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宵の狸とパンケーキ 12
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誰もいない山の中、私は一人取り残されたことに胸を撫でおろした。
「さっき何か音がしたけど。何か出たの?」
「ううん、何でもないよ。お皿をぶつけた音じゃないかな」
まもなく大量の空瓶を持って現れた飛梅とともに私は再び祭りの会場に向かっていた。すっかり宴も酣といった具合で、残る者は疎らであり、寝こけたものたちはきっと翌朝まで残ることとなるのだろうと予感した。
「それじゃあ……」
「ああ、そういうことだ」
会場で片付けをしていた橘のところへと向かうとちょうど宵満月と話しているところだった。
華やかで蝶のような衣装はいつもの着物に戻っていたが、しゃらりと音を立てる豪奢な簪はそのままだった。
「宵ちゃんお疲れ様―! 今年も綺麗だったよー!」
「わ、飛梅ちゃんありがとう! 問題なくできてよかったわ」
「ロゼンと何の話してたの?」
なんでもない雑談のはずなのに宵満月の月のような眼は一瞬宙を彷徨った。
「ベニの話だ。ほら、宵満月にやることがあるんだろ」
今晩はやり過ごすはずだったのにしれっと言い出す橘にぎょっとする。こちらは彼女に内緒で驚かせるつもりでいたのに、先回りして宵満月に話すとは上司の風上にも置けない。
「橘さんっ!」
「タイミング逃すとそのままなあなあにしとくタイプだろ、お前。こっぱずかしことは早めに済ませておいたほうが良い」
「なんて言い草……!」
言葉にならない非難が渦巻くがこの状態ならやらざるを得ない。これだけお膳立てされておいて今更逃げるという選択肢は取れない。
「……宵満月、これからちょっと時間ある?」
「え、大丈夫よ! もう私の仕事は終わったし、あと1年は自由よ!」
「お腹に余裕はある?」
丸い目をさらに丸くして、それから心得たように宵満月は笑った。
「もちろん! ぺこぺこよ!」
小麦粉と砂糖とベーキングパウダーを合わせて卵と牛乳、溶かしバターを混ぜ合わせる。フライパンをカセットコンロで温めて、一度濡れタオルの上に置く。それからもう一度コンロにかけて油を引く。温まったらたっぷりとお玉ですくって熱いフライパンの中へ流し込む。
「わかるわ……! もう匂いだけでおいしいものってわかるわ……!」
焼けるまでの間に栗の渋皮煮を包丁で切り分ける。ひときわ大きいものだけは満足感の得るために切らずにそのまま。クーラーボックスの中からあらかじめ作っていたホイップクリームとマロンクリームを取り出す。
「ベニちゃん、穴開いてきたよ!?」
「ちょっと待って……もう少し」
「まだ!? もう焼けてない?」
「もうちょっとフツフツしてきたらひっくり返すから」
生地の表面に穴が開き始めて端がかすかに持ちあがったらフライ返しを隙間に差し込み、安定する場所を探る。感覚からしてまだ焦げ付いてはいないはずだ。
「……っほ!」
くるりとひっくり返し無事フライパンの上に着地させた。小さめに作っているからひっくり返すのもそう難しくはない。
「すっごいね……表面ツヤツヤ……どら焼きみたい……絶対おいしいやつよ」
「ふっふっふ……我ながらいい焼き加減だよこれ。きれいに焼けた」
自分で言うことではないが私史上もっとも綺麗な焼き目が付いた。お手本のような焼き色だ。中央は香ばしい茶色。生地の端は月のような黄色。完璧だ。けれどまだ気は抜けない。ひっくり返した側が焦げ付いたり焼き色が悪かったら台無しだなのだから。
「おいしそう、おいしそうだわベニちゃん」
「そうだねえ、もうちょっと待ってね。お皿持ってきてくれる?」
「ナイフとフォークもね!」
頃合いを見てもう一度フライ返しを差し込みひっくり返す。こちらも同じように焼き色がついていた。及第点、いや満点のパンケーキだ。牛乳を少なめにしているためしっかり膨らんで厚みがある。平たいホットケーキを数枚重ねるのもいいが、一枚一枚が厚いパンケーキはどこか特別感がある。
「これっ、私たちがレストランのメニューで見たポフポフ! ポフポフしてそうなおやつね!」
