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鬼女と小金の胡麻団子 3
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大きな鳥居をくぐると参道の左右にはすでに出店と思しきテントが張られ、頭上には明りの灯されていない提灯がぶら下がる。すっかり夏祭りらしい風体となっていた。
「いいねいいね! 祭りは昔から大好き! この浮足立つような感じ。そして夜に私のような子供が出歩いても見咎められない都合の良さ!」
「いや、たぶんあと1時間もすれば見咎められるよ……」
まだ夕方だからこそ10歳にも満たないくらいの見た目の飛梅でも歩いていられるのだ。祭りの当日ならともかく、今日は日が沈んでも出歩く子供がいれば当然保護されてしまう。
「でもなんにせよ今日はベニちゃんがいるからね。お姉ちゃんについてきた妹と思えば悪目立ちしないよ」
赤い着物の袖を翻しきゃらきゃらと笑うが、目立つには目立つだろう。祭り当日でない分、今日境内にいるほとんどが祭りの関係者たちだ。日が沈む前に早くこの風呂敷を飽海宮司に渡し、花橘に帰った方がいいだろう。
「行こ、アクミちゃんは奥のお社か社務所にいるから」
「飽海ちゃん……」
とてつもなくフランクだ。花橘に来てから長いのならこの芦原神社の宮司との付き合いも長いのかもしれないが、この小さな女の子から大人がちゃん付けで呼ばれている光景はなかなかだ。ただ改めて飛梅は実質いくつなのだろうという疑問がよぎった。
しばらく歩いていくと大きな社が奥に見えた。ひときわ提灯が増え、赤いのぼりが立ち並ぶ。社の横には荘厳とした神輿が鎮座ましましていた。
人が忙しなく行き交う境内に袴を履いた若い男性がいた。おそらく神社の関係者だろう。二人組の男性に飛梅が声をかける。
「ねえ、アクミちゃんいる?」
二人のうちの一人が振り向く。宮司のことをちゃん付けで呼ぶ幼女に訝し気な視線を送った後、何かに気づいたような表情を浮かべた。
「あの、もしかして花橘さんですか?」
「は、はい。花橘の遣いの者です。飽海宮司にこちらを渡すために参りました」
風呂敷を見せると、彼はぱっと笑顔になる。
「承知いたしました、宮司は社務所の中です」
「そっか、ありがとー!」
「いえ、お役に立てて光栄です」
浅葱色の袴の青年に手を振り社務所の方へと歩を向ける。ただなぜ二人のうち一人の反応が一切なかったのか不審に思ったが、背後からの会話で状況を理解した。
「おい、お前さっき何と話してたんだ?」
「飽海さんが言ってただろ! 夏祭りのころに差し入れを持ってくる“花橘”の妖がいるって! 今いたんだよ!」
「今!? いたのか、全然わからなかった。お前がいきなり一人で話し始めたのかと……」
なるほど、毎年のことと言うだけあって、あらかじめ飽海宮司が話していたらしい。
今では飛梅の姿が見えるのは当然だが、記憶のなくなった夜まで、きっと私は何も見ることができなかったのだろう。生まれつき見えていたならあの夜のようなパニックは起きなかったはずだ。
「あっちのお兄さんには飛梅が見えてるんだね」
「うん、勘のいい子には見えるよ。神職だからってみんな見えるわけじゃないけど見える子は多いね。さらに言えば日が落ち始めると私は見えやすくなるの」
「……もしかしてさ、ここに来るまでの境内とか飛梅と話してたけど、傍から見たら私ひとりごと言いながら歩いてたように見えてたんじゃ」
「……うふふふ」
飛梅は曖昧に笑って濁したが、膝から崩れ落ちたくなる。自分の知らないうちに危険な女子高生になっていたらしい。神社の境内をぶつぶつ言いながら一人で歩く私の方が幽霊か何かのようじゃないか。幸か不幸か、ここに来るまで誰かが不審な顔をしたり注目したような素振りはなかったが、気休めでしかない。
「まあまあ。だからと言って道中ずっとベニちゃんに無視されてたら私が悲しくなっちゃうから、人の目は気にしないで話してくれると嬉しいな?」
「それはそうだけど……」
ただ万が一この道中で私のことを知っている人が見たら声すらかけなさそうだ。記憶を取り戻す手掛かりが遠のいていく。
