龍ヶ池平~安綺譚~

神辺真理子

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第1章 出会い

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都から離れた別荘地帯の外れに式部卿宮しきぶきょうのみや様の別邸がございました。
本来、この別邸は宮様方が物見遊山ものみゆさんなさる時や、方違えかたたがえといって、屋敷や宮中が自分にとって、方角の悪い時に滞在するためのものです。
しかし、式部卿宮家では、鈴宮すずのみや様と呼ばれる姫様のお住まいに使っておりました。
「宮様、いかがなさいました」
ご帰宅なさった鈴宮様が何やら考え込んでいるのを見かねた女房が訊ねます。すると、鈴宮様は声をかけた女房をじっと見つめました。
「何か知っておろう」
「さて、なんのことでしょう」
臈長ろうたけた女房はたもとで口元を隠しながら「ほほほ」と、とぼけると鈴宮様は呆れたような目で女房を見ました。
この女房、実は八百比丘尼やおびくにといい、数百年前にみかどめいで人魚の肉をんだことで不老不死を得た人とも物の怪もののけとも言えぬ存在なのです。
「都から読経や加持祈祷かじきとうが聞こえて来て騒がしい。何かあったのであろう」
「あら、ここまで聞こえて来ましたか。なんでも東宮様が熱病でお倒れになったとか。それで、あちらこちらの僧都そうず阿闍梨あじゃり陰陽師おんみょうじらが、あの手この手でご快復を願っているのですよ」
「そういうことか」
脇息きょうそくにもたれながら、鈴宮様は目を閉じて考え込まれます。
しばらくして鈴宮様は立ち上がり、八百比丘尼に弓矢を用意するように命じられると庭へ出られました。
そして都の方角へ向けて、1本の矢を放たれたのです。
「これで、静かになるだろう」
鈴宮様は居室へ戻られました。

◇◇◇
都では東宮様が熱病で伏せってから20日以上経ち、帝や中宮がたいそう心配なさっておられました。
方々ほうぼうから、陰陽師や僧都、阿闍梨を呼び、加持祈祷をさせ、いろいろな薬師に診せますが、一向に快復なさる気配がありません。
ところが、鈴宮様が矢を放った翌朝、不思議なことに東宮様の熱が下がり、すぐに快復なさったのです。
しかし、東宮様は高熱を出されて体力が落ちていたので、帝とゆかりの深い寺で静養することになりました。
ある日、東宮様は従者ずさを従えて散歩に出掛けられました。
「この先には龍ヶ池という龍が棲む池があるらしいですよ。まぁ、伝説でしょうけど」
従者は東宮様の具合が悪くなったら馬に乗せて帰るつもりで、馬を連れて歩きます。
「へぇ。面白そうだね」
寺での生活に飽きていた東宮様は、池に向かわれました。
数日前に降った雨の雫が袖を濡らす山道を進むと大きな屋敷が見え、さらにその先へと歩みを進めて行きます。
「龍ヶ池はまだか?」
「もう間もなくかと」
従者は東宮様が疲れているのではないかと、顔色を見ますが東宮様は「ふうん」と生返事をしながら歩くので、安堵しながら案内あないしました。
すると、うっそうと茂る草叢くさむらの中に人が踏みならした道があることに気がついた東宮様は、迷わずその道へお入りになりました。
「東宮様、お待ちください」
「後から来ればよい」
従者が馬を繋いでいるうちに、好奇心旺盛な東宮様は池に向かわれます。
草叢がなくなると、目の前に池が広がりました。
「ここが龍の棲む池・・・・・・」
都とは異なる清閑せいかんな空間に東宮様は心が洗われるようなお気持ちになられました。
東宮様は胸一杯に空気を吸い込むと、身体に溜まっていた何かもやもやしたものが身体から抜けて行くような気がします。
