Lunatic tears _REBELLION

AYA

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 パリ郊外のコミューン、ロワシー・アン・フランスに位置する空港、シャルル・ド・ゴール。1944年8月のパリ解放の指導者であるかつての大統領の名を冠した国際空港だ。
 そのターミナルに乗り付けた、モンパルナス発のバスから吐き出された少年は、買い物を済ませようとした。スーツケースの空きスペースに、お気に入りのシャツとパーカーを詰めると、スーツケースベルトをスーツケースに十字に掛け、シエルフランスのカウンターに並んだ。
 乗るのは2時間後の15時発、東京行きの便。日本には今から15時間後、翌日11時に着く。
 カウンターで預けたスーツケースは例のごとく、河月の家まで国際貨物で送ることにしたから、今から流雫の荷物はショルダーバッグだけだ。周囲から見れば、ちょっとした国内一人旅にしか見えない。
 ……昨日はレンヌで、家族とのんびり過ごした流雫は、テロや日本での事件については口にしなかった。この帰郷の最後に、水を差す真似は避けたかったからだ。
 ノエル・ド・アンフェルさえ起きなければ、こう云う他愛ない日々が続いていた、と思う。しかし、タイムリープでもしなければそれは叶わないし、何しろ最愛の少女にも逢っていない。
 流雫は見た目も悪くないから、フランスにいてもそこそこモテただろう。しかし、室堂澪と云う少女以外との恋愛が今の彼には想像できないし、そもそも彼女以外に関心が無い。
 その澪とは、正午過ぎに新宿で会う約束をしていた。日本を発つ時に入れていた予定だ。楽しい話題に終始したいが、そう云うワケにもいくまい。何しろ、フランスで知ったことが多過ぎる。
 航空券を受け取った流雫は、そのまま保安検査に並ぶ。次、この慌ただしい空港の景色を見るのは1年後。不意に押し寄せる寂しさを振り切り、流雫は保安検査に備えるべく、腕時計とブレスレットを外した。

 バスルームから自室に戻った澪は、スマートフォンの通知に目が止まった。10分前に届いた、今から飛行機に乗ると云うメッセージだった。搭乗ゲートの写真も一緒に送られていた。
 時刻は既に22時。フランスは確か15時、もう出発時間か。
「気を付けてね、ルナ」
と送ったメッセージに、既読は付かなかった。いくら機内でWi-Fiが使えると云っても、離着陸時は対応していない。それは、既に彼が祖国の地から日本に戻る道中にいると云う意味だった。
 明日、正午過ぎに新宿。それが楽しみで仕方ない。
 ……距離を置きたいと思った1週間前。本来は物理的にと云う意味ではないのだが、1万キロも離れてみて、寂しさだけが募った。そのきっかけになった、美桜の父親の件は、あれから話題に出ることは無かった。
 自分から話題に出してはいけない、と思っている。誰より動揺していたのは、流雫のハズだから。それに、流雫のことだから既に吹っ切れているだろう。
 ……どんな顔をして、流雫に会えばいいのか……。……いや、普通じゃなければ。少しだけ気を張った澪は、少しゲームして寝よう……と、ロススタのアイコンに触れた。

 離陸から3時間。12時間超のフライトの最大の楽しみ、機内食は初回が既に終わり、次は7時間後。
 エコノミークラス最後尾に座る流雫は、チェックイン前にターミナルの書店で手に入れてあった1冊の書籍に目を通していた。文庫サイズだが分厚い。年相応なら中身はライトノベルなのだろうが、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳が追うフランス語の羅列は、あの新宗教についての記述だった。
 ……美桜の父が、フランスと日本の新宗教に関与している事実。前者は流雫にフランスを捨てさせ、後者は日本の新たな脅威として立ちはだかっている。
 明日……と云うか日本時間では今日、澪と会う。その時、渋谷に行こう……流雫はそう思った。美桜に会う……ただ慰霊碑の前に佇むだけだが、それでもいい。少しは、レンヌで突き付けられた真実を整理できれば。
 流雫はブックマークを挟み、本を閉じた。アナログスマートウォッチのアラームを機内食の時間に合わせ、アイマスクを掛けて目を閉じると、頭を使ったからか一気に意識を失った。

