嵌められた侯爵令嬢

アクアマリン

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第二章 売られた元令嬢

暗い海の上

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真っ暗な海の上を一艘の船が進んでいく。
マスト一本だけのシンプルな木造の船は、左右に六本ずつあるオールを動かすことで動いている。
そのひとつひとつに屈強な男たちが配置され、号令に合わせてぴったり息の合った動きで力強くオールを漕ぐのを、ソフィアはぼんやりと見つめていた。


なぜこんなことになったのか。


同じように連れ去られてきた女性たちと身を寄せ合い、ソフィアはここ数日の出来事を必死で思い返していた。






  ※ ※ ※





あの日。
修道院から出て行く宛のないソフィアはポケットのカードを頼りにガレの娼館を訪れた。

そこでマーゴという女性を紹介され彼女に手厚く介抱された。
疲れきった体を清めてもらい、髪を乾かし食事をとった。そして一緒のベッドでともに眠った。
それが彼女の務めだという。他人の心と体を癒すのだと。

一緒に眠るだけでなにが癒しになるのかよくわからなかったが、とにかく疲れきっていたのでソフィアはすぐに眠りについた。

翌朝は驚くほどの回復を果たした。
マーゴの見立てより早く起き、ガレとともに食事の席についた。

そこで話の途中に『彼女』が入ってきたのだ。


黒い髪の巻き毛──


それを目にしたソフィアは席を立ち思わず義妹の名を口にしていた。「ルシーダ……」と。

けれどその呟きは入ってきた当の人物によってかき消された。


「おはようございますマスター。マーゴもおはよう。が入ってきたって耳にしたんだけど……彼女がそうかしら?」

呆然と立ちつくすソフィアを見つめ艶然と微笑むと、頭のてっぺんから爪先までをすばやく検分する。

黒髪巻き毛の美女だった。
ただし、ルシーダではなくもっと世慣れた大人の女だ。

盛り上がった美しい胸とくびれたウエストに細くのびた首と腕。
その見事な肢体に凝った刺繍の施されたローズレッドのドレスを纏っている。軽く胸を張り立つ姿は自信に満ち溢れ、ソフィアはわけもなく圧倒された。

「おはよう、ルーシェ。こちらは。天使ではなく僕の新しい個人秘書だ」

「個人秘書?」

「そう。エリザベスはマーゴの遠縁の娘でね。身寄りをなくして働き口を探しに昨夜こちらに来たばかりなんだよ」

そう言いながらガレは立ち上がり、ソフィアの肩をそっと押して椅子につかせた。

「この街や娼館についてはほとんど知識がないんだ。困っているようだったら手を貸してやってくれ」

「……天使ライバルにならないのね。ならいいわ。私にできることがあれば言ってちょうだい。お食事中に失礼」

そう言うとドレスの裾をひるがえし、颯爽と扉から出ていった。

「すまないね。彼女はうちのナンバーワンなんだが、なかなか激しい気性の持ち主で。けれどもあれでなかなか面倒見のいい面もあるんだ。困ったことがあったら力を貸してくれるというのは本当だよ」

「きっと何かと引き換えに、ですけどね」

マーゴが言うとガレは微笑んだ。

「それはそうさ。この世の中は等価交換でなりたっているんだよ? ただより怖いものはない。なあ、ジェイムズ」

「個人秘書とはどういうことでしょうか」

話をふられたジェイムズがソフィアの疑問を代弁した。

「だってこの子は行く宛もなければお金もないんだよ? 雇ってあげなきゃ死んじゃうじゃない」

「なぜ天使ではないのかと聞いているんです」

「できると思うかい、この子に」

男二人にじっと見つめられ、ソフィアは背もたれに体を押し付けた。

「仕込めばどうとでもなるのでは?」

「ジェイムズ、きみねえ……。まあいい。本人に確かめよう。エリザベス、きみはどうしたいんだい。天使として生きるか、僕の仕事の手伝いをするか」

「……個人秘書というお仕事は具体的にはどのようなことをするのですか。恥ずかしながら読み書き以外は簡単な繕い物しかできません」

「読み書きができればけっこう。計算は? できる? よし。きみには手紙の返信の代筆や書類の整理をしてもらいたい。これから繁忙期でね、机回りが大変なことになるのは目に見えているんだ」

「素性の知れない人間を雇うというのですか」

またジェイムズが難色を示したが、ガレは朗らかに笑った。

「どんな正体が隠されているっていうんだい、このお嬢さんに」

「探しているものがいるのでは? 国を早く出たいというのは追っ手を警戒してでしょう」

「そうさ、だから身を隠す場所が必要なんじゃないか。ねえ、エリザベス? 長居をする気はないんだろう?」

「……はい」

「もうすこし世の中のことを知りたいだろう?」

「はい」

「天使になる覚悟はないんだろう?」

ソフィアは困ったように首を縮めた。

「……はい。申し訳ありません」

「ならやっぱり僕の秘書になるしかないよね」

「またあなたはそういう厄介事を……」

まだぶつぶつと文句を続けたそうなジェイムズを片手で黙らせて、ガレはソフィアに言った。

「勝手に名前を決めて悪かったね。あの場で名前を問うわけにいかなくて」

「いいえ、名前も身分もとうに無くしました。なんと呼んでいただいてもかまいません」

淡々と答えるソフィアに痛ましげな顔をしたのはマーゴだけだ。ガレは満足そうに微笑み、ジェイムズは眉をひそめていて──










「さあ、お待ちかねの船が見えてきたぞ!」


突然の大声にソフィアはビクリと体をひきつらせた。

さっと周囲を見渡せばそこは暗い海の上で、船首から吊り下げたかがり火と空に浮かぶ満月だけが辺りを照らしている。

一瞬事態がのみこめなかった。
なぜこんなところに……と思い、そうだ自分は売られたのだと思い出した。

オールを漕ぐ男たちの声がいっそう大きくなり、怯える女性たちは耳を塞ぎすすり泣いている。

前方に三つのかがり火を吊り下げた大型の船が姿をあらわした。
そこが取引現場なのだろう。よくよく目を凝らすと四方から小型の船が吸い寄せられるように集まっている。

大型船に近寄ると長い縄梯子が下ろされてきた。
それを掴んだ男が端を船に固定するとソフィアたちを振り返った。

「今から手足の戒めを解く。一人ずつ上に上がってくるんだ。妙な真似はするなよ、ここまできたらもうどこにも逃げ場は無いんだからな」

そう念を押すと素早く縄梯子を上っていく。
その様子を見ていたソフィアは突然二の腕を捕まれ息をのんだ。
力任せに立ち上がらされる。

「さあ、立て。まずはお前からだ」

手足の拘束が解かれ安堵する間もないまま縄梯子へと押しやられた。

「はやく上れ! 次はお前だ」

すすり泣く女性に手を伸ばす男をぼうっと見ていると上から怒鳴り声が降ってきた。

「何をしてる! はやく来い!」

「さあ、行け!」

男たちに次々と命じられ、ソフィアは縄梯子をつかむ手に力を込めた───






















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