嵌められた侯爵令嬢

アクアマリン

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第一章 さまよえる元令嬢

娼館への誘い

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まさか初対面の男性から娼館にスカウトされるとは想像もしていなかった。


ソフィアは自身を見下ろした。

白いネグリジェのようなやぼったいドレスに黒のローパンプス姿だ。おまけに白粉や紅もつけず、髪は乱れてパサついている。
約十年ほとんど家から出ずにいたし、婚約者のある身だったので男性経験は皆無だ。
手練手管は大衆小説の類いでしか目にしたことがない。

驚きつつも首をかしげた。こんな女を娼婦に?

「私に務まりますかしら」

その口調に嫌悪が無いのを聞き取った男性が破顔した。

「それは前向きに考えてくれているということかな?」

「いいえ」

大袈裟に肩を落とされソフィアはクスリと笑った。

「どうしても修道女になりたいのかい」

「ええ」

「理由を聞いても?」

「いいえ」

やがて教会についた。
すでに夜の礼拝が始まっているらしく、扉は閉じられていた。けれどもそこには先程と同じ修道女が燭台を捧げ持ち、訪れた人々と言葉を交わしている。

「こちらはお返しします」

受け取ったカードを返そうとしたら、男性は首を振って一歩下がった。

「僕はスタンフォード・ガレ。気が変わったらいつでも訪ねておいで。僕の名前を出してそれを見せればすぐに中へ通すよう取りはからっておく。お嬢さん、きみの名前は?」

「わかりません」

「わからない?」

ソフィアはすまなそうに微笑んだ。

「今ある名は捨てますから。ではごきげんよう」




 ※ ※ ※



教会はソフィアを受け入れてくれた。

すぐに応接間らしき小部屋に通され三人の修道女によって質疑応答がなされた。

名前や素性については正直に「明かせない」と話したら三人は目を見交わし潜めた声で何かやりとりをしていた。
が、所持金の30サファイアはすべて教会に寄付すると言ったらすぐに修道女会への入会を許可してくれた。

けれどその後の説明でソフィアは戸惑った。

まず半年から一年は神の教えについて学び、修道女としての生活に慣れるため「修練期」という期間を過ごさなければならないという。

それを経て周囲に一人前と認められてはじめて修道女を名乗れるらしい。

( 半年から一年…。思ったより長いわ。今すぐにでもエルムガンド帝国へ行きたいくらいなのに )

所持金はすでに渡してしまった。いまさら返してとは言いにくい。

修道女になるのは帝国へ入国してからにすればよかっただろうか。

しかし国境の関門を通るときに別の身分が必要だった。24時間開いていても検閲は受けなければならないのだから。

( 焦ってはダメ。ソフィアは死んだものと思われているはずだからきっと大丈夫 )

そう考える一方で、馬車の御者や森に捨て置いた棺、取り外した馬車の荷台の存在がソフィアを怯えさせていた。

( いえやっぱり、焦るくらいでちょうど良いのかも…… )

向かいの席の三人をちらりと見て悩みに悩んだ。
そして言った。

「やはり辞退させていただきます……」






真夜中の街をひとり歩いた。


もう日付が変わるころだろうか。
酒場や芝居小屋の喧騒に目をやり、ソフィアは計画性のない己に失望していた。

辞退すると申し出たときの三人の顔が脳裏に焼き付いて離れない。
その目は口にしたことも守れないのかと、責任感はないのかとソフィアの浅はかさを厳しく糾弾していた。

大陪審の被告人席にいたときよりいたたまれなかった。

あの時は誰もソフィアの言い分を信じなかったため、結末が端から決まっているのはわかっていた。
だからどこか他人事のような感覚でいた。ただただすべてを諦めていた。



結局あの30サファイアも返してと言えず、今晩一晩泊めて欲しいとも言えず、逃げるように教会をあとにした。

手元にあるのはこの身一つ。そして──


ソフィアはドレスのポケットからカードを取り出した。
表には娼館の名前、裏には簡単な地図が記されている。

それらをたよりにたどり着いたのは立派な門構えの洋館だった。門の両脇には屈強な男性が立っており、足を止めたソフィアを高い位置から見下ろしている。

この手の中のカードに気づいたのか、ひとりが歩み寄ってきた。

「当館の招待状カードをお持ちですね。それを渡した者の名は?」

「……ミスター・ガレです」

「お嬢さんのお名前は」

「……ィア」

「え?」

「名捨ての30サファイアと申します」

あっけにとられたような相手に頷いて見せた。

「そう言っていただければきっと伝わります」




実際、伝わったようだった。

すぐに通された応接間らしき部屋は、教会のものの数十倍は立派な空間だった。
派手さはないが落ち着いた趣が高級感となって部屋の空気を引き締めている。

[土ぼこりで汚れたドレスで腰かけるには申し訳ないソファ]の横で立ちすくんでいると、ノックもなしにドアが開いた。

走ってきたのか少し息の乱れたあの時の男性──ミスター・ガレが、ひたとこちらを見据え足早に歩み寄ってくる。

「あの、私──」と言いかけた言葉は最後まで続けられなかった。


気がつくと力強く抱き締められていた──







































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