Head or Tail ~Akashic Tennis Players~

志々尾美里

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第36話 修造チャレンジ③

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◆修造チャレンジ 5日目 夜

 窓から星明りが僅かに差し込む薄暗い部屋の中、能条蓮司のうじょうれんじはベッドの上で体勢を変え、溜息を吐きながら意識を途絶えさせるイメージでまぶたを閉じた。修造チャレンジも5日目を終え、明日は最終日となる。日中のハードな練習で夕方には体力も底をつき、蓮司を含め全員が早々に床に就いた。ベッドに潜り込むなり早々と眠りに落ちたはずだったが、疲れが抜けきらないためか、あるいは神経の昂りが収まっていなかったのか、ふと目が覚めてしまいそれ以降なかなか寝付けなくなってしまった。

 身体に残っている筋肉の火照りのせいか、布団の中は熱がこもってやけに暑い。エアコンの温度を下げようかとも思ったが、ルームメイトの関西組に寒がりがいるので気が引けてしまう。ひとまず時間を確認すると、デジタル表示の時計は23時を示していた。普段ならまだ起きている時間だし、それなら夜風にでもあたろうと思い立った蓮司はそっとベッドから身体を起こした。

(……あれ?)
 ふと周りを見渡すと、ベッドの1つが空いている。
ひじり、便所か?)
 しかし部屋に備え付けのトイレは無人で、入口の下駄箱からシューズが一組減っているところを見るに、どうやら部屋を出ているようだ。もしかしたら自分と同じように外に出たのかもしれない。先を越されたような気がしてなんだか悔しい気分になるが、かといって眠れる気もしなかった蓮司は、特に行く当ても無いまま外へ出た。

 6月の夜風は湿り気を帯び、冷やりとしたゼリーが身体にまとわりつくようだ。薄着で出歩くには少々寒いかもしれないが、消え損ねた残り火のような身体の熱を冷ますのにちょうど良い。なんとなしに歩いていると、風に乗って小さくボールを打つ音が聞こえた気がして、蓮司はつられるようにそちらへ歩みを向ける。次第に大きくなる音の具合から、誰かが壁打ちをしているのだと察して、バレない様に気配を殺しながら近付いて行く。

(あんにゃろ……)
 壁打ちエリアには、聖がいた。日中は自分たちと同じく過酷なトレーニングに励み、文字通り精根尽き果てるまで練習していたというのに。あれだけ練習して、まだ足りないとでも言うのだろうか。

(考えてみりゃ、こいつ変なやつだよなぁ)
 聖がボールを打つ様子を見ながら、蓮司はぼんやり思った。唐突にATCアリテニへやってきたと思ったら、いきなり目の前で黒鉄徹磨くろがねてつまと試合し、限定的な条件だったとはいえ倒してみせた。蓮司自身も試合を通して彼の底力を実感して、その力は認めている。だが。

「ど~も掴みどころがないんだよ、熱意は感じるんだけど」
 不意に松岡の声が蓮司の背後から聞こえてきた。どうやら電話しながら近付いてきているようだ。当然電話の相手の声は聞こえないため、松岡が大きな独り言をいっているような恰好になっている。特に夜間の外出を禁じられているわけではないのだが、なんだかバレると厄介な気がした蓮司はとっさに近くの物陰に身を隠す。気付くと壁打ちの音が止んでいる。どうやら聖も松岡の声に気付いたらしい。

「明日は仕上げだから、そこで見極めようと思う。ただこれは僕の勘だが、彼は無関係じゃないかなぁ。確かにどうも得体の知れないところはあるんだが、目を見れば分かる。少なくとも、エノくんが心配しているようなことは無いというのが僕の感想だ。それより気がかりなのは……」

 次第に遠ざかる松岡の声が完全に聞こえなくなるまで、蓮司は気配を殺してじっとしていた。知らずに息を止めていたせいで、限界まで水に潜っていたときのように息切れしてしまう。

「蓮司?」
 息を整えようとしていたら、真後ろから声を掛けられ今度は心臓が止まりそうになる。額に汗を浮かべている聖が不思議そうな顔で立っていた。
「おどかすなよっ!」
「え、あぁ、ごめん?」

