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くちなし警部の事件簿 〜公妨四方固め〜

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「帰れかえれ。見世物じゃねえんだ。捜査の邪魔をすると共謀罪で逮捕するぞ」
梔紫微斗(くちなししびと)警部は、事件現場に群がる野次馬に向かって怒鳴った。
ここは静岡県東富士市の、東谷湖フィッシングエリアである。
管理釣り場と呼ばれる貯水池に、中年男の死体がうかんでいるということで、朝の7時だというのに現場付近は大変な騒ぎだった。小学生とおぼしき児童までもが、張り巡らされたロープの縁にいる。
「帰れと言っとるんだ。坊主、お前小学生だろ。学校行け、学校。しっかり勉強せんと非正規雇用になるぞ。大人は仕事行け。しっかり働いて税金を納めるんだ」

梔紫微斗は、静岡県警東富士署に所属する警部である。年齢は40歳、身長180cmの筋肉質の体型であり、髪型は角刈りの、いかつい鬼瓦のような顔をしている。泣く子も黙るどころか大の男であっても、気の弱い者だったら彼の顔を見ただけで泣き出してしまうだろう。しかし梔は気にしなかった。警官は、特に刑事はアイドルではないのだ。可愛い必要はない。警官が可愛らしいということは百害あって一利もない、もっともっと怖い顔になりたいものだ。梔はいつもそう思っていた。

出で立ちは暗色系の上下のスーツに、テレビの刑事ドラマから抜け出してきたようなステレオタイプのトレンチコートを羽織っている。
形から入ることは大切だ。一般大衆は常に外見で人を判断するのだから、刑事は刑事らしい格好をしていなければならない。それが梔の持論であった。

しかし梔警部が怒鳴っても、二十名を越えると思われる野次馬たちは、多少後ろに下がりはするものの、一向に立ち去る気配を見せない。
「帰れと言っとるんだ!」
梔は背広の裡のホルスターから拳銃を抜くと、空に向けて発砲した。
ぱあん!という乾いた音と拳銃から噴き出す火煙に、
「ワーーーーッ!!」
と野次馬たちはそれぞれ言葉ににならない悲鳴を上げ、それこそ蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
「ふん。有象無象どもが!」
梔は走り去っていく野次馬たちの背中を憎々しげに見送った。

東富士市は、静岡県東部の三つの市町村が合併した市である。
かつては、米軍基地が滞在することによる基地利権で、市は潤沢な資財を抱えていたが、米軍基地が移転してからは経済的に貧窮し、富士山への登山口と地元の名産物である水菜だけが売り物の、貧しい地域となった。「静岡の寒村」と揶揄されている。
東谷湖フィッシングエリアは、そんな貧しい地域に人を呼び、経済的効果をも生む数少ない地域活性装置でもあったのである。



「梔警部。被害者の身元と死因がわかりました」
梔の元へ、課の一番若手刑事で高身長爽やかイケメンの七村が、駆け寄ってきて報告した。11月の朝の空気が、彼の吐く息を白く凍らせていた。
「誰だ」
と梔が訊く。
「氏名、和田努(わだつとむ)、年齢、58歳。職業は釣具店経営です。死因は検視官によりますと、鈍器のような物で頭部を殴られたことによる外傷と思われる、とのことです」
「釣り道具屋のオヤジか」
「それが、釣具店といってもチェーン展開をしていまして、かなり規模の大きなものです」
「こいつが和田か。ずいぶん顔が違うな」
「写真のガイシャはカツラをかぶってるんですよ。和田は安物のカツラを好んでかぶっていたそうです」
若い刑事がA3サイズの平とじの雑誌を見せた。表紙には長髪の中年男が、体長40cmほどのブラックバスの唇をつかみ、魚の顎が外れそうなほどに捻って持ち上げながら歯を剥き出して笑っている写真が全面に飾られていた。その雑誌が釣り関連の書籍であることは梔にもわかった。

