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幼少期
決着
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こんにちは!五歳になりました涼です!
雲雀様は両親に僕の修行内容について談判してくれたみたいだが、特に何も変わる事無く厳しい修行をしてきた。それどころか母様はお花や習字、二胡まで習わせるようになった。まあ楽器は好きだから良いけどさ……。母様の必死さがよく分かる。もう僕にできないことの方が少ない気がする……。
気がつけば真っ白で柔らかかった手のひらは何度もマメが潰れた所為で堅い皮膚に覆われていて、身体も子供らしい丸い形ではなく程良く全身に筋肉がついていて無駄な肉が削ぎ落とされている。
そのお陰かもうほとんど女の子には見えない。鏡の前で満足する。
三歳のとき髪を切ってから暫くして伸びたので切ろうとしたら母様が本気で泣きながら『せめてしばれる長さに…!!』というので今は後ろで申し訳程度にちょん、と結んでいる。これが僕と母様の妥協点だ。
話は戻るが今日九月九日、僕は五歳になった。つまり兄さんの翡翠も五歳になった。兄さんの性格は二年前とほとんど変わっていない。天真爛漫な脳天気。……いつ頃から原作の翡翠みたいになるのだろうか?
僕らが五歳になったということは、いよいよ御側付を決めるときだ。
翡翠はあまり気負っている様子はないが正直本人たちよりも周りが気にしすぎている。
父様も母様も数日前からソワソワしっぱなし。豪さんでさえ稽古中に僕達に何か聞きたそうにしている。豪さんの性格上聞きはしないが。雲雀様からも『頑張ってね!』との声をいただいた。
翡翠が気負わないのはあまり御側付の事を気にしていないから。
僕が気負わないのは翡翠に負ける訳がないと確信しているから。
決して驕りではない。ただの事実として兄さんに負ける筈がない。修行のお陰で奥の手になるものも身につけた。何度か豪さんに使って見たところタイミングを計れば一時的に相手を止めることができる僕の虎の子。もっともあくまで奥の手なので使う気はないのだが……。
僕と兄さんの勝負は剣術。僕のもっとも得意とするものだ。
「大丈夫大丈夫、僕は勝つ、必ず。」
鏡の前で自分に言い聞かせる。
頬をパチンと叩き気合いを入れる。大丈夫、勝てる。
「……涼、行くぞ。」
玄関にはもう兄さんも母様も父様もいた。誰もが神妙な面持ちをしている。流石の翡翠にも雰囲気は伝わったらしく真面目な顔だ。
「はい、父様。」
今日、全てが決まる。
*********
舞台となるのは通い慣れた道場。立会人は豪さんがするようだ。
道場には雲雀様、嘉人様がいた。どうやら自分たちで見届けるらしい。良い判断だと思う。
試合前、使い慣れた木刀を取りに行く途中で豪さんがよってきて小さく言った。
「頑張って下さいね。勝つのは涼さんです。」
「!……はい、もちろんです。ありがとうございます。」
それだけ言うと豪さんは準備のために裏へ引っ込んだ。
驚いた。豪さんはどちらかに肩入れするようなタイプじゃない。どこまでも中立に立つ人だ。
でもその分嬉しかった。
反対する人もいる。でも応援してくれる人もいる。それがとてつもなく幸せだった。
勝とう、絶対。応援してくれる雲雀様のために豪さんのために、そして僕のために。
