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おしら様と夏野菜の天ぷら 2
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帰ってくると橘は麓へ買い出しに出ているようで不在だった。一先ず安心しながら店先へと入る。奥の座敷に上がる前にフキのおかげで一番濡れていない飛梅がバスタオルを取りに向かった。少し薄暗い店内の電気をつけると眩しそうに目を細める少年の姿がよく見えた。
身長は150cmくらい、髪も着物も襟巻きもすべてくすみ一つない白だった。真っ白い身体に、真っ黒い両目がよく目立つ。
「襟巻きとコート脱いでくれる? 乾かすよ」
「いえ、これは取ることができないんだ」
私が襟巻きとコートだと思っていたもふもふはどうやら彼の身体の一部だったらしい。改めてこの少年は人ではないもふもふしたなにかなのだと思い知る。申し訳なさそうな少年に対し、戻ってきた飛梅がバスタオルを手に飛びかかった。まるで白い大きな犬でも拭くようにワシワシと毛皮を拭いていく。
初夏といえど雨に打たれれば冷える。薬缶を火にかけながら、されるがままの白い塊を見やる。彼は一体何者なのだろう。
真っ白いもふもふした様子は黒い送り狼である伊地知と似ている気もする。けれど彼女のようなしっぽや頭上の耳はない。神様だとか大きな動物の妖というよりも、精霊か何かのように思える。
「ねえなんて呼べばいい? 名前ある? 種族ってわかる?」
「名前……、名前は、雪天(せってん)。それが、私の名前。私の家族が私につけてくれた。私は雪のように白いから、と」
矢継ぎ早な飛梅の質問に柔らかく、心底幸せそうに雪天は笑った。
さっき話をしたときに家や家族を探している、と言っていた。きっとその家族が名前をつけてくれたのだろう。なのに今はもうどこにいるかもわからない。
「ねえ、雪天。あなたの覚えてることもっと教えて。もしかしたらその家族のこととか地域くらいならわかるかもしれない。あてもなく歩くより、いいと思うから」
安請け合いをするなと橘には怒られそうだ。けれど話を聞くだけなら、もしかしたら帰る場所のヒントくらいにはなれるかもしれない。
「ありがとう、ええ、なんて呼べばいいかな」
「私は飛梅。それでこっちの大きいほうがベニ」
「そう、ありがとう。よろしく、飛梅、ベニ」
何も考えず本名を名乗ろうとしたのを察したのか、飛梅がすべてセリフを掻っ攫っていた。橘から決して本名を余所で名乗ってはいけないと言いつけられていたのを完全に忘れていた。名前は本人の現す本質であり、核である。本当に信用のできる者にしか教えてはいけないと。彼に言わせれば初対面の妖など、もっての外だろう。落ち着いて静かだから、つい警戒心を解いてしまっていた。
ジト目の飛梅に苦笑いしながら、私達はテーブルについた。
「私のいた場所はたくさんの緑がある場所だった。山が見えて、それから畑も見えた。緑豊かで、きれいなところ。家族はたくさんいた。兄弟が何人もいて、私達の世話を一番大きな兄がしていたんだ。一番大きな兄はよく笑ってた。私達兄弟の世話を甲斐甲斐しくしていて、ご飯を食べるのも兄はいつも最後だった。私達がご飯を食べているのを、いつも嬉しそうにじっと見ていた」
遠く大切なものを宝箱から取り出して私たちに見せるように、彼は話した。
「私のいたところは高いところ。いつも家の上の階にいて、空が近くて、山や田んぼを見渡すことができた。兄は、特に私のことをかわいがってくれた。自惚れじゃなくて、私のことをかわいいかわいい、綺麗だと言って。とても、とてもうれしかった。たくさんいる兄弟の中で、一番大きな兄が私を殊に構ってくれるのが、うれしかった」
