嵌められた侯爵令嬢

アクアマリン

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序章

毒杯

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毒杯はすぐに届けられた。

金のゴブレットに入れられたそれは一見するとただの赤ワインのようだった。
匂いも色も別段おかしなところはない。

あまりの早さに本物かどうかを疑ったソフィアは、左手首をペンで傷つけそこを目掛けて杯を傾けた。
赤い液体が触れた途端、肉が焼け焦げるような異臭が鼻をついた。傷口を中心に焼け爛れ、みるみるうちに水泡がいくつも浮き上がる。

「な、なにをしている…っ」

「ただの赤ワインに見えたので」

淡々とそれらをこなすソフィアに看守は畏怖の目を向けてきた。
さぞや頭のおかしい娘だと思われていることだろう。

「司祭の到着を待たずに命を断てば、地獄に落ちるぞ」

「祈りは必要ないのです」

そんなことは無意味だと知っているからだ。

床に座りゴブレットを両手に持った。理解できないという表情の看守に微笑む。

ルシーダの悔しがる表情は容易に想像でき、それだけでソフィアは満足だった。死への恐怖は無く、この人生からの解放とその先の自由に胸が高鳴っていた。


すべてを奪われた自分が唯一あの義妹から奪えるもの。


それが、楽しみにしていたソフィアの死に様を見逃すこと──



( お母様、いまお側にまいります… )



杯に口づけるとグッと傾け一気に飲み干した。
ごくり、ごくりと嚥下するたびに体がしびれ、胃の底から煮えたぎるマグマのような熱が上がってくる。

すぐに息ができなくなった。
焼け爛れた喉が張り付き、呼吸ができない。

ゴトン、とゴブレットを取り落とし床に倒れ伏すと、熱い火の塊が喉を這い上がり口から飛び出してきた。

「ひい…っ」

大量の血を吐いたソフィアに看守は驚き震え上がった。驚かせてごめんなさいと詫びたくても、もうまばたきすら自分の意思ではできなかった。

暗くなりつつある視界の端で石牢の鉄格子が力任せに破られたのを見た。数人の足音とそれによる振動が石牢内に響き渡り、この力無い体を取り囲んだようだった。

「なぜだ、ソフィア…!」

険しい顔の男性に体を抱き起こされた。その髪の見事な金のきらめきに、ソフィアのまなじりから涙がひとすじ伝い落ちた。

( マーカス様… )

「逝くな! こんなことはばかげている! なぜ君がこんな目に…っ」 

( 泣かないで、マーカス様 )

マーカスの血走った目が涙ににじんでいる。それをそっと指先で拭ってあげたいのに、もうそんな力はどこにもない。

今回の「ルシーダ殺害未遂事件」とやらは、公太子が外交のために諸外国を回っているその隙をついて実行された。

ある朝起きたらルシーダ殺害未遂事件の実行犯として拘束されたのだ。ソフィアとしても寝耳に水の出来事だった。

冤罪だと訴えても誰も聞く耳を持たず、生家である侯爵家にも見放され、ソフィアの弁護を渋々引き受けてくれたのはクジにより担当が決まった国選弁護人だった。

マーカスが知らせをきき急遽帰国したのはソフィアの判決の翌日だったらしい。看守から面会の申請があったが却下したと言われたのだ。死刑囚は刑が施行されるまで一人きりで過ごす決まりだと。

「いま事件の調査をしてるんだ。君を嵌めたものたちをかならず突き止めて見せる! だからまだ逝くんじゃない……!」

( ありがとう…。その言葉だけで、私は… )

「…ソ…ィア…!」

( ごめ、んな…さ…… )



もう何も聞こえなかった。





視界が暗転したあと力強くかき抱かれたのを最後に、ソフィアの意識は消失し闇の中に消えていった──


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