彼と彼女の365日

如月ゆう

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November

11月18日(月) 理不尽な二択

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 一日経っても、一週間が過ぎても、世界は何も変わらない。
 一年かけてようやく人間一人が変わるのだから、それも当たり前のことだけど。

 扉を開けたと同時に差し込む太陽の日差しは眩しく、けれども清々しいものではなかった。

 少しでも体を動かそうと取り入れた階段での移動はすっかり生活の一部となってしまったようで、どれだけ重い足取りをしていようとも、自我のないロボットのように勝手に足は運ばれていく。

 そうして地上に辿り着き、自分の自転車を駐輪場から引っ張り出すと、マンションの出入り口に誰かが立っていることに気が付いた。

 ……こんな朝っぱらから?
 歩くでもなく立っている。立ち尽くしている。それは、人を待っているようにも見えた。

 あまりいい予感はしないが、残念ながら駐輪場から外へと繋がる出入り口はあそこ一つしかない。
 仕方なく自転車を押して歩くと、こちらに気付いた少年は普段と何ら変わらぬ様子で話し掛けてくる。

「よぉ、翔真」

「……………………そら」

 俺の……この人生の中で唯一親友と呼べる存在だ。

「…………倉敷さんはどうしたんだ?」

「アイツは寝てるよ。……いや、今の時間ならもう起きてるか? …………まぁ何にせよ、連れてきちゃいない。俺の勝手な行動で睡眠時間を削らせるのも可哀想だったしな」

 その傍らにいつもいるはずの子の姿がないことを言及してみれば、彼は肩を竦めて答える。

「ていうか、来る度に思うけど遠い。そして、お前は出るのが早い。俺に、いつも以上に早起きさせんな」

 そして怒られた。
 さすがに理不尽すぎる言われようではないだろうか。

「…………それで、何しに来たんだ?」

 軽口には付き合わず、俺は単刀直入に問う。
 とはいえ、聞かなくとも目的は分かる。相手もこちらが分かっていることを分かっている。

 お互いに全てを察した状態で、それでも無駄な問答を繰り広げる。

「何って、そりゃ……不登校を止めさせにきた。いい加減、戻ってこい」

 …………やっぱり、か。
 詩音さんに続いてそらまで。

「……関係ないだろ。放っておいてくれ……!」

 君たちは何も知らない。
 それは同時に知られたくないもので、俺自身が隠しているという矛盾の事実を孕んでいるのだけど、その全部を胸に閉まって拒絶だけを繰り返す。

 その一言で全ての事が済む――そのはずだった。

「関係ならある」

「……………………は?」

 だけど、この日は何かが違った。
 そらの発言した内容を汲み取れず、そんな意味のない間の抜けた音が口から漏れると、気にせず彼は話を続ける。

「一昨日、お前の過去を聞いてきた。三枝先生に頼んで、お前の母校にお邪魔して、元担任から今までの苦悩や努力を教えてもらったよ」

「な――――っ!」

 その言葉に俺は絶句した。

 俺の……過去……? それってどこまでだ? どこからだ? 虐められていたことか? 転校したことか? 勉強ができないことか? 運動ができないことか? それとも、太っていたことか? ……知られたのか? 誰に? そらに? 他には? 倉敷さん? 詩音さん? ……知られたんだ。全部、遍く、全て、一切を。知られた。知られた知られた。知られた知られた知られた知られた――。

 ――頭が痛い。混乱する。
 身体が熱く、吐き気は催し、視界は赤く染まる。

 秘密を知られた恐怖、秘密を暴かれた怒りに渦巻く精神を、心臓部をギュッと握って、歯が欠けるほどに噛み締めて何とか自制を試みた。

「……………………それで、どう思ったんだ?」

「どう、とは?」

 こういう時だけ察しの悪い親友に腹が立つ。
 鎮火した怒りが再燃しそうだ。

「…………っ! 俺が、君たちを騙していたことだよ! 本当はカッコよくなんてない。天才と呼ばれるほど、すぐにホイホイと何かができたりもしない。予習も復習も欠かせなくて、実際のところは少しの余裕もない。そんな見栄だけの本当の俺を知って、どう思ったんだって聞いているんだよ!!」

 言い切ったら、息が切れた。
 何度も、何度も息を継ぐ。

 あぁ……この声が自宅にまで届いていないだろうか。
 こんな時でさえ、そんな自己保身が頭を過る自分に心底苛立ちを覚えて仕方がない。

「…………別に」

 間を置いて、紡がれた答え。
 その一言にピクリと反応する。

「別に、やっぱりお前は凄いやつなんだな――って、それだけだ」

「…………は? 何を言って――」

 またしても、言葉を理解できずに意味のない息が漏れた。
 一方のそらは、煩わしそうに頭を掻き、ため息を吐く。

「逃げるべき時に、ちゃんと逃げられる奴ってのは意外に少ない。もちろんイジメは悪に変わりないのだが、自殺が絶えない多くの原因は逃げない精神性によるものだ。だから、生を諦めず、死を受け入れず、みっともなく足掻いてでも逃げる選択をしたお前を俺はバカにしたりしない」

