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 父と弟と別れた日のことを今でもはっきりと覚えている。
 弟の手を引いて家を出て行った父、正しくは父と思っていた男は、その日のうちに戻って来た。
 男は彼の家族や親戚と一緒だった。大勢の大人たちから憎々し気な目で取り囲まれ、彼らから浴びせられた罵詈雑言は石つぶてのように幼い治夫の背中を打った。
 そして今度は治夫と母が家を出て行くことになった。

 二人で知らない土地に移った。友達も知った人も誰もいない、街の安いアパートの一部屋が新しい家になった。
 母は一日中働きに出ていたから治夫はそこでいつもひとりぼっちだった。テレビを見るか絵を描いたりして日がな一日を過ごした。それに厭きると近くの商店街をうろついた。何度も悪戯をした。靴屋の安いサンダルを溝に流したり、車のタイヤの下に釘を仕込んだり。したくてしたわけではなかった。その度に見つかり、母が呼ばれた。母は何度も治夫の頭を下げ、自分も額づいた。でも家に戻っても治夫を叱ることはなかった。ごめんね、かんにんね、と言いながら機械油が染みついた作業ズボンの膝に涙を落とした。
 住んでいたアパートの近くに小さな鉄工所があった。割れた下敷きを持ってよくそこへ通った。毎日、学校帰りにトラック一台がやっと通れるほどの狭い路地の端にしゃがみ、工場の中を下敷き越しに見ていた。アーク溶接の作業を見るためだ。
 火花が散る度に、鼠色に光る鉄材が繋ぎ合わされ、柵になったり、何かの架台になったり、枠になったりした。
「ぼーず面白いか。そんなんじゃ目悪くする。これ使え」
 ある日、ジャイアンツのキャップを逆に被ったその若い工員が遮光面を貸してくれ、工場の中にまで招き入れてくれ、作業を間近で見ることが出来るようになった。濃いグラス越しに見たその光は微生物のように蠢き、泡立ち、次々と鉄を融合させていった。美しいと思った。治夫はその名前も知らない男と仲良くなった。
 学校で水蒸気のことを習った。
 その威力をこの目で確かめたいと強く思った。通学路の空き地にところどころ凹みのあるスチール製の薬缶が捨ててあった。これを使おうと思った。
 日曜日、鉄工所は休みだ。いつも空いているシャッターは閉じられていたが建物の裏の通用口が空いていることも知っていた。鉄工所の主が工場から離れたところに居るのも知っていた。中は薄暗かったが、灯りのスイッチの場所も二百ボルトの動力電源の場所もずっと観察していたから知っていた。ややあって明るさを増したアーク灯に照らされた工場の中にブ~ンという音がやけに大きく響き渡った。
 溶接機の電源を入れる前に壁の棚から手ごろな太さの熔棒を取り出し、端子に挟んだ。もう一方の端子は鉄の定盤に噛ませた。定盤に拾ってきた薬缶を載せ、金床や重い鉄片で回りを囲んで固定した。掌に汗をかいていたからズボンの尻で拭った。
「薄い鉄板やるときは電圧を低くしなあかんのや」
 そう男が言っていたのを覚えていた。
 溶接機のハンドルを回して目盛を最低にセットした。皮の手袋を嵌め、端子を掴み電源を入れた。
 遮光面を構え、定盤の面をチョンチョンと突いた。遮光グラスの向こうで火花が散った。初めて自分の手でスパークさせたことに畏れと感動を覚えた。ひとつ深呼吸し、薬缶の蓋の密閉に取り掛かった。最初に何か所かを接合し、蓋を固定してからシールする。この手順も男の手際を何度も見て学んでいた。
 恐る恐る、おっかなびっくりで始めた拙い作業だったが、自然に手が動くようになってくると面白くてたまらなくなった。自分の手で生み出した奇妙な、まばゆく光る生き物が蓋の合わせ目に沿って蠢きながら這って行く様に背中がゾクゾクするような興奮を覚えた。
