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第五十四話『千尋さんは撫でる』

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「ねえ見て紡君、ウサギだよウサギ! 思った以上にふわふわしてる!」

 近くにいたウサギを抱きかかえて、千尋さんは僕の方にゆっくりと歩み寄ってくる。ウサギも千尋さんの腕の中が気に入ったのか、特に抵抗することもなくのんびりと佇んでいた。

 その瞳は本当にルビーのように赤くきらめいていて、『紅玉』なんて呼ばれていることにも納得できる。子供の頃に飼育委員で触れ合ったきりウサギとは縁がなかったが、こうやって改めてみてみると可愛い生き物だ。

「ほら、紡君も抱っこしてみて! この子おとなしいし多分大丈夫だよ!」

「そうかな、それじゃあ遠慮なく……わぷっ」

 千尋さんが差し出してきたウサギが受け取ろうとした直前、ウサギはまるで抗議するかのように身じろぎして地面へと着地する。そして文字通り脱兎のごとくウサギの大群の中へと戻ると、すぐにその姿を群れの中へと隠してしまった。

 見る感じかなりおとなしかったけど、やっぱり抱く側によって動物も感じ方が変わるんだろうな……。僕から千尋さんに渡っていくならまだしも、千尋さんにだっこされた後に僕に渡ろうとしたらそりゃ抵抗するのも必然かもしれなかった。ここにいる子たち大体オスみたいだし。

「ごめんねえ、人慣れはしてるはずなんだけど……。おとなしい子探してこようか?」

 ウサギが逃げていった方を呆然と見つめている僕に、職員と思しきおばちゃんが気遣うように声をかけてくる。その申し出はとてもありがたかったが、しばらく悩んだ末に僕は首を横に振った。

「いや、僕は大丈夫です。あの子が楽しそうにしてるところを見れれば満足なので」

 そう話す僕の視界の先には、ウサギの群れの中で誰を抱っこしようか見定めている千尋さんの姿がある。このふれあい広場には四十匹ぐらいの小動物がいるという話なんだけど、その全てを制覇するま帰らないんじゃないなと言う雰囲気すら今の千尋さんは纏っていた。

 そのためにもまずは十五匹ぐらいいるウサギをコンプリートしなくてはいけないわけだが、それも決して遠い話じゃないだろう。人だけじゃなくウサギまで惹きつける何かがあるのか、千尋さんが伸ばした手の先にみんなして群がってるし。

「あらそう? おばちゃんウサギをだっこするのには慣れてるから、気が変わったらいつでもおばちゃんに頼んでくれて大丈夫だからね」

 断られたのにもかかわらず気さくにそう言ってくれるおばちゃんにお辞儀をして、僕はウサギに囲まれる千尋さんの方に近づいていく。その気配に気が付いてウサギは少し警戒する様子を見せたが、どうやら警戒心よりも千尋さんの誘因力が勝つようだった。

「……千尋さん、もしかしてなんにでも好かれる何かしらのオーラ出してたりする?」

「どうだろ、昔から犬とか猫には好かれてるんだけどねー……動物全体かって言われると分かんないや」

 一匹の頭をくしくしと撫でながら、千尋さんは僕の質問にそう答える。しばらくの間その様子をぼんやりと見つめていると、千尋さんは小さく首を傾げた。

「……どしたの、紡君もなでなでしたい?」

「ああいや、それは大丈夫。多分キッと逃げられるから」

 そう答える間にもウサギは順序良く千尋さんの指に撫でられて、一定の時間が経つと交代するというサイクルを繰り返している。そんな行儀のいい様子を見ていると、どうもやっぱり千尋さんには何かあるんじゃないかという気がしてならなかった。

「……僕も撫でられてみれば何か分かるのか……?」

 それは意識か無意識か、僕はいつの間にかそんなことを呟いていた。特に他意があったわけでもないし、実際に撫でてくれるとか思ったわけじゃない。……ただ、その手つきには何かしらの魔力が宿っているんじゃないかと言う気がしてならなかったが故の言葉だ。

 だからそれは本当なら独り言で終わるべき言葉だったのだけれど、どうも千尋さんは耳もいいらしい。……少し驚いたような視線が、僕の方に向けられていた。

「紡君、その、ね……」

 なんて言えばいいのか分からないといった様子で視線をさまよわせて、千尋さんはパクパクと口を動かしている。……こんなに言葉に困ってる千尋さん、もしかしたら初めて見たかもしれない。

 しかし、それはそれとして独り言を聞かれたのはとても気恥ずかしいことだ。それが半ば無意識にこぼれたものならなおさらだし、内容が内容だからその恥ずかしさはさらに跳ね上がる。夏の厚さにも負けないぐらいに頬が熱くなりだして、僕はどうにか今の言葉を誤魔化すための言葉を考えようと――

「……あの、ここは動物園だからさ。だから紡君を撫でるのはここを出てから……ってことで、どう?」

 ………………へ?

「……嫌じゃ、ないの?」

 てっきり千尋さんは僕を撫でるのなんてできないって言おうとして、だから口ごもっていたのだろうと思っていた。……だが、よく見ればその頬は僕と同じぐらい、いやもしかしたらそれ以上に赤く染まっているような気がして。

「ううん、そんなことないよ! だけどちょっと……ちょっと、ここじゃ恥ずかしいだけ!」

 ウサギを撫でる手を早めながら、千尋さんは早口でそう言い切る。……そして、決して周りに聞かれないためなのか僕の方にすっと体を寄せると――

「……帰り道、人が居ない時なら――その、どうでしょう?」

「――あっ……ハイ、僕からもぜひお願いします……」

 敬語でされた千尋さんからの提案になぜか僕も敬語でこたえて、僕たちはさっきの距離に戻る。……まだぼうっとしている僕の膝を、一匹のウサギが蹴り飛ばしていった。
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