 向けられた瞳が、真っ直ぐに俺を貫いた。

「そして、それ以上にお前は自分の弱さと向き合って、自分を変える努力をした。たった一年でこれまでの学を取り戻し、運動や食生活で立派な体躯を手に入れ、そこに満足することなくずっと維持し続ける。その大変さは、きっと俺の想像の何倍も苦しかったはずだろう。
 確かに、お前は『一を聞いて十を知る』先天性の天才ではなかったのかもしれない。でも、『十を知るまで努力し続ける』ことのできる後天性の立派な天才だよ。――だから、お前は凄い」

 そんなことを言われたのは初めてだった。
 いや、誰にも打ち明けてこなかった秘密だから初めては当たり前なのだけれど……そんな言葉を告げられるとは思ってもみてなかった。

 ありがとう、そら。
 俺の初めての親友。

 たとえ嘘でも、その場かぎりの偽りでも、聞いていて嬉しかったよ。

 でも、今はまだその言葉の真意を信じられない。そう簡単に受け入れられるほど開いた傷は浅くない。
 けれど、いつか癒えて、そんな自分を認められて、彼らのことも乗り越えることもできて、また皆と学校で過ごせたらってそう願――。

「――ていうか、そんなことはどうでもいいんだよ。お前の過去、全校生徒にバラされたくなかったらさっさと学校まで付いて来い」

「……………………はぁ!?」

 三度目の困惑。
 突如とした脅しに、俺はまともな反応ができなかった。

「俺も虐められたことのある経験者だ。話は読める。どうせ、『学校に過去をばらされたくなかったら――』なんて脅迫を受けてるんだろうから、俺も同じ脅迫文句で学校に連れて行ってやる」

 む、無茶苦茶だ……。
 でも、その言動は当たってもいる。

 確かに俺はここ数日、そんな脅しを受けて彼らの元へと訪れていた。

 しかし、今はどうだ。
 学校をサボっても過去の話を広められると、どちらの行動をとってもバラされる理不尽な二択を迫られている。

「――わっ、本当に蔵敷くんがいた……」

「ね? ……言った通り」

 そして、事態はさらに混迷する。
 掛けられた声とともに現れたのは、自転車を押す詩音さんと倉敷さんの二人。

「おい……なんでかなたがいるんだよ」

「……何故か早くに目が覚めた。そしたら、そらは先にどこかへ行くし……でも、考えはバレバレ。少し遅れて付いて来た」

「そ、その道中で私と出会ったの」

 これは、そらにとっても想定外なようで焦りを見せるけれども、すぐに彼は機転を利かせる。

「けど、ナイスだ二人とも。詩音さん、自転車借りるぞ。かなた、後ろに乗れぇ!」

「おー」
「えっ……えっ……!?」

 状況を把握できず、困惑することしかできない詩音さんから自転車を強奪したそらは、倉敷さんを後ろに乗せてペダルを漕ぐ。

 締めて、強盗罪と道路交通法違反だった。

「翔真! お前が菊池さんを送らないと、彼女までサボりだぞー! あと、バラす!」

 そんな捨て台詞とともに、小さくなる背中。
 俺と詩音さんは互いに顔を見合わせ、続いて俺の手元の自転車に目を向けた。

 ……これ、二人乗りでなくとも、俺が詩音さんに自転車を貸せばいいんじゃ…………。

 そのタイミングで、詩音さんもハッとする。

「あっ……わ、私……人から自転車は借りない主義で……!」

 …………どんな主義だよ。

「いや、でも……遅刻するよ?」

「なら、乗せてください! でないと、私はテコでもここを動きません!」

「何さ、その脅し……」

 しかし、困った。
 このまま放置――というわけには勿論いかないし、かと言って二人乗りで彼女を学校に連れて行ってもアイツらに秘密を広められる。

 有り体に言って、どうしようもない。

「…………はぁ……なら、学校に行く方がマシか……」

「――――っ!」

 学校に行かず、詩音さんも置いてアイツらの元へ向かい、秘密をバラされる。
 学校へ行き、秘密をバラされる。

 どう考えても、後者の選択肢の方が幾分か良い。
 少なくとも、会いたくない奴らに会わなくて済む。

「……俺の負けだよ。後ろに乗って」

「うん……!」

 自転車に跨がれば、背中から感じる仄かな人の温かみ。
 ペダルを漕ぎ出すと、流転する世界のように車輪はクルクルと回り始める。

 徐々に高度を上げていく太陽。反比例するように吹き荒ぶ朝特有の寒風。
 人を二人乗せているにもかかわらず、不思議とその足取りは軽かった。
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