「被害者の和田か」
表紙の写真を見て梔が雑誌を手に取ると、若い刑事は別の釣り雑誌も差し出した。それにも和田が傲然とした笑顔で写っていた。
「お?、結構な有名人だったんだな」
「釣りの世界では『ワンダートム』と呼ばれていたようです」
「何だそりゃ」
梔が苦笑しながら尋ねると七村は
「アニメにもなった釣り漫画の『アングラー竹造』に登場するキャラクターですよ。本人が同名で出ているんです。だいぶ若いキャラに変更されていますが。子供たちにも大変な人気者です」
と言ってから、
「人気者だった、と言うべきかもしれませんね」
と言い直した。
「だった、ってのはどういう意味だ?子供たちに嫌われてるのか?」
「憎まれている、と言ってもいいかもしれません」
と七村は言った。



「憎まれている?どういうことだ?」
梔は七村に訊いた。
「2004年に、外来生物法というのが制定されたでしょう」
と七村。
「ああ、そんな法律ができたな。アライグマを飼ってはいかん、とかテレビのニュースで特集をやっとった」
「あの法律ができて、ブラックバスが特定外来生物に指定され、バス釣りが完全にアナーキーなものとして社会に認知された途端に、和田は以前までと態度を豹変させたんです」

「豹変……」
「ええ。それまでの和田は、バス釣りの専門家、バサーのワンダートムとして名前を売ってきました。アニメのキャラクターになったのも、バス釣りのオーソリティーとして子供たちの人気者だったからです」
「ふむ」
「それが、外来生物法ができた途端に、まだ施行は1年も先だというのに、バス釣りにノータッチ・ノーコメントになったんです。彼はバス釣りに関する全てをシャットアウトして、自身を『管理釣り場評論家』と名乗り始めた」
「またおかしな肩書を名乗りおって」
梔があきれる。
「バス釣りを愛する子供たちや、バサーたち…バサーというのはバス釣りをする人のことです…バサーたちは和田の豹変ぶりを一斉に非難した。しかし和田はこれを一切、無視した。以来、ワンダートムは日本釣り会のヒールになったんです。ヒールというのは」
「それぐらいわかるよ。悪役、って意味だろ」
と、梔が苦笑する。
「失礼、とにかく外来生物法制定以降の和田は、日本全国の釣り師から白眼視されていたわけです」
「日本全国…釣り人口ってのは1千万人近くいるんだろ。とても絞りきれんな。しかし、それだけの人間から殺意を持たれる、ってのはおっそろしいもんだな」
「まあ、釣りをする人の全てが、殺したいほど和田を憎んでいたわけではありませんが…」

その時、制服を着た若い警官が小走りに近づいてきた。梔はその警官の顔に見覚えがあったが、名前が浮かんでこない。しかし、ボケが始まったわけではない、と自分に言いきかせる。知り合いの名前が思い出せないぐらいなんでもない。刑事としての職務には、何の障害もない。大切なのは“刑事の勘”なのだ…。

ブツブツと独り言を口にしていることにも気が付かない梔に、若い警官が歩み寄りながら頭を下げて、
「警部。重要参考人と思われる人物が、現在このフィッシングエリアに滞在中です」
と言った。
「なにッ!!」
梔の手が反射的に、背広の裡の、ホルスターの拳銃に伸びた。



「何て野郎だ?その容疑者は?」
握った拳銃の銃口を前方斜め上に向けて梔が叫ぶ。
駆け寄ってきたその若い警官が、梔と七村の前に直立して言った。
「氏名は熱海由夫(あたみよしお)、年齢51歳、住所は東京、職業は釣り具メーカーの社長であります」

