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第百二十九話『あたしを知ってる人』

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 最近は二人で立つことが当たり前になってきた木造のドアの前に、あたしは久しぶりに一人で立つ。今日がちょうどよく短縮営業の日でよかったなんてことを、あたしはまるで現実逃避するかのように考えていた。

 今日が短縮だったのは偶然のはずなんだけど、あまりにタイミングが良すぎてこうなることが宿命だったんじゃないかなんてことも思ってしまう。それがあたしの背中を押すものなのかそうじゃないのかは分からないけれど、『聞くならば今日が一番』ってことは多分間違いないはずだ。

 お姉ちゃんはきっと、あたしよりも幼いあたしのことをよく知っている。お父さんが居なくなったときにはもうお姉ちゃんは高校生で、あたしとは違ってあのことをもっといろんな知識とかを持ったうえで受け止められていたんだと思う。だからお姉ちゃんは小説を読めるんだと、あたしはそう結論付けている。

 だけど、お姉ちゃんは小説が嫌いになってしまった。小さい頃は読み聞かせてもらった記憶さえ残っているというのに、お父さんが居なくなってからは一切の本を遠ざけるようになった。……まるで、お父さんの気配を一切拒絶するみたいに。

 今思えば、紡君を遠ざけようとしたのもそれと同じ理由なんだろう。お姉ちゃんが憎んでいるのは、お父さんの気配を感じさせてしまうものだ。……小説家なんて存在が、お姉ちゃんの中で簡単に受け入れられていいはずもなかった。

 だからなのかお姉ちゃんと紡君の間にはずっと微妙な雰囲気が流れているような気がしていたけど、ある時を境に二人の関係はどこか変わったように思う。確かあれは……そうだ、紡君があたしの家に雨宿りに来た少しあとぐらいだったっけ。

 紡君にフレンドリーになったわけじゃないし言動にはまだ棘があるけど、それでもお姉ちゃんの中で何かが変わったのは表情を見ればよく分かる。……紡君も、いつの間にか『カスミさん』なんてお姉ちゃんのことを呼ぶようになってたし。

「……だから、今なら大丈夫だよね」

 壁を一枚隔てた先にいるお姉ちゃんにあらかじめ問い掛けるように、あたしは息を吐きながら呟く。それは直接会って聞くべきことなのに、先にあたし自身に言い聞かせないと不安に飲まれてしまいそうだ。……今まで知ろうとして来なかった過去に触れるのは、やっぱり少し怖い。

 けれど、『思い立ったが吉日』なんて言葉もある。紡君に初めて声を掛けられたのも、一年間探してきた紡君の姿を見られてテンションが上がってしまったからだ。……こういう時の勢いは、きっとそのまま通すべきなんだとあたしは信じている。

 しばらく迷った末にそれを思いだして、あたしはいつもより少し控えめにドアをノックする。……すると、すぐにドアが開いてお姉ちゃんがその先から顔を出した。

「よく来たな千尋、遠慮せず好きなところ座っていいぞ! ああ、あの男を挟まず千尋とだけ話せるのも思えばすごく久しぶりだなあ……‼」

 事前に何を話したいか伝えていないこともあって、お姉ちゃんは凄く高いテンションであたしのことを出迎えてくれる。あたしのことを想ってくれてるってすぐにわかるその態度があたしは好きで、家を出てもお姉ちゃんに一番べったりとしていた時期は長かった。今は……まあ、違う人にべったりだけど。

「紡君のことを『あの男』とか言っちゃダメだよ、ちゃんと名前知ってるでしょ? ほんとは仲良くしたいって思ってるの、あたしは何となく分かってるんだから」

「いいや、仲良くなりたいとは思わないね。アレが父さんとは違うってことは分かったけど、それでもまだ千尋を任せるに足るかどうかは審査中だ。……もしふさわしくないと思ったら容赦なくできんにしてやる」

 あたしの言葉にお姉ちゃんはぶんぶんと首を横に振って、さらには呼び方が『アレ』にまで後退する。お父さんと同一視してないだけでも前進なんだろうけど、お姉ちゃんもお姉ちゃんで色々と葛藤があるのはすぐに分かった。

「それにさ、アレがいるとできない話だっていろいろとあるだろ? 久しぶりに姉妹水入らずで話ができる機会が訪れたことを、私は何よりもうれしく思ってるんだよ」

 お姉ちゃんがそう告げたことで、あたしは思わず口ごもってしまう。……確かに、あたしがしに来たのは二人じゃなきゃできない話だ。……だけど多分、それはお姉ちゃんがしたかった類の話じゃない。

 本当に話していいのかと、そんな葛藤があたしの中でもう一度浮かび上がってくる。だけどそれにあたしは内心で大きく頷いて、覚悟を決めた。……紡君が覚悟を決めてくれたのに、あたしだけがずっと変わらないままでいるなんてことは出来ない。

「うん、あたしも二人じゃなきゃできない話をしに来たの。……お姉ちゃん、聞いてくれる?」

「ああもちろん、それが千尋の望みならな! さあさあ、どんな話をしようか――」

 あたしの言葉を聞いて、お姉ちゃんは明らかにテンションが上がっている。それを今から醒めさせてしまうのは申し訳ないけれど、避けては通れないことだ。……せめて、すぐに切り出そう。

「ありがとう、お姉ちゃん。……お父さんの、事なんだけどね」

 出来る限りの覚悟を決めて、あたしはゆっくりとそう話題を切り出す。……だけど、その瞬間にお姉ちゃんは表情を一気に変えて。それが、あたしには鳴くのを我慢しているような表情に見えて。

――分かっていたはずなのに、その表情を見るのは苦しかった。
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