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新章・王宮編
第61話:春告げの花、心に芽吹く痛み
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春を運ぶ南風が王都を包み込み、街路の樹々には小さな蕾が芽吹き始めていた。
暖かな陽射しは、石造りの屋敷にもやわらかく降り注いでいる。
リューデル邸の庭園では、白いクロッカスが冬の終わりを告げるように咲き揃っていた。
(季節がまたひとつ巡った)
ゼフィリアは庭の小径に立ち、その花をじっと見つめた。
昨年の今頃は、まだ自分が王妃候補に選ばれるなど思いもしなかった。
そしてその肩に、これほど多くの視線と責任が降りかかることも。
それでも――ここまで来られた。
(私は殿下を選び、この国を選んだ)
けれど、そのことを思うたびに胸の奥が小さく疼いた。
自分がまだ言えないでいる想いのせいだと、分かっていた。
◇ ◇ ◇
「ゼフィリア様、お客様が」
庭園に戻ろうとしていたゼフィリアの前に、侍女が恭しく頭を下げる。
「どなたが?」
「はい……アレクシス殿が、先ほどより応接間でお待ちです」
その名を聞いただけで胸が跳ねた。
ゼフィリアは少しだけ深呼吸をしてから、邸の中へと戻る。
◇ ◇ ◇
応接間に入ると、そこには黒の軍装を纏ったアレクシスがいた。
長い足を組み、軽く顎に手を添えて考え事をしていたが、ゼフィリアが入ると同時に目を上げた。
「遅かったな」
「申し訳ありません。庭を見ておりまして……」
「見ていた?花を?」
「はい。白いクロッカスが咲いていて……なんとなく、父を思い出したのです」
小さく言うと、アレクシスの目がほんの少しだけ柔らかくなった。
「お前の父上は立派な方だった。
今でも騎士たちの間で話題に上る。――その娘がこれだけの責任を担うとはな」
「父が聞いたら、きっと笑います」
「……そうかもしれん」
そこで言葉を切り、アレクシスはふっと息を吐いた。
「それで、今日は何のご用件でしょうか?」
「……別に用件などない」
「え?」
「お前の顔を見に来ただけだ」
短く投げるような言葉。それなのにゼフィリアの胸は一気に熱を持った。
◇ ◇ ◇
「……私は今、殿下の隣にいる身です。
こうしてアレクシス様が気軽に来られるのは、あまり――」
「分かっている。だから、ただ少しだけお前の顔を見て帰るつもりだった」
そう言って立ち上がろうとしたその腕を、ゼフィリアは無意識に掴んでいた。
「……ゼフィリア?」
「少しだけ、ここにいてください」
自分でも驚くほど小さな声だった。
けれどアレクシスは黙って再び腰を下ろし、ゼフィリアの手をそっと自分の大きな手で包んだ。
「震えている」
「……そうですね」
「何を怖がっている?」
「私が選んだ未来です。
それは確かに私が望んだ道なのに――時々、まだ自分がそれに見合わないのではないかと……」
「馬鹿を言うな」
その低い声に、ゼフィリアは思わず顔を上げる。
「お前ほど誠実に選び取った者を、俺は知らない。
自分のために選び、国のために選び、それでなお周りを気遣う。――それが出来るのは、お前だけだ」
「アレクシス様……」
「だから、お前はお前のままでいろ」
そしてそのまま、そっと額に自分の額を寄せてきた。
微かに触れ合うだけの距離なのに、身体の奥が熱くなる。
(伝えたい)
そう思った。
けれどまだ、その言葉は胸の奥に沈んだままだった。
◇ ◇ ◇
アレクシスが帰ったあと、ゼフィリアは窓辺に立ち尽くしていた。
胸に手を当てると、そこがまだずっと疼いている。
(私はいつになったら……)
この想いをきちんと言葉に出来るのだろう。
選んだ未来が間違っていないと信じているのに、心はそれだけでは納得してくれなかった。
◇ ◇ ◇
数日後。
王宮の執務室で、ゼフィリアは王太子エリオンと新たな行政改革の草案について話していた。
「君の意見は正しい。だが、それを実行に移すには時間がかかる」
「分かっています。……でも、それでも一歩ずつ進めたいのです」
「やはり君は、私にはない視点を持っている」
そう言ってエリオンは、微かに笑った。
「ゼフィリア。君と一緒なら、この国はきっと変わる」
その言葉が嬉しくないはずがなかった。
選んだ未来を肯定されるのは、何より救いだった。
けれど胸の奥には、それとは別の痛みがまた芽吹く。
(私の心は……)
まだはっきりと言葉にはならない。
それでも、もう逃げるわけにはいかなかった。
◇ ◇ ◇
夜、リューデル邸。
寝台の上で、ゼフィリアはそっと瞳を閉じる。
(いつか必ず)
この心に咲いてしまった痛みを、ちゃんと愛として伝えよう。
それが例え誰かを傷つけるとしても――
偽らない自分でいるために。
(私の未来は、もう選んだ。次は……)