「誰だ」
突然、聞こえた女の声にハッとして、東宮様が声のする方を見やると赤袴あかばかま単衣ひとえだけをまといい、弓矢を背負った女が立っております。
「無礼者。東宮様に向かって・・・・・・」
ようやく追いついた従者が女に向かって怒鳴るのを、東宮様は手で止めさせると女に声をかけました。
「待て。私は東宮だ。」
東宮様の問いかけに女は警戒を解き、東宮様の近くまで歩いて来ました。
「知らぬとはいえ、ご無礼いたしました。私は龍ヶ池の守人もりびとすずでございます」
「鈴か」
東宮様が嬉しそうな顔をされると、従者が小声で忠告します。
「東宮様。この方は式部卿宮様の娘、狐憑きつねつきの宮様です。お逃げください」
ところが、東宮様は聞く耳を持ちません。それどころか、鈴宮様に駆け寄ると、顔を輝かかせて鈴宮様を見つめます。
「先日、私を熱病から救ってくれたのは鈴ではないか」
「なんのことでしょう」
鈴宮様は表情一つ変えずに答えました。
「私が熱病で苦しんでいる時、夢の中でも苦しむ私を鈴が、矢を放って助けてくれたであろう」
「まぁ、夢の中でお会いしたのですか。残念ながら、私ではありません」
鈴宮様は東宮様にお辞儀をして、その場を立ち去ろうとしましたが東宮様は鈴宮様の行く手を塞ぎました。
「そんな・・・・・・」
東宮様は見るからに落胆のご様子。しかし、すぐに顔を上げました。
「鈴には覚えのない事かも知れないが、私が救われたことに変わりはない。礼をさせてくれ」
「礼など必要ありません」
鈴宮様が辞退するのをいいことに、後方で従者が「関わってはなりません」と慌てていますが、東宮様は構わずに話を進められます。
「では何か望みはないか。叶えられるように計らおう」
「・・・・・・。では、私が出家した後には、尼寺に寄進をお願いいたします」
鈴宮様は凜とした表情でおっしゃいました。
「出家されるのですか」
思いもかけない申し出に東宮様は動揺なさいます。
「はい」
鈴宮様は、きっぱりと申されます。
「それが、望みか」
「はい」
「・・・・・・。私はまだ、東宮ゆえ、一存で決められることには限りがある。時期が来たら検討しよう。それでよいか」
「お願いいたします」
鈴宮様は再び頭を下げると、足早に立ち去りました。
「素敵なお方だ・・・・・・」
慌てる従者をよそに東宮様はぼうっと、鈴宮様の後ろ姿が見えなくなるまで見惚れておいででした。

◇◇◇
「なんと嘆かわしいことでしょう。大切な宮様が、よりにもよってこのような所へ入内単語じゅだいなさるなど」
八百比丘尼は袂で顔を覆って涙をこぼせば、もう一人の女房は「口惜しいことよ」と、長い歯をキリキリ噛みしめています。
「決まったことなのだから仕方がない」
鈴宮様は上座から女房達をなだめます。
すると、鈴宮様の側にいる八百比丘尼がけろっとした顔で、手を叩き他の女房達を叱咤しました。
「ほら、お前達。鈴宮様はこう仰せなのだから、いつまでも泣いていないで片付けなさい」
「やはり嘘泣きか」
「まぁ、酷い。本当に泣いておりました」
八百比丘尼は妖艶な眼差しで鈴宮様を見つめますが、鈴宮様は「そういうことにするか」とつれない態度です。
鈴宮様の素っ気ない態度や涼やかな眼差しを向けられる度、八百比丘尼は内心、鈴宮様が男君おとこぎみに産まれていたら、光源氏などという者よりもずっと姫達を泣かせていただろうと思われてなりません。
実際、荷解きをしている女房達の多くは、うっとりと鈴宮様を見つめており、手が止まっています。
東宮や帝の嫁として御所に入ることを入内と言いますが、実際はただの引越です。
