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 Kプロダクトは悪い会社ではないけれど、大手とは違う。瀬戸ほどの実力があれば、もっと大きなデザイン事務所に入ることもできたはずだ。例えば、前に瀬戸が勤めていた鳳凰堂のように。
 瀬戸は飲んでいた缶ビールを置くと、
「あなたと働いてみたかったからですよ」
 まるで当たり前のことを言うかのように、さらりと答えた。
 へ? 俺?
 思いがけない答えに犬飼は目を丸くした。いったい何の冗談だと思うが、瀬戸の表情からはとても冗談を言っているようには見えない。
「それってどういう……」
「前から思ってたんですが、犬飼さんて料理が上手ですね」
 突然話を変えられて、犬飼は拍子抜けする。
「そうか? 俺のはただの自己流だぞ」
 やや戸惑いながら答えると、瀬戸が口元に淡い笑みを浮かべていた。
「……お前は? 自炊はしないの?」
「しませんね。もともと食に対する欲求が少ないんで。腹が膨れれば何でもいいです」
 さっき犬飼の料理を褒めたのと同じ口で、瀬戸はそんなかわいげのないことをしれっと言う。それを聞いて犬飼は腹を立てるよりも先に、あれっと思った。
「でも、お前、甘い物は好きだろう。気がついたら、よく摘んでるよな」
 ときどき一緒に飲むようになって、あるとき残っていたオレンジでコンポートを作って出したことがある。特に喜んでいるようには見えなかったが、食べ終わってからも物足りなそうな顔をしていたのがひどく印象に残った。それに瀬戸のデスクにいつも小さな飴や個別包装されたチョコレートなどが置いてあることを犬飼は知っている。
「別に好きじゃありません」
「えっ。そんなことないだろう」
 ふいっと顔をそむけ、なぜか頑なに認めようとしないその姿が妙に子どもじみてかわいらしく見えた。ふと犬飼の中にいたずら心がわく。
「安西さんとこのオランジェットとかさ、結構よく食べてるよな。あとほら、チョコアーモンドの飴がカリカリになったやつ」
 ここ最近のお気に入りらしく、机に常備されているものをいくつかあげてやると、真っ赤な顔で「あんたは俺のストーカーか!」と瀬戸が叫んだ。
 ははっと笑いながら、犬飼は瀬戸の頭をくしゃりとかき混ぜた。
 ――あ……。
 癖のある黒髪の下から、じっとこちらを見つめる目と視線があって、どきりとする。いつの間にか、ふたりの間を見えない糸がピンと張りつめているようだ。
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