「うん、ポフポフしてるよ。バター乗せて食べるとよく溶けておいしい」
「絶対おいしい……すでにこんなにおいしそうなのにバター乗せたらどうなっちゃうの」
すっかり初めて見るパンケーキに夢中な宵満月に胸が温かくなる。先ほどまでの神秘的な様子なんて微塵もない、いつもの宵満月だ。
「でもね、今日は特別だからもっと」
「もっと?」
「今日の宵満月は頑張ったからね」
同じ要領でパンケーキを量産する。最後に余った生地は小さなどら焼きのように焼いてバターをつけて宵満月の口の中に放り込んだ。
「アツアツのフワフワ……!焼き立てって素敵ね……香ばしくって温かくって、それからバターがじゅわってするわ」
「それはよかった」
厚いパンケーキを三枚、皿の上に置いてホイップクリームとマロンクリームを載せていく。それから刻んだ栗を散らして真ん中に大きな栗の渋皮煮をまるまる一つ置いて、チャービルを千切り上から粉砂糖を降らせれば完成だ。
「花橘のモンブランパンケーキ、完成です!」
「キャー素敵ー!」
「今名前つけた」
喜びを隠さず純粋に黄色い悲鳴を上げる二人に満足感を覚えると同時に安堵の息をこぼした。パンケーキなどそう失敗するものではないが、人に出すとなると緊張してしまう。クリームのトッピングが多少不格好なのはご愛敬だ。
「おいしいね! ふわふわ、甘い! 栗おいしい!」
「着物にクリームこぼさないようにね」
口の端についたクリームを拭ってやる。
「ふわふわしっとり……花橘で食べるパウンドケーキとかとも違うわ。不思議な食感。あとこの栗のクリームすごくおいしい。秋だわ……」
静かに感動しながら手と口を素早く動かす宵満月に嬉しいやらどこかくすぐったいやらで鼻を鳴らしてしまう。普段こんなに絶賛されることなどないためどんな顔をすればいいかわからなかった。
「……これって街に行ったとき私が食べたいって言ったから」
「うん。見ての通り一つ作るのにそれなりに時間かかるし、何人お客さんが来るかわからない以上宴会には出せなかったけど、数人分作るくらいなら簡単に作れるから」
それにパンケーキの材料は宴会のデザートで出していたクレープとほとんど同じだ。分量を変えるだけでクレープにでもパンケーキにでもなれる
「クレープを作って出せたのも宵満月と街に行ったおかげだから、お礼。あと頑張ったで賞」
「ベニちゃん大好きよ……!」
すっかりご機嫌な宵満月に、余計な言葉は飲み込んだ。
本当は、宵満月に人の街のものを味わってほしくて作ったのだ。山の生活に、心配性な仲間にうんざりしていた宵満月。人の世界に憧れを抱き、夢を膨らませていた宵満月。そんな彼女が少しでも楽しくあれるように。けれどそれはどれも杞憂だった。彼女は確かに人の街に憧れていたし、過保護な仲間に辟易としていた。けれど同時に彼女は仲間に誇りを持ち、自分の役割に責任を持ち、月も山も愛していた。確かに飽いているかもしれない。けれどそれは必ず霜手放したいと、逃げ出してしまいたいと思っている部類のものとは違うのだ。
「宵満月は、人の街にも憧れるけど、山も、仲間も大好きなんだね」
食べ終わって満足げな宵満月にそう言うと虚を突かれたような表情を浮かべた
「そうよ。結局それはそれ、これはこれ。片方が嫌いで片方が好きってわけじゃないわ。両方好きって言っちゃいけないって決まってないもの」
空を見上げれば満月が煌々と輝き、木々は秋の風にさざめき、少なくなった狸や狐たちの声が聞こえてくる。これが、宵満月が今までずっと見てきた日常だ。
「ねえベニちゃん、いつかあなたの記憶が戻ったら街をまた案内してくれる?それで聞かせて、あなたがあの街で見てきたものを、過ごしたときを」
記憶が戻ったら、心臓が嫌な音を立てた。いや、彼女からすればきっと普通の言葉だ。けれどさっき骨董屋と話したばかりの私にはその言葉が重くのしかかった。
「……でもきっと宵満月が過ごしてきた世界の方が、素敵だよ。私が送ってきた日常と比べれば」
「言いっこなしだわ。比べるものじゃないの。私は山が好きよ。パパも、ネジレメもナガレメも好きよ。でもだから街より山の方が素敵ってわけじゃない。山も素敵よ。でもあなたが過ごした街だって素敵だわ。だってベニちゃんはこんなにも素敵だもの」