 新学期前、最後の平日。普通通りに目を覚ました澪がリビングへ下りると、スーツに着替えた父の常願がスマートフォンを手に、困った顔をしていた。
「……参ったな……」
とぼやく父に、澪は
「どうしたの?」
と問う。
「通信障害らしい。朝から圏外だ」
その答えに
「え……?」
と怪訝な声を出した澪は、自分のスマートフォンに目を向ける。……画面右上の表示は圏外だった。
「あたしのもダメ……」
と声を落とした少女は、最悪だと思った。今は至る所にWi-Fiスポットが有るから助かるが、その場にいなければネットが使えない。
 テレビから流れてくる朝のニュースでは、通信障害は朝方4時から発生していること、影響を受けているのは数千万回線に及ぶこと、西日本の一部を除いて圏外になっていること、復旧の見通しは全く立っていないことが報じられていた。
 所謂メガキャリアの一角で起きた大規模障害。オンライン下でなければ何もできないことが、通信が社会の中心を牛耳っていることを思い知らされる。
「……仕方ない。行ってくる」
と、溜め息をついた父は家を出た。
 バターを多めに塗った厚切りトーストに歯を立てた澪に、母の美雪は言った。
「ようやく、流雫くんに会えるわね」
その言葉に、少しだけ顔を紅くした澪は
「2週間ぶり……だからね」
と返す。
 もっと長く、会わない時間が続いたことは有る。しかし、それでも同じ国、しかも隣の県なら、無理すれば行って会うことはできる。だが、フランスはそう云うワケにはいかない。
「あとは、あたし次第だから」
と澪は言って、ストレートティーを啜った。母が少しだけ口角を上げると、澪もそれにつられた。
 「強くなったわね」
と言った母に、澪は
「我が侭なだけよ。ただ、色んな人に守られてるだけだから」
と返す。
 ……そう、同世代だけでも結奈や彩花、詩応、そして流雫……色んな人が周囲にいる。それだけでも救われているし、その分だけでも力になりたい。
「……それでこそ、私の娘だわ」
その言葉に笑みを浮かべた澪は、早めに家を出ようと決めた。通信障害が長引くなら、Wi-Fiを求めて行脚するしかない。