真白の頬を少しだけ紅潮させ話す。シュンシュンと音を薬缶が音を立てたため、話の腰を折るようで申し訳ないが、薬缶と茶葉を取りに立ち上がる。
雪天の話を聞いても、いまいち要領を得ない。彼の話す景色はとても特定できそうなものじゃない。そのような田舎、この国のあらゆる場所にあるだろう。せめて彼が一体「何なのか」正体がわかれば絞れるのだろうけれど。
戸棚から凍頂烏龍茶の茶葉とハトムギを4:1の比率ですくい、薬缶に放り込む。弱火で5分程度煮詰めれば、立派な薬膳茶の完成だ。覚えたものは試したいお年頃である。
「セッテンはお兄ちゃんのことが大好きなのね」
「……ええ、ええ、本当に優しい兄なんだ。だからはぐれてしまって、とても悲しい。早く兄のところへ帰りたい。きっと兄も、心配している」
雪天はただただ純粋に家へ帰りたがっているのがわかって胸が痛んだ。いつから彷徨っているのだろう。何度途方に暮れながら雨に打たれていたのだろう。それすら私にはわからない。
雪天は飛梅が言っていたように、悪いものには見えなかった。本当にただ迷子になってしまって、それで偶然、この花橘の傍で立ち止まった。すべては偶然だろう。けれど話を聞いたからには何か力になりたかった。
何気なく顔を上げると格子窓の向こうに雲の切れ目が見えた。
「お兄さんの名前はわかる?」
「ええ、兄の名はキョウジ。掃き出し窓の外から、学友にそう呼ばれていた。兄は友達も多く、よく遊びに誘われてた。けれど、ああ、私たちの世話をするために断っていることも度々あり、心苦しかった」
火にかけていた薬缶を下ろし、ガラスのポットに注ぎ込む。香ばしい麦が鼻を通り抜けた。雪天たちの座るテーブルにポットを置きカップへと注いでいく。いつも間にか雪天の白い毛は乾いてきていて、柔らかさが戻ってきていた。
「ほかに何か覚えてない? 地名とか、山の名前とか」
「ああ……あえて地名について私たちに話すことがなかったから……。ただ冬にはよく雪が降る土地だった。屋根は雪下ろしのしやすいようにされていたようで、そう、いつも雪かきに駆り出されると兄はぼやいていました」
「雪の降るところ……日本海側とか?」
「岩手? 岩手なら私と出身地一緒だよ」
国内でよく雪が降る地域というとかなり絞られる。それこそ各地の写真を見せればもしかしたら雪天がどこから来たかわかるかもしれない。具体的に探せそうなのを察してか、雪天の顔も明るくなる。
だからか私たちはこの店の主人が帰ってきたことに、彼が戸を開けるまで気が付かなった。
「……おい、なんだそいつは」
烏龍茶で温まったはずの身体が一瞬にして冷え切った。
「雪天、な」
一通り、勝手に客を上げたこと、得体のしれないものを招き入れたことを飛梅とともに怒られてから橘は顎を撫でて、大きな体を縮めるようにして椅子に座る雪天を見た。雨のせいですっかりしぼんでいたが、雪天は意外と身体が大きかった。というより毛量が多いのだろう。もこもことしていて、まるでポメラニアンのようだ。
「橘さん?」
「ベニ、手伝え。飯だ」
雪天にはそれ以上言及せず、橘は麓の街で買ってきたらしい食材たちをキッチンに並べ始めた。手伝えといわれたからには手伝うが、雪天をほとんど放置するのは少し気が引けた。少なくとも、橘は彼のことを真っ先に何とかすると思ったのだが、私と飛梅から簡単に話を聞いただけで、雪天とは挨拶以外まともに話していない。どれほどお腹が減っているというのだろうか。
「今日頼んだ葉、採ってきてるか。10枚程度、柔らかくて先が割れてるやつ寄越せ」
「え、あ、はい!」
慌てて籠に入れた葉っぱの中から言われたものを探す。葉をとってこいと言いつけられたが、同じ木から丸い葉や先の割れた葉があってよくわからなかった。よくわからないなりにどっちでもいいかと両方とってきた自分の適当さを今は褒めたい。