 思わぬ心肺機能へのダメージを受けてどっと疲れた蓮司は、手近なフェンスに身体を預けて大きく深呼吸――というより溜息だが――する。

「こんな時間まで自主練かよ」
「え、あ~、うん、まぁね」
「よく動けるな」
「ははは」
 聖が誤魔化すように愛想笑いする。別に咎め立てするつもりなどないのだが、どうにもバツの悪そうな表情を浮かべる聖。正直言うとあまり人付き合いが得意ではない蓮司は、今回の合宿中ですらコート外で聖とは親し気に言葉を交わしたりしない。始めの頃こそ自分でもはっきり自覚するぐらい聖をライバル視していたが、一度試合してからは他の連中と同様、一緒に苦楽を共にする仲間だと思ってはいる。ただ、3バカたちと違って距離を詰めた接し方が少し苦手なだけだ。それに、友達を作りたくてテニスをしているわけではない。

「蓮司は散歩?」
「まぁそんなとこ」
「布団に入ると、身体が火照るよね」
「そ。なんか寝づれーの」
「汗流しにお風呂行こうと思うんだけど、どう?」

 このままぼけっとしていても始まらない。もう一度湯に浸かってさっぱりすれば疲れもほぐれて寝付けるかもしれないと思った蓮司は、聖の提案に頷く。すると聖は、少し嬉しそうに笑みを浮かべた。



「へぇ、結構いいじゃん」
 大浴場には露天風呂が併設されていたが、猛練習を終えた選手たちには風呂を楽しむほどの体力は残っていなかった。毎度汗を流して身体を洗ってぐったりしたまま湯に浸かり、のぼせる前にさっさと風呂から出ていく者ばかりだったのだ。聖と蓮司も同じクチだったし、それに普段の生活においても露天風呂など数えるほどしか利用経験がない。こうして何も身に着けず外気を浴びながら湯につかるのは新鮮で、二人して物珍しそうにしている。少し気温が下がったものの、湯船につかって身体を温めればかえってそれが心地よく、夜気を全身で感じながらしばらく露天風呂を満喫した。

「明日で最後か~。キツかったけど、あっという間だったね~」
 聖がしみじみと言う。練習の最中は無事乗り切れるか不安になるレベルでしんどかったが、いつも気付けば練習は終わっていた。普段の練習も身になってはいるだろうが、修造チャレンジでの経験は密度が段違いだったと蓮司も思う。

「ねぇ、1コ聞いていいかな」
 ふと聖が様子を伺うように尋ねてきた。
「なに?」
「蓮司は、なんでプロになりたいの?」
 問われて、蓮司はすぐに答えず空を見上げる。もうすぐ夏を迎えようとしている夜空には無数の星が煌めき、吸い込まれそうなほど深く濃い。星の名前に興味を持ったことなどなかったが、一つや二つ、知っておいても良いかなと関係ないことをぼんやり思った。それと同時に、離れて暮らす家族の顔が頭に浮かんだ。


 蓮司には、2つ違いの病弱な弟がいる。生まれながらに病弱な弟を両親は最優先で心配し、蓮司の家族は弟の身体の具合を中心に回っていた。無論、両親は蓮司が寂しくならないように気を遣ってくれていた。弟も優しい子で、自分の身体のせいで兄である自分が割を食っていることをいつもすまなそうにしていた。

 ふとしたきっかけで始めたテニスで、蓮司が突出した才能を発揮し成績を残すと、家族は大いに喜んでくれた。弟が病弱であったから、兄である蓮司が健康そのものであることは希望の証でもあった。蓮司の家庭の事情を知っていた地元のテニスクラブは、普通なら考えられないほど手厚く蓮司の身の回りの世話をしてくれて、結果的に早い時期から蓮司は家族の元を離れATCアリテニへ入会することになる。その方が両親は弟の世話に専念できるし、蓮司も弟に対する理屈ではない不満を溜め込まなくて済むと割り切っていた。


