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 家の中は荷造りされた段ボールが積み上げられ、食器棚やサイドボードが空っぽになっていた。ああ、やっぱりもう居なくなるんだ。
 美奈の部屋に通された。
 着替えだけさせてと美奈は言った。マットレスが剥き出しになったベッドに座り、渡されたペットボトルのジュースを飲みながら待った。美奈は無言で着ているものを脱いだ。わざと時間をかけているように感じた。
 どういう言い訳をするのか。納得のいく説明を訊かないうちは帰れない。彼女は旅行バッグからショートパンツとTシャツを取り出して身に着けた。
「ホントはね、今夜は戻るつもりなかったんだ。でも電話もらったから。由梨坊にはきちんと話さなきゃと思って。それで、ウチだけ戻ってきたんだ」
 両手を首の後ろに回し、長い髪を襟の中から出した。上品なシャンプーの香りが漂い出た。いつもの凛とした、涼し気な眼差し。なんか、癪に障った。
 美奈は椅子に跨ってペットボトルのジュースを一口飲んだ。
「お待たせ。どうぞ。言いたいこん言って」
「わかってるら」
「そんな、怒らないでよ」
「怒るわ!」
 腹が立って仕方が無かった。
「ウチら、友達だら? なんでウチに最初に言ってくれんかっただ」
 美奈は目を閉じて由梨の怒りを受け止めた。
「ごめんよ。その時はまだ決心つかなかった」
「その時っていつ」
「おじさんと・・・、由梨のお父さんと会った日」
 窓の外に目を向け呟くように美奈は言った。
「親友よりもその親父の方に先に言うだね。おかしくない? しかもなんで達也なんかにわざわざ余計なこん言うだ」
「それは、違うよ」
 美奈はゆっくりと由梨に顔を向けた。
「達也のほうから電話して来たんだよ。何とか由梨との間取り持ってくれって」
「何か前に訊いたようなセリフ。話ん違うじゃん。アイツがそんな柔なマネするわけないじゃんね。ヤリチンだに」
「ホントだよ。アイツ変わったよ。直で会ったんでしょ、わかんない? 多分そっちに直接言っても信じてもらえないと思ったんじゃない?」
「どっちでもいいわ。それで何でわざわざウチに構うなとか言う? ウチのこんなんてお前に言ったことないら? 適当なこん言うなよ」
「わかるよ、そんなの」
 美奈はごろごろ椅子を転がして由梨ににじり寄り顔を突き合わせた。
「ウチ、あの日、おじさんと、キスした」
 気づいたら美奈の頬を張っていた。
 心配していたことが的中した。目の前が真っ暗になった。
「ほらね」と美奈は言った。
「は? 何『ほらね』って」
「バレバレじゃん。そういうことでしょ? あんた相変わらずスッゲーわかりやすいわ。あんただって親友のウチに内緒にしてたじゃん。ま、気持ちはわかるけどね」
 そう言って美奈は笑った。
「でも誤解しないで。おじさんはウチが迫っても最後までそんなの駄目だよって言ってたから。ウチがおじさんを騙して無理矢理しちゃったようなもんだからさ」
「なに言ってんだよ。なに勝手な事喋ってるだ。お前、いい加減にしろよ。フザけんなよ」
 怒りと恥ずかしさとで混乱し、震えた。
「好きなんでしょ? おじさんのこと。嘘つくなよ」
「うるさい!」
「由梨」
 美奈に手を取られた。振り切って顔を逸らした。
「見てりゃわかるって。入れないもん、あんたとおじさんの間に。ウチも、好きなんだよ。好きだったんだよ、おじさんのこと」
 そう言って美奈はフッと息を抜いた。
「あの日ね、ウチ家に戻ってから泣いたんだ、朝まで。目が真っ赤になって腫れちゃってさ。
 ホントはね、大阪行くことあんたにも話そうと思ったの。だけど顔見られたくなかったんだ。だって、悔しいじゃん。おじさんの気持ちはウチには全然ないしね。
 だから、消えることにしたんだよ。あんたは友達だから。ウチの大事な、一生の友達だから。
 達也にはね、言いたきゃ自分で言いなって言っただけ。だけど絶対無理だよって。事情があって今は付き合えてないけどガッチリ両想いみたいだからって。アンタの入るスキなんかないよって」
 やっぱり、美奈は美奈だった。全てお見通しだった。自分よりはるかに大人な美奈にはどう足掻いても敵いそうになかった。
「美奈」と由梨は言った。
「ん?」
「ごめんね。叩いて」
「別に。気にすんなよ」
「腹減った」
「カップラーメンとお菓子なら少しあるよ」
 その晩、美奈の家に泊まった。