開け放たれていた扉から社務所に入ると墨のような匂いがした。
「久しぶりアクミちゃん! 頑張ってる?」
古そうな書類が束になって畳の上に落ち、年季の入った扇風機の風に煽られていた。その書類の中心には紫紺の袴の男性が一人座り、飛梅の声に顔を上げた。
「ああ飛梅さん、いらっしゃい。毎年ありがとうね。っと、そっちのお嬢さんは、初めましてかな?」
「はい、春から花橘でお世話になっています、ベニです。橘さんからこのお重と瓶を持っていくようにと」
「ありがとう、重かったよね。僕は飽海春臣。この芦原神社の宮司をしてる。炉善は高校時代の同級生だよ」
それなりに重量のあった二つの風呂敷をひょいとさらわれる。同級生、と言うが橘より幾らか若く見えた。彼と違い柔和な笑みを浮かべ、髪を刈り上げているからかもしれない。
「毎年炉善は差し入れをくれてね。こっちの酒瓶はお神酒。こっちの重箱は差し入れだね。ちょっとつまむかい?」
いそいそと風呂敷を広げる飽海が重箱の蓋を外すとつやつやとしたあずき色が顔を出した。
「わあ、おはぎですか……!」
「うん、僕甘党でね。祭りの時期は疲れて糖分が足りないなんて話をしてから一段はおはぎに使ってくれるようになってね。ほかの段にはちらし寿司とかが入っていると思うよ」
ひょいと一つ手に取るとそのまま飽海は頬張りだした。心底幸せそうに食べる飽海に思わず唾を飲み込んだ。
「相変わらず炉善の作るおはぎはおいしいなあ。あ、二人も取って。もう夕方でお腹もすいてるでしょ」
「本当? やったぁ!」
「え、いえ、私たちが食べるわけには、」
遠慮なく手を伸ばす飛梅に対して私は正解がわからない。一応今は橘からのお使い、仕事中だ。届けたものをそのまま私たちがご相伴に預かって本当にいいものなのか。
「いいよいいよ食べな。私だけ食べていたら申し訳ないし。それに他の子たちに私が先に食べたのバレたら小言を言われそうだ。お客さんと一緒に食べたって言ったら許してもらえそうじゃないか。それに誰かと食べたほうがお八つはおいしい。僕の幸せを共有するために、ベニさんも食べてもらえないかな?」
そう朗らかに笑う飽海とすでにおはぎを頬張っている飛梅に押され、私も一つ手に取った。ここまで来たらみんな共犯だ。少し大きいおはぎに齧りつくと甘い餡子と柔らかい糯米で口の中がいっぱいになる。山の中を歩いて疲れた身体に優しい甘さが染みわたる。
「んんー! 甘くてモチモチでおいしい! ロゼンあんまりお菓子作らないけど作るときは結構甘めだよね!」
「あいつもあれでいて甘党だからなあ。高校のときは甘猫堂のスイーツバイキングとか行ってたよ」
「甘猫堂?」
「ああ、駅裏の通りにある和菓子屋だよ。和菓子屋だけどケーキも売ってるし、今くらいの季節だとかき氷とかも出してるんじゃないかな。店の奥が喫茶スペースになっててね、そこでバイキングをやってたんだよ。炉善が行きたいけど一人じゃ行きづらいからってさ。いやぁ、周りが女の子ばかりで肩身が狭かったなあ。甘いものを食べる仲間がいたのはうれしかったけどね」
男子高校生二人で和菓子屋のスイーツバイキングに参戦する。今日日珍しくないといえばないが、片方が橘だと話は変わってくる。穏和でにこにことしている飽海はまだ似合うが、あのむすっとした橘がそんなかわいらしい場所でケーキや和菓子を頬張っていると思うとなんだか吹き出したくなる。出来の悪い間違い探しでも見ている気分だ。
「甘猫堂のモチノスケはたまに花橘に来るよ。看板猫の猫又なの」
「……モチノスケが猫又なのは知らなかったなぁ」
おはぎを頬張りながらなんでもないように言う飛梅に飽海が乾いた笑いをこぼした。人の街には人が思っている以上に妖や何やらが跋扈しているらしい。
「それにしても、ベニさんは甘猫堂知らないか。今どきの若い子は東雲谷の小さいお店より電車乗って都会のお洒落なカフェとかに行くのかなあ」
お兄さん寂しいなあ、などと呟く飽海に慌てて訂正を入れる。
「あの、実は私、記憶がなくて、名前と年齢くらいしか自分のこともわからないんです。それで帰れなくなってるところを拾ってもらって、記憶が戻るまで花橘に置いてもらってるんです」
