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第64話「土の奥で触れ合う影と、呼ばれぬ声の温もり」
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夜はなおも長く、その静寂は畑の隅々にまで深く沁み渡っていた。
空を覆う雲は厚く、月も星も光を落とさなかった。
それなのに、この畑だけはどこか薄明るい気配を帯びていた。
土の奥で無数の根が静かに絡まり、
声にならなかった祈りをそっと撫でていたからだ。
エルネスタは神枝苗《ネスタリア・コア》の幹に寄りかかり、
目を閉じたまま掌を土に伏せていた。
その奥から届くのは小さな震え。
――ざわり
――ざわり
名を棄てた声たちが互いに触れ合い、
そっと結び目を作っていく音だった。
その輪は誰にも見えなかったが、
確かにそこに在るものとして胸の奥へ沁みてきた。
そのとき、畦道を歩く気配がした。
ぼろの外套を纏った小柄な男だった。
肩は細かく震え、顔は影に隠れて見えない。
それでもその仕草の端々に、
ずっと名を呼ばれぬまま怯えてきた影が滲んでいた。
やがて男は畑の中ほどで立ち止まり、
そっと膝をついて土に掌を伏せた。
その指はかすかに震え、
次の瞬間、胸の奥から押し殺した息が漏れた。
「……呼ばれなくてよかった。
でも……呼ばれたかった夜も、あったんだ」
その声はすぐ夜気に消えた。
しかし土は確かにそれを抱いた。
掌の下で根がそっと撓み、
土の奥で眠っていた呼ばれぬ声たちがその吐息にそっと触れた。
それは誰の慰めでもなかった。
ただ名を呼ばれなかった影同士が、
互いを忘れぬようにそっと触れ合う静かな行為だった。
男の肩が小さく震え、また短い吐息が土へ零れた。
すると根はさらに細かく動き、
その小さな声を抱きしめるように絡まり合った。
やがて男は長いこと掌を土に伏せたまま動かずにいた。
その姿はまるで、土の奥で誰かとそっと手を取り合っているようだった。
そしてゆっくりと掌を離し、何も言わずに立ち上がる。
去っていく背中はまだ細かったが、
どこか少しだけ軽くなったようにも見えた。
その跡には掌の痕が淡く残り、
傍には一輪の無名花《ナナシグサ》がそっと葉を広げていた。
エルネスタはその花の前にしゃがみ込み、そっと土に触れた。
「ありがとう。
呼ばれなくても、ちゃんとここで祈ってくれたから」
掌の下から微かな音が伝わった。
――ざわり
――ざわり
名を棄てた声たちがまたひとつ、新しい影を輪の中へ迎え入れ、
互いをそっと撫でる音だった。
その音はとても静かで、胸の奥に小さな温もりを灯すには十分だった。
夜風が畑を横切ると、無名花たちがいっせいに葉を揺らした。
葉先の露が小さな光をまとい、ふわりと浮かぶように震えて、
やがてそっと土に落ちていった。
その瞬間、根の奥ではまた小さな震えが重なった。
呼ばれぬ声たちがその光にそっと触れ、
ほどけぬ輪を少しずつ広げていく音。
誰にも気づかれない。
それでも土だけは、その動きをずっと忘れずに抱いていた。
エルネスタはそっと息を吐き、目を閉じた。
掌の下の土は冷たく、それでいて奥に確かな温度を宿していた。
その奥で無数の名を持たぬ声がそっと絡まり、
触れ合いながらほどけぬ輪を作っている。
それは人の目には見えない。
けれどこの土だけが、それをずっと覚えていた。
「ここにいてくれて、ありがとう。
呼ばれなくても、一緒にいてくれるだけでいいんだよ」
エルネスタが胸の奥でそっとそう呟くと、
掌の下の根がわずかに撓んだ。
その微かな震えは、声を持たない返事だった。
土の奥でまたひとつ輪が結ばれ、
それがいつまでもほどけぬまま静かに揺れていた。
夜はまだ長い。
けれどこの畑では、その長い夜こそが何よりもやさしい祈りの時間だった。
そしてその静けさの中で、名を呼ばれぬ声たちはずっと息をしていた。