 家に電話すると、いいよ、別れを惜しんでおいでと母は言ってくれた。既に荷造りが終わっていた布団袋からタオルケットを引っ張り出し、裸のマットレスの上で二人で抱き合って寝た。話は尽きなかった。四年の間、楽しかったいろいろな思い出をお互いに語り合った。
 世の中に女の友情がどれだけあるのか、由梨は知らない。だけど、美奈と二人で過ごした四年の月日は並みの中学生のそれよりも何倍も濃くて深い時間だったように思えた。
 再び治夫のことが話されることはなかった。お互いに相手を思い遣ったから、言わなかった。それでも最後に美奈はこう言ってくれた。
「宝物だよ。由梨坊と、それからおじさんと過ごした時間。ウチの一生の宝物だよ。
 ま、がんばれ。遠くから応援してる。まあさ、相手妻子持ちでフリンだし。血が繋がってないったって一応キンシンなんちゃらだし。いろいろ苦労すると思うけど、辛くなったら電話してきな。わざわざ苦しい恋愛したがるおバカな親友の愚痴ぐらいはきいてやるからさ。それにログハウスもあるじゃん。時々来てやるよ」
 そうして美奈は大阪へ去っていった。


 昼近くに家に戻った。
 シャワーを浴びて出てきたら父が冷やし中華を啜っていた。母が綺麗に盛り付けられた皿を膳えてくれ、甲斐甲斐しく麦茶を出してくれた。父も母も何も言わなかった。気を遣ってくれているのがわかった。
「今日仕事じゃなかっただ?」
 俯いたまま箸で麺をぐちゃぐちゃに掻き混ぜながら訊いた。
「元々代休だった。向こうの都合で打ち合わせキャンセルになってな」
 ただひたすら下を向いて麺を啜った。母の気遣いは有難かったが、敢て無視して食べ続けた。顔をまともに見られなかった。
「なんだ。どうした。言いたいことあるなら言ってみろ」
「別に。なんもないよ」
 これでは今までの繰り返しになる。そう思って、敢て言ってみた。
「じゃあ、午後ヒマ?」
 もういい。もうどうなってもいい。いっそのこと父に全てをぶちまけてラクになってしまいたい。箸でぐさぐさと皿をつついた。父と母が手を止めて自分を見ている。呆れているのだろう。
 父を裏切るとか騙すとかそんなことは微塵も考えていない。ただ、一緒にいたい。抱きしめて欲しい。それだけなのにな・・・。
「じゃあさ、どっか連れってってや」
「はあ?」 
「いいじゃん、別に」
「お前さ、普通中二にもなって親に遊んでもらうやついないだろ」
「いいじゃん、別に!」
 無理矢理に麺を頬張り、口をもぐもぐさせながら「ディズニーランド行きたい」と言った。
「アホか。今から行ったら夜になっちまうわ。俺、明日朝早いんだ。無理言うな」
「じゃ、どこでもいいから。ねええっ!」
 母の視線が痛かった。それでも無視して我儘を言い続けた。
「連れてってやれば。美奈ちゃんいなくなるもんで寂しいんだよ。甘えたいんだら?」
「ん、まあ。じゃあ、家族でドライブでもするか。夜はどっかでメシでも食うか」
「私はいいよ。父と娘で行ってきな。いろいろ、することもあるし」

 仏頂面をして車に乗り込んだ由梨は、車が高速道路にのるや途端に饒舌になった。それは浜名湖の畔の遊園地でも続き、治夫は終始娘の異様な程の気勢に圧倒され汗をかき続けた。ギラギラ照り付ける真夏の太陽の熱線を浴びながら、さほど広くない園内のアトラクションを猛烈な勢いで制覇してしまうと、今度はカラオケに行きたいと言い出した。
 ヤレヤレ。
 そう思いながらまたも我儘を聞いてやった。ルームに入るやリモコンを独占し治夫にはわからない今流行りの歌を何曲も絶叫し続けた。カラオケ店を出るとき、由梨が手洗いに立ったところで多恵子に電話をした。娘の弾けた様子を伝えると、
「美奈ちゃんのこん、よっぽど堪えてるんだら」と妻は言った。
「そうかもな」と応えた。
 本当は違う。由梨の弾けている理由は別にある。でも敢えてそう言ってくれているのだと悟った。やはり多恵子は治夫には過ぎた女房だった。
 帰りの車の中で、やっと由梨は静かになった。さすがに疲れたのだろう。眠ったのかと思ったがそうではなかった。娘は窓外を流れる夕景をボンヤリと見つめていた。
「疲れたろ」
 由梨は返事もせずに窓の外に顔を向けたままでいた。治夫の問いかけを忘れたころに、
「あのね」と口を開いた。
「どっか静かな所行きたい」
「静かな所? もう家帰りゃいいだろ」
「まだ、帰りたくない」
 その高台にある競技場の駐車場からは山に囲まれた東遠州の市街を見下ろすことができた。陽は西の山の向こうに落ちかけ、くすんだビルや家々の窓に灯りが燈り始めていた。