残ってしまったマロンクリームを大きなスプーンで掬って口の中へと誘い込む。
「私ね、ベニちゃんといて楽しいわ。一緒に街へ行ってくれて、私の言葉を覚えていてくれて、嬉しいの。私思うの。このままずっとベニちゃんが花橘にいてくれたらって」
「宵満月、」
「でもきっと終わりが来るわ。記憶が戻ったら、もといた街に戻ると思う。今みたいに軽々しく会いに行けないし、ベニちゃんもきっと街の人間たちみたいに忙しくなる。でもそうなったとしても」
嘘をつくことも何かを隠すことも許さない、美しい目で私を見つめた。
「まだ私と友達でいてくれる?」
記憶が戻ってからのことは、私にはわからない。どんな人間だったのか、何が好きで何が嫌いだったのか。もしかしたら元の私は山が嫌いで動物が嫌いで非現実的なことが大嫌いな人間かもしれない。それでもよかった。
「もちろん、宵満月が私のことを友達だと思ってくれるなら」
気の利いた返事も、小綺麗な言い回しもできない。けれど私は今日一日で一番素直な言葉を口にした。
これから先のことも、私にあった過去のこともわからない。けれどどうか願いたい。たとえこの先記憶が戻って、人の街に帰るとしても。宵満月や橘、人の世界とは違うものたちと別の道を歩むことになったとしても。今だけは、彼女と友達でいられる未来を願っていたい。
頬を伝った一筋の涙を、私は指先で拭った。
楽しいことも嬉しいことも、一瞬だ。けれどその一瞬一瞬を集め続けることはきっと不可能なことじゃない。そうして生きていけばいい。辛いことも、苦しいことも抱えることになったとしても、美しい喜びを集めてしまっておくことができたなら、きっと耐えられることだってあるだろうから。
私は首から下げたペンダント触れて、それから離した。もう何かわかった気がしたのだ。
私が無理に記憶を呼び起こさなくても、必ず終わりはやってくる。だからこそ、今わざわざ苦しむ必要なんかない。いつか来るその日、耐えて生きるために、私は一つでも楽しいことを積み重ねておきたい。
今度骨董屋が私の目の前に現れたなら、そう言って笑ってやろう。
美しい月深い夜、秋の風に揺られ狸の簪はしゃらりと音を立てた。
「さっき何か音がしたけど。何か出たの?」
「ううん、何でもないよ。お皿をぶつけた音じゃないかな」
まもなく大量の空瓶を持って現れた飛梅とともに私は再び祭りの会場に向かっていた。すっかり宴も酣といった具合で、残る者は疎らであり、寝こけたものたちはきっと翌朝まで残ることとなるのだろうと予感した。
「それじゃあ……」
「ああ、そういうことだ」
会場で片付けをしていた橘のところへと向かうとちょうど宵満月と話しているところだった。
華やかで蝶のような衣装はいつもの着物に戻っていたが、しゃらりと音を立てる豪奢な簪はそのままだった。
「宵ちゃんお疲れ様―! 今年も綺麗だったよー!」
「わ、飛梅ちゃんありがとう! 問題なくできてよかったわ」
「ロゼンと何の話してたの?」
なんでもない雑談のはずなのに宵満月の月のような眼は一瞬宙を彷徨った。
「ベニの話だ。ほら、宵満月にやることがあるんだろ」
今晩はやり過ごすはずだったのにしれっと言い出す橘にぎょっとする。こちらは彼女に内緒で驚かせるつもりでいたのに、先回りして宵満月に話すとは上司の風上にも置けない。
「橘さんっ!」
「タイミング逃すとそのままなあなあにしとくタイプだろ、お前。こっぱずかしことは早めに済ませておいたほうが良い」
「なんて言い草……!」
言葉にならない非難が渦巻くがこの状態ならやらざるを得ない。これだけお膳立てされておいて今更逃げるという選択肢は取れない。
「……宵満月、これからちょっと時間ある?」
「え、大丈夫よ! もう私の仕事は終わったし、あと1年は自由よ!」
「お腹に余裕はある?」
丸い目をさらに丸くして、それから心得たように宵満月は笑った。
「もちろん! ぺこぺこよ!」
小麦粉と砂糖とベーキングパウダーを合わせて卵と牛乳、溶かしバターを混ぜ合わせる。フライパンをカセットコンロで温めて、一度濡れタオルの上に置く。それからもう一度コンロにかけて油を引く。温まったらたっぷりとお玉ですくって熱いフライパンの中へ流し込む。