事実上の夫婦となる婚儀こんぎは良い日を選んで別に行い、婚儀が済むと披露宴にあたる所顕ところあらわしが行われ、公に夫婦と認められます。
しかし、結婚相手が東宮様ともなれば、事前に鈴宮様が入内されることが発表されるのですが、八百比丘尼が調べたところ、貴族はおろか他の宮様方もご存じない様子。八百比丘尼は、この縁組みには何かありそうだと警戒しているのでした。
「それにしても、空気の悪いこと。鈴宮様、お加減は悪くありませんか」
「大事ない」
「そうですか。ここは魑魅魍魎ちみもうりょうの世界。私ら物の怪よりも、もっとたちの悪い人間がうようよしております。瘴気しょうきのせいで鈴宮様が伏せってしまわれないか心配ですわ」
瘴気というのは妬みねたみ嫉みそねみ嫉妬しっと私欲しよく、憎悪など負の気持ちが生み出す『オーラ』です。負の気持ちが大きくなれば、『気』自体に力が宿り、瘴気を浴びた者は災難に遭ったり、怪我をしたり、病で伏せってしまったりと、不幸に見舞われます。また、瘴気を生み出した者も怨霊や生き霊を生み出し、果ては鬼に変化へんげするのです。
「都なら、どこでも同じだよ。それよりも、私は皆と一緒に居られるなら、どこでも構わない」
鈴宮様がにこりと笑って見せると、女房達はありがたいと涙を零します。
ここにいる女房達は皆、別邸から連れてきた者ばかりです。
八百比丘尼のような物の怪もいれば、鈴宮様と同じような人間もおり、どちらも居場所のない者ばかりでした。
急な入内ということもあり、鈴宮様は入内を承知する代わりに女房達を連れて行くことを条件とされたのです。
「まぁ、鈴宮様は本当にお優しいこと。後は、あの小僧だけですね」
東宮様が鈴宮様よりも年下であるせいか、八百比丘尼は事あるごとに小僧と呼んでおりました。
「これ、そんな呼び方をしてはならない。」
「しかし、何を企んでいるかわかりませぬ」
「八百比丘尼。東宮様には、お話しをして理解していただくしかない」
鈴宮様は穏やかに諫めましたが、八百比丘尼は憤懣ふんまんやるかたない様子でした。

◇◇◇
鈴宮様と八百比丘尼が出会ったのは、都で悪さを繰り返していた玉藻前たまもまえという尻尾が9本ある物の怪を、龍ヶ池へ連れて行く途中のことでした。
玉藻前のような九尾狐きゅびこは、本来は神獣であり、悪さをしないものなのですが、玉藻前は人間の女に化けたところ、「一目見ると恋い焦がれて死ぬ」という噂が流れたことを面白がって、男達をたぶらかして遊んでいたのです。
あまりの奔放ほんぽうぶりに、息を潜めて生きている物の怪が怒り始め、大事になる前に八百比丘尼が捕まえたのでした。
「なんだい、せっかく面白かったのに。ほれ、ご覧なさいよ。こんなにいろいろ貰っちまった」
玉藻前は悪びれる様子もなく、貰ったという品々を八百比丘尼に見せます。どれもこれも高価な品々ばかりで八百比丘尼は呆れてしまいました。
「神獣と呼ばれる玉藻前が情けない。やはり龍ヶ池で仕置きをしてもらわなければ」
「仕置きなんぞされるものか」
2人は口々に言いながら龍ヶ池に向かっていると、木の上からガサガサと音がしました。
「猿かねぇ」
玉藻前が見上げると「きゃぁ」というか細い声と共に生き物が落ちて来ました。
八百比丘尼は小声でしゅを唱え、生き物を宙に浮かせます。
「まぁ、姫君ではないか」
八百比丘尼は驚きながら、腕に抱きかかえると姫君の手から何かが落ちました。
「あぁ、柿が・・・・・・」
姫君の手から離れた柿は転がって草叢へ消えて行きます。それを見た姫君は目にいっぱい涙を溜め泣き出しました。
乳母めのとに食べさせたかったのに」