赤霧の行う勝負は必ず木刀で尚且つ防具は無しでやらなくてはならない。そして何よりこの勝負は剣道ではなく実践剣術だ。勝つためなら何をしてもいい。話術で惑わすも有り、足払いをかけても良い、背後から狙っても良い。やり過ぎれば指導が入るらしいが立会人がなにも言わなければ他は何をしてもいいことになっている。
ただ三本中二本相手から取れば良いというとてもシンプルで分かりやすいルールだ。
卑怯上等。正々堂々勝負しようと負けては何の意味もない。
これは大切な主人を守るための戦いだから。
準備が整い僕と翡翠が向かい合う。
僕ら二人のたてる足音以外道場には何も聞こえない。
「ただいまより試合を開始します。両者前へ。」
ぎしり、互いの距離が縮まる。
ふと翡翠が喋り始めた。
「こんなことをしても意味ないよね。」
「…何故そう思うのですか?」
ヘラリと笑う。
「だって涼は剣道苦手でしょ?勝つのは俺に決まってる。」
可愛くない餓鬼と鼻白む。だが敢えて何も言い返さない。僕の言うことはない、と豪さんに目配せした。
「両者、礼。」
赤霧流の勝負は始めの合図はない。礼をした瞬間からが勝負だ。
豪さんの声を聞き二メートル程飛び退き出方を伺う。
翡翠は両手で上段の構え。此方を凝視している。
「逃げるの速いね。でもそれじゃ勝てない、よっ!」
翡翠が距離を詰めて振り下ろす。それを僕が片手で受け止める。が、軽い。
翡翠の刀には体重を乗せきれていない、つまり腕だけで力任せに振っているため重みが無い上に持久戦には向かない。
刀を弾き返し二歩下がると翡翠が距離を詰めようと足を踏み出した。
かかった。予想通りの動きに口角が上がる。
右足より一歩引いていた左足で床を軽く蹴りそのまま着地の勢いを殺さず右足に体重をかけて踏み込む。
キュッ、ダァン!!
僕の動きに翡翠が瞠目する。翡翠は既に此方に踏み込んでいて足を引けない。
右足の着地点は翡翠の左足の外。上段に構えているため胴はがら空き。
もらったな。
翡翠の左腹から右肩まで下方から切り上げた。僕の全体重をかけた一撃に翡翠は吹き飛ぶ。
「うう、いてぇ…。」
翡翠が呻く、が知ったことではない。
「一本!」
豪さんの声が道場に響く。
「今のは油断しただけだ!次は…!」
翡翠の目に闘争心がちらついた。だがその程度ではどうにもならない。
「両者、位置に。礼。」
今度は翡翠が後ろに退いた。さっきの攻撃を気にしてか、構えは中段。
一向に動き出す様子がないので此方から攻める。せっかくだから翡翠の構えに載ってやる。
先程と同じように下から切り上げるように木刀を入れると翡翠は嬉しそうに木刀で受けた。そして僕の丁度首あたりの高さで振るう。が、僕がしゃがんで避けたため勢い良く振られた木刀が空を切り、伸ばされた翡翠の右腕と胴着の衿を掴み木刀は持ったまま力任せに投げた。
ダァァアンッ
先程とは比べものにならない音が響く。母様が声にならない悲鳴をあげていたが聞かなかったことにする。
本来は畳の上でやるべき技を板間でかけられるのはさぞ痛いだろう。投げるとき胴着から手を離さなかったのは僕なりの優しさだ。流石に受け身も取れないような奴を自分の兄とは思いたくない。
「かはっ、けほけほ……、」
衝撃で起き上がることも出来ずに咽せる翡翠に近付く。
これは剣術の試合。まだ一本は取っていないのだ。まだ終わっていない。
持っていた木刀の切っ先で額をトン、と小突いた。
流石に最早闘えない人間を木刀で殴るほど鬼畜ではない。
