『初恋令嬢は鈍感すぎて、王太子・騎士団長・学園貴公子の胃を壊す』

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新章・王宮編

第80話:選んだ痛みを抱きしめて、これからも

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 王都の夜は、いつもより少しだけ静かだった。

 それは祭のない夜だったからかもしれないし、ただ涼しい風が街を落ち着かせているだけかもしれない。

 ゼフィリアは寝室の窓を開け放ち、そっと頬に夜気を受けていた。

(私がこの王都を愛せるのは、この街に殿下がいて、あの人がいるから)

 それは一見して矛盾しているようで、今のゼフィリアにとっては確かな真実だった。

(痛い。今も胸が痛む)

 それは罪でもなく、苦しみでもない。
 誰かを選び、誰かを愛し、その上で未来を歩くと決めた自分だけの証だった。

     ◇ ◇ ◇

 翌日。

 ゼフィリアは王宮の執務室で、新しく纏まった財政計画書に目を通していた。

 遠くの地方へ送る新たな教育支援の費用配分、その細かな調整。
 この国の未来をほんの少し先まで延ばすために、彼女は今日も数字とにらめっこを続ける。

(殿下と進める改革が、この国に根を張っていく)

 それはとても嬉しいことだった。

 そして同時に、この国を選んだ自分がアレクシスを愛したままであることも、もはや否定できない事実だった。

     ◇ ◇ ◇

 「ゼフィリア」

 声に顔を上げると、いつものようにエリオンがそこにいた。

「殿下……。お疲れではありませんか?」

「疲れているのは君だろう」

 そう言って、書類の向こうからゼフィリアの手を取った。

 温かい。

 でもその温かさがまた胸を刺した。

「君はまだ痛むのか?」

 問われ、ゼフィリアは少しだけ目を伏せた。

「はい……。でも、それでいいんです」

「……そうか」

 その短い返事の奥に、確かな理解があった。

「私も痛みを抱えているよ、ゼフィリア。
 君が誰かを想ったまま私の隣に立っていることは、私にとっても痛い」

「殿下……」

「でも、それが君だ。だから痛みごと君を信じる」

 涙が零れそうになった。

(この人はいつだって私を受け入れてくれる)

 だからこそ、この人の未来を選んだのだ。

「ありがとうございます。私はこれからも殿下の隣に立ちます。
 痛みを抱えたまま、ずっと」

「それでいい」

 静かに微笑むその顔を見て、胸が熱くなった。

     ◇ ◇ ◇

 夜、リューデル邸。

 ゼフィリアは庭園を歩いていた。

 季節はすっかり秋の入り口で、白い花はもうほとんど姿を消し、代わりに赤い葉が地面を染めていた。

(私はこの痛みをどうすることもできない。
 でもそれを抱えて、これからも生きていく)

 そう決めたから。

     ◇ ◇ ◇

 「泣いていないか」

 低い声。

 振り返れば、そこにいるのはいつもの人だった。

「……アレクシス様」

「最近泣かないな」

「泣かないと決めました。殿下の隣に立つ私が、泣いてばかりでは駄目だから」

「馬鹿だな」

 そう言って小さく息を吐き、アレクシスはゼフィリアの髪に触れた。

「泣くなと言ったことは一度もない。泣きたいなら泣け。泣き終わったらまた殿下の未来を歩け」

「……はい」

 その言葉が嬉しくて、同時に苦しくて、視界が滲んだ。

(結局、泣き虫なまま)

 それでもいいと思えた。

     ◇ ◇ ◇

 「私は、アレクシス様を愛したまま殿下と未来を歩きます」

「知ってる」

「それでも……いいですか?」

「いい。お前がそれを選んだなら、それでいい」

 次の瞬間、強く抱き寄せられた。

 甲冑越しの冷たい感触に、でもその奥の熱が確かに伝わった。

「お前は痛みを抱えている。だが、それがお前の誇りだ」

 涙が零れた。

「はい……ありがとうございます」

(私が痛みを抱えたまま生きることを、誰も責めなかった)

 だからその痛みを大切に抱きしめて、また前に進もう。

(これが私。痛みを抱えて愛を抱いて、それでも殿下と未来を歩く私)

 そう胸に刻み、小さく笑った。

(これからもずっと――この選んだ痛みと共に)
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