「それは……、」
少し逡巡するように口を噤んだ後、飽海は静かに微笑んだ。
「……ゆっくりしていくと良いよ。記憶喪失の人が無理に記憶を呼び戻すのは危険だと聞くし、花橘でほかの人たちを見て、街を見て、少しずつ思い出していくと良いよ。きっといろんなところにヒントはある。急がなくていい。炉善も誰も、急かしたりはしないはずだ」
ゆっくりと私に言い聞かせるように言うと、麦茶の入ったコップを私に渡した。びっしりと結露した水滴が両手を濡らす。
「ここまで暑かっただろう? 水分を取ってから帰ると良い」
「いただきます」
ひやりとした麦茶は花橘で飲むものとは違う味がした。違う、ということに気づけたのは私の成長だと思ってもいいのだろうか。
「今年もお祭りは明後日の土曜日?」
「そうだよ。明日が前夜祭、明後日が当日。今年は新しく出店を出したいって話をもらってるから、去年より賑わうんじゃないかな。当日もベニさんと一緒においで。君が一人でいると迷子か何かだと思われてしまうからね」
「失礼だよね。私アクミちゃんやロゼンよりずっと年上なのに」
「いいじゃないか。無期限で子供の特権が使えるんだから。それに法も何もない妖にはお酒飲んだり煙草を吸える大人の特権はないし」
「まあね」
もう一つ、とおはぎを勧めた飽海を固辞し、私たちは梓乃の待つ境内の外へと向かった。何とか日が落ちる前に帰れそうで胸を撫でおろす。今は飛梅と梓乃がいるとはいえ、夜の山の中はいまだに怖かった。
しかし鳥居が見えたころ、飛梅が突然立ち止まった。
「飛梅、どうしたの?」
「ううん、一つベニちゃんに言っておいた方がいいことがあるかなって」
どこか歯切れの悪い話し方にえも言われない不安が頭をもたげた。
「知ったところで何かが変わることはないし、変える必要もない。でも全く知らないよりかは知っていた方がいいと思うんだ」
「……何?」
「この境内の中に入れる妖と、入れない妖の違い」
喧騒が遠く聞こえ、生ぬるい風が吹いた。
梓乃は言っていた。鬼女である梓乃は芦原神社の境内の中には入れない。座敷童である飛梅は境内の中に入れる。送り狼である伊地知は入れない。その差とその違い。
「それはね……」
「いいねいいね! 祭りは昔から大好き! この浮足立つような感じ。そして夜に私のような子供が出歩いても見咎められない都合の良さ!」
「いや、たぶんあと1時間もすれば見咎められるよ……」
まだ夕方だからこそ10歳にも満たないくらいの見た目の飛梅でも歩いていられるのだ。祭りの当日ならともかく、今日は日が沈んでも出歩く子供がいれば当然保護されてしまう。
「でもなんにせよ今日はベニちゃんがいるからね。お姉ちゃんについてきた妹と思えば悪目立ちしないよ」
赤い着物の袖を翻しきゃらきゃらと笑うが、目立つには目立つだろう。祭り当日でない分、今日境内にいるほとんどが祭りの関係者たちだ。日が沈む前に早くこの風呂敷を飽海宮司に渡し、花橘に帰った方がいいだろう。
「行こ、アクミちゃんは奥のお社か社務所にいるから」
「飽海ちゃん……」
とてつもなくフランクだ。花橘に来てから長いのならこの芦原神社の宮司との付き合いも長いのかもしれないが、この小さな女の子から大人がちゃん付けで呼ばれている光景はなかなかだ。ただ改めて飛梅は実質いくつなのだろうという疑問がよぎった。
しばらく歩いていくと大きな社が奥に見えた。ひときわ提灯が増え、赤いのぼりが立ち並ぶ。社の横には荘厳とした神輿が鎮座ましましていた。
人が忙しなく行き交う境内に袴を履いた若い男性がいた。おそらく神社の関係者だろう。二人組の男性に飛梅が声をかける。
「ねえ、アクミちゃんいる?」
二人のうちの一人が振り向く。宮司のことをちゃん付けで呼ぶ幼女に訝し気な視線を送った後、何かに気づいたような表情を浮かべた。
「あの、もしかして花橘さんですか?」
「は、はい。花橘の遣いの者です。飽海宮司にこちらを渡すために参りました」
風呂敷を見せると、彼はぱっと笑顔になる。
「承知いたしました、宮司は社務所の中です」
「そっか、ありがとー!」
「いえ、お役に立てて光栄です」