姫君の身なりは良く、柿1つで泣くようには見えません。しかし、腕や脚はとても細いうえ、腹の虫まで鳴いています。
「おや、何も食べてないのかい」
玉藻前が聞きますと、姫君は頷きました。
「食べるものがなくなったの。乳母は自分の分も私にくれていたから、起き上がれなくなったの」
泣きながらも懸命に状況を話す様子がいじらしく、八百比丘尼は見捨てることができません。
「他にも女房達はいるでしょう。何をしているのかしら」
八百比丘尼が優しく訊ねると姫君は泣くのを止め、八百比丘尼を真っ直ぐに見つめます。
その凜とした眼差しに八百比丘尼は賢そうな姫君だと思うと同時に、姫君が纏う空気の清らかなことに感嘆かんたんしておりました。
「女房や下女達は皆、逃げました。私が狐憑きだからと言って」
「まぁ、酷い。畜生ちくしょう(動物)だって、子供を見捨てたりしないのにさ」
物の怪である玉藻前が憤ります。
「では、何日も食べておられないのですか」
八百比丘尼の問いに、姫君は玉藻前を指さしました。
「あの狐さんより、小さな狐さんが食べ物を運んで来てくれたから、それを食べていました。でも、ずっと雨だったから狐さんが来られなくなってしまったの。そうしたら、朝から乳母が起き上がれなくなってしまったの」
八百比丘尼は玉藻前を九尾狐と見破った眼力がんりきに感嘆します。
そして、姫君を放り出すと後々、大変なことになると思い「姫君の力になりましょう」と、玉藻前と一緒に姫君の屋敷へ向かうことにしたのです。
屋敷は立派な建物ですが中はがらんとしており、物は片付いていません。庭は荒れ果てて見る影もありません。
とても、貴族の別邸とは思えず、姫君のすさんだ暮らしぶりが伺えました。
どうやら、女房や下女達が姫君の側を離れたのは何ヶ月も前のようです。
姫君の案内で乳母に会うと何日も満足に食べていないのか、起き上がる力もない程に弱っていました。
乳母の話から姫君は式部卿宮の娘で鈴宮様であり、まだ四つだと知って2人は腰を抜かすほど驚きました。
鈴宮様の身体は小さく、幼さも残っておりましたが表情が大人びていたので、もう少し年上だと思っていたのです。
「まさか、宮様とあろうお方がこのような仕打ちをなさるとは」
八百比丘尼は驚きましたが、玉藻前は何か思いついたようです。
「私が食料を持ってくるよ」
「ついでに人間の女を女房として連れてきてくれないか」
「あてがあるのかい」
狐憑きと呼ばれ恐れられている宮様の女房は並の女では務まりません。
「えぇ、宮様と同じような理由で屋敷に閉じ込められている娘や子供を知っています」
「それは、打ってつけじゃないか。わかった。連れて来よう」
玉藻前はそう言うと、男から貰ったという菓子を山ほど置いて出て行きました。
八百比丘尼は宮様と乳母に菓子を食べさせると、近くに潜んでいる物の怪達に食べ物を持ってくるように頼みました。
すると、次々と果物や薬草が集まりました。
「ねぇ、貴方も物の怪なの?」
鈴宮様は八百比丘尼を不思議そうな目で見つめます。八百比丘尼は苦笑しながら、自分の正体を明かしました。
「ですから、私は人間でも物の怪でもありません」
「そうなの。私と同じね」
宮様は寂しそうに俯かれます。
「まぁ、鈴宮様は人間ですよ。ただ、他の人には使えない力が使えるだけです」
「・・・・・・。そうかしら」
「そうですよ。今、先程の玉藻前が、鈴宮様と同じような力を持つ娘や子供を連れて来ます。きっと仲良くできますよ」
「まぁ、うれしい。楽しみだわ」
鈴宮様は満面の笑みを八百比丘尼に見せます。
八百比丘尼は鈴宮様の愛らしい笑顔を見ながら、この方はきっと都でも評判の美女になるであろうと予感します。ただ、両親に捨てられたうえ、都で「狐憑きの宮様」と噂されている状況を思うと、あまり良い将来を描くことができず胸を痛めるのでした。
