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1 平民の娘
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生きていると無様な思いをすることがある。
私にとってそれは、まさに今目の前で起こっていることだった。
一月後に婚礼を控えたある昼下がりのことだった。婚約者アダムスが屋敷に寄ると知らせがあり、私はメイド達にお茶の準備をさせていた。
「エバンジェリンお嬢様、久々にアダムス様にお会いできて嬉しいでしょうね」
「遠征から帰られてよかったこと」
メイドたちが私をチラ見しては微笑む様子に私は気恥ずかしさを隠せず頬を染めた。
「お嬢様、お髪が」
ほつれた髪を整えるためメイドがブラシを手に取った。私は絹糸のような漆黒の髪にアクアマリンの瞳を持っていた。メイドに髪をとかれながら、私は密かに胸をときめかせ愛しいアダムスの来訪を待っていた。
アダムスは私の初恋の人だった。8歳の頃、可愛がっていた小鳥が逃げたと屋敷の前で泣いていた私のために小鳥を探し出してくれた少年がアダムスだった。
のちに男爵家令息だと知り「お嬢様とは身分が釣り合わない」と言う者もいたが、それでも私はアダムスのことを忘れられずにいた。年頃になった今、そんなアダムスと結婚できることになり、私は夢のような幸福の中にいた。
「アダムス様の馬車が到着されました!」
執事の声に私もメイドたちも気持ちが高揚し思わず笑みがこぼれた。
遠征先に出向いていたアダムスと会うのは半年ぶりだった。婚約の顔合わせの会では緊張のあまり私は微笑むことも忘れてしまっていた。
今日はアダムス様とたくさんお話したいわ。
私の胸はますます高鳴っていった。
帰還したアダムスが屋敷に到着した時、ある女を従えていた。最初、アダムスが新しいメイドを荷物持ちに連れてきたのかと思い私は気にも留めなかった。
「話があるんだ」
私と一緒に応接間の椅子に腰を下ろしたアダムスが神妙な面持ちで話を切り出した。両手をテーブルの上で組み、何かに抗うようにその指にはぎゅっと力が入っていた。その姿に私はふと嫌な予感がした。
「一体どうしたのですか?仕事が忙しくて式の日取りを変えて欲しいとか……?」
招待状を送り直すのは大変だけど、お父様だったら何とかしてくれるはずだ。
「ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」
アダムスの口から想像もしていなかった言葉が飛び出した。一瞬、私はアダムスが何を言っているのか理解できなかった。
「え」
急に暗がりに入ったように目の前が暗くなっていく。
「白紙に戻したいんだ。君との婚約を。すまない」
アダムスは念押しのように再度言った。
すでに王家や名だたる貴族たち、大商人や教会の司教たちに式の招待状を発送済みだった。当日の婚礼衣装、飾る花や料理のメニューまで詳細に打ち合わせ手配済みになっていた。
聞き違いだと、そうに違いないと、心が否定した。私は頭の中身が固まったように反応できないままだった。
ガチャン!
メイドがテーブルに置こうとしたティーカップをひっくり返した。アダムスの話に仰天し取り落としたのだろう。
「も、申し訳ございませんっ!」
青くなってティーカップを片付けているメイドはまるでその時の私の動揺を表しているかのようだった。震える手でティーカップを盆に戻すメイドの様子を私はぼんやりと眺めていた。
「違約金も払う。一生かけて働いて。だからどうか承諾して欲しい。この子を放って置けないんだ」
”この子”に私の頭が反応した。
「この子、って……?」
考えるより先に口をついて出ていた。答えを聞きたくないと本能が叫んでいたけれど聞かずにはいられなかった。
「メアリというんだ。平民だけど僕の大切な幼馴染だ」
そう言ってアダムスが慈愛の目を向けた相手は私の目の前にいた。荷物持ちとばかり思っていた、アダムスの斜め後ろに立っている女。私のメイドが刃のように鋭い目でメアリを凝視しているのがわかった。
メアリと言われた女はおどおどと伏し目がちに一礼をした。私と変わらない年頃に見えるどこかはかなげな線の細い子だった。
私は視界がぐらつきそうになる。アダムスは断りもなく、破局の原因となった女を連れてきていた。
「出て行って!!」
私はたまらず立ち上がり、ふたりから顔を背けたまま叫んでいた。ふたりを直視できなかった。私はショックのあまり吐き気をもよおし、体がぐらついた。
「お嬢様!!」
メイドの悲鳴が響いた。だが同時に、平民の娘メアリも緊張に耐えきれず貧血をおこしたのか、ふらついていた。
「メアリ!!」