そっと唇が動く。
けれどその名前はまだ、声にはならず夜に溶けていった。
胸の奥で芽吹いた痛みが、小さく脈を打っていた。
暖かな陽射しは、石造りの屋敷にもやわらかく降り注いでいる。
リューデル邸の庭園では、白いクロッカスが冬の終わりを告げるように咲き揃っていた。
(季節がまたひとつ巡った)
ゼフィリアは庭の小径に立ち、その花をじっと見つめた。
昨年の今頃は、まだ自分が王妃候補に選ばれるなど思いもしなかった。
そしてその肩に、これほど多くの視線と責任が降りかかることも。
それでも――ここまで来られた。
(私は殿下を選び、この国を選んだ)
けれど、そのことを思うたびに胸の奥が小さく疼いた。
自分がまだ言えないでいる想いのせいだと、分かっていた。
◇ ◇ ◇
「ゼフィリア様、お客様が」
庭園に戻ろうとしていたゼフィリアの前に、侍女が恭しく頭を下げる。
「どなたが?」
「はい……アレクシス殿が、先ほどより応接間でお待ちです」
その名を聞いただけで胸が跳ねた。
ゼフィリアは少しだけ深呼吸をしてから、邸の中へと戻る。
◇ ◇ ◇
応接間に入ると、そこには黒の軍装を纏ったアレクシスがいた。
長い足を組み、軽く顎に手を添えて考え事をしていたが、ゼフィリアが入ると同時に目を上げた。
「遅かったな」
「申し訳ありません。庭を見ておりまして……」
「見ていた?花を?」
「はい。白いクロッカスが咲いていて……なんとなく、父を思い出したのです」
小さく言うと、アレクシスの目がほんの少しだけ柔らかくなった。
「お前の父上は立派な方だった。
今でも騎士たちの間で話題に上る。――その娘がこれだけの責任を担うとはな」
「父が聞いたら、きっと笑います」
「……そうかもしれん」
そこで言葉を切り、アレクシスはふっと息を吐いた。
「それで、今日は何のご用件でしょうか?」
「……別に用件などない」
「え?」
「お前の顔を見に来ただけだ」
短く投げるような言葉。それなのにゼフィリアの胸は一気に熱を持った。
◇ ◇ ◇
「……私は今、殿下の隣にいる身です。
こうしてアレクシス様が気軽に来られるのは、あまり――」
「分かっている。だから、ただ少しだけお前の顔を見て帰るつもりだった」
そう言って立ち上がろうとしたその腕を、ゼフィリアは無意識に掴んでいた。
「……ゼフィリア?」
「少しだけ、ここにいてください」
自分でも驚くほど小さな声だった。
けれどアレクシスは黙って再び腰を下ろし、ゼフィリアの手をそっと自分の大きな手で包んだ。
「震えている」
「……そうですね」
「何を怖がっている?」
「私が選んだ未来です。
それは確かに私が望んだ道なのに――時々、まだ自分がそれに見合わないのではないかと……」
「馬鹿を言うな」
その低い声に、ゼフィリアは思わず顔を上げる。
「お前ほど誠実に選び取った者を、俺は知らない。
自分のために選び、国のために選び、それでなお周りを気遣う。――それが出来るのは、お前だけだ」
「アレクシス様……」
「だから、お前はお前のままでいろ」
そしてそのまま、そっと額に自分の額を寄せてきた。
微かに触れ合うだけの距離なのに、身体の奥が熱くなる。
(伝えたい)
そう思った。
けれどまだ、その言葉は胸の奥に沈んだままだった。
◇ ◇ ◇
アレクシスが帰ったあと、ゼフィリアは窓辺に立ち尽くしていた。
胸に手を当てると、そこがまだずっと疼いている。
(私はいつになったら……)
この想いをきちんと言葉に出来るのだろう。
選んだ未来が間違っていないと信じているのに、心はそれだけでは納得してくれなかった。
◇ ◇ ◇
数日後。
王宮の執務室で、ゼフィリアは王太子エリオンと新たな行政改革の草案について話していた。
「君の意見は正しい。だが、それを実行に移すには時間がかかる」
「分かっています。……でも、それでも一歩ずつ進めたいのです」
「やはり君は、私にはない視点を持っている」
そう言ってエリオンは、微かに笑った。
「ゼフィリア。君と一緒なら、この国はきっと変わる」
その言葉が嬉しくないはずがなかった。
選んだ未来を肯定されるのは、何より救いだった。
けれど胸の奥には、それとは別の痛みがまた芽吹く。
(私の心は……)
まだはっきりと言葉にはならない。
それでも、もう逃げるわけにはいかなかった。
◇ ◇ ◇
夜、リューデル邸。
寝台の上で、ゼフィリアはそっと瞳を閉じる。
(いつか必ず)
この心に咲いてしまった痛みを、ちゃんと愛として伝えよう。
それが例え誰かを傷つけるとしても――
偽らない自分でいるために。
(私の未来は、もう選んだ。次は……)
そっと唇が動く。
けれどその名前はまだ、声にはならず夜に溶けていった。
胸の奥で芽吹いた痛みが、小さく脈を打っていた。
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