「一人でやれるから」
 自分がプロを目指す理由についてあれこれ考えを巡らせた結果、ふとそんな一言がこぼれた。自分で口にしていながら、随分と幼稚だなと思う。それに、一人でプロになれるほど甘くない世界であることを蓮司は知っている。だが、それでも尚『何故プロを目指すのか』を考えた時、その一言が一番腑に落ちる気がするのだ。

 プロに憧れる理由はもちろん他にもある。だが、いずれにせよ一人で戦い自分の力で頂点を目指すプロ選手の生き方に強く惹かれるものがあった。誰かの為ではなく、何よりも自分自身のために。

「そっちは、好きな人のためだっけ」
 あまり追求されたくなかった蓮司は、話の接ぎ穂を無理やり聖に向ける。蓮司からすれば、よくそんな恥ずかしいことを臆面もなく口にできるなというのが正直な感想だが、理由は人それぞれだしそれについて他人がとやかく言うことではない。本人がそういうなら、きっとそうなのだろう。

 聖は少し恥ずかしそうに笑ったが、すぐに真剣な表情を浮かべる。短い付き合いだが、この聖という男は蓮司がこれまで接してきたどんなやつよりも正直なやつだと思う。カッコつけたり、見栄を張ったりするということが殆どない。虚勢を張って周囲と軋轢を生む自分とは随分違うなと感心する。だが、聖は聖、自分は自分だ。

「ま、プロになりたい理由なんかなんだって良い。理由の良し悪しで何が変わるってもんでもないし。それより、明日は仕上げの試合だ。まだやるかどうかわかんねーけど、当たるとしたら、次は敗けねーぞ」

 そう言って、蓮司は立ち上がった。湯船で温め直した身体の熱は、夜の空気に冷やされ良い塩梅に抜けきった気がする。これ以上冷やすとかえって身体に悪そうだ。持ち込んだタオルを固く絞って、身体の水滴を拭っていく。

 合宿を終えて間もなくすれば、各地で多くの大会が始まる。そこで成績を残し、少しでもITFジュニアランキングを上げて、プロへの道を切り開く。少しでも早く世界で戦えるだけの力を身に着け、自分は一人でも大丈夫なのだと証明したい。身体を拭き終えた蓮司は再び空を見る。夜空の隅にできた暗がりでぽつんと、しかしひときわ輝く一等星を瞳に映しながら、蓮司は知らず拳を握り締めた。



「おはよう! みんな、初めての参加なのによく誰も逃げずに5日間を耐え抜いた! それだけでも充分、君達がテニス選手を目指すに相応しい心を持っていると思う! だが! プロを目指す為に必要なのは心だけじゃ足りない! いくら心があっても、確かな強さがなきゃ世界じゃ通用しない! 正直に言おう、今の君達ではまだまだ世界で戦うには力が足らない! 足りないならどうする? 身に着ければいいんだ! 一つずつ確実に、着実に、今の自分に足りないと思うことを積み上げていく、これしかない! 今日は仕上げとして、試合で合宿の成果を見せて欲しい! 今日までやってきたことを踏まえて今自分に何が足りないか、しっかり自分で見極めろ! 負けても良いなんて言わないぞ! 負けるな! 勝て! プロは勝たなきゃダメなんだ! 今日この試合、自分がグランドスラム決勝で戦うつもりで挑め!」

 朝食を終えてコートに集まった選手達に向けて、松岡が熱のこもった檄を飛ばす。合宿中、練習の最中に誰よりも大きい声で選手たちに向けてあれやこれやと声をかけていた松岡の喉はすっかり枯れ、気の毒なほどしわれていた。だが、いつであろうと彼の言葉には力がある。疲労で萎えそうになる気力に火をつけて、消え入りそうな情熱を再び呼び覚ます。選手達はみな、不思議と彼の言うことにプレッシャーを感じない。松岡は常に、真剣とは何か、本気であるとはどういうことかを体現して示す。それを目の当たりにしているからこそ、彼の言葉には説得力以上の本物の力が宿るのだろう。

「2番コート、能条蓮司のうじょうれんじ 対 東雲挑夢しののめいどむ!」
 名前を呼ばれた蓮司の表情に真剣さが増す。同じく名前を呼ばれた挑夢は「しゃア!」と声を上げながら拳を叩いて気合いを入れる。2人の視線がぶつかり、見えない火花が散る。