 デニムのセーラー服調の上下、その上からデニムジャケットと云う全身少し淡いネイビーでまとめた澪は、小さなトートボストンバッグ片手に家を出た。
 空は曇りだが、天気予報では雨の心配は無いとされていた。気温も幾分低めだが、デニムジャケットを羽織っているから、肌寒いとは感じない。
 新宿に着いたのは10時。定刻通りなら、1時間後にパリからの飛行機は東京に着く。それからイミグレーションを通過して列車に乗り換えて……だから、新宿に着くのは正午過ぎか。
 ……早く着き過ぎた。遅刻するよりは断然マシなのだが、早いにも限度が有る。どうしよう……と時間の潰し方に迷った澪は、シンジュクスクエアに寄ることにした。
 タイムズスクエアと呼ばれる商業ビルに通じる改札の前の広場で、世界一の乗降客数を誇る新宿駅のNR線を眺めることができる。次から次へと列車が行き交う風景が特徴的だ。
 その端、ガラスの柵に寄り掛かる澪は、
「もう新宿に着いちゃった」
とだけ最愛の恋人に打ち、スマートフォンをバッグに入れて眼前の景色に目を向けた。辛うじて駅のWi-Fiに接続できたが、不安定だ。すぐに途切れる。再接続も早々に諦めた。
 列車に興味が有るワケではないのだが、引っ切りなしにやってくる列車と、それに吸い込まれては吐き出される無数の乗客を眺めていた。そして思う、テロの脅威は拭えないものの、学校に通って家族と過ごせているから、日本はまだ安全な方だと。
 ……しかし同時に、トーキョーアタックから何もかもが大きく変わったことを、事有る毎に思い知らされる。少しだけ目を細めた澪に
「……澪?」
と名を呼びながら、背後から近寄る少女。澪は後ろに振り返った。
 ダークブラウンのショートヘア、瞳の色はターコイズ。数日ぶりに見る顔。
「……詩応さん?」
澪はその名を呼び返す。まさか、今日も会うとは。
「今日はどうしたんだい?」
「昼から流雫とデートで……早く着き過ぎたから此処で少し……」
と詩応の問いに答える澪に
「羨ましいな」
と言った少女の前で、ダークブラウンのセミロングヘアを揺らす少女は顔を紅くした。しかし、撃沈までは至っていない。尤も、他意を持たない言葉にも簡単に反応する時点で澪は、揶揄すれば乙女だが。
「……アタシ、明日名古屋に帰るんだ。合宿自体は昨日で終わったから、今日はゆっくり遊ぼうかな」
と詩応は言った。
 「……流雫と会うまでなら、あたし詩応さんに付き合いますよ?」
と言った澪に、詩応は
「え?いいの?」
と問い返す。澪は答えた。
「此処、新宿で待ち合わせですけどね」
「……まあ、澪とは直接話したいし、普段会えない分」
と言った詩応に、澪は自分の隣のベンチを軽く叩く。座ってほしい、と云う合図……それに従った少女に、改めて顔を向けた澪は
「……やっぱり、距離は置けませんでした。あたしには、流雫がいないと……」
と、弱々しく言った。詩応はそれに続く。
「……だろうね。あの時の澪、正直見ていられなかったから」
 本人が思うより、心配になる表情を見せていた澪。あの日別れた後も、詩応は澪が気懸かりだった。ただ、同時に本人が思っているより強い。だから、余計な口を挟まないように、と思っていた。
「……澪が悩んで出した答えなら、間違ってないよ」
と詩応が言うと、澪は口角を上げて言った。
「その言葉で救われました。……ありがと、詩応さん」
その穏やかな表情に、詩応の方が少し頬を紅くする。
 テロを前に、刑事の娘として戦士然とした凜々しい顔を見せる澪は、しかし元を正せば単なる女子高生でしかない。
「……ところで」
と詩応は切り出した。
「……流雫がフランスから送ってきたってやつ……」
「……あたしも検索してみたんです。でも、引っ掛からなくて」
と澪は声を落とす。日本に関する事柄なのに、何故か引っ掛からない。
「……合宿中も、先月のことには触れられてなかった」
と詩応は言う。バレンタインに起きた、あの河月の教会立て籠もり事件のことだ。
「レンヌのことは少しだけ触れられた。流雫が無事だったことが幸いだよ」
と続けたボーイッシュな少女。
 あの日、詩応は一報を聞いて慌てて澪にメッセージを送った。寝る直前の話だ。流雫とは、相変わらず連絡先を交換していないからだ。無事と云う返答に安堵したが、しかし寝付きは悪かった。
 血の旅団が、またフランスで武力行為に出た。数年ぶりのこととは云え、やはり気になる。
「……気にしたって仕方ないんだけど、さ……」
そう言った詩応に、澪は何も言えなかった。彼女は太陽騎士団の信者で、あたしは宗教なんて無関係。どう触れていいのか。
 「……詩応さん」
苦し紛れに名前を呼ぶことしかできなかった澪の耳に、
「誰か!!救急車!!」
「救急!!」
「AED持ってこい!!」
と叫ぶ声が聞こえ、駅舎を回り込むように人がやってくる。
 「えっ……!?」
と澪は声を上げ、その方向を見るなり立ち上がった。
「澪!?」
詩応は思わず、隣にいる少女の名を呼ぶ。しかし、その直前に走り出した少女に声は届いていない。
「澪!!」
と大声を上げたボーイッシュな少女は、その背中を追った。