 シールを終え過熱した薬缶が冷めるまで、拾った木切れを薬缶の口に合うように加工した。元はなんだったのか、何かの柄か擂粉木の切れ端の様な木片を据え付けのグラインダーで適当な太さに削った。これが弾丸になる。治夫の予想では膨張した水蒸気が薬缶の口に押し込んだ木切れを勢いよく吹き飛ばすはずだ。薬缶の口に合うように正確に丸く、しかもやや勾配を付けて削る。木の粉が飛び、焦げる匂いがした。抑えつけすぎると木片は簡単に治夫の手から弾けとんだ。気を取り直して少しずつ入念に突起を削り、真円を目指していった。
 治夫はただひたすら木を削る作業に没頭し続けた。そうしているとそれまで抑えつけていた本当のありのままの自分が解き放たれてゆくのが感じられた。完成した弾丸をアーク灯に翳して形を確認し昂りを覚えた。生まれて初めて、自分は生きているのだと思えた。
 かねて下見してあった空き地に行った。
 そこは建築資材の集積場か廃材の仮置き場の様なところだった。周囲は古い住宅が点在する田んぼで、一方だけにコンクリート壁があり砂や砂利が間仕切りごとに置かれていた。その壁の向こうにトタン屋根で杉板葺きの小屋があるだけだ。壁の上に小屋の窓が見えた。人の気配は無かった。通りからは雑草の絡みついた金網のフェンスで仕切られていた。少しぐらい火を焚いたところで誰も気にも留めないだろうという目算はあった。
 フェンスで道路から死角になったところへ薬缶を据えることにした。どこかのビルを解体したのだろう、鉄筋が突き出たコンクリートのかけらがあった。それをいくつか集めて竈を作り薬缶を載せた。中に既に半分ほどの水が満たしてある。竈の中にかき集めた木切れを詰め、新聞紙を丸めてマッチで火をつけた。鉄パイプを口に当てて何度か息を吹き込むとやがて火が熾り勢いづいた。
 次に薬缶の固定にかかった。地籍表示用のコンクリート杭を四方から薬缶に立てかけ、薬缶の口の方向にベニヤ板を立てた。弾丸のマトだ。ジーンズのポケットから自分で削った木の弾丸を取り出して眺めた。少し考えてマトを三メートルほど離した。水蒸気の威力がどれほどのものかわからなかったが、この小さな弾丸でベニヤに穴が開いたらさぞ痛快な気分になるだろうと思った。弾丸が飛び出した時の反動も考えてコンクリート杭を追加した。
 薬缶がしゅんしゅんと湯気を上げ始めた。口に弾丸を込め、軽く石で叩いた。湯気は密封された。治夫は満足して少し離れてしゃがみ、堪え切れなくなった水蒸気が弾丸を勢いよく押し出して発射される瞬間を待った。しかしこの時治夫は、燃えた木片が崩れて竈がずれ、固定用のコンクリート杭が傾いて薬缶の口の木の弾丸をさらに押し込み抑えつけていたのを知らなかった。
 しゅんしゅん言っていた薬缶が鳴らなくなり金属の薄板を押すカンカン、ポンポンという張り詰めた音が高まり、さあいよいよかと息をつめた。しかし、弾丸はいっかな発射されなかった。近くで様子をみるかと立ち上がりかけたその時、
「ちょっと、あんた。なにしてるんや」
 聞き慣れない老人の声に振り向いた瞬間だった。
 大音響とともに治夫は前のめりに吹き飛ばされ地面に叩きつけられた。
 薬缶の中で何千倍にも膨張した水蒸気が、弾丸を発射せず、治夫がシールした蓋から漏れず、薬缶の底の弱って薄くなった部分を一気に破って爆発したのだ。
 治夫が興味を抱いた水蒸気爆発の威力はあまりにも巨き過ぎた。
 それは田舎の小学生の想像力を遥かに超えていた。