 車が停車するやまだ熱いボンネットに寄り掛かった。後から治夫が降りて来て、由梨の隣に少し間を開けて座った。由梨はすぐにその間を詰めた。腕組みした父の左腕を強引に奪ってしな垂れた。治夫は何も反応しなかった。さらにギュッと組んだ腕に力を込めた。それでも何も言ってくれなかった。自分から喋るのはイヤだった。それで、父の言葉を待った。ドキドキしながら、待った。
「夕陽に照らされた眺めも綺麗だな」
 散々待たされて出て来た治夫のセリフがそれだった。間抜けだ。陳腐すぎる。何かもっと、感じる言葉を言ってほしい。
「ねえ。小さいころさ、冬にイルミネーションに連れてってもらったじゃん。覚えてる?」
 夜景に変わってゆく市街を見下ろしながら、由梨は言った。
「ああ。よく覚えてる。お前、燥ぎ過ぎて電飾の上駆け回ってヤホーとか言って係りの人に怒られてた。恥ずかしかったなあ・・・、アレ」
 なんでそういう方向に行くかと腹が立ったが気を取り直して続けた。
「あそこさあ、ウォータースライダーあったじゃん。一緒に滑ったのいつだっか」
「酷かったなあ、アレ。最初に滑ったとき。お前ビックリして大声で泣き出しちゃってさあ、帰るまで泣き止まなかったんだぞ。あれも、恥ずかしかったなあ・・・」
「初めてスキー行った時さあ・・・」
「そうそう。最初はやさしいとこでって何度も言ってやったのに、俺についてくって聞かなくてさあ。上まで行ったら怖いよーって顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになってたっけなあ。結局おんぶして歩いて降りて来たっけ。恥ずかしかったなー、あれも。あと最悪だったのは御前崎泳ぎに行った時な。覚えてるか?」
 父は本当に嬉しそうに話し続けた。
「ちょっと飲み物買ってくるから一人で海に入るなよって言ったのに戻ったらお前、いなくてさ。お母さんもうたた寝してたって。焦って探してるうちに沖でお前と同じ浮き輪がプカプカして助けてーって声がした。お父さんな、子供の頃怖い思いしたから、本当は苦手だったんだ、海。でもな、あんときはライフセイバーのお兄ちゃんより先に泳ぎ着いてなあ。もう無我夢中だったんだなあ。怖いのなんかどっかへ行っちゃっててさ。ヘトヘトになって浜に上がって来て浮き輪抱えてキョトンとしてるお前見たら腰抜けたもん。女の子の親御さんからめちゃくちゃ感謝されてこれで焼き肉でもって五千円もらったっけ。俺もお母さんも全然食う気起きなくてさ、お前ひとりで食ってたっけなあ。おいしいおいしいってさ!」
 言いようのない怒りが沸き騰がり、由梨は治夫の腕を思い切り殴った。父は何も言わなかった。何も言わずに殴られ続け、おまけにニコニコ笑ってさえいた。さらに怒りが増した。ただひたすら何度も拳で叩き続けた。
 夜景を見に来たのだろう。すぐ隣にカップルの車が停まりかけたが、治夫たちを見てぎょっとして再びバックして去って行った。どうも、申し訳ありません。心の中で見ず知らずのカップルさんに詫びた。
 叩き疲れて治夫の胸の中に飛び込んだ。父を抱きしめて、頭をぐりぐりと押し付けた。
 父の枯草のような匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。泣きたくてたまらないはずなのに、泣けなかった。父に頭を撫でられた。顔を上げると、一番大好きな笑顔がすぐそこにあった。
「由梨。このままじゃ、だめか?
 お前は俺の大事な娘だ。いままでそれでやってきたんだ。これからも、それで行こうぜ、なあ? いつかお前が誰かに嫁いでゆくまで・・・」
「ウチ、行かん。どこにも行かん。ずっと家にいる。ずっと、お父さんと一緒にいる!」
「しょうがねーなー、もう・・・」
 父は笑ってもう一度抱きしめてくれた。
 そのままずっとそうしていたかった。大人になんか、なりたくなかった。
 でも、いつかは二人とも家に帰らなければならない。帰って、明日を生きるために食べ、眠らなくてはならない。眠れば、一日だけ、大人になってしまうのだ。
「わかったよ」と由梨は言った。
「その代り、ウチがそばにいてって言ったら必ずそばにいて。抱っこしてって言ったら必ず抱っこして。それでいいにする。いい? わかった? 必ずだよ。約束だに」
 もう父を殴るのはやめた。時々抱きしめてくれるならそれだけで十分だ。そう、思うことにした。
「もう、夏も終わるな」と父は言った。
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