『初恋令嬢は鈍感すぎて、王太子・騎士団長・学園貴公子の胃を壊す』

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新章・王宮編

第84話:痛みを愛したまま、また春へ

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 長い冬がやっとその足を引きずりながら退こうとしていた。

 王都にはまだ冷たい風が残っていたが、通りの花屋には小さな蕾を抱えた鉢が並び始め、人々は新しい季節の気配に少し浮かれた顔をしていた。

 ゼフィリアは王宮の執務室の窓から、そんな王都の風景を静かに見下ろしていた。

(今年もまた春が来る)

 そのことがどこか切なかった。

(去年の春、私は泣きながら未来を選んだ。
 殿下とこの国を選び、そしてアレクシス様を愛したまま生きると決めた)

 あれから幾度となく痛みに襲われ、幾度となく泣いた。

 それでも歩いてきた。

(その全部が、私の生きてきた証)

     ◇ ◇ ◇

 「ゼフィリア」

 背後から聞き慣れた声がした。

 振り返ると、そこにはやはりエリオンが立っていた。

 その手には新しい報告書の束。

「また未来を積み上げておいでですか?」

「そうだ。君が築いてくれた道をもっと遠くまで繋げたい」

 ゼフィリアは静かに笑った。

「私一人で築いたものではありません。殿下が……殿下だからこそ、私はこの道を選べたのです」

 エリオンは黙ってその手を取り、そっと自分の胸元へ導いた。

「君が痛みを抱えていることも、その痛みが誰へのものかも、全部分かっている」

「……はい」

「それでもいい。君が私の隣にいる限り、私は何も恐れない。
 君は私の誇りだ、ゼフィリア」

 視界が滲む。

(私が泣き虫だから、この人の前ではもう泣かないと決めたのに)

 それでも涙は溢れてしまう。

「殿下……ありがとうございます」

     ◇ ◇ ◇

 その夜。

 リューデル邸の庭園にはまだ枯れた葉が少しだけ残っていた。

 春が来る前の、ほんの少しの空白。

 ゼフィリアはそこに立ち、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。

(この庭で泣いた夜のことを、私はずっと忘れない)

 殿下を選ぶと決めたあの夜。

 アレクシスを愛している自分を許した夜。

 痛みを抱えると誓った夜。

 全部、この庭に置いてきた。

(でもそれは後悔じゃない。私が私になるための、大切な夜だった)

     ◇ ◇ ◇

 「泣くなよ」

 低く短い声。

 振り返ると、やはりそこにアレクシスが立っていた。

「泣きません。もう泣くのは、やめました」

「嘘つけ」

「……少しだけ泣きそうです」

「馬鹿だな」

 近づいてきて、そっとゼフィリアの髪に触れる。

 その触れ方がとても優しくて、胸がまた痛くなった。

「春が来る」

「そうですね。王都はもうすぐ新しい花でいっぱいになります」

「お前はこれからも殿下の隣を歩くんだろう?」

「はい。殿下とこの国の未来を選びましたから」

「それでいい。お前がそれを選んだなら、俺はずっと誇りに思う」

 涙がまた零れそうになる。

 けれど今度は堪えた。

「ありがとうございます……アレクシス様」

     ◇ ◇ ◇

 「泣かなくなったな」

「はい」

「でも痛いのは変わらないんだろう?」

「はい……痛いままです。でもそれでいいんです。
 この痛みが、私が選んだものだから」

「そうか」

 次の瞬間、強く抱き寄せられた。

 硬い鎧越しの冷たさが、でも誰よりも温かかった。

「その痛みをずっと抱いて生きろ。泣きたくなったらまた来い」

「……はい」

(私はこれからも痛いままで生きていく。
 それを誇りにして、殿下の未来を歩き、アレクシス様を愛したまま)

 夜空には春の星座がもう少しで顔を覗かせる頃だった。

(私が泣き虫なままで、痛いままで、それでも幸せを選び続ける。
 それが私――ゼフィリア・リューデル)

 そっと瞳を閉じ、小さく微笑んだ。

(また春が来る。この痛みと共に、愛を抱いたままで――)
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