アダムスは躊躇なくメアリの元に駆け寄った。私ではなく彼女を選んだという事実が私の心を深く突き刺した。
メアリはアダムスにすんでのところで抱き止められ倒れずにいた。
一方、私はメイドの助けが間に合わず、床にへたり込み手をついていた。みじめだった。視界の隅にメアリと彼女を支えるアダムスの足元が見えて──
蒼白になってメイドが走り寄り私を抱き起こした。
騒ぎの音を心配して後から入室してきた執事が何事かと私の元に駆け寄ってきた。メイドが小声で執事に耳打ちした。驚きで執事の目が皿のように開かれた。執事は怒りを何とか抑えた声で、
「アダムス様、今日のところはお引き取りを」
と私の代わりに言ってくれた。アダムスはもう少し話を進めたいようだったが、私が決してふたりを見ようとしない姿を見て諦めたようだった。
アダムスはまだふらつき気味のメアリの背中にそっと手を添え、一緒に屋敷から出て行った。
「お嬢様という存在がありながら平民の娘を選ぶなど……なんと愚かしい……!」
執事が怒りを抑えきれずアダムスを罵倒した。私が生まれた頃から支えてくれている当家の執事がこんなにも怒りを露わにした姿を見たことなど一度もなかった。
アダムス様、どうして?
どうしてこんな仕打ちを……!?
自分でも気づかないうちに私の目から涙がこぼれ落ちた。メイドも一緒になって泣いていた。それほどの屈辱だった。
「旦那様に至急お伝えしなければ」
動けない私を抱いたまま執事が硬い声を出した。お父様とお母様は領地の視察で屋敷から離れていた。
「オースト家をないがしろにした事をアダムス様は必ず後悔なさるでしょう」
執事の予言めいた言葉にメイドが私の肩を抱く手に力を込めたのがわかった。
名門オースト侯爵家。王家からも尊重される私の家門はある特別な血筋だった。その後継である私をあっさりと捨てたアダムス。
彼は知らないだろう。この先、あがないきれないほどの代償を払う未来が待っていることを。
私にとってそれは、まさに今目の前で起こっていることだった。
一月後に婚礼を控えたある昼下がりのことだった。婚約者アダムスが屋敷に寄ると知らせがあり、私はメイド達にお茶の準備をさせていた。
「エバンジェリンお嬢様、久々にアダムス様にお会いできて嬉しいでしょうね」
「遠征から帰られてよかったこと」
メイドたちが私をチラ見しては微笑む様子に私は気恥ずかしさを隠せず頬を染めた。
「お嬢様、お髪が」
ほつれた髪を整えるためメイドがブラシを手に取った。私は絹糸のような漆黒の髪にアクアマリンの瞳を持っていた。メイドに髪をとかれながら、私は密かに胸をときめかせ愛しいアダムスの来訪を待っていた。
アダムスは私の初恋の人だった。8歳の頃、可愛がっていた小鳥が逃げたと屋敷の前で泣いていた私のために小鳥を探し出してくれた少年がアダムスだった。
のちに男爵家令息だと知り「お嬢様とは身分が釣り合わない」と言う者もいたが、それでも私はアダムスのことを忘れられずにいた。年頃になった今、そんなアダムスと結婚できることになり、私は夢のような幸福の中にいた。
「アダムス様の馬車が到着されました!」
執事の声に私もメイドたちも気持ちが高揚し思わず笑みがこぼれた。
遠征先に出向いていたアダムスと会うのは半年ぶりだった。婚約の顔合わせの会では緊張のあまり私は微笑むことも忘れてしまっていた。
今日はアダムス様とたくさんお話したいわ。
私の胸はますます高鳴っていった。
帰還したアダムスが屋敷に到着した時、ある女を従えていた。最初、アダムスが新しいメイドを荷物持ちに連れてきたのかと思い私は気にも留めなかった。
「話があるんだ」
私と一緒に応接間の椅子に腰を下ろしたアダムスが神妙な面持ちで話を切り出した。両手をテーブルの上で組み、何かに抗うようにその指にはぎゅっと力が入っていた。その姿に私はふと嫌な予感がした。
「一体どうしたのですか?仕事が忙しくて式の日取りを変えて欲しいとか……?」
招待状を送り直すのは大変だけど、お父様だったら何とかしてくれるはずだ。
「ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」
アダムスの口から想像もしていなかった言葉が飛び出した。一瞬、私はアダムスが何を言っているのか理解できなかった。
「え」
急に暗がりに入ったように目の前が暗くなっていく。
「白紙に戻したいんだ。君との婚約を。すまない」
アダムスは念押しのように再度言った。
すでに王家や名だたる貴族たち、大商人や教会の司教たちに式の招待状を発送済みだった。当日の婚礼衣装、飾る花や料理のメニューまで詳細に打ち合わせ手配済みになっていた。
聞き違いだと、そうに違いないと、心が否定した。私は頭の中身が固まったように反応できないままだった。
ガチャン!