これで良いか?と豪さんを見るとはっとして、
「一本!」
と言った。
三本勝負、つまり既に二本とった僕の勝ちだ。だが一応三本目を行う。二本先取した方は三本目は相手に譲るのが一応礼儀だ。
ただ翡翠が動けるかどうか……と見やれば木刀を支えにして立ち上がっていた。
戦意喪失したものとばかり思っていたので少々驚く。しかし既に満身創痍、豪さんが聞く。
「翡翠さん、三本目を行いますか?」
「……やる。」
そう言ってじろりと僕を見た。
天真爛漫な姿は形なりを潜め、そこには闘争心と憎悪があった。らしくない顔付きに僅かにゾクリと感じた。涼として一度も向けられることのなかった感情に笑いが込み上げる。
兄の目には闘争心と憎悪の中に一欠片の殺意があった。
チラつく殺意に気分が高揚する。殺意があるだけで強くなれる。きっとさっきよりも楽しくなるだろう。
込み上げる笑いをこらえても自然と口角があがる。
僕達の様子に豪さんが少し眉を顰めたが続行する。
「両者、礼。」
その声と同時に翡翠が床を蹴り切りかかる。上段から面へ。先程と違い躊躇いや甘さはなく、此方も両手を使いそれを弾く。怯む事無く攻め続ける翡翠。だがその様子を見て闘争心が萎えるのを感じた。
思い切りがあり躊躇がないのは良いが理性もなくなってはまともに闘えない。これ以上相手をしても時間の無駄だ。
「うあぁぁあっ!!」
翡翠が振り下ろす。それを受け止めることも弾くこともなく一歩右にずれ木刀を左肩に受けた。
左肩に痛みが走るが骨が折れている様子はないし、脱臼もしていない。せいぜい痣になるくらいだろう。
「い、一本!」
周りは呆気に取られていた。あれだけ真剣に勝負していたはずなのに予想外の幕引きであったのだろう。
「二対一。赤霧涼の勝ち。以上で終了となります。両者、礼。」
深々と礼をする。ようやく終わったと、そう思った。
しかし僕の兄は想定外なほど往生際が悪かった。
「はっ、涼の勝ち…?そんなこと……。違う!涼は卑怯だ!剣術の試合で相手を投げるなんて……ふざけてる!」
正に語るに落ちる、と言ったところだ。まあ五歳ならこんなものかもしれないが。
「それでは僕が卑怯な手を使っていたから負けたと言いたいのですか?」
「そうだ!お前に僕が負ける筈がないっ!」
「では証拠は?」
「証拠?そんなのここで見た全員が見てただろ!お前が僕を投げたところを!」
「翡翠、止めなさい…」
苦虫を噛み潰した表情で翡翠を止めに入る。自分の息子が無知を晒しているのだから当然だ。だが翡翠は聞く耳を持たない。
「では僕が卑怯な真似をしたというなら、どうして豪さんは止めなかったんでしょうね?」
ぐう、と言葉に詰まる。自分でも矛盾していると気づいているからこそ。
「…僕が卑怯な事をしなければ勝てた、というんですか?」
「っ!!そうだ、お前がそんなことしなければ僕がっ!!」
ブツリ。何かが切れる音がした。
「ふざけた事抜かしてんじゃねぇ!こらぁ!てめぇが御側付になって万が一にも蓮様に何かあったとき『相手が卑怯だったから。』とでも言うつもりか、あ゛あ゛?!てめぇが負けたのは弱いくせに驕ったからだ!」
翡翠は剣幕に圧されて口をパクパクとさせていた。そしてその様子を見て我に返る。
今の言葉遣いは不味いよね!?いくら何でも男らしくを目指してるとはいえ五歳児が兄弟を恫喝ってアウトだろ、ていうかさっきの音は堪忍袋の音が切れる音だったのか!