「容疑者も釣り具絡みか!」
と梔。すでに犯人と決めつけている。
「警部、動機なども聞いておかないと…」
と七村が言う。いったん手にした拳銃をホルスターに戻して梔が、
「そうだ、動機だ。動機はなんだ」
「新製品開発のための借金を、和田に断られたようです」
「借金を断られたのか!十分すぎる動機だ!そいつが犯人だ!」
興奮していた梔が、ふと尋ねた。
「しかしお前は、平巡査なのになぜそこまで知っているんだ?」
若い警官が答えた。
「実は自分は釣りマニアでありまして、ネットで仕入れた情報から、和田と熱海の仲の悪さを以前から知っていたのであります。…実を言いますと、このフィッシングエリアにも営業シーズンは月に3~4回は通っています。和田と熱海のカネ絡みの喧嘩は、数ヶ月前から大手匿名掲示板で話題になっていました」

「でかした!!犯人はどこにいる!?」
梔はかなり興奮している。この事件は俺がもらった。犯人は逮捕したも同然だ…!
「管理事務所にいます」
と釣り好きの若い警官が答えた。
「よし、いくぞ!」
駆け出す梔のあとに、七村と若い警官が続いた。



梔たちが、フィッシングエリアの来客用駐車場の横にある管理事務所に乗り込むと、二人の男がログテーブルを挟んで丸太椅子に座っていた。
「熱海って野郎はどっちだ?」
と、釣りが趣味の若い警官に向かって梔が尋ねた。
「こちらであります」
若い警官が、テーブルの手前に腰掛けている長髪の中年男を、不躾に指差して言った。
「あんたが熱海由夫さんかね」
梔はそう言うと胸の内ポケットから警察手帳をサッと見せて、素早く仕舞った。
「釣具店店主の和田努が変死した件であんたに聞きたいことがある。一緒に来てもらうよ」
梔の一方的な物言いに、あきれたように熱海が言った。
「来てもらうとはどういう意味ですか。任意の事情聴取ならお断りしますよ。どうしてもというなら、しかるべき令状を持ってきてください」
熱海の言葉に、梔の顔が真っ赤になった。恥辱のためではなく、怒りのためである。
(ああ、また警部がエキサイトし始めたぞ。拳銃を振り回さなきゃいいが)
と、内心でつぶやきながら七村は危惧した。

その時、立ち上がった熱海とログテーブルのわずかな隙間に、一人の制服警官がすっと割り込んだ。釣りマニアの警官とはまた別の、30歳前後の警官である。驚く熱海に触れるか触れないかというぎりぎりの所で立ちはだかっている。
「なっ、何ですか、あんたは!?」
熱海の抗議が終わるより早く、さらに彼の右横、左横、そして背後にそれぞれ制服警官が同じ程の接近距離を保って立っていた。熱海の前、両脇、背後が4人の制服警官によって塞がれた。
いわゆる“公妨四方固め”である。
同行を拒否する市民を強制的に連行する、警察の必殺技だ。
「うまいぞ!公妨四天王!」
と梔が声をかけた。そう、彼ら4人こそは、静岡県警・東富士署の公妨四天王と呼ばれる、若手警官の選鋭たちであった。
「ちょ、ちょっと、あんたくっつきすぎですよ…」
熱海が右横の警官に右手を軽く触れた時、
「ウワーーーーーッ!!」
と大げさに叫びながら、その警官が吹っ飛んで行った。
「貴様ッ!!警官を突き飛ばしたな。公務執行妨害の現行犯で逮捕するッ!!」
梔はつかつかと熱海に歩み寄り、手錠の片方の輪(リング)を彼の右手にガチャリと嵌めた。もう一方の輪は自分の右手に嵌める。
「さあ、これでもう逃げられんぞ。一緒に来てもらう」
「ムチャクチャだ!人権蹂躙だ!冤罪だ!」
わめき立てる熱海を引きずるように歩かせながら、梔は管理事務所の外に出て行った。
「やれやれ。結局いつものパターンか」
と七村は、熱海を連行する梔の後姿をながめながらため息をついた。
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