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38 再びの湖
薄い寝巻きをまとっただけのアミアンは湖に来ていた。かつて、自分の人生が一度途絶えた、あの忌まわしき湖だ。
夜明け前の静寂に包まれた岸辺には、一隻のボートが所在なげに揺れている。アミアンは吸い寄せられるようにその舟に乗り込んだ。
ボートは意志を持っているかのように、音もなく湖の中央へと漂っていった。
アミアンは、青黒い水面が微笑み、誘うように口を開けて待っている錯覚に陥った。
この冷たい闇に身を投げれば、すべてを忘れられるのかしら……。
心の隙間に、死の精霊の囁きが入り込む。
”おいで──”
”早くおいでよ”
”楽になれるよ。さあ、こっちだよ──”
アミアンは操り人形のように立ち上がると、ボートの縁から足先を静かに差し出した。
とぷん。
小さな水音を置き去りにして、アミアンの身体は黒い湖面へと飲み込まれていった。
数刻前の王城。アミアンに発せられた無慈悲な王命を知らされたセドリックは、自室に引きこもり泣き明かしていた。ふと彼は何かの予感がしたのか、タンスの奥から一枚のハンカチを取り出した。
アミアンに関わる私物は見つかれば即座に没収されてしまうため、肌身離さず隠し持っていたものだ。そこにはカシム遺跡で見た幸せを呼ぶ花が、アミアンの手によって丹念に刺繍されている。
アミアン様……!
思い出す、アミアンとのかけがえのない日々。
やわらかい微笑み。
臆病だった自分を勇気づけてくれた言葉。
──嫌いだった自分を、変えてくれた人。
激しい憤りがセドリックに渦巻いた。
「こんなの、間違っている……!僕はいつも周りに遠慮して、望まぬ道を選んできた。でも、もう嫌だ!」
セドリックはハンカチを強く胸に抱きしめた。
「アミアン様は、一生に一度しか出会えない運命の人なんだ。僕は、僕の心に従う!」
その瞳に宿ったのは、かつての弱々しい王子のものではない、強い決意だった。
「殿下!こんなに早朝からどこへ行かれるのですか!」
回廊を走るセドリックを、護衛や従者たちが慌てて追う。外はまだ薄暗く、夜明けにはまだ時間があった。
「視察だ!視察なら文句はないだろう!?すぐに馬車を出せ!!」
命じる声が周囲を圧倒する覇気を放った。
「は、はっ!急ぎ馬車を用意せよ!」
そう言われれば従うしかない。飛び上がるように護衛たちはセドリックに従った。
馬車に乗り込む直前、セドリックは護衛に気づかれないように御者の耳元で密かに囁いた。
「……え!」
叩き起こされ眠い目を擦っていた御者が、驚きのあまり目を見開いた。セドリックは鋭い目配せを送る。ごくり、と唾を飲み込み、御者は小さくうなずいた。
馬車が出発してしばらく経った頃だった。
「……待て。視察にしては方向が……」
護衛たちが異変に気づいたのは、街道の半ばだった。セドリックの馬車は、禁忌を犯してまでブラックウッド大公領へと突き進んでいたのだ。
「殿下!なりません、こちらは!殿下!」
馬で並走する護衛が何度も咎めるように叫んだが、セドリックは前だけを見据え、微動だにしなかった。
「お嬢様! どちらにいらっしゃるのですか!」
その頃、大公家は大変な騒ぎになっていた。朝、侍女が部屋を訪れたとき、アミアンの姿が忽然と消えていたのだ。
「屋敷のどこにもお姿がありません!」
「まさか……まさか、お嬢様……」
ハンナの脳裏を不吉な予感がかすめる。その時、外から叫び声が響いた。
「セ、セドリック殿下がご到着です!!」
「え!殿下が!?」
ハンナは顔色を変えて表に出た。
「アミアン様はどこだ!」
馬車から飛び出してきたセドリックは、ハンナのもとへ駆け寄った。
「殿下! 実は今朝からお姿が消えてしまったのです」
「何だって!?」
絶望に顔を歪めるハンナの目にみるみる涙が溜まった。
「王命にひどく打ちのめされていらっしゃいました。もし、どこにもいないとすれば……アミアン様の第二の人生が始まった、あの湖へ向かわれたのかも……」
湖!?
セドリックはゾワっと恐ろしい予感に襲われた。
「すぐに案内してくれ!」
湖に辿り着いた一行は辺りを見回した。湖にあったのは、主を失い、不自然に湖心で揺れる空っぽのボートだった。
もしかしてアミアン様は──
中央を漂うボートにセドリックの直感が警報を鳴らした。
きっとあそこにいる!