僕が無表情にパニックになっていると翡翠は木刀を投げ捨てて出口へと走っていった。その後を母様がアタフタと追いかけていった。…フォローは頼みました、母様。
道場内は道場内でカオスだ。雲雀様は微笑んでるし、嘉人様はクツクツと笑ってるし、豪さんはアタフタしてるし、何より父様は放心して僕を凝視している。
ああ、もうどうにでもなれ……
とりあえずアタフタしてる豪さんを眺めることにした。可愛いなぁ……。
「涼。」
父様の声で現実逃避が中断された。
「……はい。」
いつものふざけた雰囲気はなかった。
「父さんと勝負しよう。」
「何故でしょう?」
「父さんに勝ったら、御側付になるのを許そう。」
「…以前は翡翠に勝てたら、とおっしゃっていましたが、それを反故ほごなさるおつもりですか?」
既についた勝負を今更覆そうとする。諦めが悪いのはきっと翡翠と同じだろう。
「……もう建て前を言うつもりはない。俺はお前を御側付にしたくない。」
「…はぁ。」
「だがもし、俺に勝てる程ならば安心してお前を御側付にさせることが出来る。だから、」
「そのためなら約束を破ろうと構わない、と?大人として如何なものでしょうね。」
「親なんてそんなもんさ。」
「……そうですか。」
どうやら勝負するのは決定事項らしい。もうプライドも何もないらしい。
そこまで必死にさせていることに申し訳なさが芽生えるが、それ以上に、僕は決して御側付になることを諦めはしない。
オロオロしている豪さんに父様が声をかけた。
「豪、三本勝負をする。仕切れ。」
「は、はいっ」
豪さんと父様の関係とは何だろうか。父様は傲慢な態度で、豪さんは委縮気味。もっとも今は関係のないことだが。
「両者、礼。」
すぐに飛び退く。父様が刀を振るうところは今までに見たことがない。強いらしいがどれ位なのか。
「はあっ!!」
「っ!!」
父様が上段から打ち込み、それを防ぐ。
その重さに一気に気がそがれる思いだった。
木刀を持っていた両手がビリビリと痺れる。
しかし父様はお構いなしに打ち込む。防戦一方で焦りが生まれる。重過ぎて受け止めるだけで精一杯だ。だから気づかなかったのだ。父様が刀身ではなく手元を狙ったことに。
ガッ!
「いっ!」
持っていた木刀は吹き飛び遠く離れた所に落ちた。慌てて手を伸ばすが届かない。
そのまま足払いをかけられ床に転がされ喉に木刀を突きつけられた。
「一本!」
強すぎた。勝てる気がしない。驕りはないと思っていたが、無意識の慢心はあったらしい。圧倒的なまでの力、そして経験の差。息をつく隙もない怒濤の攻め。その分体力も使うようで若干息があがっている。
しかしそれは此方も同じ事。力任せでやりあっても決して勝てない。
あと一本すら取られるわけには行かない。もう後がない。
起き上がり飛んでいった木刀を拾った。
雲雀様は両親に僕の修行内容について談判してくれたみたいだが、特に何も変わる事無く厳しい修行をしてきた。それどころか母様はお花や習字、二胡まで習わせるようになった。まあ楽器は好きだから良いけどさ……。母様の必死さがよく分かる。もう僕にできないことの方が少ない気がする……。
気がつけば真っ白で柔らかかった手のひらは何度もマメが潰れた所為で堅い皮膚に覆われていて、身体も子供らしい丸い形ではなく程良く全身に筋肉がついていて無駄な肉が削ぎ落とされている。
そのお陰かもうほとんど女の子には見えない。鏡の前で満足する。
三歳のとき髪を切ってから暫くして伸びたので切ろうとしたら母様が本気で泣きながら『せめてしばれる長さに…!!』というので今は後ろで申し訳程度にちょん、と結んでいる。これが僕と母様の妥協点だ。
話は戻るが今日九月九日、僕は五歳になった。つまり兄さんの翡翠も五歳になった。兄さんの性格は二年前とほとんど変わっていない。天真爛漫な脳天気。……いつ頃から原作の翡翠みたいになるのだろうか?
