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第六十八話『僕から見た千尋さん』

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 大切な感情を忘れることは、忘れられた側にとって悲しいことだ。それがいつか訪れる宿命なんだとしても、それをまっすぐに受け入れることはとても難しい。……それは、作家としても同じことだった。

「忘れられるのは恐ろしいことだ。名前を忘れられて、思い出もなかなか出てこなくなって。『そういえばそんなのもいたっけな』ってすらなれなくなっていくのを、誰もが恐れてる。……忘れられることが怖くない人なんて、きっと一握りしかいないんだよ」

「だからクソ親父のことを覚えていろ、ってか? 家族をぶっ壊して千尋を変えちまったアイツに、今更そんな温情をかけてやれってか」

 だがしかし、お姉さんの意志は頑なだ。……きっと、お姉さんだってお父さんのことは忘れたい記憶なのだろう。千尋さんを守るという何よりも優先度が高い意志があるから覚えておかないといけないだけで、今すぐにだってゴミ箱に叩きこみたくて仕方のないような記憶なんだ。

 そして、お姉さんは千尋さんにとってもお父さんの記憶がそういう類のものであると考えている。お父さんの呪縛が千尋さんを縛っているというのは、お姉さんの中で確定事項だと言ってもよかった。

 千尋さんは両親のことを決して語ろうとしないし、その考え方は間違っていないのかもしれない。両親が離婚したことは確かに千尋さんの心の中に暗い影を落として、価値観にも大きな変化を与えた。

――だけど、そこで終わりじゃない。千尋さんの変化がそこで終わってないことを知っているのは、他でもない僕だけだ。

 遠足の時に買ったお揃いのキーホルダーは、今でも俺の鞄の横でゆらゆらと揺れている。……それを一度強く握りしめて、僕はお姉さんの方を向き直った。

「……温情とか、そういう話じゃない。千尋さんに対して抱いてるお姉さんの印象が間違ってるって、僕はずっとそう言いたいんだよ」

 千尋さんが本を読めなくなってしまったのがお父さんのせいなのだとしたら、千尋さんの人生に与えた影響は計り知れない。その責任は大きいし、許せないのも分かる。本を読めなくて苦労した経験を、きっとお姉さんはずっとそばで見てきたのだろう。その原因が分かっているからこそ、憎んで憎んで排除しようとしているのだろう。

 だからお父さんと同業である僕の事も認めたくなくて、ずっと突き放すような態度を取っていた。……僕のふとした行動が、千尋さんの中にあるお父さんの記憶を刺激してしまわないように。……もう二度と、あの時みたいな辛い思いをさせないように。

 千尋さんがお姉さんに助けを求めていたなら、それはとても正しいことだろう。お姉さんが千尋さんのことを想っているのは間違いないし、きっと世界で一番千尋さんの苦悩を知っているのはお姉さんだ。……悔しいけれど、そこは認めざるを得ない。

 だけど、僕は知っている。お姉さんが知らない千尋さんの側面を、僕はちゃんと知っている。……それを見てきたから、僕はお姉さんのやり方を認めるわけにはいかないんだ。

「……お姉さんは、千尋さんのことを守るっていうけれど。もう二度と傷つかないようになんて、まるでそれが使命であるみたいに言うけれど」

 今までに千尋さんと交わしてきた会話を、僕は思い出す。そしてその中で確信する。僕の考えは間違ってなんかいない。お姉さんにはお姉さんの正しさがあるように、僕には僕の正しさがある。

 あの日本屋で声をかけられたあの時を、思いを伝えあったあの日を、そして昨日の動物園で聞いたことを、僕はずっと忘れないだろう。……だってあの時、千尋さんは自分から僕の方に向かって進んできてくれたのだから――

「千尋さんは、いつだって前に進もうとしている女の子だよ。守ってほしいとかあの時の事を忘れたいとか、少なくとも僕は一度も聞いたことがない。……だから、聞きたいんだよ」

――あなたは、千尋さんから頼まれて千尋さんのことを守ろうとしているの?

 そう口に出した瞬間、お姉さんの表情が確かに変化したのを僕の眼が捉える。……どうやら、僕が千尋さんと重ねてきた日々は間違いではなかったようだった。
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