一方で玉藻前は美女に変化して式部卿宮様に近づき、床まで連れ込むと九尾狐の姿を見せて正体を現して見せます。
驚きのあまり、声を出すこともできない式部卿宮様に玉藻前は囁きました。
「山奥の別邸に捨ててきた宮様のこと、帝の耳に入ったらどうなるだろうねぇ。それとも、このまま私の子にしようか」
式部卿宮様は恐怖の余り声も出せませんでしたが、なんとか首を振って拒絶の意を表します。
「だったら、女房や家司けいし下男げなん下女げじょをしっかり付けておきな。でないと本当に攫ってしまうよ。あんな綺麗な子、そうそういないからね」
玉藻前はそう言うと式部卿宮様の部屋から高価な品々を持ち出して、姿を消しました。
数日後、次々と現れる女房や家司、下男、下女を希望する者達を式部卿宮様は御仏のお導きとありがたく思って別邸へ送り込むのでした。
それから1月ひとつき後、滋養のある物を食べて休養した乳母は起き上がれるようになりましたが、無理がたたったのか病を患っており、里へ帰ることが決まります。
しかし、乳母は大切な鈴宮様を物の怪達に託すことが不安でなりません。
ところが、1月の間に鈴宮様は八百比丘尼や玉藻前が連れてきた、自分と同じような力を持つ女房や家司と打ち解けておられます。
「まだ頑是がんぜない鈴宮様を置いていくのは、心苦しいでしょう。まして、私のような人間とも物の怪ともわからない者に預けていくのですから。ですが、私は不老不死の身ですけれど、この身を鈴宮様に捧げるつもりで御守りいたします。どうか、安心して養生なさってくださいまし」
八百比丘尼の説得で乳母は覚悟を決めたのか、迎えに来た親族と共に屋敷を去って行きました。
鈴宮様は別れ際まで乳母に甘えていましたが、迎えが来ると八百比丘尼の手を握りしめて涙も見せずに見送ります。
そのいじらしさに玉藻前や女房、家司、下男、下女達はそっと目元を拭うのでした。
乳母が去ってからは八百比丘尼が中心となって鈴宮様のお世話をいたします。
鈴宮様の手習いや貴族に必要な教養を八百比丘尼や知識を持つ物の怪が教え込み、玉藻前は都で食べ物の他に着物や扇などを揃える役割を担っておりました。
鈴宮様を狐憑き扱いした女房の中には、逃げ出す時に鈴宮様の着物や小物を持ち逃げした不届き者までいたのです。
ですから、ご自分の着物が届くまで鈴宮様は幼い頃に着ていた着物を直して着ておりました。
「どうだい。あたしの見立ては間違っていなかっただろう」
新しい着物を着た鈴宮様を見て玉藻前は得意げに笑って見せます。
「馬鹿を言うでないよ。鈴宮様は何をお召しになってもお似合いになるのです」
八百比丘尼は「ねぇ」と鈴宮様に微笑まれます。
「玉藻前ありがとう。気に入った」
鈴宮様はじっくりと着物を眺めて礼を言うと玉藻前も相好を崩しました。
「八百比丘尼」
「なんでしょう。鈴宮様」
「こんなに綺麗な着物はいつ着ればいいの」
「毎日着るのですよ。鈴宮様は宮様なのですから」
八百比丘尼は申し上げますが、鈴宮様は考え込みます。
「見せる相手もいないのに?」
「見せるために着るのではありません。一流の物を身に纏えば、一流の人になれるのですよ。中身が伴わない人間が一流の物を身に纏っても、醜悪なだけです」
八百比丘尼の説明に鈴宮様は再び、腕を広げて着物を見下ろします。
「・・・・・・。そう。では、毎日手習いをがんばらないといけない」
「えぇ、そうですよ。本当に、鈴宮様はさとくていらっしゃる」
八百比丘尼は満足そうに頷きます。
実際、鈴宮様は物覚えが良く、女子おなごにしておくのが惜しいほどでした。