僕らが五歳になったということは、いよいよ御側付を決めるときだ。
翡翠はあまり気負っている様子はないが正直本人たちよりも周りが気にしすぎている。
父様も母様も数日前からソワソワしっぱなし。豪さんでさえ稽古中に僕達に何か聞きたそうにしている。豪さんの性格上聞きはしないが。雲雀様からも『頑張ってね!』との声をいただいた。
翡翠が気負わないのはあまり御側付の事を気にしていないから。
僕が気負わないのは翡翠に負ける訳がないと確信しているから。
決して驕りではない。ただの事実として兄さんに負ける筈がない。修行のお陰で奥の手になるものも身につけた。何度か豪さんに使って見たところタイミングを計れば一時的に相手を止めることができる僕の虎の子。もっともあくまで奥の手なので使う気はないのだが……。
僕と兄さんの勝負は剣術。僕のもっとも得意とするものだ。
「大丈夫大丈夫、僕は勝つ、必ず。」
鏡の前で自分に言い聞かせる。
頬をパチンと叩き気合いを入れる。大丈夫、勝てる。
「……涼、行くぞ。」
玄関にはもう兄さんも母様も父様もいた。誰もが神妙な面持ちをしている。流石の翡翠にも雰囲気は伝わったらしく真面目な顔だ。
「はい、父様。」
今日、全てが決まる。
*********
舞台となるのは通い慣れた道場。立会人は豪さんがするようだ。
道場には雲雀様、嘉人様がいた。どうやら自分たちで見届けるらしい。良い判断だと思う。
試合前、使い慣れた木刀を取りに行く途中で豪さんがよってきて小さく言った。
「頑張って下さいね。勝つのは涼さんです。」
「!……はい、もちろんです。ありがとうございます。」
それだけ言うと豪さんは準備のために裏へ引っ込んだ。
驚いた。豪さんはどちらかに肩入れするようなタイプじゃない。どこまでも中立に立つ人だ。
でもその分嬉しかった。
反対する人もいる。でも応援してくれる人もいる。それがとてつもなく幸せだった。
勝とう、絶対。応援してくれる雲雀様のために豪さんのために、そして僕のために。
赤霧の行う勝負は必ず木刀で尚且つ防具は無しでやらなくてはならない。そして何よりこの勝負は剣道ではなく実践剣術だ。勝つためなら何をしてもいい。話術で惑わすも有り、足払いをかけても良い、背後から狙っても良い。やり過ぎれば指導が入るらしいが立会人がなにも言わなければ他は何をしてもいいことになっている。
ただ三本中二本相手から取れば良いというとてもシンプルで分かりやすいルールだ。
卑怯上等。正々堂々勝負しようと負けては何の意味もない。
これは大切な主人を守るための戦いだから。
準備が整い僕と翡翠が向かい合う。
僕ら二人のたてる足音以外道場には何も聞こえない。
「ただいまより試合を開始します。両者前へ。」
ぎしり、互いの距離が縮まる。
ふと翡翠が喋り始めた。
「こんなことをしても意味ないよね。」
「…何故そう思うのですか?」
ヘラリと笑う。
「だって涼は剣道苦手でしょ?勝つのは俺に決まってる。」
可愛くない餓鬼と鼻白む。だが敢えて何も言い返さない。僕の言うことはない、と豪さんに目配せした。
「両者、礼。」
赤霧流の勝負は始めの合図はない。礼をした瞬間からが勝負だ。
豪さんの声を聞き二メートル程飛び退き出方を伺う。
翡翠は両手で上段の構え。此方を凝視している。
「逃げるの速いね。でもそれじゃ勝てない、よっ!」
翡翠が距離を詰めて振り下ろす。それを僕が片手で受け止める。が、軽い。
翡翠の刀には体重を乗せきれていない、つまり腕だけで力任せに振っているため重みが無い上に持久戦には向かない。
刀を弾き返し二歩下がると翡翠が距離を詰めようと足を踏み出した。
かかった。予想通りの動きに口角が上がる。
右足より一歩引いていた左足で床を軽く蹴りそのまま着地の勢いを殺さず右足に体重をかけて踏み込む。
キュッ、ダァン!!