ようやく選び取って橘に渡す。まな板の上には小茄子、筍、アスパラガス、なんだかわからない魚が乗っていた。
「鰆だ」
そんなことを知らないのか、と言いたげな声が上から降ってきてむっとする。何も言ってないというのに、先回りされて馬鹿にされるのはいただけない。
私の不機嫌などお構いなしに橘は私に大きなボウルを押し付ける。すでに卵と小麦と水が入っていた。何も言わず渡されたことを不満に思いながらも、ここで無視したら察しが悪いだなんてまた鼻で笑われるのが目に見えてる。仕方なく菜箸でボウルの中身をかきまぜた。
「天ぷらですね」
「正解。下ごしらえしてるから混ぜ終わったら鍋に油入れとけ」
橘の作る料理はことごとくおいしいので、私は粛々と雑務に励む。曰く、旬のものを使うからおいしいのだと。夏野菜の天ぷら、おいしくないはずがない。
「アスパラガスの天ぷらなんてあるんですね」
「お前が言ってるのは虎杖のことか?」
「……イタドリの天ぷらなんて初めて食べます」
口を開けば恥の上塗りだ。もうこれ以上喋るまいと、おとなしく鍋に油を注いだ。イタドリ、名前は知っているが見たことも食べたこともない。同じ轍を踏まないように、まな板の上のイタドリを網膜に焼き付けた。
「ベニちゃん、セッテン乾いたよー! ふわふわ!」
橘が天ぷらを揚げ、私が天つゆを作っている間に雪天の毛皮はすっかり乾いたらしい。振り向くと綿毛のような体に抱き着く飛梅がいた。萎んでいた襟巻きもすっかり乾いて膨らみ、思わず触りたくなってしまう。
「もう全部揚がる、食器出せ。あと茶碗も。飛梅も遊んでねえで手伝え」
「私、筍の天ぷら食べたい! 一番大きいの」
「へえへえ」
「あの、私も」
「あんたは座ってろ」
一人待つのに耐えられなかったのか、雪天が立ち上がろうといたのを橘は言葉少なに制した。びくりと怯えたように体を震わせたのを見て、橘をじとっと見やるとバツの悪そうな顔をした。
「……あんたは一応客だ。それにそのでかい躰で歩き回られちゃ棚の上のもんとか引っ掛けるだろ。もうできるからおとなしく待っててくれ」
橘は言葉がいつも足りない。怖い人でも厳しすぎる人でもないのだが、いかんせん強面なうえにぶっきらぼうだ。もう少し態度を改善すればもっとお客も来るだろうに。
茶碗にご飯を盛り、飛梅に渡す。天つゆと塩の小皿を置くのと同時に、橘が大皿に盛った天ぷらをテーブルの真ん中に出した。
「左から、小茄子、虎杖、鰆、筍、桑葉だ」
「桑葉、って桑の葉か。食べられるんですね」
「ああ、桑は根、枝、葉、実、すべてが生薬になる。来週あたり黒く熟した実をとってこい。桑椹は果実酒やジャムにできる」
今日見た桑の木にはすでに赤い実がいくつもなっていた。小さな赤い粒が鈴なりになっていて、ラズベリーと少し似ていた。飛梅に言われ未熟な実を積むことなく葉だけを摘み取ってきたが、あのきれいな実で籠いっぱいにしたらきっと宝石箱のように見えるだろう。
「それじゃ、いただきます」
手を合わせる橘に続いて復唱する。雪天も見様見真似で手を合わせていた。
アツアツの衣を纏った天ぷらは見ているだけで涎が出てくる。天つゆを付けた小茄子にかぶりつくとじゅわりと茄子の香りが口の中に広がる。火傷しないように頬張ると甘い油と爽やかな茄子で口がいっぱいになる。初めて食べるイタドリの天ぷらは塩をつけて口に放り込む。サクサクとした衣と茎の食感を楽しんでいると、後から甘酸っぱさがやってくる。葉を毟られた見た目がアスパラガスと似ていたけれど、味は全く違う。歯ごたえがあって独特の酸味がある。天ぷらうどんに入れて食べたい。
「おいしい……!」
「筍おいしー、お魚もふわふわー」