それに加えて、この国を長年生きてきた八百比丘尼が母親気取りでいるので、さぞかし婿取りが大変だろうと玉藻前は思うのでした。
八百比丘尼は、その後も鈴宮様には貴族の娘に必要な教養を学ばせておりましたが、鈴宮様が七つになる頃からは、弓矢を教えるようになりました。
「鈴宮様に弓矢なんぞ教えてどうするのさ」
玉藻前は無駄なことを、と呆れておりますが八百比丘尼は真顔でした。
「鈴宮様の力を効果的に使うには、弓矢がいいと思ってね。昔、似たような力を持った女子が、弓矢で物の怪を退治していたのを思い出したのだよ」
「なるほど。伊達に年取ってないねぇ」
「お互い様でしょう」
八百比丘尼は玉藻前を睨みます。
「まぁ、鈴宮様と弓矢は相性が良さそうだし、これからは夜這いの危険もあるから役に立つだろう」
玉藻前は睨まれたことなど気にせずに、夢中で弓を放つ鈴宮様を見守っておりました。
「それより、大丈夫だろうね。お前のせいで、鈴宮様が危険な目に遭うようなことはないだろうね」
八百比丘尼が先程よりもずっと真剣な顔で玉藻前を睨みます。
「なんのことさ」
「とぼけるんじゃないよ。最近、都に行くたびに男を引っかけているだろう。子飼いの狐が白状したよ」
「あぁ、そのことなら違う。昔、ちょっと遊んでやった男にばったり会っちまっただけさ。鈴宮様に迷惑をかけるようなことじゃないさ」
玉藻前は悪戯いたずらが見つかった子供のように首をすくめて言い訳をしますが、八百比丘尼の顔は険しくなるばかり。
「本当だろうね。嘘だったら龍ヶ池へ放り込むよ」
思わず八百比丘尼が声を上げると、弓を放っていた鈴宮様が駆け寄って来ました。
「八百比丘尼、どうした。そんな怖い顔をして」
八百比丘尼は鈴宮様を見ると表情を一変させてにこやかな顔を見せます。
「いいえ。なんでもありません」
「また、玉藻前が何か言ったのか」
察しの良い鈴宮様は八百比丘尼が声を上げた原因を言い当ててみせます。
「まぁ、バレてしまいましたか。ちょっと揶揄からかっただけなのにさ。八百比丘尼は頭が固いから、嫌になっちまう」
玉藻前が笑って見せると、鈴宮様は真顔で玉藻前を叱りました。
「それは玉藻前が悪い。真面目にやっている者を揶揄うでない」
八百比丘尼が上に立つ者として教育しているせいか、年齢の割にしっかりとした気性に育っておられました。
「申し訳ございません」
玉藻前は謝るしかありません。
玉藻前にとっても鈴宮様は特別な存在です。
我が子のような存在であり、神獣として仕えるのに申し分のないと気品と、力の素養を持っている唯一無二のお方でした。
その後も鈴宮様は熱心に弓矢の稽古に励み、腕を磨いていました。
そんな或日の夜更け、八百比丘尼の嫌な予感が的中したのです。
「うつくしと あがおもふいもは はやもしなぬか いけりとも われによるべしと ひとのいはなくに」
暗闇から男の声が聞こえました。
男は「いくら思っても、なびかないなら貴方など死んでしまえばいい」と詠みながら近づいて来ます。
「うつくしと あがおもふいもは はやもしなぬか いけりとも われによるべしと ひとのいはなくに」
八百比丘尼は目をこらして闇を見つめますが、男の姿は闇に紛れて見えません。
「誰だろうねぇ。万葉集だか、柿本人麻呂の歌集だかの気味の悪い歌じゃないか」
いつの間にか現れた玉藻前が八百比丘尼に囁きました。
「お前を恨みながら詠んでいるのでしょう」
八百比丘尼は呆れた顔で玉藻前を睨みつけます。
「心当たりがありすぎて誰だかわからないね」
玉藻前は腕組みをして考えますが、「やっぱりわからない」とすぐに諦めてしまいました。