僕の動きに翡翠が瞠目する。翡翠は既に此方に踏み込んでいて足を引けない。
右足の着地点は翡翠の左足の外。上段に構えているため胴はがら空き。
もらったな。
翡翠の左腹から右肩まで下方から切り上げた。僕の全体重をかけた一撃に翡翠は吹き飛ぶ。
「うう、いてぇ…。」
翡翠が呻く、が知ったことではない。
「一本!」
豪さんの声が道場に響く。
「今のは油断しただけだ!次は…!」
翡翠の目に闘争心がちらついた。だがその程度ではどうにもならない。
「両者、位置に。礼。」
今度は翡翠が後ろに退いた。さっきの攻撃を気にしてか、構えは中段。
一向に動き出す様子がないので此方から攻める。せっかくだから翡翠の構えに載ってやる。
先程と同じように下から切り上げるように木刀を入れると翡翠は嬉しそうに木刀で受けた。そして僕の丁度首あたりの高さで振るう。が、僕がしゃがんで避けたため勢い良く振られた木刀が空を切り、伸ばされた翡翠の右腕と胴着の衿を掴み木刀は持ったまま力任せに投げた。
ダァァアンッ
先程とは比べものにならない音が響く。母様が声にならない悲鳴をあげていたが聞かなかったことにする。
本来は畳の上でやるべき技を板間でかけられるのはさぞ痛いだろう。投げるとき胴着から手を離さなかったのは僕なりの優しさだ。流石に受け身も取れないような奴を自分の兄とは思いたくない。
「かはっ、けほけほ……、」
衝撃で起き上がることも出来ずに咽せる翡翠に近付く。
これは剣術の試合。まだ一本は取っていないのだ。まだ終わっていない。
持っていた木刀の切っ先で額をトン、と小突いた。
流石に最早闘えない人間を木刀で殴るほど鬼畜ではない。
これで良いか?と豪さんを見るとはっとして、
「一本!」
と言った。
三本勝負、つまり既に二本とった僕の勝ちだ。だが一応三本目を行う。二本先取した方は三本目は相手に譲るのが一応礼儀だ。
ただ翡翠が動けるかどうか……と見やれば木刀を支えにして立ち上がっていた。
戦意喪失したものとばかり思っていたので少々驚く。しかし既に満身創痍、豪さんが聞く。
「翡翠さん、三本目を行いますか?」
「……やる。」
そう言ってじろりと僕を見た。
天真爛漫な姿は形なりを潜め、そこには闘争心と憎悪があった。らしくない顔付きに僅かにゾクリと感じた。涼として一度も向けられることのなかった感情に笑いが込み上げる。
兄の目には闘争心と憎悪の中に一欠片の殺意があった。
チラつく殺意に気分が高揚する。殺意があるだけで強くなれる。きっとさっきよりも楽しくなるだろう。
込み上げる笑いをこらえても自然と口角があがる。
僕達の様子に豪さんが少し眉を顰めたが続行する。
「両者、礼。」
その声と同時に翡翠が床を蹴り切りかかる。上段から面へ。先程と違い躊躇いや甘さはなく、此方も両手を使いそれを弾く。怯む事無く攻め続ける翡翠。だがその様子を見て闘争心が萎えるのを感じた。
思い切りがあり躊躇がないのは良いが理性もなくなってはまともに闘えない。これ以上相手をしても時間の無駄だ。
「うあぁぁあっ!!」
翡翠が振り下ろす。それを受け止めることも弾くこともなく一歩右にずれ木刀を左肩に受けた。
左肩に痛みが走るが骨が折れている様子はないし、脱臼もしていない。せいぜい痣になるくらいだろう。
「い、一本!」
周りは呆気に取られていた。あれだけ真剣に勝負していたはずなのに予想外の幕引きであったのだろう。
「二対一。赤霧涼の勝ち。以上で終了となります。両者、礼。」
深々と礼をする。ようやく終わったと、そう思った。
しかし僕の兄は想定外なほど往生際が悪かった。
「はっ、涼の勝ち…?そんなこと……。違う!涼は卑怯だ!剣術の試合で相手を投げるなんて……ふざけてる!」
正に語るに落ちる、と言ったところだ。まあ五歳ならこんなものかもしれないが。
「それでは僕が卑怯な手を使っていたから負けたと言いたいのですか?」
「そうだ!お前に僕が負ける筈がないっ!」
「では証拠は?」
「証拠?そんなのここで見た全員が見てただろ!お前が僕を投げたところを!」
「翡翠、止めなさい…」
苦虫を噛み潰した表情で翡翠を止めに入る。自分の息子が無知を晒しているのだから当然だ。だが翡翠は聞く耳を持たない。
「では僕が卑怯な真似をしたというなら、どうして豪さんは止めなかったんでしょうね?」
ぐう、と言葉に詰まる。自分でも矛盾していると気づいているからこそ。
「…僕が卑怯な事をしなければ勝てた、というんですか?」
「っ!!そうだ、お前がそんなことしなければ僕がっ!!」
ブツリ。何かが切れる音がした。
「ふざけた事抜かしてんじゃねぇ!こらぁ!てめぇが御側付になって万が一にも蓮様に何かあったとき『相手が卑怯だったから。』とでも言うつもりか、あ゛あ゛?!てめぇが負けたのは弱いくせに驕ったからだ!」
翡翠は剣幕に圧されて口をパクパクとさせていた。そしてその様子を見て我に返る。
今の言葉遣いは不味いよね!?いくら何でも男らしくを目指してるとはいえ五歳児が兄弟を恫喝ってアウトだろ、ていうかさっきの音は堪忍袋の音が切れる音だったのか!
