万華鏡商店街

一条 しいな

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 ぐっすりと眠った洋吉は久しぶりに気力が戻ったようだった。寝ぼけてフラフラしながら、起き上がり朝日にまぶしそうに見つめていた。目を細めている洋吉に下宿屋の奥さんがなにか話している声が聞こえていた。
 洋吉は顔を洗いに下に降りると神川と鉢合わせをした。神川は洋吉を見るなり笑っていた。それがなにを意味するのか洋吉にはわからなかった。ただ、洋吉の精神にはなにも刺激を与えなかった。それは洋吉が久しぶりの穏やかな眠りのせいか、頭の血の巡りがよくないのだ。そうぼんやりしている洋吉に対して神川は色男そのものでふわりとした柔らかい髪から甘い香りがした。
「君、白粉でもつけているのか。臭いぞ」
「いや、違う。多分移り香かもしれない」
 洋吉の頬がかっと赤くなった。神川はなにも言わなかったが、洋吉には自分がウブであると相手に知らしめてしまったと後悔した。
「じゃあ、僕は授業があるから」
 ふらりと立ち去る姿を女性と子供はけして見逃さないだろうと洋吉は考えていた。ひとしおに男として悔しさが洋吉にあった。
「なに、ぼんやりしているんですか。洋吉さんも早く支度しないと」
 口やかましい女将さんの声で洋吉は我に帰って顔と歯を清めに行くことにした。


 夏休みである。八月。ばったりと友人に出会うこともある。しかし、洋吉はすることもなく、一日中ゴロゴロしている。今度は女将さんが現れ、部屋の掃除を始めていた。なんだか、ムズムズと体の虫が騒ぎ出し、散歩に出かけたのだ。散歩に出かけたところでなにができるわけではない。少しだけすさんだ気持ちに洋吉はなった。
 古本屋に足をのばしてみようと思った。
 そう思って、野外に出てきた洋吉がいた。歩いていく。夏の暑さがだらだらと汗をかかせていく。べったりとした汗とムッとするような空気の中、洋吉に容赦がなく太陽が照りつけていく。土がカラカラ乾いて、歩く度に土ぼこりができる。乾いている土は歩きやすいが、いかんせん暑い。
 日陰を見つけて入り、抜けてまた探すなんて繰り返した。
「洋吉君。洋吉君」
 そう呼ぶ声が聞こえた。友人である。手ぬぐいで額を拭きながら、やあと駆けていく。
「やあやあ。久しぶりだね、休暇はどうだい。楽しいかな」
「いや、金もないんだ。楽しくないよ」
「そうか。いやちょっと寄席を聞かないかい」
「今、寄席をやっているんだ」
「なんだ、知らないのか。ますます行かなきゃ。寄席に行こうじゃないか。怪談話でも」
 興奮した彼は言った。興奮しているのは悪いが、洋吉はいやそうな顔をした。つい最近怪談話めたいことを体験したからだ。
「いや、僕は」
「いいじゃないか。売り子の女がまた美人なんだ」
「だからと言って会えるわけでもないし」
「夏には怪談話に決まっている。それに落語はいいぞ。楽しい。どうせ君もやることがないんだ。行こうではないか」
 そう言われて、相手に流されてしまう洋吉がいた。夏の熱い日差しが当たって彼の判断力を鈍らせたのは言うまでもなく、洋吉は寄席に行くことになった。
 洋吉は陽気な友人の話を聞いていた。定食屋に連れて行かれ、堅いパンを食べていた。
「その美しい女から物を買うなよ。女のせいで災難にあったという奴がたくさんいるんだ」
 よくしゃべるなと思いながら、洋吉はその話を聞いて眉をひそめた。友人も洋吉が眉をひそめた理由がわかったのか、ケラケラと笑う。
「私も信じていないが、実際に起きたという話があるらしいよ、君」
「我々文明が発達した世界でそんなことがあるか」
「いや、そんなことを言っていると現れるぞ」
 友人はにやりと笑った。洋吉にはさっぱりだったが、すぐにわかった。鬼に私は鬼だと言われ、冥府に連れて行かれるのだと。洋吉はブスッとした顔をしながら、パンをちぎる。
「悪趣味だ」
「そうかな」
 友人はうまそうに肉を食べている。固い肉である。何度も、噛んでも、噛んでもかみきれない。洋吉は苦しんでいるが、友人はニコニコしながら食べている。
「その女人と是非ともお近づきになりたい」
「バカを言うな。変な噂がある女だ。私は近づいて変なことに巻き込まれるのはいやだ」
 へえ、と友人は蔑むように洋吉を見つめた。口車に乗らせようとする魂胆は洋吉にわかっている。しかし、わかっていても腹立たしさは変わりもない。
「君の主張と相反するではないかな」
 舌で唇を湿らせる友人を冷ややかに洋吉は見つめていた。そんな冷ややかな洋吉に対して彼は鋭く突き刺すように言った。意地悪そのものに。
「君。信じないならば、近づいていいだろう。もしそんなことがあれば私が責任を取ろう」
「君で取れるわけがないだろう」
「いや、取れるさ。僕達は運命共同体なんだから」
 調子のいいことをつらつら述べる友人に呆れている洋吉がいた。とりあえず食事を終え。歩いていく。