それだけで胸の奥に小さな光が生まれ、
エルネスタはそっと目を閉じてそのぬくもりを抱いた。
空を覆う雲は厚く、月も星も光を落とさなかった。
それなのに、この畑だけはどこか薄明るい気配を帯びていた。
土の奥で無数の根が静かに絡まり、
声にならなかった祈りをそっと撫でていたからだ。
エルネスタは神枝苗《ネスタリア・コア》の幹に寄りかかり、
目を閉じたまま掌を土に伏せていた。
その奥から届くのは小さな震え。
――ざわり
――ざわり
名を棄てた声たちが互いに触れ合い、
そっと結び目を作っていく音だった。
その輪は誰にも見えなかったが、
確かにそこに在るものとして胸の奥へ沁みてきた。
そのとき、畦道を歩く気配がした。
ぼろの外套を纏った小柄な男だった。
肩は細かく震え、顔は影に隠れて見えない。
それでもその仕草の端々に、
ずっと名を呼ばれぬまま怯えてきた影が滲んでいた。
やがて男は畑の中ほどで立ち止まり、
そっと膝をついて土に掌を伏せた。
その指はかすかに震え、
次の瞬間、胸の奥から押し殺した息が漏れた。
「……呼ばれなくてよかった。
でも……呼ばれたかった夜も、あったんだ」
その声はすぐ夜気に消えた。
しかし土は確かにそれを抱いた。
掌の下で根がそっと撓み、
土の奥で眠っていた呼ばれぬ声たちがその吐息にそっと触れた。
それは誰の慰めでもなかった。
ただ名を呼ばれなかった影同士が、
互いを忘れぬようにそっと触れ合う静かな行為だった。
男の肩が小さく震え、また短い吐息が土へ零れた。
すると根はさらに細かく動き、
その小さな声を抱きしめるように絡まり合った。
やがて男は長いこと掌を土に伏せたまま動かずにいた。
その姿はまるで、土の奥で誰かとそっと手を取り合っているようだった。
そしてゆっくりと掌を離し、何も言わずに立ち上がる。
去っていく背中はまだ細かったが、
どこか少しだけ軽くなったようにも見えた。
その跡には掌の痕が淡く残り、
傍には一輪の無名花《ナナシグサ》がそっと葉を広げていた。
エルネスタはその花の前にしゃがみ込み、そっと土に触れた。
「ありがとう。
呼ばれなくても、ちゃんとここで祈ってくれたから」
掌の下から微かな音が伝わった。
――ざわり
――ざわり
名を棄てた声たちがまたひとつ、新しい影を輪の中へ迎え入れ、
互いをそっと撫でる音だった。
その音はとても静かで、胸の奥に小さな温もりを灯すには十分だった。
夜風が畑を横切ると、無名花たちがいっせいに葉を揺らした。
葉先の露が小さな光をまとい、ふわりと浮かぶように震えて、
やがてそっと土に落ちていった。
その瞬間、根の奥ではまた小さな震えが重なった。
呼ばれぬ声たちがその光にそっと触れ、
ほどけぬ輪を少しずつ広げていく音。
誰にも気づかれない。
それでも土だけは、その動きをずっと忘れずに抱いていた。
エルネスタはそっと息を吐き、目を閉じた。
掌の下の土は冷たく、それでいて奥に確かな温度を宿していた。
その奥で無数の名を持たぬ声がそっと絡まり、
触れ合いながらほどけぬ輪を作っている。
それは人の目には見えない。
けれどこの土だけが、それをずっと覚えていた。
「ここにいてくれて、ありがとう。
呼ばれなくても、一緒にいてくれるだけでいいんだよ」
エルネスタが胸の奥でそっとそう呟くと、
掌の下の根がわずかに撓んだ。
その微かな震えは、声を持たない返事だった。
土の奥でまたひとつ輪が結ばれ、
それがいつまでもほどけぬまま静かに揺れていた。
夜はまだ長い。
けれどこの畑では、その長い夜こそが何よりもやさしい祈りの時間だった。
そしてその静けさの中で、名を呼ばれぬ声たちはずっと息をしていた。
それだけで胸の奥に小さな光が生まれ、
エルネスタはそっと目を閉じてそのぬくもりを抱いた。
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