メイドがテーブルに置こうとしたティーカップをひっくり返した。アダムスの話に仰天し取り落としたのだろう。
「も、申し訳ございませんっ!」
青くなってティーカップを片付けているメイドはまるでその時の私の動揺を表しているかのようだった。震える手でティーカップを盆に戻すメイドの様子を私はぼんやりと眺めていた。
「違約金も払う。一生かけて働いて。だからどうか承諾して欲しい。この子を放って置けないんだ」
”この子”に私の頭が反応した。
「この子、って……?」
考えるより先に口をついて出ていた。答えを聞きたくないと本能が叫んでいたけれど聞かずにはいられなかった。
「メアリというんだ。平民だけど僕の大切な幼馴染だ」
そう言ってアダムスが慈愛の目を向けた相手は私の目の前にいた。荷物持ちとばかり思っていた、アダムスの斜め後ろに立っている女。私のメイドが刃のように鋭い目でメアリを凝視しているのがわかった。
メアリと言われた女はおどおどと伏し目がちに一礼をした。私と変わらない年頃に見えるどこかはかなげな線の細い子だった。
私は視界がぐらつきそうになる。アダムスは断りもなく、破局の原因となった女を連れてきていた。
「出て行って!!」
私はたまらず立ち上がり、ふたりから顔を背けたまま叫んでいた。ふたりを直視できなかった。私はショックのあまり吐き気をもよおし、体がぐらついた。
「お嬢様!!」
メイドの悲鳴が響いた。だが同時に、平民の娘メアリも緊張に耐えきれず貧血をおこしたのか、ふらついていた。
「メアリ!!」
アダムスは躊躇なくメアリの元に駆け寄った。私ではなく彼女を選んだという事実が私の心を深く突き刺した。
メアリはアダムスにすんでのところで抱き止められ倒れずにいた。
一方、私はメイドの助けが間に合わず、床にへたり込み手をついていた。みじめだった。視界の隅にメアリと彼女を支えるアダムスの足元が見えて──
蒼白になってメイドが走り寄り私を抱き起こした。
騒ぎの音を心配して後から入室してきた執事が何事かと私の元に駆け寄ってきた。メイドが小声で執事に耳打ちした。驚きで執事の目が皿のように開かれた。執事は怒りを何とか抑えた声で、
「アダムス様、今日のところはお引き取りを」
と私の代わりに言ってくれた。アダムスはもう少し話を進めたいようだったが、私が決してふたりを見ようとしない姿を見て諦めたようだった。
アダムスはまだふらつき気味のメアリの背中にそっと手を添え、一緒に屋敷から出て行った。
「お嬢様という存在がありながら平民の娘を選ぶなど……なんと愚かしい……!」
執事が怒りを抑えきれずアダムスを罵倒した。私が生まれた頃から支えてくれている当家の執事がこんなにも怒りを露わにした姿を見たことなど一度もなかった。
アダムス様、どうして?
どうしてこんな仕打ちを……!?
自分でも気づかないうちに私の目から涙がこぼれ落ちた。メイドも一緒になって泣いていた。それほどの屈辱だった。
「旦那様に至急お伝えしなければ」
動けない私を抱いたまま執事が硬い声を出した。お父様とお母様は領地の視察で屋敷から離れていた。
「オースト家をないがしろにした事をアダムス様は必ず後悔なさるでしょう」
執事の予言めいた言葉にメイドが私の肩を抱く手に力を込めたのがわかった。
名門オースト侯爵家。王家からも尊重される私の家門はある特別な血筋だった。その後継である私をあっさりと捨てたアダムス。
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