 立てかけていたコンクリート杭やベニヤ板は竈を中心に四方に倒れ、爆風で飛散した燃え滓が空き地の所々で燻り雑草を焦がしていた。飛ばされた木片のいくつかがコンクリート壁を超え、隣の小屋の窓ガラスを割り、トタン屋根の上にまで飛ばされていた。薬缶そのものは何処へ飛んだのか見当たらなかった。
 目の前で割烹着を着たおばあさんが尻もちをついていた。おばあさんにも治夫にも怪我はなかった。細かい燃え滓が治夫が着ていたセーターの背を何か所か焦がし、コンクリートの欠片が痣のある治夫の首をかすめていた。もしそのおばあさんから呼びかけられなかったら・・・。火傷か、失明か、下手をすると命を落としていたかも知れない。本当に奇跡としか言いようがなかった。ただ、爆風がその日しばらくの間治夫から聴覚を奪った。
 大人たちがぞろぞろと集まり始めた。
 パトカーや消防車や救急車の赤色灯がたくさんやってくるのがフェンス越しに見えた。
 白いホースが伸ばされ消防隊員らが駆け回り、数人の警官が群がる人々を押し出していた。
 辺りは騒然とし、人々は口々に何かを言っていた。何かを叫んでいた。治夫には何も聞こえなかったが、人々の口の動きが皆一様であることはわかった。
「おっとろしい子や」
 やがて人垣を縫うようにして母が来た。
 母は治夫に何かを呼び掛け、警官に話しかけられ、その場に蹲って地面に頭をこすりつけた。治夫はその傍らでただ茫然と立ち尽くしていただけだった。警察署、消防署、空き地の隣の小屋の持ち主、鉄工所・・・。連れて行かれるたびに母は何度も頭を下げた。
 子供ながらに美しい母だと思っていた。まだ父と呼んでいた男と弟と一緒に暮らしていたころはそれが自慢だった。
 それがいつの間にか同級生の母親たちに比べ十歳以上も老け込んで見えるようになっていた。この一件が疲れ果てていた母をさらに苦しめた。
 帰り道。
 陽がとっぷり暮れた公園にはもう一面真っ白に雪が降り積もっていた。母は力尽きたように雪の中にへたり込んだ。波で洗われつくした石のような青白い顔の目が露をふくんでいた。
 今度こそ酷く叱られるだろうと思っていた。叱られたいと思っていた。それなのに、やっぱり母は治夫を叱らなかった。
「ごめんね、治夫。かんにんね・・・。お母さんを、許して」
 倒れ込んできた母を抱きとめた。母は一度だけ微かに笑い、目を閉じた。
 母の体から見るみる精気が抜けて行き信じられないほど軽くなり、艶やかだった黒髪が瞬く間に真っ白になった。そしてついに治夫の腕から抜け落ち、そのまま雪の中に埋もれ、白木の棺に収まった。

 葬儀場で、白装束に身を包んだ母と最期の対面をした。治夫と康夫の他には誰もいなかった。
「にいさん、ごめんよ。・・・これも全部姉貴のせいや。あのバカのせいで・・・」
「それは違うよ、康夫。俺のせいや」
 治夫は母の幾重にも刻まれた皴だらけの冷たい頬を撫でた。
「母ちゃんがずっとこうしたがっていたのは知ってた。俺のために、今まで我慢してくれとったんや。こんなになるまでなあ。・・・もし俺が生まれて来んかったら、旦那さんと、息子さんと、三人で今も楽しく暮らしとったはずなんや。全部、俺のせいなのや」
 母の首に刻まれた縄目に触れた。塗りこまれた分厚いファウンデーションをもってしても、隠しきることが出来なかったのだろう。
「それなのに、俺まだ、母ちゃんに、あんやとも言うてなかった・・・。一度も、言うてなかったんや」
 棺の傍に泣き頽れた。
 すると・・・。
「うるさいなあ。いつまでもごちゃごちゃと!」
 棺から臙脂色の中学校のジャージを着たミヨシさんが身を起こし、大きな欠伸をした。
「・・・ミヨシさん」
 棺桶の中のミヨシさんは何故か治夫を睨みつけていた。
「ミヨシさん。ここで何してんの?」
