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52 守り刀

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王太子に「お前には手の届かない相手だ」と告げたルシウスだったが、自分こそ以前までは翡翠の存在は雲の上の女性であった。

マハ王族の女性は多産型で一人の王妃が十人近い王子王女を産むことも珍しくなかった。王位継承権を持つ王子がみんな死に絶えることなど、長い歴史上ほとんど起きてこなかった。どんなに翡翠に恋い焦がれようと、王弟の息子である自分が本来独身を貫く王の娘の配偶者になることなど、夢のまた夢であったのだ。

だが今は違う。自分は翡翠を幸せにできる。王太子よりずっと。

ルシウスははっとする。いまだに王太子と張り合おうとする意識が残っていることに嫌気がさす。

先ほど会ったばかりなのにもう翡翠に会いたい。泣かせてしまったがもう離せない。抱きしめた時の体温と匂いを忘れられない。この恋は後戻りはできないのだ。だがふと自分が犯した罪が心に影を落とす。

豪雨だったあの日。崖の淵に立つマハの王太子天藍てんらんにルシウスが何か告げる。見開かれる天藍の両目。不意打ちのように一気に天藍を切りつけるルシウス──

「あの世で私をうらんでいるだろうか……」

頭をふってルシウスは考えを打ち消す。今更私は何を後悔している。

「翡翠、早くお前と幸せになりたい」

そう苦しげに言ってルシウスは自身の両腕に顔をうずめた。


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翡翠は自室の文机の引き出しから、一振りの守り刀を取り出した。鞘に翡翠石とルビーが散りばめられた美しい細身の小刀である。

「兄上……」

翡翠は優しかった第一王子天藍のことを思い出していた。唯一の王女だった自分を妹としていつも守り、慈しんでくれた頼れる兄だった。この守り刀は7歳を迎え『翡翠』という名を父王より賜った祝いに天藍が自分にくれたものだった。

翡翠はこのままルシウスの妻となることを受け入れられなかった。王家のしきたりだと頭ではわかっていても、王太子のことが頭にチラついて辛くてたまらなかった。

鞘をすっと抜き、名工によく研がれた鋭利な刃をじっと見る。そのまま首に刃を当てようとしたとき──

『自分を守るために使うのだぞ』

天藍が守り刀を翡翠に渡す時に告げた言葉がよぎった。

「兄上、どうして死んでしまったのです──」

刃を取り落とし、翡翠は机に泣き崩れた。この心をどうしたらいいのだろう。王太子に会いたくてたまらない。連れ去って欲しいとさえ思う。だができない。数百万年もの伝統を持つ王家を守るためには。

「兄上、兄上……」

翡翠の涙が守り刀にいく粒も落ちた。


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深く暗い川の底に魚がたくさん群がっている。人のような影が横たわっている。空気の透明な膜がその者を包んでいる。目を閉じたままの黒髪の男だ。

魚が川面に浮かんでは口をぱくぱくし、潜っては男を覆う膜に口の中の空気を吐いている。

<兄上……兄上……>

ゆらゆらと降ってくる声。男は川の底で眠り続けている。
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