自分が言ったことすら、忘れ去ろうとしているような声色。
悠希が俺を見ている気配を感じるけれど、俺は悠希の顔を見ることができない。
二両編成の進行方向一番前に位置するところまで辿り着くと、二人で乗車位置に立ち止まる。
自然と、距離を空けてしまう。それはきっと、数センチにも満たない差なんだろうけど、それでもいつもより、悠希をとても遠くに感じた。
電車がホームに滑り込んでくるまで、どちらも一言も喋らなかった。
沈黙をなによりも嫌う悠希にとって、その時間は苦痛でしかないはずなのに、独り言すら漏らさなかった。
折り返し運転となるその電車から乗客が全員降りるのを待って、電車に乗り込む。雨が入り込まないよう、押しボタンでドアを閉ざした。
空いている席には座らずに、開閉がしない方のドアのそばに立つ。制服がびしょ濡れなのに、座るわけにはいかない。悠希もそれは心得ているようで、迷わずドアを背にして寄り掛かった。
学生の下校時間と重なることも手伝って、ドアの開閉ボタンが押されるたびに鳴りだす音が、ひっきりなしにあちこちのドア付近から聞こえてくる。高校生を中心に、空いていた席が次々と埋まっていく。
発車直前には、俺たち以外にも立っている乗客の姿がちらほら認められるほどになった。
時折、視線を感じた。たぶん、ありえないくらい制服を濡らしているからだろう。あんなことをするんじゃなかったと、改めて思う。
悠希はそんな視線など意に介さないのか、ドアに背を預けたまま、身体の後ろで手を組んで瞳を閉じている。
また、視線を感じる。
半ば強引に、悠希の手を握ってドアから引き離す。
突然のことに、悠希が驚いた拍子にその場でよろめいた。
「ちょっ、なにして――」
「いいからそっち向いてろ」
「は、はぁっ?」
有無を言わさずその身体の向きを変え、それまで悠希が背中をくっつけていたドアの方を向かせた。
「たぶんさっきから、悠希、ちらちら見られてる」
外の景色を眺める風を装って、悠希の耳元に囁く。
自分の胸元を見下ろして俺の言葉の真意を悟ったのか、左手で右の二の腕を掴むことで、胸元を隠した。
「あ……うん……ありがと」
恥じらいからなのか、頬をわずかに朱色に染めてそう言うと、五分ほどで降車駅に着くまで、悠希はずっと俯いていた。
電車が徐々に速度を落とし、やがて無人駅の小さなホームに車体を停止させる。
俺たちの他に十人ばかりの乗客を吐き出して、電車が走り去る。
けれど、悠希はそこから動こうとしなかった。肩に引っ掛けたバッグを握りしめたまま、俯いている。
「……悠希?」
名前を呼ぶと、弾かれたように顔を上げた。
「あ、悪い。ぼーっとしてた」
「どうした?」
「え? あぁ、うん……」
答えになっていない。いつもとは、まるで別人みたいだった。
「やっぱり葵は、優しいなって思って……。なんか、嬉しかった」
おそらく、さっきの電車でのことを差しているのだろう。
最近になって急に、自分の感情を言葉にすることが増えてきた気がする。
返す言葉がすぐには浮かばなくて間が持たず、誤魔化すように歩き出そうとしたら、腕を掴まれた。悠希の腕が絡み付いていた。
「もう行っちゃうの……?」
さっきみたいに、上目遣いで俺を見てくる。顔が、気付かないはずがないくらい、赤く染まっていた。
「まあ、あと帰るだけだからな」
「……やだ。もうちょっと……一緒にいたい」
歯の浮くような台詞に、こっちまで恥ずかしくなってくる。なんだよそれ。
……なんだよその、女の子みたいな表情は。
「こっち、来て」
腕を引かれるままに連れて行かれたのは、三人座るのがやっとのベンチ二つとゴミ箱しかない、簡素な待合室だった。電車が行ったばかりとあって、他に誰の姿もなかった。
サッシの扉を開けて中に入り、硬いベンチに、二人並んで腰掛ける。……肩と肩が触れ合うくらい、近くに。
扉がある側以外の三方には、腰から上くらいの高さにガラスが張られている。向かい側のホームには小さな駅舎がある。そこにはここより一回りも二回りも大きな待合室があって、今は四人組の中学生がたむろしている。なにがおかしいのか、お互いを指差し合ったりテーブルをばしばし叩くなどして、ゲラゲラ笑っているのが見て取れる。
雨はもうほとんど止んでいて、待合室の屋根から滴り落ちる雨水の音がする他は、隣の悠希の少し荒い呼吸の音が聞こえるだけだった。
左肩に、重みを感じた。すぐそばに、悠希の頭があった。雨と汗と、悠希の家のものと思われる匂いが、鼻腔をくすぐる。
「……葵って、あったかいね」
気の抜けた、それでいて、どこか甘えたような声。
「こう見えて、生きてるからな」
鼻から漏れる息で、隣の女の子が笑っているのが感じ取れる。
「やっぱり、葵の隣が一番落ち着く。なんか、眠くなってきた」
それは本当なんだろう。言い終わった直後に、遠慮のない欠伸《あくび》をした。
「走り疲れただけじゃね?」
「ううん。そんなんじゃない。葵の隣だから。落ち着くと、眠くなるんだよ」
「……言ってて恥ずかしくない?」
「恥ずかしいに決まってんだろ。でも、恥ずかしくても、言いたいって思ってさ」
なんだか、聞いてるこっちまで照れてしまう。
悠希は、俺に心を休める暇を与えずに、また口を開く。
「……どんなに時間が経っても、もう二度と会えないくらい遠く離れても、葵のこと、一生忘れない」
「遺言か? 気が早いな」
ばかか。そんな声とともに、脇腹を肘でつつかれた。
「それくらい、葵が好きってことだよ」
言い終わると、俺の左手を力任せにぎゅっと握った。その手は思ったよりひんやりとしていて、それでいて男にはない柔らかさがあって、気持ちよかった。
「いででで……骨折れる骨折れる、ギブギブギブ……」
「そんなに強く握ってねえわ」
まあ、もちろん嘘だけど。全然痛くなかったけど。俺が照れ隠しにしたリアクションだったけど。
繋がれた手に意識を集めると、手を通っている血管が時折脈打つのがわかって、当たり前だけど、悠希が今確かに生きていることがわかった。
手と手を握り合ったまま、俺たちはしばらく、そこを動かなかった。
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