「わかるわ……! もう匂いだけでおいしいものってわかるわ……!」
焼けるまでの間に栗の渋皮煮を包丁で切り分ける。ひときわ大きいものだけは満足感の得るために切らずにそのまま。クーラーボックスの中からあらかじめ作っていたホイップクリームとマロンクリームを取り出す。
「ベニちゃん、穴開いてきたよ!?」
「ちょっと待って……もう少し」
「まだ!? もう焼けてない?」
「もうちょっとフツフツしてきたらひっくり返すから」
生地の表面に穴が開き始めて端がかすかに持ちあがったらフライ返しを隙間に差し込み、安定する場所を探る。感覚からしてまだ焦げ付いてはいないはずだ。
「……っほ!」
くるりとひっくり返し無事フライパンの上に着地させた。小さめに作っているからひっくり返すのもそう難しくはない。
「すっごいね……表面ツヤツヤ……どら焼きみたい……絶対おいしいやつよ」
「ふっふっふ……我ながらいい焼き加減だよこれ。きれいに焼けた」
自分で言うことではないが私史上もっとも綺麗な焼き目が付いた。お手本のような焼き色だ。中央は香ばしい茶色。生地の端は月のような黄色。完璧だ。けれどまだ気は抜けない。ひっくり返した側が焦げ付いたり焼き色が悪かったら台無しだなのだから。
「おいしそう、おいしそうだわベニちゃん」
「そうだねえ、もうちょっと待ってね。お皿持ってきてくれる?」
「ナイフとフォークもね!」
頃合いを見てもう一度フライ返しを差し込みひっくり返す。こちらも同じように焼き色がついていた。及第点、いや満点のパンケーキだ。牛乳を少なめにしているためしっかり膨らんで厚みがある。平たいホットケーキを数枚重ねるのもいいが、一枚一枚が厚いパンケーキはどこか特別感がある。
「これっ、私たちがレストランのメニューで見たポフポフ! ポフポフしてそうなおやつね!」
「うん、ポフポフしてるよ。バター乗せて食べるとよく溶けておいしい」
「絶対おいしい……すでにこんなにおいしそうなのにバター乗せたらどうなっちゃうの」
すっかり初めて見るパンケーキに夢中な宵満月に胸が温かくなる。先ほどまでの神秘的な様子なんて微塵もない、いつもの宵満月だ。
「でもね、今日は特別だからもっと」
「もっと?」
「今日の宵満月は頑張ったからね」
同じ要領でパンケーキを量産する。最後に余った生地は小さなどら焼きのように焼いてバターをつけて宵満月の口の中に放り込んだ。
「アツアツのフワフワ……!焼き立てって素敵ね……香ばしくって温かくって、それからバターがじゅわってするわ」
「それはよかった」
厚いパンケーキを三枚、皿の上に置いてホイップクリームとマロンクリームを載せていく。それから刻んだ栗を散らして真ん中に大きな栗の渋皮煮をまるまる一つ置いて、チャービルを千切り上から粉砂糖を降らせれば完成だ。
「花橘のモンブランパンケーキ、完成です!」
「キャー素敵ー!」
「今名前つけた」
喜びを隠さず純粋に黄色い悲鳴を上げる二人に満足感を覚えると同時に安堵の息をこぼした。パンケーキなどそう失敗するものではないが、人に出すとなると緊張してしまう。クリームのトッピングが多少不格好なのはご愛敬だ。
「おいしいね! ふわふわ、甘い! 栗おいしい!」
「着物にクリームこぼさないようにね」
口の端についたクリームを拭ってやる。
「ふわふわしっとり……花橘で食べるパウンドケーキとかとも違うわ。不思議な食感。あとこの栗のクリームすごくおいしい。秋だわ……」
静かに感動しながら手と口を素早く動かす宵満月に嬉しいやらどこかくすぐったいやらで鼻を鳴らしてしまう。普段こんなに絶賛されることなどないためどんな顔をすればいいかわからなかった。
「……これって街に行ったとき私が食べたいって言ったから」
「うん。見ての通り一つ作るのにそれなりに時間かかるし、何人お客さんが来るかわからない以上宴会には出せなかったけど、数人分作るくらいなら簡単に作れるから」
それにパンケーキの材料は宴会のデザートで出していたクレープとほとんど同じだ。分量を変えるだけでクレープにでもパンケーキにでもなれる