僕が無表情にパニックになっていると翡翠は木刀を投げ捨てて出口へと走っていった。その後を母様がアタフタと追いかけていった。…フォローは頼みました、母様。
道場内は道場内でカオスだ。雲雀様は微笑んでるし、嘉人様はクツクツと笑ってるし、豪さんはアタフタしてるし、何より父様は放心して僕を凝視している。
ああ、もうどうにでもなれ……
とりあえずアタフタしてる豪さんを眺めることにした。可愛いなぁ……。
「涼。」
父様の声で現実逃避が中断された。
「……はい。」
いつものふざけた雰囲気はなかった。
「父さんと勝負しよう。」
「何故でしょう?」
「父さんに勝ったら、御側付になるのを許そう。」
「…以前は翡翠に勝てたら、とおっしゃっていましたが、それを反故ほごなさるおつもりですか?」
既についた勝負を今更覆そうとする。諦めが悪いのはきっと翡翠と同じだろう。
「……もう建て前を言うつもりはない。俺はお前を御側付にしたくない。」
「…はぁ。」
「だがもし、俺に勝てる程ならば安心してお前を御側付にさせることが出来る。だから、」
「そのためなら約束を破ろうと構わない、と?大人として如何なものでしょうね。」
「親なんてそんなもんさ。」
「……そうですか。」
どうやら勝負するのは決定事項らしい。もうプライドも何もないらしい。
そこまで必死にさせていることに申し訳なさが芽生えるが、それ以上に、僕は決して御側付になることを諦めはしない。
オロオロしている豪さんに父様が声をかけた。
「豪、三本勝負をする。仕切れ。」
「は、はいっ」
豪さんと父様の関係とは何だろうか。父様は傲慢な態度で、豪さんは委縮気味。もっとも今は関係のないことだが。
「両者、礼。」
すぐに飛び退く。父様が刀を振るうところは今までに見たことがない。強いらしいがどれ位なのか。
「はあっ!!」
「っ!!」
父様が上段から打ち込み、それを防ぐ。
その重さに一気に気がそがれる思いだった。
木刀を持っていた両手がビリビリと痺れる。
しかし父様はお構いなしに打ち込む。防戦一方で焦りが生まれる。重過ぎて受け止めるだけで精一杯だ。だから気づかなかったのだ。父様が刀身ではなく手元を狙ったことに。
ガッ!
「いっ!」
持っていた木刀は吹き飛び遠く離れた所に落ちた。慌てて手を伸ばすが届かない。
そのまま足払いをかけられ床に転がされ喉に木刀を突きつけられた。
「一本!」
強すぎた。勝てる気がしない。驕りはないと思っていたが、無意識の慢心はあったらしい。圧倒的なまでの力、そして経験の差。息をつく隙もない怒濤の攻め。その分体力も使うようで若干息があがっている。
しかしそれは此方も同じ事。力任せでやりあっても決して勝てない。
あと一本すら取られるわけには行かない。もう後がない。
起き上がり飛んでいった木刀を拾った。
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