彼と彼女の365日

如月ゆう

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June

6月13日( ) 彼女の恩師

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 ――平成二十九年、六月十三日、火曜日。
 昨日の出来事から一晩経ち、私は言われた通りの時間に学校の保健室へと訪れていた。

 三回、手の甲で扉を叩けば、中からは「はい」と淡白な返事がなされる。

「……失礼します」

 ゆっくりとスライド式のドアを開き、見渡した。
 壁には歯磨きについて書かれた豆知識的なポスターや視力検査に使われる黒い輪の張り紙、その脇には体重計や身長計などの用具が寄せられている。

 奥には昨日と同様の姿で先生が待機しているけれど、他には誰もおらず、強いて言えばベットルームの一つがカーテンで仕切られているだけ。
 具合の悪い人でもいるのか、はたまたサボりか……。

「やぁ、こんにちは。……というよりも、初めましてという方が正しいかな? 一応、昨日に会ってはいるけど」

 そのまま進んで歩いていくと、そんな風に声が掛けられる。

「…………どうも……初めまして」

 軽い会釈をすれば、微笑まれた。
 ……何か、やりづらい。

「うん、初めまして。僕の名前は二葉ふたばすぐる。『二つの葉は優れている』と書いて二葉優だ」

「私は……倉敷くらしきかなた……です」

「くらしき……同じ苗字なんだね、君と彼は」

「……漢字は違いますけどね」

 そのような会話をしていて気付く。
 私はこんな話をしに来たのではない、ということを。

「あの……それよりも、そらは?」

 単刀直入に、本来の目的とも言うべき人物の居場所を訪ねてみれば、あっけらかんと肩を竦めて先生は口を開いた。

「まだ来てないね。まぁ、待ってれば来ると思うよ」

 そんな、適当な…………。

 そう思うけれど、口には出さない。
 言っても仕方のないような気がする。

「だからさ、その間に君の――君たちの話を聞かせてくれない? 彼からは彼の視点での話を聞いたから、今度は君の視点で」

 ならば、待つまでどうするか。このまま二人で対峙しているのか。
 そんな所にまで私の思考が拡張していると、ふと先生は提案をしてくる。要求してくる。

「…………………………………………」

 しかし、それはプライバシーに関わることで。おいそれと話すことのできる内容でもなくて。
 そして何より、この人に話しても大丈夫なのだろうか?

「…………まぁ、無理にとは言わないけどね。ただ、彼の話を聞いて、彼の蟠りを僕は知っているわけだから、話してくれると君たちの助けになるかもしれないよ?」

 その言い方に、ピクリと私の体が反応した。
 それがバレたか、下に向けていた視線を僅かに持ち上げて盗み見るように先生の方を向けば、パッチリと目と目が合う。同時に、また微笑まれた。

 …………やっぱり、理由は自分でも分からないけれど何となく好きになれないな……この人のこと。

「…………分かりました。そらが来るまででいいのなら、話します」

 それでも、話す以外に私の選択肢はない。
 だって、私たちの――そらの助けになるかもしれないと、そう言われたのだから。

「とは言っても、一度そらから話を聞いたのなら事情は知ってると思います。ですから、話というよりは……これは私の懺悔です」

 薄く息を吐いて、私は言葉を紡いだ。

「そもそもの発端が私への虐め……という話ですが、本当はそこから違う。泣いたのは確かですけど、それはただそらから向けられるとは思っていなかった言葉に驚いたからで、他に何かされたわけでもありません。
 でも、私はその事を皆に言わなかった。言えなかった。言う勇気がなくて、そのせいでそらが傷つき始めて、それが怖くて……。ただの言い訳になるけど、その真実を告げて、でもそれを皆が信じてくれなくて更にそらが傷つくのが嫌だった。耐え切れなかった」

 そこで一度、私は言葉を切る。
 久々に長く話したせいか口の中はカラカラだった。

 その時、察したように先生はお茶を提供してくれる。
 いつの間にかギュッと強く握りしめられていた自分の拳を解き、コップを持てば、満たされた冷たい液体を喉にそっと流し込んだ。

「…………それに、私は皆のことも怖い。私のことをダシにして、頼んでもいないのにそらを傷つけて、正義感ぶって……まるでヒーローにでもなったように平気で人を傷つけてる。
 でも、それもこれも全部私が弱いから。最初に泣いてしまったことも、真実を打ち明けられなかったことも、皆に恐怖するのも……私の心の弱さが原因。わたしのせい」

「……………………なるほど」

 話をただ聞いていただけの先生は、それだけ静かに答える。
 お茶の啜る音が、静寂に満ちた部屋の中では一際響いていた。

「だそうですが、君の意見はどうなんですか蔵敷くん?」

 ……………………えっ?