桑の天ぷらにも箸を向ける。見た目は形の変わった大葉のようだ。口に入れるとサクサクとした衣が小気味良い。薄い葉で味は淡泊だけれど少し粘り気があってモチモチしている。薄さに反した不思議な食感に無言で咀嚼してしまう。飲み込んでしまえばどこか口寂しく、二つ目を口に運びたくなってしまう。
しかしそこで雪天が天ぷらに口をつけていないことに気が付いた。箸は持てているので食べ方がわからない、というわけではないだろう。
「セッテン、どうした? お腹空いてない?」
飛梅が心配そうに顔を覗き込んだ。雪天は困ったように箸を彷徨わせて、そして下ろした。よく見れば雪天は私が淹れた烏龍茶にも口をつけていなかった。
「雪天、無理するな」
「いえ、これは」
「お前はものが食べられない。そうだな?」
身長は150cmくらい、髪も着物も襟巻きもすべてくすみ一つない白だった。真っ白い身体に、真っ黒い両目がよく目立つ。
「襟巻きとコート脱いでくれる? 乾かすよ」
「いえ、これは取ることができないんだ」
私が襟巻きとコートだと思っていたもふもふはどうやら彼の身体の一部だったらしい。改めてこの少年は人ではないもふもふしたなにかなのだと思い知る。申し訳なさそうな少年に対し、戻ってきた飛梅がバスタオルを手に飛びかかった。まるで白い大きな犬でも拭くようにワシワシと毛皮を拭いていく。
初夏といえど雨に打たれれば冷える。薬缶を火にかけながら、されるがままの白い塊を見やる。彼は一体何者なのだろう。
真っ白いもふもふした様子は黒い送り狼である伊地知と似ている気もする。けれど彼女のようなしっぽや頭上の耳はない。神様だとか大きな動物の妖というよりも、精霊か何かのように思える。
「ねえなんて呼べばいい? 名前ある? 種族ってわかる?」
「名前……、名前は、雪天(せってん)。それが、私の名前。私の家族が私につけてくれた。私は雪のように白いから、と」
矢継ぎ早な飛梅の質問に柔らかく、心底幸せそうに雪天は笑った。
さっき話をしたときに家や家族を探している、と言っていた。きっとその家族が名前をつけてくれたのだろう。なのに今はもうどこにいるかもわからない。
「ねえ、雪天。あなたの覚えてることもっと教えて。もしかしたらその家族のこととか地域くらいならわかるかもしれない。あてもなく歩くより、いいと思うから」
安請け合いをするなと橘には怒られそうだ。けれど話を聞くだけなら、もしかしたら帰る場所のヒントくらいにはなれるかもしれない。
「ありがとう、ええ、なんて呼べばいいかな」
「私は飛梅。それでこっちの大きいほうがベニ」
「そう、ありがとう。よろしく、飛梅、ベニ」
何も考えず本名を名乗ろうとしたのを察したのか、飛梅がすべてセリフを掻っ攫っていた。橘から決して本名を余所で名乗ってはいけないと言いつけられていたのを完全に忘れていた。名前は本人の現す本質であり、核である。本当に信用のできる者にしか教えてはいけないと。彼に言わせれば初対面の妖など、もっての外だろう。落ち着いて静かだから、つい警戒心を解いてしまっていた。
ジト目の飛梅に苦笑いしながら、私達はテーブルについた。
「私のいた場所はたくさんの緑がある場所だった。山が見えて、それから畑も見えた。緑豊かで、きれいなところ。家族はたくさんいた。兄弟が何人もいて、私達の世話を一番大きな兄がしていたんだ。一番大きな兄はよく笑ってた。私達兄弟の世話を甲斐甲斐しくしていて、ご飯を食べるのも兄はいつも最後だった。私達がご飯を食べているのを、いつも嬉しそうにじっと見ていた」
遠く大切なものを宝箱から取り出して私たちに見せるように、彼は話した。