 新宿駅のプラットホーム上を貫く甲州街道側へは、今いる新南改札から駅舎の外側の通路を回る形で行ける。パニックになったビジネスマンや学生が何人も走ってくるが、その流れに逆らう澪の目に、人集りが見える。その場に止まった澪は、
「な、……何よこれ……!!」
と目を見開いた。
 バステの降車フロアに直結したエスカレーターの降り口で、人が折り重なっている。
「誰か!!」
そしてほぼ同時に下りてくる、黄緑色の気体……。人々が口を押さえる。澪の鼻にもそれは突き刺さり、少女は思わず顔を歪めて口を押さえながら叫んだ。
「塩素ガス!!」
 塩素ガス。黄緑色の気体で、塩素系と酸素系の洗剤や漂白剤を混ぜると発生する、最も身近な有毒ガスの一種。致死量は5分で500ミリグラムだと言われている。
「澪!!」
と大声で名を呼びながら近寄る詩応の声に、澪は
「詩応さん!!逃げて!!」
と叫び、スマートフォンを手に消防に通報しようとした。しかし詩応は
「澪!!」
とその手を掴み、新南改札へと引っ張った。
「詩応さん!?」
「澪も逃げないと!」
そう言って手を引く詩応に澪は困惑しながら声を上げる。
「でもあの人たちが!」
「アンタも死ぬ!!」
その一言に、澪は唇を噛む。しかし、詩応は間違ったことを言っていない。
 シンジュクスクエアまで走る女子高生2人。数分ぶりに戻った場所で少しだけ息を切らした詩応と、肩で息をする澪。
「澪……アンタ……」
その一言は、澪の耳には届いていなかった。
 ……刑事の娘だからと云って、警察の人間ではない。出しゃばっていいワケじゃない。尤も、その自覚も無いだろうが。本能として染み付いているのだろう。
 ただ、だから敵に回すと怖い……それは、名古屋での戦いを見ているから判る。
「……また……ガステロなんて……」
澪は震える声を洩らす。その唇と目蓋が震えていた。
 ……7ヶ月前、夏の大規模サブカルイベントの余韻に沸く秋葉原で起きた、OFAによる青酸ガステロ事件。澪は逃げて無事だったが、別方向に逃げた同級生、結奈と彩花は軽症ながら病院に運ばれた。
 あまりに突然のことだったし、澪が悪いワケでもない。しかしあの時のことが、正義感の塊のような少女の脳裏を過っていた。
 そして、それに気を取られて携帯電話の通信障害が復旧していないことを忘れていた。今も、彼女の端末の画面には圏外と表示されている。緊急通報さえできない。今の澪には、何もできなかった。
「……澪?」
その声に澪は反応しない。詩応が顔を覗くと、今にも泣きそうな表情を露わにする少女に、何も言えなくなる。
 今、彼女に最適な言葉を投げ掛けてやれる唯一の存在は、飛行機の中にいる。……早く着いてほしい、新宿に来てほしい。詩応は無意識にそう思った。

 降下中、何度か窓の外が白くなり、機体が揺れた。関東は雲に覆われているのが判る。
 飛行機は5分だけ早く、海側から滑走路に着陸する。一際大きい揺れと同時に、ジェットエンジンが吼え、一気にスピードを落とした。
 ……着いた。流雫は外を眺めながら、大きく溜め息をつく。これから、同じ時間帯に着いた乗客と共にイミグレーションに並ぶ。ただ、澪には到着ロビーを出た時点でメッセージを入れることになっている。
 客室乗務員に見送られながら、白い機体から足を離し、ボーディングブリッジに足を踏み出した流雫は、イミグレーションへ向かう。列に並びながらスマートフォンを手にすると、画面の端には圏外と表示されていた。
「?」
流雫はターミナルのWi-Fiに接続すると同時に、ニュース速報の通知がポップアップで入ってきた。
「新宿駅で異臭騒ぎ、負傷者多数」
その見出しに、流雫は吐き気と脳が痺れる感覚に襲われた。
 新宿駅……澪!?
 流雫はすぐさま、澪のアイコンと通話ボタンを押す。しかし、呼び出し音が鳴る前に切れる。
「……!?」
何が起きているのか。
 その時、周囲から
「通信障害!?勘弁しろよ、ったく……」
と声が上がる。その瞬間、流雫は澪との連絡手段を失ったことを知った。今はWi-Fiだけが頼みの綱だ。
 ……新宿駅のバステで塩素ガスによる異臭騒ぎが発生した。負傷者は多数で、中には心肺停止状態の人もいる模様。
 目撃者の話では、バックパックを前に抱えた男が、バステから地上に至る下りエスカレーターに乗ろうとして足を踏み外し、それがきっかけで将棋倒しが起きた。その直後、バックパックから塩素ガスが噴き出したらしい。
 微量でも死に至る有毒ガスは空気より重く滞留しやすい。
「雨さえ降れば……」
と流雫は願った。塩素は水に溶けやすく、雨が降れば拡散は収束する。
 しかし、何よりも気になるのは澪だ。無事か否かも判らない。
「……澪」
流雫は最愛の少女の名を、小さく声に出した。そして、全てが変わったあの日の記憶が甦る。