浅葱色の袴の青年に手を振り社務所の方へと歩を向ける。ただなぜ二人のうち一人の反応が一切なかったのか不審に思ったが、背後からの会話で状況を理解した。
「おい、お前さっき何と話してたんだ?」
「飽海さんが言ってただろ! 夏祭りのころに差し入れを持ってくる“花橘”の妖がいるって! 今いたんだよ!」
「今!? いたのか、全然わからなかった。お前がいきなり一人で話し始めたのかと……」
なるほど、毎年のことと言うだけあって、あらかじめ飽海宮司が話していたらしい。
今では飛梅の姿が見えるのは当然だが、記憶のなくなった夜まで、きっと私は何も見ることができなかったのだろう。生まれつき見えていたならあの夜のようなパニックは起きなかったはずだ。
「あっちのお兄さんには飛梅が見えてるんだね」
「うん、勘のいい子には見えるよ。神職だからってみんな見えるわけじゃないけど見える子は多いね。さらに言えば日が落ち始めると私は見えやすくなるの」
「……もしかしてさ、ここに来るまでの境内とか飛梅と話してたけど、傍から見たら私ひとりごと言いながら歩いてたように見えてたんじゃ」
「……うふふふ」
飛梅は曖昧に笑って濁したが、膝から崩れ落ちたくなる。自分の知らないうちに危険な女子高生になっていたらしい。神社の境内をぶつぶつ言いながら一人で歩く私の方が幽霊か何かのようじゃないか。幸か不幸か、ここに来るまで誰かが不審な顔をしたり注目したような素振りはなかったが、気休めでしかない。
「まあまあ。だからと言って道中ずっとベニちゃんに無視されてたら私が悲しくなっちゃうから、人の目は気にしないで話してくれると嬉しいな?」
「それはそうだけど……」
ただ万が一この道中で私のことを知っている人が見たら声すらかけなさそうだ。記憶を取り戻す手掛かりが遠のいていく。
開け放たれていた扉から社務所に入ると墨のような匂いがした。
「久しぶりアクミちゃん! 頑張ってる?」
古そうな書類が束になって畳の上に落ち、年季の入った扇風機の風に煽られていた。その書類の中心には紫紺の袴の男性が一人座り、飛梅の声に顔を上げた。
「ああ飛梅さん、いらっしゃい。毎年ありがとうね。っと、そっちのお嬢さんは、初めましてかな?」
「はい、春から花橘でお世話になっています、ベニです。橘さんからこのお重と瓶を持っていくようにと」
「ありがとう、重かったよね。僕は飽海春臣。この芦原神社の宮司をしてる。炉善は高校時代の同級生だよ」
それなりに重量のあった二つの風呂敷をひょいとさらわれる。同級生、と言うが橘より幾らか若く見えた。彼と違い柔和な笑みを浮かべ、髪を刈り上げているからかもしれない。
「毎年炉善は差し入れをくれてね。こっちの酒瓶はお神酒。こっちの重箱は差し入れだね。ちょっとつまむかい?」
いそいそと風呂敷を広げる飽海が重箱の蓋を外すとつやつやとしたあずき色が顔を出した。
「わあ、おはぎですか……!」
「うん、僕甘党でね。祭りの時期は疲れて糖分が足りないなんて話をしてから一段はおはぎに使ってくれるようになってね。ほかの段にはちらし寿司とかが入っていると思うよ」
ひょいと一つ手に取るとそのまま飽海は頬張りだした。心底幸せそうに食べる飽海に思わず唾を飲み込んだ。
「相変わらず炉善の作るおはぎはおいしいなあ。あ、二人も取って。もう夕方でお腹もすいてるでしょ」
「本当? やったぁ!」
「え、いえ、私たちが食べるわけには、」
遠慮なく手を伸ばす飛梅に対して私は正解がわからない。一応今は橘からのお使い、仕事中だ。届けたものをそのまま私たちがご相伴に預かって本当にいいものなのか。
「いいよいいよ食べな。私だけ食べていたら申し訳ないし。それに他の子たちに私が先に食べたのバレたら小言を言われそうだ。お客さんと一緒に食べたって言ったら許してもらえそうじゃないか。それに誰かと食べたほうがお八つはおいしい。僕の幸せを共有するために、ベニさんも食べてもらえないかな?」
そう朗らかに笑う飽海とすでにおはぎを頬張っている飛梅に押され、私も一つ手に取った。ここまで来たらみんな共犯だ。少し大きいおはぎに齧りつくと甘い餡子と柔らかい糯米で口の中がいっぱいになる。山の中を歩いて疲れた身体に優しい甘さが染みわたる。