「3番コート、若槻聖わかつきひじり 対 弖虎てとら・モノストーン!」
 名を呼ばれた聖は、意外な表情を浮かべる。弖虎・モノストーン。初日こそ立ち振る舞いや雰囲気が気になったのの、彼は挑夢と同い年で、聖たちアンダー16のメンバーとは練習の内容が違ってあまり接する機会がなかった。もちろん全く関わり合いがなかったわけではないのだが、どうも彼は印象が薄く、一緒に練習をしていても存在が希薄だった。他のメンバーであればもう顔も名前も一致しているし、それぞれの特徴を把握している聖だったが、こと弖虎・モノストーンに関してだけは別だった。いまだに、彼の存在が見えてこない。

 弖虎に視線を向けるが、彼は憮然とした表情を浮かべたままだ。合宿中、彼は常にどこか気だるげな様子でその態度を崩すことはなかった。淡々と練習をこなす姿はまるでサイボーグのようでもあり、正直いえば聖は薄気味悪さを覚えたぐらいだ。

<イケすかねェクソ中2コゾーをぶちのめして分からせてやろうぜ>
 アドが口にする好戦的なセリフに、一瞬同意しそうになる聖。コーチ陣が一貫して彼の態度や振る舞いについて特に言及しないのは、彼の参加そのものがどうやらかなりイレギュラーな形だったからだという事情を、関西組がコーチから聞き出していた。とはいえ、詳しい部分については不明だ。彼について分かっているのは、国籍はアメリカで所属はIMGというアメリカのテニスアカデミー、主な戦績の大半がアメリカであるということだけ。IMGは、昔からテニス先進国であるアメリカ最大のテニスアカデミーであり、聖の所属するATCアリテニも元をたどればIMGを模倣して計画されたという。

 それらの数少ない情報を元に、テニス通を自称する関西組の一人、能代のしろは自分の考えを次のように述べていた。
「要するにアメリカ期待の若手が日本へスパイしにきたんとちゃうか。参加が許されてんのは何かしら日本にもメリットがあってのことやろ。例えば、ボブの代わりになる人材をスカウトさしてもらえる、とか」

 ボブとはボブ・ブレットという名のコーチだ。松岡修造を世界に導いた名コーチであり、松岡と共にこの修造チャレンジ開催初期から日本のジュニア育成に力を注いだ殊勲者でもある。残念ながら亡くなっており、それ以降名のあるコーチを松岡が定着させようと交渉を続けているという。松岡自身もそろそろ年齢的に今回のような合宿を仕切るのが辛く、新しい指導者の確保に頭を悩ませているそうだ。

 能代はスパイなどと大袈裟に表現を使ってはいたが、別に敵視しているような素振りはない。他の連中も、一緒にやる以上は彼を仲間として受け入れている。同世代の挑夢も無愛想なだけで悪いやつではないと弖虎の印象を口にしていた。むしろ、初対面から聖に敵意剥き出しだった蓮司の方が、普通なら印象は最悪になっていてもおかしくない。だがどうしても、聖はなんとなく弖虎に対して言い知れぬ引っ掛かりを覚えていた。

(いずれにせよ、やるからには真剣に。挑夢か、それ以上の実力はあるだろうし)
 聖としては、せっかく厳しい合宿を乗り切ってきたのだから、最初から撹拌事象が起こることをあまり望んでいない。たった1週間弱で大幅にレベルアップするなど期待してはいないが、少なくとも自分が以前より強くなった実感はある。あとはその実感が果たしてどの程度のものなのか、試合で確認したかった。

 ふと、聖は自分の右手が震えていることに気付く。それが武者震いだと気付くと、短く息を吐き挑夢のように胸の前で拳を手で叩いた。

<さァて? 昭和魂のこもった熱血合宿の成果とやら、見せてもらおうじゃねェの>
 アドの挑発するような物言いに対し、珍しく強気な笑みを浮かべて聖は応えた。

「あァ、燃えるぜ」

続く
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