 「……宇奈月。落ち着いて聞け」
「欅平が……死んだ」
美桜の死体を目の当たりにし、パニックを起こした笹平の代わりに、同級生全員に一報を告げる役目を追った黒薙は、最初に流雫に告げた。沈痛な声の処刑宣告……流雫にはそう思えた。
 空港島の警察署前で膝から崩れ、大声を上げて狂ったように泣き叫んだあの日……。

 「っ!」
流雫は歯を軋ませる。
 あの時のように、泣き叫ぶのだけは……。
 そう思っていると、イミグレーションは自分の番が回ってきた。何事も無く通過した流雫は、地階を目指した。
 ……バステへ直行するリムジンバスは、有毒ガスの騒ぎを受けて急遽運行の見合わせが決まった。乗り換えが必須になるが、列車しか無い。それも、早く着くのはモノレールではなく私鉄。初めて使うが、乗り換えは駅の看板を見れば問題は無い。
 流雫はエスカレーターに乗りながら、先刻呼んだニュース記事を思い出す。
 ……バックパックを前に抱えたことが原因で、足を踏み外した。足下が見えないだけに、有り得ない話ではない。そして、塩素系と酸素系の洗剤や漂白剤を同時にバックパックに詰めていたが、男が転倒した弾みで運悪くフタが緩み、偶然混ざった……。それなら新宿の騒ぎが事故だと云う説明はつく。
 しかし、足を踏み外しての将棋倒し……それ自体、塩素ガスの意図的な発生のカモフラージュだとすれば……。
 足を踏み外したことで将棋倒しになり、事故を装い本来無関係な人を足止めする。そして、例えば男の身体でバックパックごと圧迫された2本の液剤の容器が割れ、中で混ざり黄緑色のガスを発生させた。容器も、割れやすく……最低でも何処かに亀裂が入るようにすれば、持ち運びに気を付けるだけでいい。
 その持ち運びも、そもそも高速バスには乗らず近くから、東京に着いたばかりの乗客を装って人の流れに混ざれば、人混みで人に押されて不意のガス発生を防げる。
 ……所詮は妄想の範疇。そうあってほしい。しかし、それが叶わないことだと思ってはいる。あの日から1年半、何度もテロに遭遇してきたが、そう願っても一度も叶わなかった。
 改札を通り、品川方面に行く列車に飛び乗る。ロングシートの端に、窓に背を向けて座り、発車までの間、駅のWi-Fiを使ってマップを開き、代々木駅を画面に映し出す。
 ……新宿駅も、行くことはできても改札は使えない可能性が有る。二次被害を防ぐためだ。しかし、代々木駅からは線路に平行して歩道が整備され、その途中から新南改札の脇を通り、甲州街道に行ける。
 最悪、そのルートで向かうしかない。後は、とにかく澪からの連絡を待つだけ。……そう思っても、不安しか無い。
 ……オンラインでどんな情報でも簡単に入手できる時代。だが、逆に云えばオフラインを強いられた瞬間に無力化される時代だ。最愛の少女1人の安否さえ、確信を持てなくなる。
 だが、唇を噛みつつも、澪への期待を失わなかった。……流雫は、自分がファウストなら澪はグレートヒェンだと思っている。もし僕が、銃と云う名のメフィストフェレスによって、銃を撃ったことへの苦しみに苛まれても、最後には僕を救済する聖女であってほしい。
 流雫は、時々自分と澪を、好きなドイツ文学の登場人物に擬える。痛々しく思われようと、それだけ室堂澪と云う存在が宇奈月流雫にとっての拠り所だった。
 ……澪は死なない、テロなんかに殺されない。それだけが、不安に苛まれる流雫が正気を見失わないための、最後の砦だった。
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