 一筋縄ではいかないそうな男が演芸を始める。若い男の落語が始まる。そうして最後に怪談話。最初は近頃自分が思ったことの話で、次に本題。観客は満員御礼。洋吉も怪談話をじっと聞いていた。怪談話はよく圓生で有名になった落語だ。洋吉はオチを知っていても背中にぞわぞわと虫が這うような気持ちになった。ほかの人も同じだったのか、洋吉と同じ様な顔をしていた。
 途中休憩で物売りの女がいた。確かに美しい女だった。華奢な体つき、長い髪に、小ぶりな胸はむしろ清潔感があり、ブラウスとスカートはなぜか妙にムラムラと悪い気を起こさせるようだ。悪い客がお触りしようなら、キッと女が怒鳴るなんてある。気の強い女らしい。それが返って女の色っぽく見せるのだ。
「どうだ」
「まあ、美人だね」
「へっ。かわいげのない。神川には紹介するなよ。あいつがしゃしゃり出たらロマンスもない」
「じゃあ、なぜ私を連れて来た」
「すみません」と友人が女を呼ぶ。
「はーい」
「あら、亀吉さん。どうしたのかしら。珍しく買い物。ちょっとなにをたくらんでいるのかしら」
「いや、私ではなく。彼だよ」
 いきなりお鉢が回ってきて洋吉が戸惑っていると、女はくすりと笑った。溌剌とした美人だ、洋吉はそう気がついてつい「いなり寿司」と言った。それだけなく、土産も買っていた。女はニコニコと洋吉に手渡した。
 女の冷たい手が、洋吉の手を包むように買ったものを渡した。それだけなのに、洋吉は顔を赤くした。ウブな洋吉の反応に気をよくしたのか、女は「亀吉さん。意地悪はだめよ」と言った。
 風のように女は去った。


「いい女だろう」
「まあね」
 さっきから頭の中では女を描いていた洋吉ははっとした。彼らの頭上にはいくつもの星が瞬いている。夜空は紺碧、星は白い。月明かりは見えない。星だけが妙にキラキラと輝いている。洋吉はしばらくお土産の耳かきを見ていた。たいしたものではないが、あの女から手渡されたものだからか、余計にいとおしく感じてしまう。洋吉の考えなどお見通しの友人は「なにか起きたか。気分は悪いか」と口早に問いかけていた。
「もしかして君、僕を生け贄にして、自分が呪われないか確かめるつもりだったのか」
「いやあ。すまん」
 笑ってしまう友人に呆れてしまう。もし本当に洋吉を呪うものだったらどうするつもりだろうか。そんなことを洋吉は考えていた。
 熱を帯びた風が吹いてきた。しかし、太陽が沈んでいく分涼しい気がする。まだまだ夏の風だ。洋吉と友人は別れた。結局友人はまた洋吉のところに訪ねるそうだ。
 洋吉は風に吹かれながら、歩いていく。野犬に遭遇せず、明かりを持っていなかったが、なくても困らない。人の里に近いから、それでも急ぐわけでもなく。蚊に刺されたが、これも仕方がないと洋吉はあきらめていた。
「お兄さん。お兄さん」
「はい」
 はいと返事はしたものの、なぜ夜道に呼び止められたのか洋吉にはわからなかった。
「ちょいとそれをくれないか」
 洋吉は暗闇の中で歩いたせいか夜目でそれを見た。星明かりのおかげか、それはいなり寿司である。
「いや、これは」
「金なら払う。腹が減ってペコペコなんだ」
 洋吉はその男を見た。男はいかにも具合がそうである。また老人でもあったために。
「金はいらない。とりあえずなにか腹を膨らませればいいんだな」
「えっ。本当ですか」
「うん。それだけならば、私にもなんとかできる」
 じゃあなと立ち去る洋吉に男が頭を下げたような気配がした。とりあえず、耳かきを持って歩く。自分の夕飯がなくなったが、まあ仕方があるまい。洋吉が歩いている。気分はいいんが、なんとなくだが、引っかかるものがあった。しかし、それを洋吉が言葉にする前に、町明かりが見えてきたのだった。


「あれ、君。遅い帰りだね」
「ああ。神川君か。なに落語を聞いただけだよ」
「落語か。久しく聞いていないなあ」
「別にいいだろう。そんなことは。どうだい仕事は」
「ああ。楽しいよ」
 下宿先に帰った洋吉は以上のような会話をした。洋吉自身、神川と話してみていると不思議なことにやはり色男にあの売り子を紹介するのはいやだった。そんな自分の心理を遠くから見るように感じている洋吉がいた。
 団扇を扇いでいる神川の美しい顔をみたら、苦々しく洋吉は思った。役者のように整った顔はきっとあの売店の娘が放っとくわけがないと早合点する。
「土産に何を買ったかい」
「ああ。これさ」
 なにげなくなく洋吉は耳かきを見せていた。
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