セドリックは迷うことなく上着を脱ぎ捨て、水面へと躍り出た。
「殿下、お待ちを!」
「まさかアミアン様が水の中に!?」
「殿下に続けーー!」
護衛たちも続けて湖に飛び込んだ。
「どうかお願い。アミアン様を見つけて……!」
ハンナは組んだ手を唇に寄せ、一心に祈り続けた。
夜明け前の静寂に包まれた岸辺には、一隻のボートが所在なげに揺れている。アミアンは吸い寄せられるようにその舟に乗り込んだ。
ボートは意志を持っているかのように、音もなく湖の中央へと漂っていった。
アミアンは、青黒い水面が微笑み、誘うように口を開けて待っている錯覚に陥った。
この冷たい闇に身を投げれば、すべてを忘れられるのかしら……。
心の隙間に、死の精霊の囁きが入り込む。
”おいで──”
”早くおいでよ”
”楽になれるよ。さあ、こっちだよ──”
アミアンは操り人形のように立ち上がると、ボートの縁から足先を静かに差し出した。
とぷん。
小さな水音を置き去りにして、アミアンの身体は黒い湖面へと飲み込まれていった。
数刻前の王城。アミアンに発せられた無慈悲な王命を知らされたセドリックは、自室に引きこもり泣き明かしていた。ふと彼は何かの予感がしたのか、タンスの奥から一枚のハンカチを取り出した。
アミアンに関わる私物は見つかれば即座に没収されてしまうため、肌身離さず隠し持っていたものだ。そこにはカシム遺跡で見た幸せを呼ぶ花が、アミアンの手によって丹念に刺繍されている。
アミアン様……!
思い出す、アミアンとのかけがえのない日々。
やわらかい微笑み。
臆病だった自分を勇気づけてくれた言葉。
──嫌いだった自分を、変えてくれた人。
激しい憤りがセドリックに渦巻いた。
「こんなの、間違っている……!僕はいつも周りに遠慮して、望まぬ道を選んできた。でも、もう嫌だ!」
セドリックはハンカチを強く胸に抱きしめた。
「アミアン様は、一生に一度しか出会えない運命の人なんだ。僕は、僕の心に従う!」
その瞳に宿ったのは、かつての弱々しい王子のものではない、強い決意だった。
「殿下!こんなに早朝からどこへ行かれるのですか!」
回廊を走るセドリックを、護衛や従者たちが慌てて追う。外はまだ薄暗く、夜明けにはまだ時間があった。
「視察だ!視察なら文句はないだろう!?すぐに馬車を出せ!!」
命じる声が周囲を圧倒する覇気を放った。
「は、はっ!急ぎ馬車を用意せよ!」
そう言われれば従うしかない。飛び上がるように護衛たちはセドリックに従った。
馬車に乗り込む直前、セドリックは護衛に気づかれないように御者の耳元で密かに囁いた。
「……え!」
叩き起こされ眠い目を擦っていた御者が、驚きのあまり目を見開いた。セドリックは鋭い目配せを送る。ごくり、と唾を飲み込み、御者は小さくうなずいた。
馬車が出発してしばらく経った頃だった。
「……待て。視察にしては方向が……」
護衛たちが異変に気づいたのは、街道の半ばだった。セドリックの馬車は、禁忌を犯してまでブラックウッド大公領へと突き進んでいたのだ。
「殿下!なりません、こちらは!殿下!」
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「屋敷のどこにもお姿がありません!」
「まさか……まさか、お嬢様……」
ハンナの脳裏を不吉な予感がかすめる。その時、外から叫び声が響いた。
「セ、セドリック殿下がご到着です!!」
「え!殿下が!?」
ハンナは顔色を変えて表に出た。
「アミアン様はどこだ!」
馬車から飛び出してきたセドリックは、ハンナのもとへ駆け寄った。
「殿下! 実は今朝からお姿が消えてしまったのです」
「何だって!?」
絶望に顔を歪めるハンナの目にみるみる涙が溜まった。
「王命にひどく打ちのめされていらっしゃいました。もし、どこにもいないとすれば……アミアン様の第二の人生が始まった、あの湖へ向かわれたのかも……」
湖!?
セドリックはゾワっと恐ろしい予感に襲われた。
「すぐに案内してくれ!」
湖に辿り着いた一行は辺りを見回した。湖にあったのは、主を失い、不自然に湖心で揺れる空っぽのボートだった。
もしかしてアミアン様は──
中央を漂うボートにセドリックの直感が警報を鳴らした。
きっとあそこにいる!
セドリックは迷うことなく上着を脱ぎ捨て、水面へと躍り出た。
「殿下、お待ちを!」
「まさかアミアン様が水の中に!?」
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