「まぁ、来てしまったものは仕方がない。鈴宮様に気がつかれないうちに片付けよう」
「いや、もう遅いよ。八百比丘尼」
玉藻前が目配せし、八百比丘尼がその先を見ると鈴宮様が目を擦りながら御帳台から出て来ました。
「変な気配がする。誰か来たのか」
八百比丘尼の隣に座ると、少しぼんやりした口調で2人の顔を交互に見つめます。
「えぇ、そのようです」
「玉藻前が悪さをしたから、恨んで出て来たようです。鈴宮様に関係はありません。さぁ、気にせずお休みください」
八百比丘尼は穏やかに言い聞かせますが、鈴宮様は首を振ります。
「玉藻前に何かあったらどうする」
「玉藻前はこう見えても強いのですから、任せておけば大丈夫ですよ」
八百比丘尼は「何か言え」と玉藻前を睨みました。
「・・・・・・。えぇ、私一人で大丈夫です。さっさと片付けて来ます」
玉藻前は八百比丘尼の視線に耐えられないとばかりに、声のする庭へ出て行きました。
「さぁ、鈴宮様はお休みになりましょうね」
「八百比丘尼。これは相当、強いぞ」
すっかり目が覚めた鈴宮様は、何かを感じ取った様子で八百比丘尼に声をかけました。
「そうでしょうか」
八百比丘尼には玉藻前に敵うほど手強いとは思えません。
半信半疑で八百比丘尼は簀の子すのこ(縁側)まで出た鈴宮様を追いかけました。
すると、庭で玉藻前と男が対峙しています。
男の身なりは貴族のようですが背中には弓矢を背負っています。しかし、髪はほつれ顔もやつれ、男の姿全体がぼやけて青白く光っていました。
「亡霊のようですね。やはり、玉藻前に騙された男でしょう。鈴宮様、お部屋に入りましょう」
八百比丘尼が部屋へ戻るように促した刹那、男が玉藻前に飛びかかりました。
「玉藻前」
叫ぶと共に鈴宮様は簀の子を蹴って庭へ飛び出しました。
「鈴宮様」
玉藻前は鈴宮様を受け止めると小袿こうちぎの中へ入れ、男の目から隠します。
「なんだ。今のは。美味そうだ」
男がしわがれた声で叫びました。
「お前のような下衆げすが目にして良い方ではないわ」
玉藻前は本性を現して狐火を投げつけながら男から鈴宮様を離しますが、狐火の攻撃は男には効かない様子で、男は手で払いのけながら鈴宮様を目掛けて近寄って来ます。
「玉藻前。そいつは鬼だ。亡霊から鬼になっている」
八百比丘尼は簀子から鈴宮様を護るために、玉藻前と男の間に透明な壁を築きましたが、いともたやすく男は通り抜けます。
八百比丘尼は舌打ちをしますが、自分の力では怨霊を相手にできても、憎悪から鬼になった者には太刀打ちできません。
男は玉藻前よりも鈴宮様に興味が移っています。鈴宮様の力が強いことが分かって、鈴宮様の身体を乗っ取ろうとしているに違いありません。
「鈴宮様・・・・・・。」
八百比丘尼は祈る思いで見守ることしかできませんでした。
玉藻前は9本の尻尾で男を払い、狐火を投げつけながら瞬時に移動しますが、男はしつこく付いて来ます。
「邪魔な狐め。これでも喰らえ」
男は弓を構え、矢を放とうとしました。
ところが、瞬時に男の後ろに回った玉藻前は弓矢ごと尻尾で振り落とします。すると、玉藻前の小袿に潜んでいた鈴宮様が出て来て、弓矢を奪い取ると男に放ちます。
眩い光を纏った矢は男の胸に刺さり、男は地鳴りのような声を上げて闇に消えて行きました。
「鈴宮様」
玉藻前と八百比丘尼が駆け寄ると、鈴宮様は崩れ落ちるように倒れてしまいました。
「本当に破魔はまの力があるとは」
八百比丘尼が弓矢の訓練をすることに疑問を感じていた玉藻前は、初めて見た鈴宮様の力に感嘆するしかありませんでした。
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