 その時、閉まっていたはずのカーテンがシャーッと音を立てて開かれていく。
 そこに居たのはまさかの人物で、でも私が見間違えるはずもなくて――幼馴染のそらの姿があった。

「…………別に意見なんてないですよ。ただただ、俺が余計な見栄を張ったせいなんだなって、かなたに辛い思いをさせたなって、謝りたい気持ちでいっぱいなだけ――うおっ!」

 久しぶりに見る正面からの顔。
 普段なら誰とも関わろうとせず、いつも独りで過ごしていた彼と対峙できた喜びから、私はその体に抱きついていた。

「――痛ってぇ……! これは抱きつきじゃなくて、体当たりだっつーの…………まぁ、報いだと言われれば幾らでも受けてやれるような楽なものだけど」

 勢い余って、二人してベットに突っ込む。
 そのせいでそらは背中を打ったようだけど、ぼやきながらもしっかりと私を抱えて、背中に手を回してくれる。

「ごめん……ごめんね、そら。私が弱かったから……いっぱいそらを傷つけた……。あの時泣いてごめん。何も言えなくてごめん。一緒に傷ついてあげることができなくて、ごめんね……!」

 その温もりが、髪に触れる手の感触が懐かしく、自然と涙は零れ、溜まっていた謝罪の言葉がとめどなく溢れた。

「…………なんで、被害者のお前が謝るんだよ。それを言うなら、俺こそだ。変なこと気にして、傷つくようなことを言ってすまん。
 もう、そんな些細なことを気にするのは止めにするよ。もっと、本質を見た強い人間に俺はなる。だから、その後に起きたことはもう気にするな。全部、受けるべき俺への罰だから」

「私も……! 私も、強くなる。泣かない、逃げない、恐れずに立ち向かえる心の強さを手に入れる。だから……だから――!」

 その先は言葉にならなかった。
 自分でも、何を言いたかったのかさっぱりだ。勢いだけ。

 それでも思いは確かに届いたようで。

「あぁ、そうだな。そうしよう…………ずっと……」

 撫でてくれたその手と、響いたその声が、しっかりと答えになっていた。

 ――と、その時。

「…………そろそろ、いいかな?」

 間に入る隙を窺っていたのだろう。
 唐突に横から声が掛かる。

「何から言おうか、まずはおめでとう。二人の仲が戻ってくれたようで嬉しいよ。もっとも、君たちの本来の仲を僕は知らないのだけどね」

 音のならない小さな拍手で祝福されれば、今度は困ったような苦笑いを先生は浮かべた。

「で、次だけど……そろそろ、二人とも離れようか。僕はまだ教育実習生で、教師というのも烏滸がましいけれど、そういうスキンシップは少し早いんじゃないかな――と、苦言を呈するよ」

 そう言われ、私たちは今一度自分たちの置かれている状況に目を向ける。
 抱き合った状態で、ベッドに寝転ぶ男女二人…………なるほど、確かに文句を言われてもしょうがなさそう。

 渋々と離れ、乱れた制服を払って元に戻すと、私たちは立ち上がった。

「うん、そして最後。見る限り、君たちの抱えている問題はもう済んだようだし、教室に戻るといい」

「…………は?」
「…………え?」

 あまりにも急な展開に、目を丸くする。
 意味が分からないのだけど、この人の中で何が噛み合って私たちは出ていく流れになったのだろう。

 確かにずっとここに居座るわけにいかないのは分かるけど、だからって今すぐ……?

「保健室はね、患った生徒の行く着く場所だ。逆に言えば、何もないのに来る場所じゃない。そんな子の相手をしている暇も僕にはない。だから、もう君たちの居られる場所じゃないんだよ」

 その答えを先生は教えてくれる。
 私たちの背中をグイグイと押し、廊下へと追いやろうとしながら。

「いや、あの……先生。俺、まだ治療が済んでないんですけど。患ったままなんですけど!」

「君に必要なのは私の処置ではなく、湿布そのものでしょう? ひと袋差し上げるので、好きに貼っていなさい」

 まるであらかじめ用意でもしていたかのように、懐から取り出される銀色の包み。
 そのままポイと放り出されれば、無慈悲にもスライドドアは閉じられる。

『…………………………………………』

「…………これからどうする? さすがに、二人一緒に授業に戻るのは不味いよな……」

 誰もいない廊下。
 お昼過ぎの廊下は窓から入る斜陽で明るい。

 遠くでは微かに、体育で使われる笛の音が響き、違う世界にいるようだ。

「取り敢えず、教室に行こうよ。今の時間は体育で皆は外だし、その湿布も貼らなきゃいけないでしょ?」

「……だな。そうするか」

 二人寄り添い、歩く校舎。
 その感覚は懐かしく、それでいて落ち着くもので、束の間の平穏ではあるけれど私たちは無事に取り戻すことができたのだった。
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