彼と彼女の365日

如月ゆう

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October

10月16日(水) 満員電車

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 人の蔓延る電車の中。
 最近は吹く風にも冷たさが増し、ようやく秋を感じ始めてきたというのに、乗員の熱気でまるで夏場のようだ。

 いつもなら朝補習があるため、もっと早い――混雑の少ない時間に登校できていたのだけど、後期が始まったばかりの今ではそれは叶わない。

 ……訂正、嘘ついた。
 早起きさえすれば解消できる問題ではある。

 ただ、怠惰な俺たちがわざわざ睡眠時間を削るようなことはしないってだけで……。

 さて、そんな状況下の俺たちではあるものの、運良くドアのすぐ横に付いた手すりと座席の壁との隙間を陣取ることに成功。
 その空間へとかなたを押し込めば、向かい合うように――背中で押し寄せる人の圧を受け止めるようにして俺は立っていた。

「はぁー……ホント、満員電車は嫌いだ」

 ため息とともに零れる愚痴。
 それは列車の走行音にかき消されるくらい小さなものだったが、流石に真正面からは聞こえたらしい。

 目の前の彼女は小首を傾げる。

「暑苦しい、から……?」

「まぁ、それもあるけどさ……一番は、手の置き場に困るからだな」

 そう答える俺は現在、かなたが背もたれとして利用している壁に手を付いていた。

「…………手?」

「そう、手。最近は痴漢の冤罪も多くなってきたし、置く位置に気を付けてないと危なすぎて怖い」

 もちろん、最近の捜査技術も進歩しており、手に服の繊維片が付着しているかどうかで証明できたりもするらしいが、それも万能ではない。

 もし、痴漢するするつもりがなくても、電車の揺れなどで手がぶつかってしまえば即アウトだ。
 逮捕、求刑、お先真っ暗。

 だからこそ、誰にも触れないように、手の位置には注意しなければならないのである。
 少なくとも自分の胸よりは高く、できれば頭の上――つり革に両手で掴まるように。

 ただでさえ辛い空間なのに、そこまで気を遣わなければいけないのは身体的にも、精神的にも、かなりのストレス。

 故に、俺は満員電車が嫌いだ。

「そうでなくても、身体を擦りつける痴漢やら、匂いを嗅ぐ痴漢なんかも出てきてくれやがったおかげで、もう女性の近くにいることさえが恐怖だっつーの。肩や背中が触れるだけで通報されるんじゃないかって、毎回死ぬ思いだわ。……福岡にも、女性専用車両が追加されればいいのにな」

 俺の数少ない、切なる願いであった。

 もう怯えたくない。安心して生きていたい。
 通報という名の、一発で男を社会的に貶める自己申告への恐怖から……。

「……というか、何なら男性専用車両の方を作って欲しいわ。多分、みんな冤罪を恐れて供用車両から逃げてくると思うし……。それに『供用車両にいるなんて、私たちに何かする気なんだわ。通報しましょう』って女性層が現れて、自然と車両が二極化するはずだから」

 一応言っておくと、別にバカにしているわけではない。
 ただ、フェミニストなんていう人らがネットに跋扈しているところを見るに、そういう考え方は必ずと言っていいほど生まれるだろう――というだけ。

 もちろん、それが行き過ぎた一部の考えだということも理解しているうえでの発言だ。

「まぁ、そんなわけで――というか、何で朝からこんな話してるのか分からないけど……満員電車は嫌いだから、苦渋の選択だけど朝補習が早く再開してほしいな、って話だ」

 言いたいことを言い切ったおかげか、多少なりともスッキリした。
 しかし、変な話を延々と聞かせてしまい、かなたには申し訳ないことしたと思う。どうか許してほしい。

「…………そらは、その車両ができたらそっちで登校するの?」

 そう思って謝罪をしたのだけど、返ってきたのはそんな言葉。
 てっきり、「……気にしないでいい」などと言われると思っていたんだけどな。

「いや、まぁ……そうなると思うぞ」

 質問の意図が読めないながらも、俺は答えた。
 何せ、待ち望んでいたものなのだ。使わない理由がない。

「…………その手の置き場所だけど、私にいい考えがある」

 かと思えば、今度は別の話に移る。
 コイツの今の心情が分からん……が、それはそれとして――。

「マジで? どうすればいい?」

 気になったので、尋ねてみた。

「……私に抱きつけばいい」

「……………………は?」

 敢えて、もう一度言おう。
 コイツの心情が分からん。

「そら風に言うのなら、『知らない人に触って冤罪を受けるくらいなら、知ってる人に了承をもらって触っておけ』ということ」

「いや、それはどうなんだよ……」

「いいから、やってみそ」

 有無を言わさぬ瞳が俺を貫く。
 幼馴染だからこそ知っていることだが、これは逃げられないやつだ。

「……取り敢えず、『やってみそ』は古いと思うぞ」

 なので、苦し紛れに悪態をつきつつ、観念した俺は自身の両手をその細い身体に回した。

「……………………」
「……………………」

 ……うん、暑い。そして熱い。
 当たり前の感想が、脳内に生まれる。

 おまけに、列車の揺れに足腰だけで対応しなければならず、不安定だ。
 ぶっちゃけ、無意味な行為。

 そう思い、回した手を外そうとすれば――何故か抜けない。

「……かなたさん? 背中を壁に押し付けて、俺の手を固定しないでもらえます?」

「……断る」

 むしろ、外そうとコチラが躍起になるほど体重をかけて固定してくるため、挟まれて単純に痛い。

「えー……マジでこのまま行く気なの?」

「……あと二駅の我慢」

 確認してみても、どうやら彼女に引く気はないらしい。
 諦めてため息を吐いた俺は、くだらない話をした罰だ――と、自分にそう言い聞かせて最寄り駅までの数分間を耐えるのであった。
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