「クレープを作って出せたのも宵満月と街に行ったおかげだから、お礼。あと頑張ったで賞」
「ベニちゃん大好きよ……!」
すっかりご機嫌な宵満月に、余計な言葉は飲み込んだ。
本当は、宵満月に人の街のものを味わってほしくて作ったのだ。山の生活に、心配性な仲間にうんざりしていた宵満月。人の世界に憧れを抱き、夢を膨らませていた宵満月。そんな彼女が少しでも楽しくあれるように。けれどそれはどれも杞憂だった。彼女は確かに人の街に憧れていたし、過保護な仲間に辟易としていた。けれど同時に彼女は仲間に誇りを持ち、自分の役割に責任を持ち、月も山も愛していた。確かに飽いているかもしれない。けれどそれは必ず霜手放したいと、逃げ出してしまいたいと思っている部類のものとは違うのだ。
「宵満月は、人の街にも憧れるけど、山も、仲間も大好きなんだね」
食べ終わって満足げな宵満月にそう言うと虚を突かれたような表情を浮かべた
「そうよ。結局それはそれ、これはこれ。片方が嫌いで片方が好きってわけじゃないわ。両方好きって言っちゃいけないって決まってないもの」
空を見上げれば満月が煌々と輝き、木々は秋の風にさざめき、少なくなった狸や狐たちの声が聞こえてくる。これが、宵満月が今までずっと見てきた日常だ。
「ねえベニちゃん、いつかあなたの記憶が戻ったら街をまた案内してくれる?それで聞かせて、あなたがあの街で見てきたものを、過ごしたときを」
記憶が戻ったら、心臓が嫌な音を立てた。いや、彼女からすればきっと普通の言葉だ。けれどさっき骨董屋と話したばかりの私にはその言葉が重くのしかかった。
「……でもきっと宵満月が過ごしてきた世界の方が、素敵だよ。私が送ってきた日常と比べれば」
「言いっこなしだわ。比べるものじゃないの。私は山が好きよ。パパも、ネジレメもナガレメも好きよ。でもだから街より山の方が素敵ってわけじゃない。山も素敵よ。でもあなたが過ごした街だって素敵だわ。だってベニちゃんはこんなにも素敵だもの」
残ってしまったマロンクリームを大きなスプーンで掬って口の中へと誘い込む。
「私ね、ベニちゃんといて楽しいわ。一緒に街へ行ってくれて、私の言葉を覚えていてくれて、嬉しいの。私思うの。このままずっとベニちゃんが花橘にいてくれたらって」
「宵満月、」
「でもきっと終わりが来るわ。記憶が戻ったら、もといた街に戻ると思う。今みたいに軽々しく会いに行けないし、ベニちゃんもきっと街の人間たちみたいに忙しくなる。でもそうなったとしても」
嘘をつくことも何かを隠すことも許さない、美しい目で私を見つめた。
「まだ私と友達でいてくれる?」
記憶が戻ってからのことは、私にはわからない。どんな人間だったのか、何が好きで何が嫌いだったのか。もしかしたら元の私は山が嫌いで動物が嫌いで非現実的なことが大嫌いな人間かもしれない。それでもよかった。
「もちろん、宵満月が私のことを友達だと思ってくれるなら」
気の利いた返事も、小綺麗な言い回しもできない。けれど私は今日一日で一番素直な言葉を口にした。
これから先のことも、私にあった過去のこともわからない。けれどどうか願いたい。たとえこの先記憶が戻って、人の街に帰るとしても。宵満月や橘、人の世界とは違うものたちと別の道を歩むことになったとしても。今だけは、彼女と友達でいられる未来を願っていたい。
頬を伝った一筋の涙を、私は指先で拭った。
楽しいことも嬉しいことも、一瞬だ。けれどその一瞬一瞬を集め続けることはきっと不可能なことじゃない。そうして生きていけばいい。辛いことも、苦しいことも抱えることになったとしても、美しい喜びを集めてしまっておくことができたなら、きっと耐えられることだってあるだろうから。
私は首から下げたペンダント触れて、それから離した。もう何かわかった気がしたのだ。
私が無理に記憶を呼び起こさなくても、必ず終わりはやってくる。だからこそ、今わざわざ苦しむ必要なんかない。いつか来るその日、耐えて生きるために、私は一つでも楽しいことを積み重ねておきたい。
今度骨董屋が私の目の前に現れたなら、そう言って笑ってやろう。
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