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第百六話『僕と過去』

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 順調だ、と思う。

 今までのいつよりも忙しいけれどいつよりも充実していて、生き生きと毎日を過ごせている自覚がある。誰かの隣にいることがここまで力をくれるのだと、僕はこの日々を通じて初めて知った。

 多分それは、僕が千尋さんの彼氏だと胸を張れるようになったことと密接に関係しているのだろう。揺るがない居場所が出来て、その居場所に戻れば大好きな人が居て。好きな人に好きと言ってもらうのは、至極単純なのに叶う事が少ない願いの一つだ。

「……千尋さん、今頃盛り上がってんのかな」

 氷室さんとの食事中に届いていた『カラオケ!』というメッセージと写真を見つめながら、僕は電車の中でふと呟く。写真の中の千尋さんはたくさんの女子と男子に囲まれていて、笑顔がどこかぎこちなくなっているように思えた。

 いや、これはもしかしたら過保護なのかもしれない。千尋さんはもとからたくさんの人に囲まれる人だったし、こういう事だって一度や二度ではなかったはずだ。写真も送ってきてくれる当たり楽しんでるんだろう――とりあえず、そう信じておくことにする。

 今度会ったら、氷室さんに褒められた話をしよう。久しぶりに小説が出せるかもしれないという話をしよう。……千尋さんが傍にいてくれたおかげだって、笑ってそうお礼を言おう。

 そんなことを決意すると同時、電車は僕の家の最寄りへとゆっくり滑りこんでいく。ぷしゅーという音の後にドアが開いたが、どうやら降りたのは僕一人のようだ。

 普通列車しか通らない住宅街近くの駅だし、まあそれも仕方のないことなんだけどね。だけどそれがなんでだか珍しく思えて、僕は少し驚きながら改札口に続く階段をゆっくりと昇った。

 思えばこの階段も随分な回数上ってきたけれど、その大半が一人で上っているような気がする。いまいち幼馴染と言えるような人が居なかったこともあるし、そもそもアウトドア派の人間じゃなかったって理由もあるし。……一緒に上った人が居るとすれば、それこそ家族と『あの子』ぐらいになるのだろうか

 あの子は僕よりもアウトドアな子で、その興味に引っ張られて僕もいろんなところに付き合わされたものだ。あの子と過ごした一年と少しは、今に次いで僕がいろんな場所へと向かった期間かもしれない。

 その時の思い出を振り返ると胸がうずく感覚があるけれど、それももう過ぎ去ってしまった後の事だ。その痛みも思い出も忘れることはないけれど、現実はどうやったって過去からは離れて行く。過去に足が生えて走って追いかけてくることなんて、ほとんどありはしないのだ。

 この先千尋さんとどれだけ思い出を作っても、おばあちゃんと『あの子』のことはふとした時に思い出すことになるだろう。色々と僕に話してくれたことも、一緒に過ごした時間も、全部が血肉となって今の僕の傍にある。きっとそれだけで、あの時の痛みは無駄じゃなかったと言えるだろう。

……ただ同時に、こうも思うのだ。千尋さんが僕のことを忘れてしまったら、その時はもう立ち上がれないだろうと。あんまりに、千尋さんが僕の毎日に深く沁みつきすぎてしまっている。

 そんなことは絶対に起こりえないと信じているが、この世界で『絶対』と言える物なんて数えるぐらいしかない事も僕は知っている。絶対が覆される瞬間がいろんな時代にあったことも、調べれば結構出てくることだ。

 過去の出来事たちが、僕にどうしてもその恐怖を強いる。どれだけ順調でも幸せでも、その痛みを忘れるなと助言を投げかけてくる。……それはきっと、傷ついた過去の僕からの贈り物だ。

 いい加減いなくなってくれてもいいとは思うのだが、過去の傷が消えない限り過去の僕が心の中からいなくなることもあり得ない。……ずっとずっと、僕はこいつらのアドバイスを受け取り続けることしかできなくて。

「……こんなに、順調なのにな」

 ふとしたきっかけからズキズキと痛み始める過去に苦笑しながら、僕は家の前までたどり着く。駅前という立地は今まで電車の走行音がうるさいだけだったが、今では出かけやすいというメリットを纏いつつあった。

 それを噛み締めながら門をくぐろうとすると、郵便受けにはがきが一枚投函されていることに気が付く。なぜかそれが気になって、僕ははがきを引き抜いた。

 差出人の名前はなく、ただ後ろには郵便番号と『照屋 紡様』と言う達筆な文字だけがある。……その字を見て、胸が僅かにざわついた。

 いやまさか、そんなはずがない。そんな風に脳は絶叫しているけれど、活性化した過去の僕がそれを打ち消すぐらいに声高な叫びをあげる。……この文字は、間違いなく。

『大丈夫、つむくんのことはちゃんと憶えてるよ』

「……う、あ」

 ほぼ無意識に向けた表面にかかれていた文字を見て、僕は呻き声のような何かを発する。……過去に足が生えて追いかけてくることは現実にあるのだと、僕はこの瞬間に思い知った。
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