「んんー! 甘くてモチモチでおいしい! ロゼンあんまりお菓子作らないけど作るときは結構甘めだよね!」
「あいつもあれでいて甘党だからなあ。高校のときは甘猫堂のスイーツバイキングとか行ってたよ」
「甘猫堂?」
「ああ、駅裏の通りにある和菓子屋だよ。和菓子屋だけどケーキも売ってるし、今くらいの季節だとかき氷とかも出してるんじゃないかな。店の奥が喫茶スペースになっててね、そこでバイキングをやってたんだよ。炉善が行きたいけど一人じゃ行きづらいからってさ。いやぁ、周りが女の子ばかりで肩身が狭かったなあ。甘いものを食べる仲間がいたのはうれしかったけどね」
男子高校生二人で和菓子屋のスイーツバイキングに参戦する。今日日珍しくないといえばないが、片方が橘だと話は変わってくる。穏和でにこにことしている飽海はまだ似合うが、あのむすっとした橘がそんなかわいらしい場所でケーキや和菓子を頬張っていると思うとなんだか吹き出したくなる。出来の悪い間違い探しでも見ている気分だ。
「甘猫堂のモチノスケはたまに花橘に来るよ。看板猫の猫又なの」
「……モチノスケが猫又なのは知らなかったなぁ」
おはぎを頬張りながらなんでもないように言う飛梅に飽海が乾いた笑いをこぼした。人の街には人が思っている以上に妖や何やらが跋扈しているらしい。
「それにしても、ベニさんは甘猫堂知らないか。今どきの若い子は東雲谷の小さいお店より電車乗って都会のお洒落なカフェとかに行くのかなあ」
お兄さん寂しいなあ、などと呟く飽海に慌てて訂正を入れる。
「あの、実は私、記憶がなくて、名前と年齢くらいしか自分のこともわからないんです。それで帰れなくなってるところを拾ってもらって、記憶が戻るまで花橘に置いてもらってるんです」
「それは……、」
少し逡巡するように口を噤んだ後、飽海は静かに微笑んだ。
「……ゆっくりしていくと良いよ。記憶喪失の人が無理に記憶を呼び戻すのは危険だと聞くし、花橘でほかの人たちを見て、街を見て、少しずつ思い出していくと良いよ。きっといろんなところにヒントはある。急がなくていい。炉善も誰も、急かしたりはしないはずだ」
ゆっくりと私に言い聞かせるように言うと、麦茶の入ったコップを私に渡した。びっしりと結露した水滴が両手を濡らす。
「ここまで暑かっただろう? 水分を取ってから帰ると良い」
「いただきます」
ひやりとした麦茶は花橘で飲むものとは違う味がした。違う、ということに気づけたのは私の成長だと思ってもいいのだろうか。
「今年もお祭りは明後日の土曜日?」
「そうだよ。明日が前夜祭、明後日が当日。今年は新しく出店を出したいって話をもらってるから、去年より賑わうんじゃないかな。当日もベニさんと一緒においで。君が一人でいると迷子か何かだと思われてしまうからね」
「失礼だよね。私アクミちゃんやロゼンよりずっと年上なのに」
「いいじゃないか。無期限で子供の特権が使えるんだから。それに法も何もない妖にはお酒飲んだり煙草を吸える大人の特権はないし」
「まあね」
もう一つ、とおはぎを勧めた飽海を固辞し、私たちは梓乃の待つ境内の外へと向かった。何とか日が落ちる前に帰れそうで胸を撫でおろす。今は飛梅と梓乃がいるとはいえ、夜の山の中はいまだに怖かった。
しかし鳥居が見えたころ、飛梅が突然立ち止まった。
「飛梅、どうしたの?」
「ううん、一つベニちゃんに言っておいた方がいいことがあるかなって」
どこか歯切れの悪い話し方にえも言われない不安が頭をもたげた。
「知ったところで何かが変わることはないし、変える必要もない。でも全く知らないよりかは知っていた方がいいと思うんだ」
「……何?」
「この境内の中に入れる妖と、入れない妖の違い」
喧騒が遠く聞こえ、生ぬるい風が吹いた。
梓乃は言っていた。鬼女である梓乃は芦原神社の境内の中には入れない。座敷童である飛梅は境内の中に入れる。送り狼である伊地知は入れない。その差とその違い。
「それはね……」
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