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第百五十二話『僕たちの帰り道』

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「うん、最近の中で一番有意義な時間だった。演劇でもなきゃつむ君の女装姿なんて見る機会はなかっただろうし、そこばかりは提案してくれたあの女子生徒に感謝だね」

「うん、とってもいい時間だった! 本が読めないあたしのためにやってくれてることなのは分かってるんだけど、それでも嬉しくてちょっとにやけちゃうなあ……」

 カラオケボックスを後にしつつ、千尋さんとセイちゃんは心から満足そうな声を上げる。それの一歩後ろを歩く僕の手には、厳しいオーディション審査を乗り越えて僕の衣装となったものが入った袋が握りしめられていた。

 それ以外の奴はセイちゃんと千尋さんでそれぞれ持ち帰って、何かほかの事に使えないかと画策してみるつもりらしい。その対象が僕に向くかもしれないのが少し気がかりなところではあれ、今回使湧かなかった衣装にもちゃんと使い道があり、大切にされるのは嬉しいことだった。

 忘れられるのが辛いのは物も人も同じだからね。使われ方がどうであれ存在が忘れられないことはいいことだし、多分僕も今日の事はずっと忘れないだろう。そんな思い出とともにあったという所で行けば、この服はもうすでに十分すぎるぐらいの役割を果たせているのかもしれない。

「つむ君、どれぐらいあれば台本憶えられそう? できれば来週の半ばには千尋さん自身の練習に入っていきたいと思うんだけど、どうかな」

「うん、多分明日一日あれば大丈夫。火曜日には撮影してみていいんじゃないかな」

 合わせるのと実際に着てみるのはやっぱり違うものだろうし、月曜日はそれに慣れるための保険みたいなものだ。もともとは僕が作り上げた物語だし、ストーリーラインはしっかりと頭に入っていた。

「おっ、それは助かるね。さてはつむ君、この原稿を作り上げるまで相当改稿を繰り返してきたね」

「そりゃそうだよ、僕だっていいものにしたいもん。セリフとか状況とか微調整を続けてたらそりゃ詳しくもなるってものだし」

 頭の中で演じているセイちゃんと千尋さんの姿を何度も想像して、本人らしさと役のキャラクターらしさを両立するのには随分と頭を悩ませたものだ。その結果生まれたあれには思い入れもあるし、できればクラスの皆にも受け入れられたいと思ってる。……あまり自覚したことはなかったけれど、僕にも物書きとしての意地と言うか、プライドのようなものはどうもあるらしい。

「……まあ、演技とかにそれが落とし込めるかって言ったら微妙だけど。一発で全部オッケーにできる自信はないからさ、演技の事は教えてもらってもいい?」

 それに気づいた僕は、前を歩く二人にそんなことを問いかける。僕の演技が上手くなっても生きるのは映像撮影の時だけで、それが文化祭のクオリティにどれだけ貢献できるかなんてものは分からない。……だけど、作り上げたキャラクターを演じるのならば妥協はしたくない。そんな思いが、僕の中にはいつの間にか息づいていた。

 ……いや、もしかしたら最初からその思いはあったのかもしれない。ただそれが形を変えて、役者としての自分にも向けられただけで。僕自身よりも気合が入っているような二人の様子に、きっと僕も気が付かないうちに中てられてしまっていたのだろう。

「当然、つむ君が演じるのだって一つの作品だからね。そのクオリティに妥協はしたくないし、後で見返してもおかしくないものを作り上げるつもりさ。……つむ君もそう思っていてくれて、私は本当に嬉しいよ」

「あたしも観客としてになっちゃうけど、伝えられることはたくさん伝えていくね。……紡君たちがあたしのために演じてくれる劇がどうなるのか、実は楽しみで仕方がないんだ」

 あたしが癒えたことじゃないかもしれないかもだけれど――と。

 少しはにかみながら、千尋さんは僕たちにそんなことを言ってくれる。彼女が此処まで期待してくれているとなれば、とうとう手を抜くなんてことは出来なくて。僕とセイちゃんを主演とするイフの舞台で何が出来るだろうと考える僕の脳みそがまたせわしなく活動を始める。

「よし、それじゃあ撮影までに色々と準備を進めなくちゃね。……実際に世に出すわけじゃないにせよ、世に出しても恥ずかしくないクオリティに仕上げないと」

「そうだね。そうじゃなきゃ舞台とキャラにも失礼だ」

 改めて決意表明を交わしながら、僕たちは駅へと向かって歩いていく。日が短くなっていることを伝えるかのような沈みかけの夕日が、僕たちの景色をオレンジ色に染め上げていた。
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