「私のいたところは高いところ。いつも家の上の階にいて、空が近くて、山や田んぼを見渡すことができた。兄は、特に私のことをかわいがってくれた。自惚れじゃなくて、私のことをかわいいかわいい、綺麗だと言って。とても、とてもうれしかった。たくさんいる兄弟の中で、一番大きな兄が私を殊に構ってくれるのが、うれしかった」
真白の頬を少しだけ紅潮させ話す。シュンシュンと音を薬缶が音を立てたため、話の腰を折るようで申し訳ないが、薬缶と茶葉を取りに立ち上がる。
雪天の話を聞いても、いまいち要領を得ない。彼の話す景色はとても特定できそうなものじゃない。そのような田舎、この国のあらゆる場所にあるだろう。せめて彼が一体「何なのか」正体がわかれば絞れるのだろうけれど。
戸棚から凍頂烏龍茶の茶葉とハトムギを4:1の比率ですくい、薬缶に放り込む。弱火で5分程度煮詰めれば、立派な薬膳茶の完成だ。覚えたものは試したいお年頃である。
「セッテンはお兄ちゃんのことが大好きなのね」
「……ええ、ええ、本当に優しい兄なんだ。だからはぐれてしまって、とても悲しい。早く兄のところへ帰りたい。きっと兄も、心配している」
雪天はただただ純粋に家へ帰りたがっているのがわかって胸が痛んだ。いつから彷徨っているのだろう。何度途方に暮れながら雨に打たれていたのだろう。それすら私にはわからない。
雪天は飛梅が言っていたように、悪いものには見えなかった。本当にただ迷子になってしまって、それで偶然、この花橘の傍で立ち止まった。すべては偶然だろう。けれど話を聞いたからには何か力になりたかった。
何気なく顔を上げると格子窓の向こうに雲の切れ目が見えた。
「お兄さんの名前はわかる?」
「ええ、兄の名はキョウジ。掃き出し窓の外から、学友にそう呼ばれていた。兄は友達も多く、よく遊びに誘われてた。けれど、ああ、私たちの世話をするために断っていることも度々あり、心苦しかった」
火にかけていた薬缶を下ろし、ガラスのポットに注ぎ込む。香ばしい麦が鼻を通り抜けた。雪天たちの座るテーブルにポットを置きカップへと注いでいく。いつも間にか雪天の白い毛は乾いてきていて、柔らかさが戻ってきていた。
「ほかに何か覚えてない? 地名とか、山の名前とか」
「ああ……あえて地名について私たちに話すことがなかったから……。ただ冬にはよく雪が降る土地だった。屋根は雪下ろしのしやすいようにされていたようで、そう、いつも雪かきに駆り出されると兄はぼやいていました」
「雪の降るところ……日本海側とか?」
「岩手? 岩手なら私と出身地一緒だよ」
国内でよく雪が降る地域というとかなり絞られる。それこそ各地の写真を見せればもしかしたら雪天がどこから来たかわかるかもしれない。具体的に探せそうなのを察してか、雪天の顔も明るくなる。
だからか私たちはこの店の主人が帰ってきたことに、彼が戸を開けるまで気が付かなった。
「……おい、なんだそいつは」
烏龍茶で温まったはずの身体が一瞬にして冷え切った。
「雪天、な」
一通り、勝手に客を上げたこと、得体のしれないものを招き入れたことを飛梅とともに怒られてから橘は顎を撫でて、大きな体を縮めるようにして椅子に座る雪天を見た。雨のせいですっかりしぼんでいたが、雪天は意外と身体が大きかった。というより毛量が多いのだろう。もこもことしていて、まるでポメラニアンのようだ。
「橘さん?」
「ベニ、手伝え。飯だ」
雪天にはそれ以上言及せず、橘は麓の街で買ってきたらしい食材たちをキッチンに並べ始めた。手伝えといわれたからには手伝うが、雪天をほとんど放置するのは少し気が引けた。少なくとも、橘は彼のことを真っ先に何とかすると思ったのだが、私と飛梅から簡単に話を聞いただけで、雪天とは挨拶以外まともに話していない。どれほどお腹が減っているというのだろうか。
「今日頼んだ葉、採ってきてるか。10枚程度、柔らかくて先が割れてるやつ寄越せ」