「何や、にいさん。このババア知り合いか」
「うるさいわ、ハゲ。あんたにババア呼ばわりされる覚えないわ」とミヨシさんは言った。
「何ぼーっとしてるだ。ホラ、行くで」
 そう言って棺桶から飛び出し、強引に治夫の手を引き葬儀場を出た。
「行くって、何処に行くのさ」
「黙って付いてくればいいだよ」
 治夫は手を引かれるままずんずん歩いた。歩いているうちにミヨシさんの背丈がみるみる大きくなっていき、治夫の手が彼女の掌の中できゅーんと小さくなっていった。
 連れて行かれたのは、あの鉄工所だった。ジャイアンツのキャップを被った若い男だけでなく、なぜか空き地の隣の小屋の老婆や警察官やホースを持った消防隊員や大爆発の折に居た大勢のやじ馬たちが皆揃っていた。
「ホラ治夫。もう一度ちゃんと謝りナイ。早く!」
 ミヨシさんは治夫の頭を強かに引っ叩いた。それで仕方なく頭を下げた。
「・・・どうも、その節は皆さまにご迷惑をおかけし大変に申し訳ございませんでした」と謝った。すると、
「謝って済むなら警察はイランのや!」
 鉄工所の若い男はあの薬缶を持って吼えていた。母と住み慣れた家を出る時の親戚たちの眼と同じ、蔑みと怒りの混じった眼をしていた。
「ほうや! ひどつきないイタズラばーしよって」
「ほうやわ。うちとこもサンダルどぶっと放かられたんや。おとろしい子やわ」
 口々に非難の言葉浴びせかける人々。ミヨシさんはその前にのっしと踏み出し、両手を腰に当てて胸をそびやかした。
「ほお・・・。あんたら。大層なこん言うだね。年端もいかん子供、大勢で寄ってたかって取り囲んで」
 つかつか男に詰め寄ると力づくで薬缶を奪い取り、破れた薬缶の底を突き出した。
「見ナイ。まだ小学生の子供が、見様見真似でこんだけ完璧な仕事してるんだニ。あんたにできるか。悔しいんだら。フンっ! この、半人前の小倅が!」
「なんやと! このクソババア。わりゃー。もういっぺん言うてみいっ!」
「おう。何度でも言ってやるニ。半人前の小倅が。この子はなあ、今に日本一の大会社に入って部下百人抱えるほど出世するだニ。ジェット機で世界中飛び回って、ほんで社長になって何十億もバリバリ稼ぐようになるだっ!」
「ちょっと、ミヨシさん。それは言い過・・・」
 たまりかねて口を挟んだ治夫を「あんたは黙っとけ」と制し、
「わかったか! この馬鹿っつー。皆の者、頭が高いわー」
 叫びながらミヨシさんは口から真っ赤な炎を吐いた。人々はひれ伏し、炎が液体酸素とガスのボンベに引火した。薬缶の水蒸気爆発などとは比べものにならないほどの大爆発が起き、工場の壁や屋根が吹き飛んだ。治夫とミヨシさんも吹き飛ばされ、雲の上へ飛んで行った。
 お寺の鐘がごお~ん、ごお~んと鳴っていた。
 草むらから顔を上げると、目の前で大きな牛がもぐもぐ草を食んでいた。
「治夫、大丈夫?」
 朝もやの中、何故か臙脂のジャージを着た由梨がズボンの尻をパンパン叩きながら立ち上がった。
「由梨・・・」
 向こうにうっすらと大きな富士山が光っていた。広大な高原の牧草地を曙光が照らし始めていた。
 何故か歩き出した由梨の後を追っていた。
「治夫。あんたは生まれて来ん方が良かったんじゃないだよ。生まれて来にゃならんかっただ。もう、間違えんな。いい? そろそろ起きて。お父さん、お父さん!」

 頭の上でゴンゴン音がする。
 すりこぎとフライパンを持った由梨が治夫を見下ろしていた。
「今日、出張だら?」
 由梨は夢の中で見た臙脂の体操着を着ていた。
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