「え、あ、はい!」
慌てて籠に入れた葉っぱの中から言われたものを探す。葉をとってこいと言いつけられたが、同じ木から丸い葉や先の割れた葉があってよくわからなかった。よくわからないなりにどっちでもいいかと両方とってきた自分の適当さを今は褒めたい。
ようやく選び取って橘に渡す。まな板の上には小茄子、筍、アスパラガス、なんだかわからない魚が乗っていた。
「鰆だ」
そんなことを知らないのか、と言いたげな声が上から降ってきてむっとする。何も言ってないというのに、先回りされて馬鹿にされるのはいただけない。
私の不機嫌などお構いなしに橘は私に大きなボウルを押し付ける。すでに卵と小麦と水が入っていた。何も言わず渡されたことを不満に思いながらも、ここで無視したら察しが悪いだなんてまた鼻で笑われるのが目に見えてる。仕方なく菜箸でボウルの中身をかきまぜた。
「天ぷらですね」
「正解。下ごしらえしてるから混ぜ終わったら鍋に油入れとけ」
橘の作る料理はことごとくおいしいので、私は粛々と雑務に励む。曰く、旬のものを使うからおいしいのだと。夏野菜の天ぷら、おいしくないはずがない。
「アスパラガスの天ぷらなんてあるんですね」
「お前が言ってるのは虎杖のことか?」
「……イタドリの天ぷらなんて初めて食べます」
口を開けば恥の上塗りだ。もうこれ以上喋るまいと、おとなしく鍋に油を注いだ。イタドリ、名前は知っているが見たことも食べたこともない。同じ轍を踏まないように、まな板の上のイタドリを網膜に焼き付けた。
「ベニちゃん、セッテン乾いたよー! ふわふわ!」
橘が天ぷらを揚げ、私が天つゆを作っている間に雪天の毛皮はすっかり乾いたらしい。振り向くと綿毛のような体に抱き着く飛梅がいた。萎んでいた襟巻きもすっかり乾いて膨らみ、思わず触りたくなってしまう。
「もう全部揚がる、食器出せ。あと茶碗も。飛梅も遊んでねえで手伝え」
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「へえへえ」
「あの、私も」
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「……あんたは一応客だ。それにそのでかい躰で歩き回られちゃ棚の上のもんとか引っ掛けるだろ。もうできるからおとなしく待っててくれ」
橘は言葉がいつも足りない。怖い人でも厳しすぎる人でもないのだが、いかんせん強面なうえにぶっきらぼうだ。もう少し態度を改善すればもっとお客も来るだろうに。
茶碗にご飯を盛り、飛梅に渡す。天つゆと塩の小皿を置くのと同時に、橘が大皿に盛った天ぷらをテーブルの真ん中に出した。
「左から、小茄子、虎杖、鰆、筍、桑葉だ」
「桑葉、って桑の葉か。食べられるんですね」
「ああ、桑は根、枝、葉、実、すべてが生薬になる。来週あたり黒く熟した実をとってこい。桑椹は果実酒やジャムにできる」
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「おいしい……!」
「筍おいしー、お魚もふわふわー」
桑の天ぷらにも箸を向ける。見た目は形の変わった大葉のようだ。口に入れるとサクサクとした衣が小気味良い。薄い葉で味は淡泊だけれど少し粘り気があってモチモチしている。薄さに反した不思議な食感に無言で咀嚼してしまう。飲み込んでしまえばどこか口寂しく、二つ目を口に運びたくなってしまう。
しかしそこで雪天が天ぷらに口をつけていないことに気が付いた。箸は持てているので食べ方がわからない、というわけではないだろう。
「セッテン、どうした? お腹空いてない?」
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